三月や身が軽くなるやうな朝 拙作2019年03月01日

 未明でもいつまでも布団のぬくもりに浸って居れないような陽気がある。猿投山の方は朝焼けで赤く染まっている。さらに遠方には何となくぼんやりと恵那山のドームが浮かんでいる。しかし御嶽は雲に覆われている。三寒四温の週末の風景。
 3月の朝。積もり積もった雑用が次々と片付く。昨年来の懸案も動き出す。果たして1月2月は何をしたものか。じっとしていたわけではない。1年の計は元旦にあり。構想を練り、山積の本を読破しておった次第。雌伏の時も必要なのである。
 今日は確定申告の作成に目処をつけた。後はWEBの国税庁の様式に入力して清書するのみになった。これが終わると気分的にうんと楽になる。昨年度は若干の黒字になったが今年は第2の開業として広告費も投入して集客を図ることになる。法改正はチャンスだから。
 登山の方も今年は雪が少なくて新雪の山スキーは出来なかった。しかし残雪の山はまだこれからだ。どれだけ行けるか分からないが、2本は行きたいものである。それにしても寄る年波か、中途での敗退が多くなった。
 また3/12はクラブAで登山のスピーチがある。お宝には恵まれなかったが、良い山と良い友人に恵まれた。B面の人生の濃厚な体験を話す予定。3/31の締切に間に合えば、論考を投稿したい。4月からは中経の連載を再開、9/8は登山のセミナーも予定。4月から5月は総会のラッシュになるが、東北の山のお誘いを優先するか悩ましいところ。

東三河・船着山を歩く2019年03月02日

 朝5時過ぎ出発。日進市に行くと南の空には金星と三日月が浮かんでいる。R153から東名三好ICに入る。名古屋IC経由よりも8km近いし、料金で180円安い。
 新城ICを出ると豊川の左岸への橋でうろうろしてしまった。弁天橋まで迂回して吉川の里へ走った。道路に「船着山へ」の案内板があり以降はそれにしたがうと無事に登山口に着いた。標高180mもあるので比高247mの登りである。
 登山口付近の道は以前は山畑だったのか、石垣が残る。何が植えてあったかは知らないが今は照葉樹の青い葉の木が育っている。南斜面なので蜜柑だろうか。
 山畑をぬうと直ぐに尾根に出て後は一本調子で登る。400m級の里山ゆえか全山隙間なく植林で展望は一切なく、雑木林すらもなく、草花も無い。早春の山らしさは見つからなかった。尾根を登りきると分岐を左折すると山頂へはすぐだった。登りは35分であった。山名の由来を書いた大きな看板がある。
 船着は”ふなつけ”と読む。昔は船着村があった。明治39年に日吉村と乗本村が合併してできた。村名は山に由来するから逆である。ウィキには「江戸時代、豊川の舟運の中継地として栄えた地域」とある。地形図の豊川右岸をよく見ると、中小河川が7本も流れ込んでいる。今は水田の記号だが水量の多かった時代即ち江戸時代は大きな水たまりではなかったか。少し下流には有名な桜渕、鰹渕、更に下流には西入船、東入船の地名も残る。
 http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/によれば「言うまでも無く、港に入港してきたその向きのまま着桟するのが入船。
対して、向きを変えて着けるのが出船である。
出船にするためには、船首の向きを変える、すなわち、回頭しなければならないため、入港作業に手間と時間がかかる。
入港、下船等を急ぐ場合には、入船が好ましいが、出港時に回頭しなければならないため、出港作業に手間と時間がかかる。
逆に、出船にしておけば、直ぐに出港できるため、艦艇や警備用船舶には向いている。」
と明解である。
 これにならって、靴の揃え方にも入船出船があり、玄関に入ってそのまま脱げば入船、反対に揃えれば出船という。
 今では新城市の庁舎が立つ東入船ですが、昔は水上交通(船運)で栄えたのでしょう。信州往還への入り口でもあった。新城は別所街道、伊那街道、遠州街道の中継地点でした。塩のような重い物資は船で運んだのでしょう。
 三角点(点名:日吉村2)が妙に存在感がある。1月に登った南西の風切山356mの点名は日吉村1なので図らずも1,2と連続した。
 山頂は強い北風でとにかく寒かった。少し降りてテルモスの熱い白湯を飲んだ。常寒山往復は寒さと風景の味気無さにモチベーションを喪失して往路を下山した。不老長寿の泉とかにも寄ったが渇水期の今はしずく程度だった。下山後、沢で手を洗ったが、青っぽい板状節理が露頭していた。これは安山岩というから古い火山であろう。
 次の機会には常寒山に登ろう。竹ノ輪という美しい名前の山里から道があるようだ。吉川峠に下る南尾根も歩いてみたい。

