『津軽の野づら』の原作と出版の著作権2019年11月21日

 深田久弥の『津軽の野づら』は北畠八穂の著書とされる。深田には書けない内容だかららしい。しかし今年津軽半島では八穂は標準語で文章を書けないことを知った。津軽弁で語られた『津軽の野づら』を一般に分かりやすい文章で著したのは深田久弥であった。すると著作者も深田になるのだがなぜか不幸な別れ方をしたためか、著作権に争いがあるためか、再版を見ることが無い。
 こんな例は柳田國男『遠野物語』にも言える。
 ウィキによると原作は「岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で出版」とされる。聞き取りした話を文語体で著したのは柳田の手柄である。
 続けて「晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている。」というように深田も聞き取りに苦労して小説化したと思われる。津軽半島の小泊で聞いた太宰治『津軽』の朗読の語り部の津軽弁は私にはさっぱり聞き取れなかった。しかし、秋田県の人は聞いて落涙した。
 当時26歳の田舎娘の八穂が津軽弁で深田に語りそれを解釈しながら標準語の小説にしたのであろう。中身は八穂であるが作品への貢献度は深田に傾くと考えるが・・・。

冬の雨2019年11月22日

 冬の雨は小寒い。出かけると小雨になったので傘をさす。深々と冷える感じである。午後からの研修に備えて外出。天白川の橋を渡るとかいつぶりた白い鳥が飛来してくるようになった。毎年冬になると見かける。水がよどんだところで盛んに潜っては魚を捕食しているみたいだ。
 地下鉄植田駅から伏見駅で下車。富士フィルムのギャラリーで風景の写真展を拝見。東栄町でのショットが素晴らしかった。黄葉が小さな滝に張り付き水溜りは黄葉にびっしり覆われた。中々撮れない作品である。
 伏見駅から地下へ行こうとすると広小路通りの一角が通行止めになった。G20の会合で外国の要人警備のためであった。名古屋市のHPを見ると名古屋観光ホテルが会場という。「アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、フランス、ドイツ、インド、インドネシア、イタリア、日本、メキシコ、韓国、南アフリカ共和国、ロシア、サウジアラビア、トルコ、英国、米国、欧州連合(EU)のG20メンバー国のほか、スペイン、チリ、エジプト、オランダ、ニュージーランド、セネガル、シンガポール、タイ、ベトナムの招待国9か国、合計29の国と機関」も来名しているのだ。都市高速も環状線の中には入れない。明日は名古屋市に居ない方がいいみたい。

「韓国から見た雨森芳洲」朝鮮通信使のイベントにて~長浜市2019年11月23日

朴 花珍教授の講演
 朴 花珍(パクファジン)教授の解説は文献に基づき、実証的です。さすがは学者です。日本語はやや韓国訛りがあるが十分通用するレベルです。学者は古文献に当たるために漢字の素養も必須です。韓国側の芳洲観は誠信が請けい入れられているのでしょう。特に批判的なことはありませんでした。

ジャンホギョさんのKポップを聴く2019年11月24日

ステージで歌う
 会場は長浜文化芸術劇場大ホール。シリアスな日韓の歴史イベント(朝鮮通信使)から一転して女性が続々入場してきた。Kポップというジャンルの音楽は初見。パントマイムに乗りの良い音楽で振り付けた気がした。
 韓国の歌手でジャンホギョさん。冬ソナの主題歌で歌い始める。日本に来て8年経過、岡山県で国内、アジアなどで活動中とか。ステージでは華奢に見えたが間近で見ると背が高く体は細い。ダンスで引き締まっているのだろう。声援に対して小さく手を振ってこたえる。ファンサービス旺盛。日本語も上手です。

黄葉且つ舞ひ散る朝日浴びながら 拙作2019年11月25日

 関ヶ原ICを出てR21を走っていたら木の葉がきらきら舞いながら落ちてきた。しかも朝日を浴びてきらきら光りながらクルクル舞い落ちる。さっとクルマを脇に停止させてメモった句である。

