忘年山行2 伊勢山上と枡形山を歩く2019年12月01日

 朝6時30分起床。今朝も良く晴れている。窓からは錫杖ヶ岳が良く見える。あの山を借景にしているのだろう。布団を畳み、荷物を片付けて朝食に食堂へ行く。既に皆さんは食事を始めるところだった。朝はパン食と野菜、フルーツの洋食風になった。それも済ますとザックを1Fにおろし、出発の準備だ。ロッジの玄関前で記念写真を撮影。車を玄関に乗り込み運び入れると出発だ。11人参加。
 まずは関ICから一志嬉野ICへ。雲出川の支流の中村川に沿う地方道を源流に向かって走る。途中から飯福田川に分かれて走ると伊勢山上飯福田寺(いせさんじょういぶたじ)に着いた。

 ここは行場といって修験者の修業の場だったらしい。HPには「元々、修験者(山伏)のための霊場・修行の場でありましたが、明治時代以降一般の方にも開放され、多くの方々に入山していただいております。但し、命の危険を伴う場所も多く、入山される場合は、必ず当寺の受付にて入山心得をお聞き頂き、入山名簿にご記帳の上、入山料500円をお納め下さい。入山中の怪我・事故等につきましては、当寺は一切責任を負えませんので、ご了承いただける方のみご入山下さい。 」とあった。以前から聞いてはいたが来る機会が無かった。
 受付で500円を払ってもらい行場の説明を聞く。再びHPによると「当山は伊勢山上と称され、ご本尊は『薬師如来』。

 大宝元年(701年)、役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場である。広大な表行場・裏行場を有し、古来より諸侯国司をはじめ、信奉の参拝者は多く、北畠家の祈願所として栄える。                 また、天正11年(1583年)には、織田信雄に寺領・百十五貫文を寄付されたが、松坂城主・蒲生氏郷により、当山の伽藍を壊し、その材を用いて松坂城を築くなど、衰退の止む無きに至る。その後、津藩主・藤堂家の信奉を得、寺運は興隆し、今多くの人々が修行と順拝に参詣している。」とあった。

 そうか、ここにも北畠氏の勢力範囲だったのか。あるHPには「大河内城跡についてーーー北畠満雅が応永22年(1415)に築いた城で、弟の顕雅を城主としました。永禄12年(1569)北畠具教はこの城に篭もって織田信長と戦いました。織田勢は力攻したが失敗、兵糧攻めに転じたため、具教はついに信長の次男信雄を養子とする条件で和睦。信雄が田丸城に入ったため廃城。
◎北畠具教(1528-76)戦国時代の武将。弓馬・兵法・和歌など文武に秀でた端将といわれています。永禄のはじめごろから織田信長の伊勢侵攻によって、多気・大河内両城を棄てて三瀬の古城に移り、1570年出家。」と案内。

 伊勢山上の説明によれば織田信長は北畠具教を攻めた際に伊賀忍者を使ったらしい。それに対抗するためにこちらも山岳僧を養成する道場だったというのだ。

 それで出発するといの一番に油こぼしの鎖場が出てきた。鎖を掴みながら登りきるとお堂のある窟屋に行く。ここもクライミング的な順路があるが、大勢なのでエスケープルートでずるした。ここを通過すると難所はなく雑木林の中の穏やかな山道になる。最高点らしいところで小休止。するとまた次の難所が出てきた。小尻返しとかいうのでロープを出して確保してもらった。岩場に慣れない新人もいるからだ。ここも突破、次はエスケープルートを回るともう難所はなくなりスタート地点に戻った。約2時間余りの岩場巡りだった。
 受付へ下山報告後、東屋で昼食とした。休憩後、次の枡形山登山口へ移動。中村川を下って平野部に出た。向山から大阿坂町に出て山際に建つ浄眼寺へ向かった。ここにも説明板はある。

 あるHPによれば「
「阿坂城跡(白米城)について
北畠満雅が築いた城。敵軍の水断ちに遭った際、白米で馬を洗い水がふんだんにあるように見せかけ、敵をあざむき退却させたという伝説から、白米城の名があると言われています。」とあった。寺のPから約40分と手ごろ。ここは子供のころから聞いていた白米城であった。昔は地形図にもそう印刷されていなかったか。

