霧深き荒島岳2007年08月01日

 
  谷にあれば敵と見て刺す夏の虫

  岩のごとく硬くはなれずヒキガエル

  フウロソウ霧の山こそ似合うなり

  フウロソウ霧の中から生まれけり

  シモツケソウただそれだけのお花畑

  群れもせず谷のニッコウキスゲ咲く

  登山道笹に埋れた道標

  消えそうな登山道ありブナ林

  霧深き頂きでする握手かな

  滴りし岩壁の水掬うなり

  夏寒し荒島岳は無人境

  滝を攀づラインに伸びしザイルかな

  奥越の山に顔出す夏の月

映画「秋日和」鑑賞2007年08月12日

 黒沢明監督の映画「白痴」1951年、篠田正浩監督の「心中天網島」1969年と見たが今一映画の世界に乗り込めなかった。「白痴」でははっとするほど美しい原節子や久我美子の熱演に魅入られたがロシア文学ベースのドラマの違和感が払拭できなかったし、「心中天網島」では岩下志麻の2役と黒子が登場する奇抜さに溶け込めなかった。吉田喜重監督の「吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界」は少し変った作品であった。同じDVDに「愛知県の祭」などが収録されていたがこんな作品も撮っていたのであろうか。
 その口直しに映画「秋日和」を観た。1960年制作。小津安二郎作品である。これは2回目の鑑賞であるが1回目は「晩春」と同じストーリーで特に感想は書かなかった。俳優は原節子、司葉子の親娘を中心に岡田茉莉子、司葉子の夫役となる佐田啓二、悪友3人組を演じた佐分利信、北竜二、中村伸郎らの脇役が活躍する群像劇にも思う。この年の大ヒット作となったらしい。
 今回注目して観たのは初出演の岡田茉莉子の役割である。岡田時彦の娘ということでコメディ調の役柄を演じさせたがお見事でした。特に3人のおじ様をきつい言葉でやりこめる場面は上手い。その上自分の実家が経営する寿司屋に美味い寿司屋があるといっておびき寄せる演技はなかなかのものである。大変愉快な場面で笑わせられる。さすがに小津さんの眼力は高い。
 しかし岡田さんはどうもお気に召さなかったと見える。小津さんが亡くなる63年までに「秋刀魚の味」に出演したが。62年の「秋津温泉」がヒットしたこともありメロドラマのヒロイン女優が水に合っていたようだ。「秋日和」では司葉子のナイーブな性格に対して岡田さんの明るい性格を対置させた。とてもいい配役でありこの映画がヒットしたのも分かる気がする。縁が薄かった原因は小津さんが年1作しか撮らない寡作だったことが大きいだろう。
 「秋日和」が楽しいのはハイキングの場面が少し出てくることもある。ドラマでは浅間高原という台詞はなかった気がする。司葉子や岡田さん、渡辺文雄らが横一列でならんで歩く場面はすぐに切り替わり、山小屋と思しきところでマージャンなどしている。ここでも岡田さんはアップで映されて明るく盛り上げる元気なお嬢さんである。
 誰かが「ああ!いい天気だなあ!また山へ行きたいな!」というと岡田さんは「行っちゃいなさいよ、会社なんか休んで行っちゃいなさい」とけしかける場面もあった。
 最後の場面では未亡人役の(40歳になった)原節子の演技が秀逸である。娘を嫁がせた夜の淋しげな居住まいは記憶に残る。住んでいるアパートの廊下のショットがいっそう淋しさを際立たせる。東宝作品の原節子は演技が生硬と見られていた。小津さんは演技をさせない監督としても有名だったそうだ。この場面なら涙を流すとか、泣き崩れるとかの演技がありそうだが背中を向けて肩を落とした感じだけが演技といえば演技。悲しいからといって涙を流すこともない、芥川の「ハンケチ」という作品の女性を想起させる。
 ハイキングに絶好の「秋日和」であるがまた人生の淋しい秋愁の気分も出してる題名である。「もののあわれ」を表現して余す所がない秀作でした。
それと忘れてはいけないのはちょい役で岩下志麻が出演していたことだ。「秋刀魚の味」では主役を演じる女優である。地味な役だがなぜか存在感がある。
 思えば彼女達の夫=篠田正浩、吉田喜重は松竹ヌーベルバーク(新しい波)と呼ばれて次世代を担っていった監督であった。

