焼合谷から釈迦ヶ岳へ遡行2007年07月02日

 6/30の夜また鈴鹿山麓に走った。これでもう4回目だ。内3回は遡行を成功させた。今回は以前撤退したイナガ谷で宴会だけに終らないように谷の入口の偵察をしておいたからすべてがスムースだった。
 尾高高原の一角の空き地にテントを張り終えると静寂に包まれた。空は梅雨時にしては晴れている。明日も持って欲しいものだ。夜中には先週近江で聞いたホトトギスを今週は伊勢でも聞くことが出来た。鈴鹿市出身の佐々木信綱「夏は来ぬ」を実感する。石槫峠に至る道沿いは卯の花の白さが目立ったことを思い出す。今は山里でしか味わえない風物詩だ。
 湿度を全く感じないさわやかな朝である。車で登山口まで移動。尾高高原のキャンプ場へと走るがチエーンの手前でP。車道をテクテク歩く。右に尾高山への登山口を見送って行く。道の上には猿の糞が大量に転がっている。大群が動いたみたいだ。
 新しい堰堤の更に奥まで林道が延長されている。終点から入渓した。やや荒れた感じがするのは崩壊が著しい花崗岩の谷だからか。大きな岩に何か目印が打ち込んであるのはまだ林道を延長する調査用であろう。
 Lは蜘蛛の巣を払いながら先へ進む。周囲は植林帯ゆえに一度は伐採されて大量の土砂が滝を埋めたと思う。ゆえに谷相は平凡である。所々には何故か石垣が残り、炭焼き窯跡も見られた。
 ポイントとなる女郎滝は左岸を巻いた。先に進むと藤原谷との出合いである。本谷に進む。大きな岩盤の露岩もあって昨年のタケヤ谷をイメージした。石造りの谷相である、と思う。ただ印象に残る滝はない。石原谷出合いまで来ると傾斜が強くなり、周囲が切り立ってきた。水も涸れかかってきた。ここでLのW君とF君が偵察に行く。石原谷とか丸山谷とか案内があるわけではないからだ。
 戻ってきた両君はやはりここが石原谷との出合いと確認。丸山谷に入る。大きな岩を乗り越えて行くとまた水が流れていた。先ほどから神経質に地形図で確かめていたW君は780m地点で「鈴鹿の山と谷」の遡行図から離れて釈迦ヶ岳の直下を目指すことにこだわり始めた。地形は微細である。またしても偵察をしかかったが私の直感で入った左又が正解(以下本谷という)と指示があった。
 ここからはもう遡行図を参考にできない。自分たちのRFと登攀力が試されるささやかな冒険である。まず崩壊した大きな岩の間を乗り越すと左に曲がる。そこに岩盤をS字に流れる優雅な滝を見た。落差は10mから12m程度。流れに沿って簡単に越える。次は脆い岩の滝をだましだまし越える。すると5mの余り威圧感のない滝が現れる。
 周囲は右が岩、左は急な土の斜面。簡単に越えるか、と見て挑んだが支点が脆く一時撤退。高巻きを試みたがこれも足場が悪く断念。結局滝の中間にハーケンを打つ。W君の確保で簡単に越えたが時間は1時間近くは消費した。しかし時間はまだたっぷりある。
 核心部らしい困難もないまま釈迦に登れるか、と考えていたが780m地点の出合いからが核心部であった。西尾寿一氏が「上部で脆い岩壁の登攀となることは必至であり」と書くように「あくまでも本番の谷」だとの警告は的確である。
 さすがのW君も「もう遊んではおれないなあ」とつぶやいた。赤っぽい色の小滝が現れた。おそらく鉄分を含有しているんだろう。中ア前衛の黒覆山へヤケガレ沢を詰めた時も上部で赤っぽいガレを見てヤケの意味を悟ったがヤケゴ谷の由来も正しくこの岩の色に由来するかも知れない。
 「源流の雰囲気になりましたね」とF君。こちらが言わんとしていた言葉に相槌を打つ。潅木がかぶさり、水流も完全になくなった。上に明るい窓のような稜線がのぞいた。自然につられて登ったが砂でずり下がる。右にケモノ道を見出して尾根を詰める。本谷は緑のヤブの中に埋まり、とてもヤブを潜ってまで詰める気がしないのでそのまま砂地の尾根を登る。すると意外にも鉄の案内板が埋まっているのを見つけた。もう稜線が近い。
 尾根は脆い岩に阻まれた。左に土の溝が見出された。不安定な砂地の溝を腕力も使って攀じ登った。登り切って着いた所はなんと釈迦ヶ岳と松尾尾根の頭、ハト峰への三叉路であった。登山道に着いたことを下に向って呼びかけた。涼しい風が心地よい。
 3人で釈迦を往復してまた三叉路で大休止した。下山は東尾根を下った。尾高山を経由してクルマに戻った。

