さへずりや二筋はしる平湯徑 前田普羅2019年04月23日

句集「飛騨紬」から
 平湯道とは乗鞍岳の山麓を上下して高山と松本を結んでいた街道である。松本からは白骨温泉を経て安房峠を越えて平湯に降りた。今のR158とは違う。この俳句では平湯側であろう。二筋はしるの意味は分岐であろうが今一分らない。
 大胆な想像をすると安房峠への道と十石山(峠ともいう)を経て白骨温泉へ下った道の分岐ではないか。今は平湯温泉から平湯尾根を経て権現社に至り、右折すれば乗鞍岳への登山道にもなっている。この分岐ともいえる。
 安房峠も現在の位置ではなく安房山と十石山の鞍部を越えていたらしい。W.ウエストン『日本アルプス登山と探検』にはウエストン一行が平湯を基点に乗鞍岳登山を楽しんだり、安房峠を越えて上高地入りする紀行文がある。そして峠の標高は1920m(現在の地形図では2050m。現在の安房峠は1790m)と書き、「中部日本で一番よい眺め」と称賛している。続いて「飛騨と信州の境を示す小さな標柱の立つ峠の頂上を降りて、その東の方の支稜を廻って行くと」中略。北の方には穂高山が現れ、右の遥か下には白骨温泉が見えたのだ。東の支稜が今も整備される十石山登山道である。あれはウエストンの道だったのか。
 乗鞍岳の広大な山麓の古い街道を歩いていたら分れ道になった。行ける所までは歩いてみるか。森林限界は2300m付近なので深い森を彷徨いながら歩いた。よく晴れた日の春の朝早く、梢では盛んに小鳥の囀りが聞こえる。もう一句「紺青の乗鞍の上に囀れり」の方がよく採り上げられるが平湯を入れることで飛騨の地貌への執着が見える。
 普羅はアルペンシュトック(ピッケルの原形で柄の長い杖)や輸入された登山靴も所有していたから雪道も登る心得と登山技術はあった。だから晩春の乗鞍岳登山の俳句と解してもいい。
 ちなみに『日本アルプス登山と探検』の翻訳は昭和8年であり、普羅も手に入れた可能性はある。但し、明治18年生まれの普羅はすでに40歳になるので現実的ではない。小島烏水の『山水無尽蔵』は明治39年刊行なので普羅21歳となり、読んだ可能性が高い。この本は槍ヶ岳探検記が主だけど浅間山、乗鞍岳、飛騨紀行もあり普羅に与えた影響は大きいだろう。