映画「戸田家の兄妹」鑑賞2007年08月13日

 相変わらず小津安二郎作品を観た。まず映画「長屋紳士録」だ。1947年作。迷子を連れてくる笠智衆、世話をする飯田蝶子、坂本武らが出演。蝶子としてはやっかい者を押し付けられたので終始ご機嫌斜め。迷子にも辛く当る。が次第に情が移り、子供にならないかと持ちかける。なるというところで記念の写真にも納まったはいいが結局は父親が引き取りに来て終る。最後に蝶子は泣くが情が移ったのにもう別れるから泣くのではなくあの子が本当の親と生活できるようになったことが嬉しくて泣いたと打ち明ける。人情と喜劇の物語である。上野公園の迷子のショットで締めくくる辺り当時の社会の断面も切り取ってただの人情劇で終らないのはさすがでした。
 本番は「戸田家の兄妹」で1941年制作。女優陣が絢爛豪華。当時のヒット作だったという。最もよく知られた高峰三枝子を筆頭に、三宅邦子、桑野通子、吉川満子。俳優では佐分利信が主役陣であるがあとは脇役に回る。
 高峰三枝子といえば「湖畔の宿」の歌が余りにも有名でその印象しかない。この時は23歳であり非常に綺麗である。1942年にはその湖畔の宿も大ヒット。歌う女優として知られる。ある山仲間のご尊父の葬儀では趣味だったアコーディオンのクラブが湖畔の宿を演奏するハプニングまであってびっくりした。それくらい年齢的にも幅広く大衆に親しまれた美貌と美声の女優であった。主演で観るのは初めてである。
 友人役の桑野通子も大変綺麗であったが31歳で早世した。戦後作品の「秋日和」で桑野みゆきが出ているが娘である。しかし母の方が断然綺麗である。コメディもこなすタイプだから小津さんには惜しい役者であっただろう。
 物語は上流家庭の不和である。長女、長男、次男、次女、三女の5人兄妹がいる。佐分利信の次男と、高峰三枝子の三女以外は結婚している。父親は成功者であるが急死する。死後、手形の裏書の保証を履行せねばならないことがわかった。家屋敷、骨董品などを売却して債務の50%は履行。
 結果、母親と三女は家を出ることになった。誰が面倒を見るか。まずは長男の家で落ち着こうとするも折り合いが悪く、長女の家に変るがここもだめ。
次女の家でも最初から諦めて売却さえためらわれた別荘に行くと相談。賛成するが内心ではほっとしている。
 別荘では気兼ねなく生活は出来た。やがて1周忌となり葬儀の後で天津から帰国してきた次男は母親の気苦労を思い、兄さん、姉さんは母親の面倒も見ずに何だ、と批判する。結局次男は母親、三女とも天津へ連れて行くことを促し了解させる。そして三女は次男に結婚を持ちかける。友人の桑野通子はどうだ、という。三女に任せると応じる。反対に三女にも結婚を持ちかけて承諾を得た。桑野は手土産を持って訪ねてきたが次男は海辺に出かけたショットで終る。
 よく聞く話である。兄妹は他人の始まりである。仲のよかった兄妹も其々に家庭を築いてしまうとたとえ親といえども同居は何かと難しいものがある。妻とか夫に他人が入ってくるからだ。それに亡くなった父親は負債を残していたから子供には1円の遺産もない。貧乏な母の面倒を見るのは逃げたいところだ。親の立場からすればたっぷり財産をもって死ぬまで渡さない方がいい。そうすればそうしたで子供達の相続争いの元になるが。
 後の「東京物語」のように家族がバラバラに崩壊していくということではない。母の面倒は次男が見るのだからまだ救われている。葛城文子扮する貧乏な母親役は上手い。心当たりのある観客はスクリーンの葛城文子に自分の母をダブらせたであろう。
 この映画はアメリカ映画「オーバー・ゼ・ヒル」の翻案といわれる。実は小津さんの家族でも父親の寅之助が1934年、67歳で狭心症で亡くなっている。映画の父親も狭心症の設定である。1935年には母親と弟を引き取って転居している。弟には大学まで行かせている。だからモデルとも言われたらしいが2007年1月号「雑誌「考える人 特集小津安二郎をそだてたもの」の中で弟の信三氏に嫁いだ小津ハマさんはやんわり否定されている。

