新涼の身に添ふ灯影ありにけり 久保田万太郎2019年10月13日

 朝5時30分過ぎ出発した。東の空が赤く焼ける。少し手間取ったが6時30分に名古屋ICから名神、東海北陸道へ。道路情報では中央道から東はみな通行止めになっている。現在台風が通過中である。鉄道も止まるだろう。
 高速は飛騨清見までは順調に1時間半で着いた。まだ8時なら時間はあると高山経由でR41へ向かった。ついでに高山市内の吉野家で朝食も。さてR41で飛騨古川まで来るとR360の入り口の電光掲示板にR41は船津で通行止め、それなら宮川町経由で左折したが、R41は猪谷付近も通行止めになっていたのでUターン。また高山西から清見に戻り富山ICへ行く。11時30分過ぎになりぎりぎりで着いた。そのまま予約のホテルのPへ止めて会場の電気ビルへ向かう。

 12時電気ビルへ。1年ぶりの再会であるが今回は関東からの出席者が北陸新幹線の不通、高速道路の通行止めで来られなかった。他に毎年温かく歓迎してくれた人も高齢で来られなかった。もう1名も病気とかで来られず再会はならなかった。これも世の中の移り変わりであるが今年は台風が激変させた。

 13時から辛夷賞、衆山皆響賞の発表と受賞式、大会への投句の受賞句の発表と受賞式も連続的に行われた。かつてとの違いはほとんどが女性であることとしかも高齢であることだった。壇上にすら上がれないのだった。
 わが結社も老いたり。
 表題の俳句はあいさつの中で、句の語句の一部の「身に添う」俳句を作るようにとのアドバイスがあった。わが結社は古参結社の10社未満の中に入るらしい。
 但し、他の老舗結社、有名な大結社も続々解散していることを思うとまだ大会を挙行するだけましか。最古参の「ホトトギス」でさえ最盛期の30%以下にまで会員数が減少したという。今後も会員数減、会費減、財政難から俳句雑誌の発行が困難になり解散することだろう。
 人気のあった金子兜太の「海程」、加藤楸邨の「寒雷」も解散というのは信じがたい。中村草田男の「万緑」はすでにない。かつては山本健吉が人間探求派として持ち上げた結社ばかりが寂れてゆくのはどうしたことか。金子兜太は水原秋櫻子の弟子だったからいわゆる新興俳句が守旧派の「ホトトギス」よりも先に寂れてゆく現象はどう説明が付くのか。
 結局は人間把握の甘さだろうに。山本健吉は28歳で「俳句研究」の編集長になり人間探求派を言った。当時の文学者は大抵は左翼系であり、若かったのだ。マルクス、レーニンをかじるもののほとんど未消化のままで、社会生活を十分経験せず、人間観察は未熟だし、青いまま文学を論じる。論だけは立つ。楸邨も同じ傾向がある。
 人間探求派(主に左翼系俳人)は現在までに駄句の山を築いてきたのだ。これでは継承者は育たない。社会派と囃された沢木欣一も「風」で活躍したが東大に就職すると左翼から転向したという。死後「風」は解散し、愛知県支部が「伊吹嶺」に継承された。
 最後は投句された俳句への主宰の講評が延々と行われた。結社は主宰がすべてといわれる。主宰の独裁であるが支えるのは会員の会費であるから力関係は五分五分である。十分な鑑賞力がないとそっぽを向かれる。
 当会は毎年の年次大会や1000号記念大会でも俳壇から来賓を招かなかった。これは異例なことらしい。前田普羅の方針でもあったらしい。それはそれとして北陸のガラパゴスにならなければ良い。
 一連のイベント終了後は懇親会会場へ。ここも関東からの会員の欠席していては賑やかさが違う。遠方は私のみとは寂しいかぎり。恒例のおわら節の踊りも今年は無だった。最後は残心句会へ。
 ホテルに入ると睡魔に襲われるごとく寝た。