焼合谷から釈迦ヶ岳へ遡行2007年07月06日

写真:大岩の廊下帯

焼合谷から釈迦ヶ岳へ遡行2007年07月06日

写真:尾高山からの釈迦ヶ岳:中央の高い所が松尾尾根の頭で右端が東尾根の頭になる。三角点のある山頂は重なって見えない。

7月の俳句2007年07月14日

 今日は雨、台風で折角の3連休がつぶれた。でも俳句を練り直すいい機会でもある。

頂に雲を集める梅雨の山

吹き上げし風もみどりの青葉山

万緑のおおふ谷間の底を攀づ

滝攀じてひたすら水に逆らひし

蛇の眼に我は巨人と映るべし

伸びきって雨を恋ふごとみみずかな

さながらに庭園のごと青棚田

ヤマヒルも必死ぞ首を振りながら

急ききって山に登ればアキアカネ

アキアカネほどの軽さで登りたし

蜘蛛の巣を避ける余地なし藪の谷

静まりてヤマホトギス遠く鳴く

そのままに葬れ鹿の子あはれなり

ひそと咲くナルコユリあり谷の中

鱧を食ふシーンは小津の「秋刀魚の味」

映画「一人息子」鑑賞2007年07月14日

 小津安二郎監督。1936(昭和11年)制作。小津33歳のときの映画である。小津にとって初めてのトーキー作品にもなった。
 春繭買い入れ云々の張り紙のショット。製糸工場で働く女工さんたちのショット。私の在所にも製糸工場があったし農家だったから別棟に養蚕室もあった。子供の頃にはもう飼うのは止めていたが隣家では飼っていたから世相は良く分かる。といっても昭和30年代であるが。
 養蚕(絹糸)は中国製品が輸入されるまでは農家の貴重な現金収入の道であった。木曽上松の左岸にある東野の二階建ての大きな家の2階は養蚕室と聞いた。まさに蚕と寝泊りしていたのである。
 木曽の大桑、各地にある桑原、桑田、桑畑など蚕の食べる桑に因んだ地名が多いのも養蚕が盛んだった証拠だろう。私も桑の実を食べた思い出がある。口の周りが赤くなったものである。
 俳句も2句記憶されている。
 
 繭干すや農鳥岳にとはの雪   石橋辰之助

繭を干すのは農家である。そんな農家の点在する村の一角から白根三山が見える。農鳥岳の雪形が現れるのは5月中旬だから「とはの雪」という以上はまだ真っ白だった頃だ。
 もう一句は辰之助の師匠だった秋桜子の