映画「安城家の舞踏会」鑑賞2007年08月14日

 昭和22年制作。原節子主演の素晴らしい映画でした。舞台は安城家の家の中だけで一歩も外はなし。ストーリーは記すこともないくらい単純です。華族の没落を描いたというよりも原節子の美しさをスクリーン一杯にちりばめた感じがします。
 監督は吉村公三郎。レンタル店になくDVDもまだ未発売。愛知県立図書館の検索から探しあてた。ここでも貸出は禁止。朝10時の開館10分前でも5台の機器の先頭に並べなかった。鑑賞できたのは12時過ぎとなった。
 原節子はこの作品で人気急上昇となり以後小津の「晩春」につながって定着する。待ち時間の間『永遠の処女伝説 原節子』を読む。原のやや日本人ばなれした美貌は西洋人との混血だったことが記されている。
 大根役者との悪評が有ったらしい。たしかにぎこちない演技はある。小津は原に演技をさせなかった、というからもちろん見抜いていたのだろう。ただ原の美貌がシャシンの中に欲しかった、とも書いてある。厳しい見方であるがやたらと小津を神格化しないことも大切。小津さんの死後42歳で引退宣言もなしに引退してしまった。だから生い立ちからして調査は困難を極めるがよくまとめたものである。
 日本女性の美人女優といえば入江たか子、山田五十鈴、山本富士子あたりか。原節子の美貌はひと味違う気がしていた。しかし昭和20年代は原さんの人気の絶頂期であった。敗戦で希望をなくしていた国民にスクリーンの中で希望を与えてくれたんだ、とも。
 何はともあれ往年の映画ファンには懐かしい作品であろう。そして今観ても破綻のない素晴らしい作品である。

映画「生きてはみたけれど 小津安二郎伝」鑑賞2007年08月15日

 1977年の新藤兼人監督の映画「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」を以前に観た。死後21年後に39人の関係者の証言を掘り起こすいいドキュメントであった。新藤自身も脚本家であったから溝口監督はいい弟子を持ったのだと思う。
 この作品は死後20年目の1983年制作で井上和男が監督。制作は松竹であるがわずか16人の関係者が出演しただけである。小津は弟子を育てなかったといわれるがここにもそれは現れている。「東京物語」の助監督を途中から務めた作家の高橋治氏が出ていないのは不思議な気がする。1982年に『絢爛たる影絵』を出しているからだ。
 未だ韜晦を貫く主演の原節子出ず、交通事故で死んだ佐田啓二出ず、往年の名優も軒並み物故されたのであろうか。松竹が制作したために他社の俳優は出演しづらいものがあったかも知れない。今一物足りないがそれでもなぜかふつふつと人となりがイメージされて良かった。
 15日の今日はお盆である。愛知県図書館に昨日よりは10分早めに来てならんでなんとか4番札をもらった。10時過ぎから観て終ったら12時を回っていた。画面に釘付けの2時間であった。
   ”盆は小津安二郎伝を観て過ごす”
 その後クルマを停めておいた愛知県護国神社の周辺は右翼らしい街宣車がずらり並んで止まっていた。私も参拝のために境内に入ると整列した右翼の若者達が参拝を終えて出てきた。静かになったところでお参りした。東京の靖国神社でも同じ光景であろうか。
 帰宅する途中余り暑いので書店で「岳人」を買い、並びの喫茶店で今夏初めて氷水を食べた。さすがにいい消夏にはなった。

