映画「Shall we ダンス?」鑑賞2007年08月16日

1996年制作。大映作品(現在は角川映画)。周防正行監督(1956年~)。
これも愛知県図書館に所蔵されていたので借りた。但し返却のための交通費を考えるとレンタル店で借りた方が割安か。
 そんな細かい損得よりもこの映画の評判の高さが気になって観てみたいと思っていた。136分と2時間を軽くオーバーする長編であるが時間の過ぎるのを忘れるほど面白かった。
 役所広司扮する中年過ぎのサラリーマンは朝薄暗いうちから都会へ遠距離通勤している。帰りの電車の中からふと見たダンス教室の窓にたたずむ舞という草刈民代扮する孤高の女性教師が気になり始める。こんな場面から展開していくがストーリーはとても単純。 
 脇役の竹中直人扮する同僚にしてダンス仲間とのやりとりがとても愉快でサイレント映画の一こまが想起される。そのはずである。この映画はハートフルコメディといわれるが要するに人情喜劇である。肩肘はって観るものでなく楽しく笑いながら観てほろっとさせられるということだ。
 監督の周防正行を検索で調べると学生時代から映画に関心が高く小津安二郎を研究したそうだ。道理で部分的に手法が似ているな、と思った。竹中が勤務先の事務所内を歩いているがちょっと変な歩き方である。腰をくねくねしながら歩くところが小津のサイレント映画のどこかにあった。役所扮する杉山自身も駅のホームでステップを踏んだり、事務所のデスクの足元のアップで何が始まるかと思えばステップを踏んでいる。この種の笑いを誘う仕掛け(ギャグ)が随所にあって笑わせてくれる。
 小津の「早春」という映画でも岸恵子がタイプを打ちながら二シャーと笑い隣の人にとがめられて真顔に戻る場面。シリアスな中にも笑いをとる場面を挿入していた。平凡なサラリーマンが不純な動機で始めたダンスも興が乗って本格的になっていく最終場面は見所があった。舞へのほのかな恋はもちろん実ることはないが会社と自宅を往復するだけの人生から解放された主人公の生き方の見直しもぴりっと辛い味付けはさすがです。
 ちなみに主演の役所広司の役所は彼が市役所に勤めていた時代の名残だそうだ。実直そうなな顔つきに納得もした。
 こんな映画を作れるのならもっと観たいものである。

映画「小島の春」鑑賞2007年08月16日

 1940年制作。豊田四郎監督。小川正子(山梨県生まれ、1902--1943)原作『小島の春』(1938年)の映画化である。小川正子はハンセン病(らい病)治療に従事した医師。当時は列強の中で一番患者が多かったため国策として長島愛生園においてらい病の治療に当ったり、検診のため各地を歩く。
 1942年に死去後出版された『小島の春』はベストセラーになり2年後に映画化された。映画では瀬戸内海の島を訪ねては患者を説得して愛生園に連れて来るシーンが主体となる。
 この映画を知ったきっかけは高峰秀子の自伝的エッセー「わたしの渡世日記・上」の中の”にくい奴”と”ふたりの私”で杉村春子扮する患者が病気の為に顔を見せないでする演技に感銘を受けたという文章であった。彼女が16歳の時であった。はたしてどんな演技だろう、と注目したが特別な感動はなかった。
 そこは子役時代から女優として10年を経たプロの高峰秀子の求めていたものがあったとしか思えない。主役は夏川静江扮する女医であるが毅然とした彼女の演技の方に私は惹かれる。
 この年から14年後の30歳で彼女の代表作「二十四の瞳」が制作される。子供達が飛び跳ねるように動き回る場面や小山医師(小川正子に扮した夏川静江)の姿が大石先生とダブルのである。同じ風光明媚な瀬戸内海の小島を舞台にして。おまけに大石先生の母親として夏川静江も出演している。小島の春は夏川が31歳の時の作品であった。
 戦後釣り文学の最高傑作といわれる森下雨村のつり随筆『猿猴川に死す』の中にある”天国と地獄”にも小川正子の「小島の春」が引用されている。ここでは「レプラ」というドイツ語であるが小川正子が訪ねたらい病患者の村である。2005年の春あいつで2冊も出版されたが小学館文庫では割愛され、平凡社ライブラリー版に入っている。但し地名はxxxと伏字である。文を読む限りはらい病患者に対する偏見に満ちた感情ではない。大変な所へきてしまったという揺れ動く複雑な心理が描写されている。
 現代ではハンセン病の治療法は確立されたようだ。それでもまだ偏見は残る。小説や映画『砂の器』でハンセン病を初めて知った人も多いだろう。映画『ここに泉あり』にもハンセン病の治療施設で楽団が演奏する場面があった。『小島の春』のような暗い内容の映画はもう作られることはないだろう。