「新設楽発見伝5」(平成30年度設楽ダム関連の発掘調査報告会)に参加2019年03月03日

ソース:https://www.facebook.com/events/2266817310199731/

 船着山を下山後、まだ時間が有り余るので、R151から東栄町の「とうえい温泉」に向った。途中、東栄インターが開通準備中でした。午後4時と書いてあった。早速ユーチューブにアップされていた。
https://www.youtube.com/watch?v=NoTQEJVcC8U
現在は断続的だが、佐久間ダム直下まで行ける。山で言えば日本ヶ塚山や南アルプスの深南部へのアクセスが改善される。
 久々のとうえい温泉である。10時からの開業に少し前に着いた。入湯を待っている車も10台くらいはあった。ファンがいるのだろう。朝風呂でさっぱりしたところでR473を走って田口へ。この道も大幅に改良された。岩古谷トンネルが開通したからだ。
 田口でもまだ時間に余裕があり、近くの喫茶店で昼食。関係者が沢山入っていた。そうか、考古学にこんなにも関心を持たれているのか。
 13時前に会場入り。ざっと100座席はあるだろうか。それがほぼ満席に近い。横の壁には発掘作業の写真を展示、後には発見されたモノを展示してあった。私は(胞の埋め甕に使われたと見られる)素焼きの壺の発見以来関心を持ってきたので一度はのぞきたかった訳である。
 考古学の話は岩石の知識も必須で、かなり消化不良を起こして終わった。何分1万年前という時代の単位に驚く。素人には無理もない。黒曜石は諏訪地方に特産し、三河にも運ばれているから想像以上に流通していたのである。縄文人は想像以上に広範囲に移動していた。一宮市に多いのは650万年前の木曽川は東海湖(現在の鷲ヶ岳山麓まで湖)という湖で移動をストップしたのであろう。6000年前でも大垣市は湖だったらしい。

 しかし、設楽の山間部に縄文遺跡が発見されたという事実は地名を考える上で重要である。
 宇連山の別称ガンゾモチフデ山は最初は振草村誌から発見。振草村の廃村宇連が東栄町と設楽町に分かれた際設楽町になったので設楽町誌を見るとガンドゥとあった。ガンドもチエックすると北アのガンドウ尾根、冠山の福井県側のガンドウ尾根、奈良県の大峰山系のガンドウ尾が見つかった。岳人3月号に掲載された蔵王連峰の雁戸山のガイド記事はガンドと読み、ギザギザの頂稜の特徴を表現していた。
 縄文遺跡は愛知と福井の東に多いので地名にもつながりはある。
 さらに胞についても『埋甕』には主に東日本のデータで偏りがあった。それは当然の結果であったが、こうして愛知県の山間部から一宮市に至るまで縄文遺跡があると知れば、あの恵那山が単なるアマテラスへの信仰だけではないと想像する。
 胞を素焼きの甕に入れて埋めるということが縄文文化であると知った。アマテラスへの信仰が持統天皇以後のことと思えば、信仰にも重層性があるのだろう。
1 神坂峠には縄文遺跡がある。山頂に胞を埋設したという伝説。
2 役(えん)の行者などの修験道の時代があった。
3 アマテラスの胞とされた。
4 恵那神社は岐阜県側にしかない。血洗池、産湯を使った湯舟沢も岐阜県側にある。