映画「Shall we ダンス?」鑑賞2007年08月16日

1996年制作。大映作品(現在は角川映画)。周防正行監督(1956年~)。
これも愛知県図書館に所蔵されていたので借りた。但し返却のための交通費を考えるとレンタル店で借りた方が割安か。
 そんな細かい損得よりもこの映画の評判の高さが気になって観てみたいと思っていた。136分と2時間を軽くオーバーする長編であるが時間の過ぎるのを忘れるほど面白かった。
 役所広司扮する中年過ぎのサラリーマンは朝薄暗いうちから都会へ遠距離通勤している。帰りの電車の中からふと見たダンス教室の窓にたたずむ舞という草刈民代扮する孤高の女性教師が気になり始める。こんな場面から展開していくがストーリーはとても単純。 
 脇役の竹中直人扮する同僚にしてダンス仲間とのやりとりがとても愉快でサイレント映画の一こまが想起される。そのはずである。この映画はハートフルコメディといわれるが要するに人情喜劇である。肩肘はって観るものでなく楽しく笑いながら観てほろっとさせられるということだ。
 監督の周防正行を検索で調べると学生時代から映画に関心が高く小津安二郎を研究したそうだ。道理で部分的に手法が似ているな、と思った。竹中が勤務先の事務所内を歩いているがちょっと変な歩き方である。腰をくねくねしながら歩くところが小津のサイレント映画のどこかにあった。役所扮する杉山自身も駅のホームでステップを踏んだり、事務所のデスクの足元のアップで何が始まるかと思えばステップを踏んでいる。この種の笑いを誘う仕掛け(ギャグ)が随所にあって笑わせてくれる。
 小津の「早春」という映画でも岸恵子がタイプを打ちながら二シャーと笑い隣の人にとがめられて真顔に戻る場面。シリアスな中にも笑いをとる場面を挿入していた。平凡なサラリーマンが不純な動機で始めたダンスも興が乗って本格的になっていく最終場面は見所があった。舞へのほのかな恋はもちろん実ることはないが会社と自宅を往復するだけの人生から解放された主人公の生き方の見直しもぴりっと辛い味付けはさすがです。
 ちなみに主演の役所広司の役所は彼が市役所に勤めていた時代の名残だそうだ。実直そうなな顔つきに納得もした。
 こんな映画を作れるのならもっと観たいものである。

映画「小島の春」鑑賞2007年08月16日

 1940年制作。豊田四郎監督。小川正子(山梨県生まれ、1902--1943)原作『小島の春』(1938年)の映画化である。小川正子はハンセン病(らい病)治療に従事した医師。当時は列強の中で一番患者が多かったため国策として長島愛生園においてらい病の治療に当ったり、検診のため各地を歩く。
 1942年に死去後出版された『小島の春』はベストセラーになり2年後に映画化された。映画では瀬戸内海の島を訪ねては患者を説得して愛生園に連れて来るシーンが主体となる。
 この映画を知ったきっかけは高峰秀子の自伝的エッセー「わたしの渡世日記・上」の中の”にくい奴”と”ふたりの私”で杉村春子扮する患者が病気の為に顔を見せないでする演技に感銘を受けたという文章であった。彼女が16歳の時であった。はたしてどんな演技だろう、と注目したが特別な感動はなかった。
 そこは子役時代から女優として10年を経たプロの高峰秀子の求めていたものがあったとしか思えない。主役は夏川静江扮する女医であるが毅然とした彼女の演技の方に私は惹かれる。
 この年から14年後の30歳で彼女の代表作「二十四の瞳」が制作される。子供達が飛び跳ねるように動き回る場面や小山医師(小川正子に扮した夏川静江)の姿が大石先生とダブルのである。同じ風光明媚な瀬戸内海の小島を舞台にして。おまけに大石先生の母親として夏川静江も出演している。小島の春は夏川が31歳の時の作品であった。
 戦後釣り文学の最高傑作といわれる森下雨村のつり随筆『猿猴川に死す』の中にある”天国と地獄”にも小川正子の「小島の春」が引用されている。ここでは「レプラ」というドイツ語であるが小川正子が訪ねたらい病患者の村である。2005年の春あいつで2冊も出版されたが小学館文庫では割愛され、平凡社ライブラリー版に入っている。但し地名はxxxと伏字である。文を読む限りはらい病患者に対する偏見に満ちた感情ではない。大変な所へきてしまったという揺れ動く複雑な心理が描写されている。
 現代ではハンセン病の治療法は確立されたようだ。それでもまだ偏見は残る。小説や映画『砂の器』でハンセン病を初めて知った人も多いだろう。映画『ここに泉あり』にもハンセン病の治療施設で楽団が演奏する場面があった。『小島の春』のような暗い内容の映画はもう作られることはないだろう。