 一山やったばかりだが、また登山の準備で登りかかった。最初はセメントの狭い舗装道路を急登する。やがて地道になって緩急取り混ぜながら山頂に着いた。なるほど眺めが良い。三等三角点も萱の山上に埋まる。すぐ近くの南の山は堀坂山、西には中村川の谷を隔てて矢頭山、髯山(ひげ)、雨乞山が並ぶ。さらに向こうには尼ヶ岳(伊賀富士)が頭を出している。山頂の案内板には日川富士もある。これは観音岳の北西の508mの独立標高点を指すらしい。
 4人のパーティを組んで近鉄伊勢中川駅でタクシーを拾い、浄眼寺へ走り、枡形山から日川富士を経由、観音岳を登って下山し、またタクシーを呼んで松阪駅へ行けば手軽な縦走コースになる。

 戦国時代にこの地域を統括していた「北畠 具教(きたばたけ とものり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第8代当主。」

「永禄11年(1568年)以降、尾張国の織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。そして、永禄12年(1569年)に8月に信長自ら北畠領内への侵攻を開始した[2]。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した(大河内城の戦い)[2][3]。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる」

「天正4年11月25日(1576年12月15日)、具教は信長と信雄の命を受けた旧臣(長野左京亮、加留左京進(藤方朝成の名代))の襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された[2][3]。享年49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害された。これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。」

 織田信長の年表を見ると戦いに忙しかった。34歳時の1567年は本拠を岐阜城に移転。42歳時の1575年は有名な長篠の戦いがあった。1576年には安土城を築く。1582年には信長も本能寺の変で自害。
 北畠家は伊勢国司家としては滅亡したとある。江戸時代以降も継承されたが「中院通勝の子親顕が北畠家の名跡を継承したが、寛永7年(1630年)、親顕が没し、跡継ぎがなく北畠家は断絶」した。しかしその後「1871年(明治4年)7月、久我建通の子通城が分家して北畠姓に改姓し、家名を再興した。後に北畠親房、顕家らを祭る霊山神社の宮司を務めた。」とあり、北畠家から分家筋が一旦名前を変更後、北畠を名乗るようになった。
 「北畠政郷の子・田丸顕晴が度会郡田丸城に入って田丸氏を名乗ったことに始まる。」田丸氏は知人にも同姓が居る。松山市出身だが、松山藩の徳川家に仕えた田丸氏の子孫だろうか。浪岡氏は青森県の北畠につながる。
 これで今年は3月の北畠親房(1293~1354)の田丸城見学、5月の青森の北畠八穂(1903~1982)の調査、11月の近江柏原の北畠具行(1290~1332)の墓見学、12月の北畠具教(1528~1576)の縁の山に登ったことで4人を知った。八穂は近代の人。北畠家系図を見ると親房と具行は同時代なんですね。天皇の政治から貴族の政治へ、平安時代は過ぎて、鎌倉時代の武家政治に変遷する中で登場してくる。具行は安土桃山時代の人。何となく分かりかけて来た。

オイル交換2019年12月02日

 マイカーのエンジン音が多少大きくなってきたので、今日はオイル交換をする。オイルフィルターも交換する。前回から約3000km走った。メーターを見ると累計で約239000km超。平成15年登録から約16年経過。商用車は頑丈である。少しがたついて来たし劣化した箇所もあるがまだまだ行ける。夕方はJACで支部報編集会議へ出席。

忘年会2019年12月03日

 18時から大学同窓のクラブ愛知の忘年会である。一卓5~6人で12~3卓はある。宴会ホールの照明を落とし何が始まるか、と思いきや同窓の日舞の踊りであった。華やかな彩を添える。学長、全国同窓会長、クラブ愛知会長の挨拶が続き乾杯。あとはフランス料理(多分)が運ばれてきて飲み物を楽しんだりして過ごすうちにお開きになった。

ビタミンC(アスコルビン酸)の威力2019年12月04日

 11/29の岳連主催「遭難を考える~低体温症の話」の中で、ビタミンCの事が語られた。私も歯磨きで出血した際にアスコルビン酸を備え付けの小さじ1杯か2杯(1g)を服用してきた。するとすぐに出血が止まった。

「低体温症の話」
http://tss1962.blog.fc2.com/blog-entry-1075.html

 この話を聞いてから、予てより悩んでいた空咳に効能がないか、12/1の夜から1gを2時間から3時間置きに服用してきた。すると2日経過した昨日辺りから空咳の回数が減った。今日は顕著に減った。
 咳が減ると体力が凄く楽である。咳が続くと体がぐったいりするくらい疲れる。これは粘膜の乾燥だったのであろう。これが続くと、呼吸器系の病気の一歩手前かも知れないと考えて呼吸器科を受診したこともあるが悪質な咳ではなかった。
 いつもはのど飴でごまかしてきたが何も舐めずに過ごせる。すると糖分をとらず、虫歯にもなりにくい。これはビタミンC服用の効能ではないか、と思われる。

 改めて、ビタミンCと粘膜で検索すると次のブログ記事がヒットした。

「ビタミンA・C・E(エース)で免疫力UP!!

