名古屋市と近代文学の不毛2020年11月12日

 朝は小寒い。オーバーが欲しいがまだ我慢の範囲である。といっても風邪を引いたら何にもならない。咳をしない、マスクをする、保温に努める、栄養補給するなど留意したい。名古屋市にも第三波が来たようだ。

 さて、昨日の続きである。
 名古屋では近代文学の蓄積がない。四迷からいきなり三郎に飛ぶ。それはなぜか。考えてみると、戦前に文系の旧制大学が一つもなかったことに尽きる。
 ヤフー知恵袋によると
「旧制大学についてです。

1920年4月15日に、

明治大学
法政大学
中央大学
日本大学
國學院大學
同志社大学


この順番で、登録されたのでしょうか?順番はありますか?

回答
『官報』1920年4月16日付けによると、

文部省告示 第265号・第266号・第267号・第268号・第269号・第270号の各号で、設立認可した旨公示されています。

265号から270号までは、すべて4月15日認可16日公示です。
告示号数順序と、質問に書かれた大学名の順序とは一致しています。

歴史

●五大法律学校の設立
東京法学社(1880年、法政大学)
専修学校(1880年、専修大学)
明治法律学校(1881年、明治大学)
東京専門学校(1882年、早稲田大学)
英吉利法律学校(1885年、中央大学)

これらは五大法律学校と呼ばれ、他の私立専門学校とは一線を画す別格の社会的地位がありました。当時は大学は東大ただひとつでしたので、この五大法律学校の卒業生は「学士サマ」に次ぐ社会的ステータスがありました。」

というわけで、明治初期から存在した。文学部ができたのはいつかは知らないが、早稲田大学は相当古いだろう。中退者も活躍した。

 1880年から新制大学発足まで1951年まで実に66年のブランクがあった。これでは名古屋市に文人は育たないわけである。いたとしても東京か関西の大学を出た。また出版文化も少ないから勢い東京で活動することになっただろう。