 高嶺星蚕飼の村は寝しずまり  水原秋桜子

八王子から大垂水への旅の途中で養蚕の盛んな村をとらえたものらしい。大正14年の作品である。

 この映画の時代はまだアメリカと仲がよく絹糸を盛んに輸出して外貨を稼いでいた。1ドルが1円だったから為替レートでは互角であった。アメリカではこれを落下傘に使用したらしい。贅沢なものである。
 そしてなんと戸隠山か西岳の山容のショットが出てくる。これで長野市郊外の山村という設定なのは分かる。
 映画のテーマは農家の一人息子を東京の大学に進学させて偉い人になってもらおうという母と息子の物語である。母は学費と生活費のために製糸工場の給料だけで足りるはずもなく家屋敷を売って工面する。
 卒業してもうそろそろと東京の息子に会いに行くと狭い長屋住まい。母には内緒で結婚しており、子供までいた。やっとありついた仕事は夜学の教師である。つまり期待した出世とは程遠い生活、息子は東京での生存競争の厳しさに愚痴をこぼして出世を諦めている風であった。
 今でこそ教師は一般公務員より10%も高い給料で優遇されている新富裕層であるが昭和30年代頃はデモシカ先生の言葉に象徴されるように「大学をでたけれど」就職できず、先生にでもなるか、先生にしかなれない、という世相であったらしい。先生なら結構なご身分じゃないか、と勘違いしてはいけない。
 要するに小津さんは大学に進学して学問をつけても大したことはない、という社会観、人生観を持っていた。「東京物語」でも尾道から息子達の生活ぶりを見たいと東京に出てくるが医者の息子さえあまりはやっているとはいえない町医者の設定である。長女の杉村春子扮する美容院の経営者も多忙で邪魔扱いである。折角の東京見物も仕事(この映画では事故)で流れるという設定はこの映画とおなじである。
 花の都に出ても生活するのがやっとという現実を見て故郷に帰る設定も同じである。そしてよそさんよりはまし、という台詞。祖母が子供(孫)に問いかける台詞「大きくなったら何になるんだい」も同じだ。飯田蝶子も東山千栄子も孫に語りかけたシーンが印象に残る。
 俳句ではユズリハは正月のめでたい季語になっている。小津さんの映画はユズリハのように見える。風雪に耐えた古い葉は新しい葉が出てきてから散るユズリハ。見ていて安心できるのはそのせいであろう。
 もう一点印象的なことは若き日の笠智衆(当時32歳)の演技である。ここでは息子の田舎の先生に扮していた。先生もこれからは学問が必要だ、と息子の親にも勧めたが自身も上京して行く。ところが飯田蝶子扮する息子の母が見たのはなんととんかつ屋の親父であった。息子の恩師(先生)のなれの果に心底ショックを受けたはずである。少年老い易く学なりがたし、である。
 遺作となった「秋刀魚の味」の中にも恩師を同窓会に招くシーンがある。その恩師は今ではラーメン屋という設定だ。出世した自分たちからは見下ろすような態度の同窓生たちの台詞。先生は必ずしも尊敬などされないものという設定も小津自身の山中時代の憎しみからであろうか。
 人生の「あはれ」をとらえるという小津さん。見事な映画でした。17年後の名作につながる重要な作品でもありました。

岩魚釣り2007年07月17日

 台風の影響の残るまま15昼過ぎに出発。目的地は石徹白である。普段沢登りでよく見る岩魚であるが釣とは中々兼ねられないのでこのときとばかりに行った。
 高速道路の上からは長良川の濁流が見えていたから現地でもあんな風だったらどうしょうか、思案しながら走った。まだ風も強く時折車体が振られる。現地に着いて見ると石徹白川の水は澄明であったから一安心。原生林から流れ出る水は大雨でも濁らない、急激には増水しないという知識と経験が生きた。長良川源流は殆どの山がスキー場開発された。樹林が無いだけ雨は早く川に流れて一気に増水する。下流域の人々が洪水を不安がる原因でもある。釣りに行くなら開発されていない山域に限る。
 道路沿いの一角にテントを張る。15日はそれだけで暮れたが夜には思いがけないショーが見られた。台風一過で夜空は満天の星である。月は見えないが星だけでも明るいのは星月夜という。私でも分かる北斗七星、他諸々、詳しい人の解説に感心する。天の川が出ている。
 もう一つは蛍の乱舞であった。最初は向うからヘッドランプで近づいてくる人がいると見えたがふらふらするので蛍と分かった。山の蛍は元気で結構高く飛ぶ。都市近郊では見られなくなった懐かしい夏の風物詩である。
 こちらを目指しては去っていくように飛んでいる。何か山で亡くなった仲間たちが蛍となって遊びに来たようだ。「お前達楽しそうだなあ」と云っているみたいである。
 16日はどんよりした朝であった。雨でなくて幸いであった。朝食後早速釣りの支度をして出かけた。石徹白川本流では小型ばかりで皆リリース。某支流に移動した。河川敷では家族連れがテント生活を楽しんでいた。
 川幅5mほどで水量も昨日に比べて激減した。竿を入れてみるといい当たりが3回続いて良型を3尾ゲットした。更に1尾を追加。良型は激流に餌を落としてもよさそうだ。あとは何度入れてもリリースする小型ばかりで11時半引き上げた。
 高く登った太陽が暑いので日陰に移動して炭を起こし塩焼きで賞味。口々に旨いと一言。3人なので一人1尾と年配にもう1尾をプレゼント。すっかり釣りとキャンプを楽しんで引き上げた。帰りは福井県経由で走った。さみどりに染まる荒島岳が立派である。
 油坂峠を越えて白鳥町に入り美人の湯で垢を落とす。このお湯のある一帯は最近観た映画「郡上一揆」の舞台となった所だ。露天風呂にも一揆の顛末を書いた立て札があって思い出した。このお湯の屋根も一揆の際の傘連判状をかたどったというから経営者はよほどの思い入れがあるのだろう。お湯をでてからすぐの交差点の左に一揆の犠牲者を祀る神社があった。しばし歴史の思いにふけった。