毎日の食事が大切です。食材を組み合わせ効果を高めよう

特定・特別医療法人福島厚生会  福島第一病院
 栄養管理科主任 菅野 史絵」

ソース:http://www.daiichihosp.jp/ronbun/meyoudate/1702.htm

「ビタミンCの働き
皮膚や筋肉、骨、血管の細胞を結合させるコラーゲンというタンパク質を作ります。また、ウイルスの増殖を阻止するインターフェロンの生成を促進する効果も発揮します。水溶性ビタミンなので、体内に蓄えることができず、一度にたくさんとっても排泄されますので、毎食欠かさず食事に取り入れましょう。

ビタミンCが不足したら?
不足すると肌や粘膜が弱り、弾力が失われて、ウイルスに対する抵抗力が落ちます。また、寒さや疲労・発熱などのストレスにより消耗されて、抵抗力や免疫力が低下してしまいます 。

ビタミンCを多く含む食材
野菜(赤ピーマン・芽キャベツ・パセリ・ブロッコリー・など)・果物(キウイ・レモン・柿・など)・芋類(じゃがいも・さつまいもなど)」がヒットした。

 商品名は外箱にビタミンC原末、日本薬局方ビタミンC,アスコルビン酸、第三類医薬品などと印刷してある。メーカーは小林薬品工業㈱。
 効能はしみ、そばかす、日焼け、かぶれ、による色素沈着。歯ぐきからの出血、鼻出血、肉体疲労時、妊娠、授乳期、病中病後の体力低下時、老年期。
 成人は匙に2杯、1gを服用。服用期間は4時間以上置くように注意喚起がある。
 注意書きは7歳未満は服用禁止。尿、大便の検査に影響を及ぼすそうで、医師に伝えよ、とある。服用後、消化器に副作用があること。症状は吐き気、嘔吐、下痢。この場合は中止とする。
 
 この他ブログ「粘膜を強化するビタミンCは美容にも風邪にも最適」
https://news.livedoor.com/article/detail/9488068/

 敢えて分かち書きに編集してみた。

「ビタミンCは粘膜を強化してくれる

 ビタミンCの効能は粘膜を強化してくれることにあります。

コラーゲンと結合することで、皮膚の内側の部分を保湿して潤いを持続することができます。

そのため、お肌の潤いを保つためにもビタミンCがとても重要な働きをしてくれるんですね。

しかし、ビタミンCはお肌の潤いを保つだけの成分ではありません。

体内でとても重要な粘膜の部分も保湿していき、外敵から守ってくれています。

たとえば、目の粘膜、鼻の粘膜、口の中の粘膜までもがビタミンCのおかげで守られています。

もしビタミンCが不足すると、乾燥を招くのも分かりますよね。

ビタミンCを必要としている部分はとても多いので、もし粘膜部分が乾燥気味になってしまったら、菌などに負けてしまい風邪をひきやすくなってしまいます。」とあり、重要なビタミンと理解できる。

 結局、私の空咳が年中続くのはビタミンCが常時不足しているのである。自然の風は良いが、エアコンの乾燥した風には弱くすぐ喉が反応し咳が出やすい。喉の粘膜が乾燥するからだ。それじゃとフルーツや新鮮な野菜は常時手に入り、常時補給できるかというと困難な環境にある。畑から何日も経過して都会のスーパーの店頭にならぶうちにビタミンCはどんどん失われる。自宅のストックでさらに失われる。

 喉の粘膜を守るには、マスク、うがい、喉飴、等があるが、抜本的にはサプリメントのビタミンCの補給が有効である。空咳が治まってきたら、自然に柿、リンゴ、ホウレンソウ、みかん、ブロッコリーなどで摂取に務めるが良い。
 山岳遭難特に低体温症を防ぐには普段からの栄養管理が大切なのだと理解を深めた。

