北畠親房「一命を以って先皇に報い奉る」2019年10月01日

 台風の影響か今日も蒸し暑い。気温は低いが動きたくない暑さでまだエアコンに頼る。ただし、ベランダのよしず2枚は先日取り外した。視界がすっきりする。
 今日は売店で新聞を買うと10%の消費税が取られていた。毎日宅配されると8%のままになる。新聞は生活必需品と見られて特別扱いになっている。
 中日新聞夕刊の呉座雄一先生の「名ぜりふで読み解く日本史⑦」が面白い。今年3月には三重県の『神皇正統記』で知られる北畠親房の城址を訪ねた。5月には青森近代文学館を訪ねて、北畠八穂と深田久弥の合作といわれる『津軽の野づら』の原本を拝読してきた。八穂は一旦は深田と結婚したが戦後すぐ別れて北畠の名前で作品を産み出してきた。青森市の北畠家の末裔は今日まで命をつないできたのである。
 北畠家の嫡男顕家は陸奥守に任命されて陸奥国多賀城に下向したとある。顕家は「自分には武芸の心得がない」と固辞したという。すると多分文才があったのだろう。それは何代目か後の八穂の児童文学に結んでいる。
 あの当時は今の青森県1県ではなく東北全体の国名だったらしい。古くはみちのくというのか。ウィキにも「現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県。」とあった。別に「相当領域: 青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部」とも。
 中日新聞の記事では忠孝をテーマにするが理由は分からないとしている。先皇とは御醍醐天皇のことを指す。なるほど表題の言葉は強烈なほどの忠孝ぶりである。儒教の影響も考えられる。或いは「一所懸命」の語彙でググルと「一所懸命の土地 (いっしょけんめいのとち)は、中世日本において各々の在地領主が本貫とした土地であり、命をかけて最後まで守り抜く覚悟を持った土地をいう。」とある。忠孝よりは任務への意気込みを語ったのだと思う。
 忠孝でもう一人忘れてはいけない人が居る。三河の足軽・鳥居強右衛門である。家康への忠孝の見本として語られる。あるサイトには「忠孝を貫いて磔になった強右衛門を美化して、日露戦争に出兵した兵士の教育に使ったことを自慢したいようだ。 「坂の上の雲」に描かれた、消耗品のように兵士を注ぎ込んだ旅順攻囲戦でもそんな洗脳をしていたのだろうか。」とあるが、ある大企業の経営者(三河出身)は「君らは鳥居強右衛門を見習え」と入社式かなにかのスピーチで語ったそうだ。会社のためには命を捨てよ、というわけだ。それは忠孝の正しい意味ではないだろうに。
 当時は縄文文化の中で生きる東北地方の人々は天皇にまつろわぬ勢力であっただろう。制定を任されたことへの恩義と考えたかも知れません。呉座先生の『戦争の日本中世史』も立ち読みしてみるか。

 ぐぐって行くうちに的確な参考サイト「パックス・ロマーナ」がヒットした。「日本の「忠孝」思想は、儒教思想の異端である。」の全文は以下へアクセスすること。
http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-4a24.html
「孔子曰く「・・・危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見れ、道なければ則ち隠る。・・・」(滅亡しそうな国には入らず、乱れた国には長くおらず、天下が治まって正しい道の行われている時には仕えて、正しい道が行われていないときには退いて隠れる)。何が何でも国のため、君主のために死ぬという考え方は論語にはない。」が本来のシナ人の儒教の教えになる。今のシナ人もまったく同じである。自国が危ないと知ると家族や財産を外国に移したり・・・。
 それに対して日本はどうか。
「日本における儒教の受容は、南北朝時代からすでに日本古来の宗教との融合が模索されていた。神儒一致の考えは、南北朝時代、渡会家行、北畠親房、忌部正通らによって始められ、」とあるから、シナとは違った形で受容された。表題の文にはやっぱり日本型の儒教が反映していたのである。