会報の編集会議2019年03月04日

 夕方JACルームに集合。列伝の休載はならず、あらたに人選するが、データがない。K氏の関係者を調べることになった。また本部にはU氏の追悼文も書くことになりにわかに多忙になる。
1 中経の連載第一回 百名山フォトエッセイ
2 俳句結社「辛夷」連載 好句考
3 JAC支部報連載 東海岳人列伝 K氏
4 1等三角点研究会 会報 N氏の追悼文
5 JAC「山岳」U氏の追悼文
 また句会を新設することにした。新聞の折り込み広告の文化センターの講座から登山教室が中日文化センターの1つだけになった。団塊の世代が70歳を越えてついに高齢化が迫り、登山からも遠ざかってゆく傾向か。そこで俳句に親しんでもらいゆっくりソフトランディングして行こう。登山愛好家は見た目には元気でも80歳前に亡くなってしまう人も多い。また60歳代の病死も少なくない。

ハクモクレン咲き初む久屋大通り 拙作2019年03月05日

 昼過ぎに丸の内へ。植田駅前のインド料理店「プ-ジャ」からぷーんとカレーの香りが漂う。ついふらりと入ってしまう。ナン、ドリンク、カレー、野菜、スープなど1式で850円也。
 事務所から書店へ。そして久屋大通りへ出ると、栄の中心にある交差点のハクモクレンの白く清楚な花が上向きに咲きかけている。まるでハスの花にも似ている。咲き切るとだらんとなるから今が見ごろかも知れない。いやでも春を感じる。
 夕方はまたJACルームへ。少し早過ぎたので夕食で時間をつぶす。今夜も洋食になってしまった。上前津からルームに行く際にやはり洋食屋さんの仕込みのにおいだろう。12日間煮込んだデミグラスソースがウリらしい。ときどき無性にオムライスを食いたくなる。値段をチエックして入る。10卓もない小さな店だが清潔感がある。オムライスに野菜、ポテトなどが一皿にもられてでてきた。美味しかった。これで1000円。
 ルームでK氏の聞き込みをする。派手な初登攀記録はなかった人。長期に亘り、ひたすら愛知岳連のトップにたち引っ張って来た。28歳で富士山の岳連氷雪技術講習会に参加した際、2日目の夜それぞれのテントを回って、「今日だけで4人も滑落死したんだぞ、酒飲んでる場合か」と檄を飛ばされた。岳連の捨て石になった。
 愛知県からは1名も死者を出さずに済んだが、負傷者はあった。ピッケルは刃物だから扱いが難しい。4名の死は翌日の新聞の1面に大きく報じられた。山梨県警は以降氷雪技術講習会での入山を禁止した。
 氏名をググると、インドヒマラヤに遠征していると知った。多分晩年であろう。盟友Y氏が追悼文を書いている。約2000字ほどだが埋まるような気がしてきた。

JEMTECの中古PCを使用開始2019年03月06日

 PCの老朽化に対応するために昨年3月に中古PCを2台購入しておいた。名古屋のTV塔の会場でJEMTECなる団体のチラシを見て購入。ウィンドウズ10を搭載している。事務所は使いやすいXPにこだわって2010年の開業以来使い続けてきたがさすがに遅くなって老朽化を感じる。ネット接続は止めて書類作成には使うこととした。
 自宅のはウィンドウズ7も10年が経過して画面の切り替えが遅くなりイラつく。それで今日自宅のウィンドウズ7(2009年購入)のノートがもうくたくたになったので中古PCに切り替えた。それぞれのコードを差し替えるだけであるが、マウスは付いていないと初めて知った。
 また事務所用のは10キーがなく不便であるとしってさっそく家電店に走って購入した。同時にバックアップ用のポータブルSSDも購入。
 今のところ、事務所ではGメール、フェイスブック、国税庁の確定申告書作成コーナー、ユーチューブはつながった。金融機関のHPはpsがいるので後回し。自宅では一般のHPだけがにアクセスできない状況である。なぜなんだろうか。