映画「二十四の瞳」鑑賞2007年08月17日

 1954年制作。松竹。日本中を感動させた名作。私も子供の頃に劇場で、学校で見せられたようなぼんやりした記憶がある。この映画も「小島の春」同様に明るい内容の映画ではない。美しい島に育った貧しいながらも純真な可愛い子供たちがやがて戦争へと駆り出されて行った時代を背景にした云わば教師の目から見た反戦映画である。
 分校に女先生即ち大石先生が自転車のペダルを踏んでさっそうと登場する。この場面と満開の桜の下で子供達と汽車にならって一列に遊ぶ場面は何時観ても懐かしい。小さな出来事を織り交ぜながら物語りは数年ごとに時代の推移を重ねていく。「小島の春」で主演した夏川静江扮する母も娘役の高峰秀子とともに老け役を見事にこなす。ここでは夫を亡くした未亡人であり、今は娘の身の上を案じるばかりである。
 大石先生自身も結婚し3人の子持ちである。女の子を亡くし、戦争で夫を亡くし、身内の度重なる不幸を乗り越える。教え子達も男の子は戦争に行って帰らず。新しい卒塔婆に手を合わす。田村高広扮する教え子は帰還したものの盲目となる有様。戦争の悲惨さをいやでも訴える。
 敗戦後再び分校の教師にカンバックする。平和な暮らしがいいと思う大石先生である。
 これはデジタルりマスター版を購入。コンピューターを使ってきれいな画像に再生したもの。木下恵介監督の言葉が画面に現れるが映画を観れば充分意思は伝わってくる。
 以前観た「男はつらいよ柴又より愛をこめて」で式根島の小学校の教師に扮した栗原小巻に若い頃「二十四の瞳」を見て憧れた云々という台詞をしゃべらせていた。映画の中の話とはいえ自社作品を上手く宣伝してますね。

株式市場大暴落 行過ぎた金融国際化の破綻2007年08月18日

 今日の朝刊は日本株の大暴落を一面で伝えた。為替証拠金取引も商品相場も軒並み下落。同時にアメリカは金利を下げて沈静化をはかろうとしている。日銀は金利を上げられず、だ。
 大暴落の震源地はアメリカのサブプライムローンの破綻という。過去多くの金融商品が発売されては破綻をしてきたが皆アメリカである。不動産を証券化した金融商品を発売したり、少し前は電力会社の株式で損失をこうむった投資家がいた。ITバブルの崩壊もアメリカだった。
 アメリカは収入よりも多く消費する国である。世界中から物を購入してるからドルが足りない。ニクソンショック以前は金の裏づけがあってドルを印刷していたが追いつかないので止めた。今はいるだけドルを印刷する。有り余るドルを買っているのはかつては日本、今は中国である。しかしドルでかったアメリカ国債は売らない約束があり売りたくても売れない。
 日本はがつがつ貿易特に輸出で稼ぎまくる。もらったドルを円に交換して社員にカネを払う。日本の消費者はそんなに物を買わないから貯めこむ。しかし円の金利が極端に安い今は円を売ってドルを買い外国の投信や債券を買う。すると円安になり輸出企業は利益を得やすくなる。この2年余りは個人、企業もいいことずくめであった。本当は米国債を売って円安を解消すればいいのであるが。
 いいことはいつまでも続かない。悪いことも続かない。ここで転機が来たと見ていい。
 アメリカは常に金がない。だから危ない金融商品を開発して世界からカネを集めるための知恵を使う。集まったところで(ニューヨーク株式が史上最高値になった段階で利益確定のために大量ウリして)暴落の冷や水を浴びせる。投資家は最初は押しと思って買いを入れるが続かない。再び誰かが大量ウリを浴びせる。おかしいと思った投資家はさっさと逃げる。
 日本企業は業績がいいから、と売らせない情報を流して日本株は下がりにくい状況であった。度重なる先物ウリを浴びせて投資家の危機意識を煽りついにウリがウリを呼んで暴落するに至った。元々円キャリートレードでドルを買っていたから下がるドルに耐えられずに手仕舞い。利益の出ていた日本株を売って損失を埋めるウリが一挙に出た気がする。信用で買っていた人は担保不足で追証となりこれまたウリ要因となる。円高になれば輸出で稼ぐ優良企業の株も暴落する。買いたい人が多い優良株ほど落差がひどい。
 対策としてはやはり給料を上げて日本人の収入を増やし、国内消費を増やすしかない。国内消費が増えれば経済が活気付き雇用も増える。税収も増える。中小企業の資金需要が高まれば金利も上げざるをえない。高金利でも利益がでれば借りてでも設備投資を増やす。 
 個人は国内の金利が上がれば何もリスクの高い外為などに手を出さない。輸出で頑張れば常に円高になる。現地生産すると国内の雇用が減る。デフレ不況で超低金利の日本から逃げた投資家は金利の高いアメリカにおびき寄せられて行く。大暴落で大損をしてアメリカは輸入で出て行ったドルを再び還流させることに成功した。またしてもアメリカの勝ち。
 様々に考えをめぐらすと一番の決め手は給料アップしかない。国際相場での給料はすでに(ドル換算で)高いというが最低賃金は世界一安いレベルだ。国内だけで消費するなら高い価格を設定したらいい。
 シンボル的なトヨタでも国内販売は減少しているらしい。グローバル化をいうから国内でも幅180センチ前後の広いクルマは売れず、狭い軽しか売れない。少々高くても国内の事情にあった車であれば売れるだろう。
 行過ぎた国際化がもたらした大暴落だったと思う。