相談会2019年12月05日

 朝8時頃の市バスで名東区へ移動。最寄りの金融機関の応接室で法律相談会を開催した。1日相談員を務めさせてもらった。今日は2名が相談に来られた。男性の相談者は三河の母のことが心配と言われた。相談内容は老母の認知症のこと、成年後見制度のこと、亡父の遺産相続の手続きが未処理と多岐にわたった。
 上品な中年女性は子供なしなので遺言書の作り方を教えてと来られた。夫の母の高齢になってからの言わば老残の姿に自身の将来像を重ねられたのだろう。自筆遺言書の書き方、公正証書遺言との違い、自筆遺言書は来年また一部変更があることなどを解説した。

シニア面談会、相続税の研修2019年12月06日

 午後から四日市市の信金でシニアの面談会に出席。経産省傘下の中産連が信金から中小企業のニーズを探って登録者に諮り企業とシニアのマッチングを綿密に行い結果的に中小企業の経営に協力する。シニアの残存能力(専門性の高い経験や知識、技術など)の活用になる。 
 3年前から参加してきたが二次面談までは中々進まない。これまに経理財務面で3社ほど二次面談まで進むが業務契約までは進展しなかった。今回も経営者と直に面談して経営課題を探り自己の能力とすり合わせした。どちらかと言えば技術系の社長さんなので財務経理面には多少の不安があるのだろう。税理士は法人税の計算と税金の申告の専門家なので会計の能力はあっても経営のニーズには答えていないのだろう。会計ソフトを使えば簿記知識は無くても日々の仕訳の入力さえ正確なら決算書はできる。しかし、集計された数字を読み解くにはしっかりした知識と経験が必須である。特に減価償却の知識は必須だ。
 設備投資すると固定資産が増加、現金預金は減少。この場合なら減価償却費分はそのまま預金現金が積みあがってゆく。借金で設備投資すると固定資産、負債が増加。減価償却分は返済の原資になる。多くの企業はここをよく考えないまま設備投資して結果過剰投資になり、経営危機に陥ってきた。且つてのシャープは超がつく優良企業だったがTVの需要予測を誤り2000人もの人員整理に追い込まれた。過剰投資から借金の返済もできなくなったのである。そこを台湾の会社に資金供与されてよみがえった。
 企業経営は単純なことで危機になるのである。シャープほどの会社なら優秀な社員がたくさんいるし、資金需要には金融機関も融資するし、増資も楽だろう。なぜ誤ったか、将来の判断力一つである。ここぞとばかりに大投資した結果、現金が不足した。キャッシュフロー(現金収支)が分かっていなかったのである。
 林投資研究所のHPに「 「資金に余裕を持って売買せよ」という意味の(相場の)格言。
 凧揚げをするとき、調子に乗って糸を出し切ってしまうと、さらに糸を出して調節することができなくなってしまう。同じように、相場の資金にも余裕を持って行わないと身動きが取れなくなってしまう。
 予測不能の相場についていきながら、ポジション(玉)を調節していくことが求められるが、資金的に余裕のない売買、あるいは一発狙いの仕掛けなどを行っていると、わずかな狂いが大きなケガになる。売買戦略上、物理的に必要な余裕を持つだけでなく、精神的な余裕が持てるように配慮」せよとある。
 シャープはまさに儲かる事業まで切り売りしてキャッシュを確保するしかなかった。親会社のホンハイは資金供与して何をしたか、というと切り売りした事業の買戻しであった。手元資金が潤沢になれば研究開発というホンハイにはできない経営資源が芽を吹くだろう。
 専門の登山でも遭難する登山家は力を出し切るからだ。いつでも撤退する、下山する余裕を持たないとピンチを脱出できない。登山では命を失う。
 会社経営では資金を失い、優秀な社員を失い、優秀な仕入れ先を失う。顧客からは足元を見られて安く叩かれる。倒産に至ることもある。
 いずれも判断力一つである。そのためにも事業の寿命を早めに見切り償却を早めるのも策である。
 経営者が会計の仕組みを知らないと専門家の言いなりになる。金融機関は天気のいい日に傘を貸し、雨が降ると引き上げる。例えば安田善次郎は融資を申し込んできた会社の業績を見て、危ないと思えばその会社の株式を空売りして置く。実際に倒産すれば融資は焦げ付くが暴落した株式の空売りの買い戻しで回収できる。立ち直れば融資は回収でき、株価も上がる。空売りは機を見て買い戻せば損失は少なく済む。どちらに転んでも大やけどしないように仕組みを考えて置くことである。
 帰名後は18時から税理士を招いて最低限知っておきたい相続税の研修をこなす。その後は東京へ夜行するために懇親会はパスした。