時雨るるや句会の後の食事会 拙作2019年11月26日

 休日の句会は何かとぶつかるので平日に変えてみた。また10年前の発足時には5人いたが今は3人に減った。皆健康を害して継続できなくなったのです。生き残った人は健康だし意気も盛んです。1人には結社への入会を勧めたら入った。82歳でもなお向上心を失わない心意気に凄いと思う。
 今までは喫茶店でお茶を飲みながら進めていたが喧噪の中での句会はお店の迷惑にもなる。それで今日は天白スポーツセンターを借りてみた。3時間1000円。ほどほどの広さの会議室である。集まったのは近くの1人で遠方の1人が中々来ないので連絡するとうっかり特急に乗り、地下鉄鶴舞線乗り換え駅の上小田井駅を乗り越したらしい。金山駅で下車してしまった。そんな訳で遅れに遅れて3時30分からになった。
 句を見るとしっかり詠んでいる。認知症にはまだ縁はないだろう。それでも身の回りのことが困難なエリアに来ているので機会があれば脳のCTスキャンで診断を仰ぐようにお勧めした。もう1人はすでに受診したことがあるそうだ。かく言う私も機会があれば受診しておきたい。否75歳になると運転免許の更新で否が応でも試される。
 してみると今日の1日のように人生は短い。黄金の六十代も終わり黄昏の七十代、お二人は八十代。句会が終わると時雨て来た。3人で夕食を共にした。句会よりこれが狙いかというほどおしゃべりを堪能された。

猟夫来て桶の氷を叩き割る 杉田たか2019年11月27日

 杉田たか 句集『時鳥』から

・・・今時はベレー帽に洋犬を連れたハンターの謂いだが、猟夫(さつお)という季語を用いると柴犬か紀州犬、秋田犬などの伝統的な日本の猟犬を連れた猟師を彷彿する。寒い朝、凍結した氷が張った桶を猟銃の持つところで割ったというのだ。捕った獲物の解体でもするのかな。
 久女の夫の宇内は晩年になると小原村松名の実家に帰って、猟師を楽しんだという。たかさんは昭和6年生まれ、久女は昭和21年1月21日に死去したからたかさんは15歳で葬儀にも参列したかも知れず、同時代を生きている。この猟夫は宇内の残像かも知れません。否深読みか。
 宇内は昭和21年小倉中学を辞し小原村に帰郷、昭和37年、逝去。つまり妻の死去を機に小倉市(現北九州市)を去った。娘の昌子さんも同行しただろう。昌子さんはウインパーの『アルプス登攀記』の翻訳もあるアメリカ文学者の石一郎氏と結婚。「岳人」にも随想を寄稿。

狐来る久女の墓のほとりまで 杉田たか2019年11月28日

 杉田たか 句集『時鳥』から。杉田たかさんは「杉」同人。「晨」、「槐」、を経て同人誌「家」に参加。「杉」と「家」を拠点に詠む。

 久女の墓で分かる通り、場所は愛知県豊田市小原町の松名。岐阜県境にも近い。作者は杉田久女の嫁ぎ先の墓地の近くに住んでいる。今は長屋門しか残っていない。その奥に久女、娘の石昌子の久女ファン向けの句碑が建っている。久女の墓は夫の宇内の墓と並んで少し離れたところに夫婦で眠っている。たかさんは杉田姓からも杉田久女の家の親戚筋にあたる。狐が何か餌になるものを探しているのだろう。久女は才媛だったが人生には寂しさと薄幸のイメージが伴う。狐が出没する墓地にはいかにも寂寞に誘う。

蛍火を追つて久女の墓の前 杉田たか2019年11月29日

 杉田たか 句集『時鳥』から

 季節はさかのぼるがこの句も久女の墓の付近を飛び交う蛍を詠んでいる。幻想的な句である。あそこはたしか小さな川があったと記憶している。天然自然がまだまだ残されているので蛍が生息できるのだ。作者はきっと墓守のみならず句碑の周囲の清掃なども担われているのかと想像する。これまで数回は訪ねたがいつ行ってもきれいだった。忘れられた俳人ならば句碑も墓も草茫々になって荒れてゆくばかりだろう。久女を愛する愛好家が絶えないのだろう。
 今冬は北九州に旅を考えている。門司港に近い北九州市(旧小倉市)の堺公園の久女句碑や英彦山登山もやれたら良い。

データ:https://www.myliving.info/blog/20279/

「北九州市ゆかりの俳人である杉田久女と橋本多佳子の功績を称えて、「杉田久女・橋本多佳子記念室」が、2018年(平成30年)1月16日(火)北九州市立小倉城庭園内(北九州市小倉北区城内1-2)にオープンする。

施設は、小倉城庭園を訪れる多くの国内外の方に北九州市が誇る二人の俳句作家の情緒あふれる言葉をとおして、「文学の街・北九州」の魅力を発信するとしている。

展示内容は、小倉城庭園売店の一部(16㎡)を記念室に改修して、久女・多佳子の功績を解説版で紹介する」以下略
月曜日(月曜日が休日の場合はその翌日)、12/29~1/3

忘年山行1霊山を歩く2019年11月30日

 朝8時過ぎ、私、M野、K,M本、T、I島の6人が集結し、金山駅前を出発。9時過ぎ亀山PA着。ここでIさんとSさんに合流し8名になる。東名阪高速を出て名阪国道(R25)へ行く。快調に飛ばして伊賀(柘植)ICを出る。スマホのナビで地理勘もなく霊山寺へ導かれる。
 霊山寺には数台の先行車が止まっていた。手軽なハイキングの山である。私たちも支度して出発。境内の長い階段を登ると本堂の横の大銀杏が黄金色に輝くような黄葉が素晴らしい。一度も吠えず老犬が見守ってくれる。登山道は左へ少し下った林道である。
 林道の終点から杉の植林の中の登山道が始まる。というより参詣の道だろうか。200mごとに号数が増える。とにかく異口同音に寒いと訴える。中腹まで登ると温まり一枚脱ぐ。
 中途には寺院遺跡のような名残りの名前がある。山頂直下には湿地帯もあったから夏は僅かでも湧水があるのだろう。山岳霊山が成立するには水源が大きな条件になる。

 伊賀上野観光協会のHPには霊山寺は「創建は古く、霊山山頂(765.8m)には、平安時代〜江戸時代にかけての一大寺院跡(面積11,200m2)があります。奥之院には、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)(延宝3年〈1675年〉)を安置し、石造台座には永仁3年(1295年)5月10日の銘があります。
 その後、霊山寺は現在のように霊山中腹に再興され、天台宗より黄檗(おうばく)宗に改宗されました。
本尊、十一面観世音菩薩は寄木造で、像高1.8m、江戸時代初期の作です。ほかに普賢(ふけん)菩薩や、平安時代の銅鏡が保管されています。」と約700年の歴史を誇る古刹である。

 山頂へは雑木林に変わった辺りから緩やかに登り石段を登ると萱とのの平らな山頂だった。南西の隅っこに一等三角点が埋まっていた。経塚を中心に塁が築かれている。そこに腰を下ろして休む。寒いのでやることもなく早々に下山した。
 本堂では俳句の投句箱があったので2句を即吟で投句しておいた。滋賀の大津市で4句、今日で2句と投句した。果たして結果は如何に。
 ゲストハウス関ロッジに行くにはまだ時間が早いので芭蕉公園を散策した。芭蕉は韜晦したので生まれた家、場所も定かではないらしい。そこで上野市は生家を具体的に挙げ、ここ柘植町にも生誕地を訴えます。
 観光資源になるほどの大物は違います。
 案内板には
「俳聖松尾芭蕉翁は、1644(正保1)年に伊賀国柘植郷拝野の里(現在の三重県阿山郡伊賀町大字柘植町)松尾儀左衛門の二男として生まれました。翁を偲び毎年11月12日に松尾家の菩提寺である萬寿寺などにおいて、しぐれ忌が開催されます。また、伊賀町内には句碑や像の他に、生誕地の碑・生誕宅址碑等が建てられ、翁の遺徳を讃えています。」
 園内には有名な

「古里や 臍のをに泣く としのくれ」

という、芭蕉が親不孝を詫びて詠んだ句碑が建っていました。旅の途中で訃報を聞いたにも関わらず死に目にも会えず、葬儀に来れなかった。兄からこれが母が大事に持って居たお前の臍の緒だと渡されて泣いたというのである。

その後、伊賀IC近くのレストランで蕎麦を食べて温まりました。そろそろ時間と関ロッジへ向かいました。このところ数年は常宿みたいになりました。自炊ながら風呂、布団もある立派なお宿です。
 今日は新人2名も含めて15名もの盛会になりました。かつては旧人ばかりだったこともあり10名前後で推移してきました。もう1名の新人候補もいたのですがあいにく風邪でドタキャンになりました。鋤鍋を囲んで今年の反省や来年の抱負など語らいました。例年になく充実した忘年山行になりました。その一方では70歳代後半から80歳代の3名の古参会員の退会を聞かされたので喜びも半ばですが。