弁護士さんへ引継2019年03月07日

 春とはいっても風は寒い。三寒四温の季節の歩みだが確実に移ってゆく。降る吹く曇。まだ朝夕はコートが手放せない。正午前に丸の内の事務所へ。10階にある部屋の外は強風が吹き荒れている。さぞや寒そうな音である。
 午後には昨年来の懸案事務の引継があり担当の弁護士事務所を訪問。ことの顛末を説明し預っていた書類等を渡した。大筋では了解を得た。細部の詰めでは見解の相違もあったが、すべては相続人の合意を確認している。基本的に行政書士は合意の法律家といわれている通り、本分から逸脱しないように相続人各位の合意を取り付けながら進めてきた。
 認知症の診断があるとのことだが果たしてそれは判断力にどれほどのものか。補助人程度のレベルでも強引に後見人の審判がされた事件があった。人間は神様ではない。記憶は飛んでも心は正常な判断力を示す。支離滅裂でなければ判断力はあると思う。
 自分(相続人)ではやれないからプロに依頼されるわけだ。要は信頼関係である。やったことはホウレンソウです。報告連絡相談を手抜きすると不信をつのらせる。
 さて明日からお世話になった関係者に報告をしに回ろうと思う。肩の荷をおろすのはそれから。

中古PCのネットが開通2019年03月10日

 3/6に使用を開始したが事務所はそのままで接続ができてネットが使えた。自宅のPCの接続が不調であった。Gメール、ユーチューブ、国税庁のHPはアクセスできたが他のHPができなかった。JEMTECさんのサポートを得て接続をこころみたが失敗。
 プロバイダーの問題だというので朝日ネットに電話で問い合わせた。PCを変える度にダイアルアップの設定をすると説明されてやってみると接続できた。
 ただし、ルーターがないのでシャットダウンの度に設定が必須であった。今まではADSLから光ファイバーに替えた際にレンタルだったルーターを返したのでないままやってきたのだ。毎日接続していた。
 3/9アマゾンでルーターをチエックすると1700円前後だったのでクリックして購入。今朝届いた。早速接続しセットアップするが今度はLANケーブルがない。それもすぐに買いに行った。700円。CDを挿入して解説にしたがってクリックしてゆくとやっとネットが使えるようになった。
 10年も経過すると細かいことは忘れる。このPCもあと数年は使うだろう。いつまで持つだろうか。

春風や闘志抱きて丘に立つ 高浜虚子2019年03月11日

 降る吹く曇の季節の運行通り、今日は強風が吹いた。こうして高い山でも雪が解けてゆくのだろう。名古屋の街でも久屋大通りのハクモクレンは一斉に咲いていた。文字通り「白い町」だ。
 今日は気合を入れて確定申告を作成した。今まで中古PCの立ち上げに手間取っていたので着手が遅れた。会計ソフトで帳簿はできているので合計を入力するだけである。しかし一度入力を開始すると多いので途中で休めない。
 昨年度は雑収入を合わせても収支トントンであった。若干の還付金が発生した。本当は消費税も払うほどに儲けたいものだが・・・。年商1000万円に遠く及ばず。
 夕方に広告会社の社員が来て打ち合わせ、事務所内の写真を撮ってもらった。4月号から広告で勝負である。まさに”春風や闘志抱きて丘に立つ”の心境だ。逆境こそ成長のエンジンである。

 表題の句は、小説の雑誌だった「ホトトギス」で人気のあった漱石が朝日新聞にとられたために部数が減った。経営を維持するため、読者を集めようと再び伝統俳句に力を入れることになった。
 小諸市のhpから
「大正2年、かつての親友であった碧梧桐が唱えた「新傾向俳句」に対抗するため虚子は、「春風や闘志いだきて丘に立つ」「霜降れば霜を楯とす法の城」と詠み、俳壇復帰を決意する。
 これ以降、虚子と碧梧桐は、子規門下の双璧とまで言われながらも、伝統的な五七五調の有季定型を重視する虚子と、従来の定型や季題にとらわれない新傾向俳句を提唱する碧梧桐と激しく対立していくこととなる。
 大正4年、41歳の時には「ホトトギス」 で 俊英作家の作品をとりあげた「進むべき俳句の道」の連載を開始。後進の指導にも力を注ぎ、高野素十・水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝らを育てる。」

 碧梧桐はわずか10年で俳句界から去っていった。虚子の勝利だった。虚子は人間が好きだった。弟子を上手に導いた。碧梧桐は才気はあったが狷介固陋だった。弟子がついて来れなければ文芸の世界では食べていけない。「名馬は常にあれど、名伯楽は常にはなし」。虚子は名伯楽だった。よい指導者は得難いということ。
 話は飛ぶが、船村徹と星野哲郎のコンビが作った演歌は多くヒットした。きっと自然とともに生きた縄文人の韻律を蘇えさせる名人なのだ。東北や北海道の歌がヒットするのはそのせいだろう。体一つで故郷を捨ててきたハングリー精神の歌手をうまく育てた。ともに名伯楽だった。

オフィスの窓叩く風春寒し 拙作2019年03月12日

 朝一で地下鉄に乗る。伏見の名古屋観光ホテルへ。クラブ愛知でのスピーチの日。7時から朝食を摂って7時20分ごろからスクリーンの準備をする。時間が来て私の「登った読んだ書いた」のテーマで8時30分まで話をさせていただいた。要するに会社員人生45年間では出世するわけでもなくしたがってお宝にも恵まれなかった。
 しかし、大学の卒業式で学長の卒業生への餞の言葉の中に「健康に留意せよ、君らの二部の先輩の中には病死した卒業生もいた」との温かい言葉が記憶に残った。確かに朝8時から勤務、5時で終えて6時から9時まで講義を聞く生活を4年続けた。カネ、勤務の都合で脱落者も多いし、頑張っても発病する人もいただろう。
 それで健康のためにと始めたのが登山であった。最初は山岳団体や朝日新聞のセブンマウンテンなどに参加して入門期を過ごした。やがて単独で奥穂に行くが晩秋ゆえに頂上は積雪でしかも霧に囲まれあやうく遭難しかかった。これではいくら命があっても足りないと思い山岳会探しを始めた。勤務先は週休二日の制度はないので低山歩きが主にならざるを得ない。前夜発日帰りの範囲でほぼ登りつくした。この蓄積が図らずも後にガイドブック制作の基礎になった。
 1988年の山と溪谷社『一等三角点百名山』を皮切りに数年おきに山岳書の共著の出版に加わった。最終的には編集を担当するようになった。ふりかえると大きな財産になったというのが実感である。
 それに先立って、映像で薬師岳をスクリーンに映しだして愛大の薬師遭難の現場を見てもらった。次は薬師岳の谷底の黒部川上の廊下の遡行も静止画を見てもらった。稜線はありふれた風景だが谷を見ることは滅多にないだろう。廊下を突破した後、大東新道に出会う手間で左岸から出会う谷の風景も見てもらった。登山道から左へ東南尾根を下り、三角点付近から黒部川側に落ちた。愛大生遭難の最後の2人が見つかった谷である。降雪も間近な晩秋のことだった。
 
 一旦は事務所に戻った。昨日の確定申告書に不足のマイナンバー通知カードをコピーして貼付。徒歩で中税務署へ申告を済ます。その足で名古屋家裁に行き、某に昨年から弁護士に引き渡すまでの顛末を報告。さらにそれが原因でストップしていた出版物の企画の再開を相談しに中日新聞の出版部門を訪問した。文体はやはり客観的に展開し、法律用語をなるだけ避けて優しい言葉で表現することとした。

 事務所に戻って、午後6時からの研修を確認。ファックスが漏れていたが受講させてもらった。テーマは「会社設立」。実務的な解説に終始した。特に建設業の許可を前提に設立する場合の資本金は500万円とするなどは実務者ならではの留意事項であろう。
 受講後は近くの酒場で懇親会に出席。講師の先生は隣に座ったが、何となく老優の東野英治郎に似ている。人生の苦渋が顔ににじみ出る渋い演技が好きだった。講師も老け顔だが年齢的には2歳若かった。若い人らと飲んで盛り上がり楽しい1日の最後になった。