年忘れ一日がかりで上京す 拙作2019年12月07日

 12/6の夜10時、Sさんの車に同乗して一路上京に向かう。名古屋市内からR23のバイパスに入り、三河平野を貫通。蒲郡市を経由して豊橋バイパスに入ると後は静岡県の浜松市から静岡市までほぼ渋滞もなくスムーズに移動できた。静岡市から御殿場市に向かいR246で神奈川県入り。座間市までは覚えていたがとりあえずの目的地の府中市までの道は毛糸がもつれたように入り乱れた道路なのでナビに頼る。ともかく府中市のパーキングに着いた。宮西町の1日24時間1210円というPにデポ。そこで着替えて、ビジネスホテルでチエックインを確認。その足で京王電鉄京王線の府中駅から乗車し終点新宿駅へ。
 京王プラザホテルはすぐだった。ホテルに入るとすでに全国から会員が集結していた。図書交換会など閲覧して回った。それでも時間は余裕があったが旧交を温める会員もいて時間は過ごせた。やがて17時半近くになると宴会会場に入場。薬師岳のテーブルを割り当てられた。東海支部のT支部長がテーブルマスターである。他支部は2名のみであった。
 天皇陛下が入場されて拍手で迎えた。会員数は500名の割れんばかりの拍手である。即位の祝意も含めての事である。天皇と同じ会場で同じ料理を食べて時間を過ごすのは大変にぜいたくな時間である。料理はフランス料理である。ワインも出た。
 会長あいさつに続き、永年会員表彰、新入会員紹介、物故者への黙祷などが続く。最後は豊橋市の福井酒造の四海王の樽酒の鏡開きになる。登壇者は最初はさすがに天皇陛下は見学と思われた。お声がかからなかった。皇太子時代は常連であった。係りの人も表情を見て取って最後にお声がけされた。大そう喜ばれた。
 車椅子の谷垣氏など数名が登壇して全会員が掛け声で樽の蓋が割られた。後に各テーブルに配られた。檜の香りが酒に移り独特の味わいになった。
 乾杯用のビールが注がれて乾杯。そしてフランス料理が次々運ばれて宴たけなわになった。天皇が在席中は各テーブル内の交わりしかできなかった。天皇が退席されて入り乱れての交流になった。二次会も別の部屋で行われた。ここでも旧交を温める。お開きになると府中市へ電車で帰り、部屋に入る。時はすでに零時を回っていた。睡眠不足と疲れでぐっすり眠った。

冠雪の富士を眺めし菜畑山 拙作2019年12月08日

 12/7の夜は年次晩餐会だった。せっかく上京して手ぶらで帰名することはない。どこか関東の山をと物色した。9/28には小倉美咲ちゃんの捜索で来たことがある道志村経由だと神奈川県を通過して渋滞にはまる心配はない。宿は府中市にあるのでむしろ山梨県経由に好都合な位置になる。
 デニーズで朝食後は多摩ニュータウンを通り抜けた。府中市は欅の黄葉だったが多摩は銀杏の並木の黄葉が真っ盛りだった。ナビはR413へと導いてくれる。ところが山間部に入ってすぐの青根で通行止めと分かった。一旦戻って県道518号に入り、山越えで道志村へ戻った。
 とりあえず道の駅{どうし}まで行く。登山の服装に着替えた。トイレの近くで9/21に行方不明になった小倉美咲ちゃんの両親がビラ配りしていた。私も9/28には捜索にきましたとご挨拶した。残念ながらまだ何ら手掛かりがない。激励の言葉がけするしかない。ひょっとすると誘拐かも知れず、それだと生存の可能性もある。希望を失わずにと激励するほかない。
 今日は帰りがけの駄賃に菜畑山(読みはなばたけうら)に登ってみたかった。山梨百名山の一つ。帰りがけだから本格的な登りではないことが条件であり、往復1時間もあれば頂上を踏める山である。道の駅から少し下り、山家の奥へ急坂の車道を上る。狭いので小型車が有利だ。カーブもタイトで小型でも切り返した。終点に電波のアンテナがあり車道はこれの管理のためだろう。ここまで車が入れれば1080mに達する。山頂は1283mなので比高200mほどだ。しかし、いきなり胸を突く急登である。
 道志川右岸側に鳥の胸山(読みはとんのむねやま)があるが等高線が詰まっているので急登の意味であろう。大町市の鳩峰も松本市のハト峰も等高線が詰まっている。急登のことを胸を突くと表現する。胸突き八丁ともいう。菜畑はどんな意味か、沢の名前から由来ともいう。なばたけ沢のウラすなわち高いところの意味か。
 直線的な尾根の登りは途中でジグザグに登山道が作り直されていた。これで傾斜が和らぐ。雑木の尾根を喘ぐと山頂だ。カヤトの少し平なところ。かつてはここにもアンテナがあったのか、コンクリの礎石がありイスもある。ここからは富士山が良く見えるが今は逆光でテラテラ光っている。夜になるとアイスバーンになる。
 縦横に縦走路があり道標もある。またいつしか民宿にでも泊まって白い富士山を眺めつつの縦走も良いなと思う。今日は登りは本格的ではないがちょっとした道志村の山の味を知った。
 下山すると気になって居た燃料計メーターがガクッと減っているそうなので山中湖村経由から都留市経由に変更してGSに急いだ。都留市へは峠道を下りきったところにGSがあり満タンにできた。
 帰路はR139から富士山の西麓の県道71号に走り富士宮市、富士市と南下。R1のバイパスに入り、清水ICから東名で帰名した。夜10時過ぎたが、忘年会良し、山良しのまあまあ満足な2日の旅だった。

