鈴鹿・霊仙山を歩く2019年04月07日

 朝6時30分に出発。名二環から一宮ICを経て関ケ原ICで出る。R21をのんびり走る。今日は久々の鈴鹿の霊仙山である。醒ヶ井で左折。
 計画では阿弥陀山経由で周回の予定でしたが谷山谷が工事中で入れず、榑ヶ畑から汗拭峠経由で往復するだけになりました。落合コースもダメらしいので、このコースに集中したせいで、Pが満杯でした。ずっと下に戻って止めました。
 8:25出発、廃村跡の榑ヶ畑を経て杉林を登りきると汗拭峠で一休み。雑木林の急な尾根道をあえぐと傾斜が緩くなって歩きやすくなる。米原市展望台でまた一休み。周囲にはカレンフェルトが群がる。近くからキツツキのドラミングが聞こえてくる。小鳥の鳴き声も盛んである。
 腰を上げていっそう急な山道をジグザグに登り高度を稼ぐ。お猿岩に着くとスキー場のような緩斜面が広がっている。ここから立木はなくなり、今は雪が解けたばかりで地面も枯草色に染まる。そしてカルスト地形独特のカレンフェルトの白っぽい石が無数に広がる。雪解けの後の泥んこの途を避けて、草地をたんたんと歩いていくとお虎池に着いた。美しい水を湛えている。鳥居が立ち信仰の対象になっている。
 いったん下って経塚山へと登り返す。泥でぬかるんだやや急な道を登る。頂上の北面には残雪が結構ありました。経塚山からまたいったん下って登り返す。雪が結構残るが雪の上を歩くまでもない。
 11:00登頂。2等三角点が新しく埋め替えられた。約2時間半かかった。伊吹山が霞んで見える。琵琶湖も霞の彼方にある。遠望はなし。
 昼前でおにぎりを食うほど空腹ではない。アンパン1個で済ます。多数のしかし1人か2人パーティーが登ってきて休んでいる。中には焼き肉をする人、ラーメンを作る人、トーストをする人らがいて早めの昼食を楽しんでいた。風は微風程度だがじっとしていると寒い感じがする。
 11:17下山開始、経塚山と山頂の鞍部の谷沿いの踏み跡をたどるとお虎ヶ池の手前の登山道に合流できた。帰りがけに福寿草などの山野草を探したが無かった。またお猿岩ではカラスの群れが騒がしいので見に行くと雌の鹿が死んでいた。
 下山時でも雑木林では小鳥が大変にぎわっていた。きつつきのドラミングも盛んでした。美しい鳥が枝から枝へと導くように先を飛んで行く。夢のような光景である。少し膝に痛みがあるのでそろそろと下った。
 林道最奥の車はほとんど無くなったので下山したのだろう。Pへは13:20着。
 山上では昼食をしてないので、最奥の料理屋でニジマス料理を食してみた。4000円以上の結構なお値段である。2700円のリーズナブルな定食を頼んだ。刺身、フライ、甘露煮、お汁、付け出し、塩焼きと一応は揃っている。川魚料理好きには満足のいく水準である。

 醒ヶ井に出ると、加茂神社に寄った。ヤマトタケルの像が立っている。

「居醒の清水(醒井宿)概要: 居醒の清水は案内板によると「景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて居醒の清水旅する人々を困らせておりました。そこで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。※尊は剣を抜いて、大蛇を切り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめました。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。」とあります。」※剣はミヤズヒメのもとに置いてきたので素手で戦います。

 ここは昔中山道の宿だった。狭いがよく整備された街道が続いているので車で走ると元の交差点に戻った。道沿いの小川の水がきれいで、ハリヨが生息している。

 この後で、ヤマトタケルは伊勢に向かう。四日市辺りで、痛みがひどくなり、「ヤマトタケルが東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体で大和帰還を目指して剣を杖代わりにしてこの急坂を登り、
『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)
-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた --『古事記』と言ったとされる。これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれる。
 そして、鈴鹿市または亀山市で、有名な和歌を詠んで亡くなる。

 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるわし