消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき北畠具行2019年11月06日

 霊仙山で遭難騒ぎがあり地形図を眺めていたら登山口の柏原と梓河内の間に北畠具行の墓所を発見した。今年は3月の北畠親房、5月の北畠八穂と北畠づいているのでつい注目したわけです。日の短い晩秋の山歩きに良さげな気がします。
 鎌倉幕府も元寇に防人として働いてくれた武士らのために財政難となって崩壊した。防人は出征するために自分の領地を売ってカネに替えて旅に出る。軍資金をもって家来に食わせながら赴いたと言います。当然借金もあった。それで帳消しにする徳政令の政策もしたが幕府はもたなかった。
 現代でも軍備のためにアメリカの財政は青息吐息だそうな。中国も韓国も財政事情はもっと悪いだろう。日本も良いとは言えないが債権国ではある。外国が破綻すれば焦げ付く。債権というのは信用で成り立つ虚構である。それでも生きてゆくことに違いない。実体のある経済を見るしかない。日本人が株式や金よりも土地に価値を見出すのは過去の教訓であろう。
 さて北畠家の末裔は今も健在であった。医業、薬局など手堅い仕事でヒットする。代々の土地が温存(継承)されてきたからだろう。
 個人は露のごとく消えても倒幕のために尽くした自分の人生は何だったのか。
辞世の歌の意味は重い。

 歌意は「消えかかっている露の如くはかない自分の命の最後はもうわかってしまった。それにしても鎌倉幕府の末路を知って死にたかったものだ。」
 北畠 具行(きたばたけ ともゆき、正応3年(1290年) - 正慶元年/元弘2年6月19日(1332年7月12日))は、鎌倉時代末期の公卿。村上源氏北畠家庶流・北畠師行の次男。兄に雅行。

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 北畠家初代の北畠雅家の孫にあたり、北畠宗家4代目の北畠親房は具行の従兄弟違(従兄弟の子供)にあたる。親房と共に後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進する。和歌にも優れており、「君の恩寵も深かりき」と評される程の側近となった。また、親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少の顕家が継いだために、具行はその後見人となった。

 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も中心的存在の一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も鎌倉幕府軍に捕えられた(元弘の変)。翌2年(1332年)、京極高氏(佐々木道誉)により鎌倉へ護送される途中、幕府の命により近江国柏原(現在の滋賀県米原市)で処刑された。

「ばさら」と呼ばれた道誉は、公家である具行の事を嫌悪していたが、死に臨んでの具行の態度に道誉も感服し、柏原宿の徳源院に一ヶ月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが叶わず、その別れを惜しんだと伝わる。6月18日夜、二人は暫く談笑し、翌19日具行は剃髪後に処刑されたが、処刑前に道誉に対し、丁重な扱いに感謝の言葉を述べたと伝わる。[1]

「増鏡」によれば、辞世の歌は「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」[2]

墓所として、米原市柏原に貞和三年(1347年)建立の宝篋印塔が残り、「北畠具行墓」の名称で国の史跡に指定されている。
以上はウィキから