飛騨・沢上谷遡行2007年08月19日

ナメを歩く
 名古屋ACCが岳人誌上で紹介して以来すっかりメジャーな沢になった沢上谷である。情報も充分あるのに中々行けなかった。一昨年は日程が合わず、昨年は大雨で撤退。今年ついに遡行が出来ました。一日中雨にもあわず結構な沢日和でした。
 夜8時30分名古屋ICを出発。9時30分に美濃SAで落ち合う。総勢7名、1名は欠席で6名の参加となった。それでも当会にしては多い。沢上谷効果であろうか。ひるがのSAでは名古屋の猛暑を忘れるほど涼しい。清見IC付近の電光温度計は21度。高山市付近でも23度と快適な気温である。R158から県道89に曲がる。
 テント場は昨年雨の中を走っていたのでパスした恵比寿トンネル手前のPが最適地であった。交通量が少なく、民家もないので一晩の仮泊にはちょうどいい。12時までには着いて1時には就寝。5時に目覚めて6時過ぎには出発。トヤ峠を越えて遡行終了地に1台をデポ。キャラバンで入渓地に走る。
 既に先行パーティーのクルマがある。支度中にも富山ナンバーが来た。7時50分出発。最初は平凡な渓相である。今までが刺激的だったせいか気合が乗らない。右岸から落ち合う枝沢に入って本格的なナメを味わう。帰りには懸垂下降を実施。また本流に戻る。
 ナメの快適な遡行を味わった後、またも右岸に落ち合う枝沢に入る。ここはナメでなくラウンドした大きな伽藍のような岩の切り立つ壁から落ちる滝見である。他のパーティーの人がいうには水量は例年の3/1らしい。やや迫力に欠けるが落差は充分ある。昨年車道から見た凄い滝はこれであろう。
 また本流を遡行。次は落差13mのナメ滝であった。ナメを流れる水が更にその上から追い越すように落ちるためにウロコ状に見える。
 昔後藤夜半(1895-1976)という俳人は

  滝の上に水現れて落ちにけり

と詠んだけれどこの滝をじっと見ていると
  水の上に水現れて滝をなす   拙作
と詠みたいような今までに見たことがない滝であった。
 左岸の急斜面を攀じ登って大きく高巻く。しっかり踏み跡がついていた。石垣もあって何の跡であろうか。巻いてから再び枝沢の左岸を木の枝をつかみながら下降して本流に戻った。
 ここからはすべてナメが続いた。しばらくでまたちょっとした滝に出合った。両方から滝で落ち合う。ここは名古屋ACCが桃源郷と表現したほどの美渓であった。私なら沢の中の理想郷=沢トピアと云いたい。本流はちょっと手強いがフィックスロープが垂れ下がっている。ここでもトレーニングとして確保しながらクライミングした。登攀を終えると待っていたかのように遠雷が鳴った。ほとんど落差のないナメを遡行してクルマに無事到着。
 入渓地までクルマをとりに走った。後は荒城温泉恵比寿の湯に入った。旧丹生川村の鄙びた山の湯である。鉄分が多くお湯は錆た色に変色している。中々よく効きそうな湯であった。
 その後滝に打たれたような雨に襲われたが清見へのトンネルを過ぎると嘘のような天気であった。水量が少ないとこぼした罰が当ったのであろうか。