師走と読書2019年12月09日

 12/6夜から12/8夜までは久々の東京行きで疲れた。往復とも地道利用でけちけちドライブであった。もっとも運転はSさんまかせだったから楽だった。
 しかし運転感覚が違うので随分疲れる。特にガソリンのFF車は加速が良いのでばあっと加速してきゅっと制動をかけるからギクシャクするかに思う。神風タクシーと同じである。
 当方はディーゼルエンジンのFR車なので後ろから押される感覚だ。しかも出足は良くないのでスローな動きに慣れている。助手席に乗ると思わず右足に力を込めている。乗せてもらうのも決して楽ばかりではない。
 さて精算すると、府中市の府中駅へ8分のところにあるビジネスホテル代は6500円、ホテルから10分ほどの宮西町の1日24時間Pは1210円X50%、府中新宿間は290円X2=580円、往復800kmほど走って?円/人、高速代は帰路のみで清水東名三好間は2930円X50%。
 旅費交通費は〆て14180円と忘年会費16000円で3万円超。往復新幹線利用だと2万円かかる。往きのみ夜行バスでも16000円。ほぼ半分で行けたことになる。体力的にはきついが安上がりで済んだ。

 9日は新聞休刊日。朝から溜まっている原稿を2本書いた。そろそろ年賀状も用意して準備しなければと思うが、まだまだ仕事があるし研修もある。忘年会もあるがいくつかは不義理する。
 枕元の本と雑誌もたまってきた。いくつかは手に取るが雑用もあり読み切れない。新聞は3紙のうち1紙にして時間を浮かせたがそれでも忙しいのは師走だからだと気づいた。

暖房とビタミンC2019年12月10日

 11月の中旬かに用意した灯油がいつの間にか無くなったので買い増しした。夜とか朝少し寒い時に暖房が欲しい。本格的な厳冬期はまだこれからだ。エアコン暖房は乾燥するので喉に悪い。石油ストーブにやかんをかけて湯気をたてることも健康管理につながる。
 少し離れた日進市のガソリンスタンドに走った。ここはマイカーに入れる軽油でも名古屋市内より10円は安い。灯油は比較していないが安いに違いない。さらに幟には零時から朝8時までなら20%引きとあった。これは安い。さりとてまた引き返して出直すのも無駄になる。次の機会には夜討ち朝駆けで買いに来るか。

 そういえば、12/1以来のビタミンCの毎日の服用で空ぜきはほぼ快癒してしまった。ほんのちょっと体に足りないだけだった。農家の子供の頃は味噌汁の野菜はその朝に摘み取って入れた。新鮮そのもだからビタミンCも損なわずたっぷりとれていたのだろう。
 今は都会暮らしで農家で採った野菜を洗って梱包し運んで市場で各消費地へまた運ばれて店頭にならぶ。消費者はそれを買い、その日のうちに消費することもあれば野菜収納庫に保存するからビタミンCはどんどん失われてしまう。約50%以下になるとの新聞記事を読んだ記憶がある。洗うだけでもビタミンCは流れてしまうとか。
 ジャガイモはビタミンCの宝庫というがストックの期間が長いから期待するほど取れていない。肥満するから糖質を避けよ、塩分は高血圧になるから危険だ、とか健康管理を謳う前に食べ物の取り方を正常化する必要があるのだろう。ストックしない、冷蔵しない、文明は長寿化をもたらしたが同時に病気も蔓延させた。