人の日や読み継ぐグリム物語2010年01月07日

 作者は前田普羅。普羅句集下巻の富山移住後の句作。大正13年以降と見られる。以下のWIKIの説明にもあるようにグリム物語が日本で初めて完全に翻訳されたのは大正13年であったから新刊間もない本を購入したと思われる。248編もあるのだから間を置いて娘さんに読み聞かせたのであろうか。当時は柳田國男「遠野物語」の外国版として読まれた可能性はある。
 人日=WIKIによると「人日(じんじつ)とは、五節句の一つ。1月7日。七種粥を食べることから七草の節句ともいう。古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていた。そして、7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていた。また、この日には7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが日本に伝わって七種粥となった。日本では平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着した。江戸幕府の公式行事となり、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝った。また、この日は新年になって初めて爪を切る日ともされ、七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかないと言われている。」
 ではグリム物語は「グリム童話が出版された時代、ドイツではシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)と呼ばれる文学運動が発生し、ドイツ固有の文学の見直しが叫ばれ、民謡や童話に注目が集まっていた。その結果、様々な民謡集や童話集が発行されたが、その大半は編者による改作を受けており、原話とはほど遠いものとなっていた。そのため、グリム兄弟は資料性を求めて独自に童話の原話の収集を始める。1803年に兄弟はマールブルク大学でロマン派のブレンターノとアヒムに出会った。
 1810年頃、ブレンターノから童話集出版の話を持ちかけられた兄弟は草稿を貸し出すが、ブレンターノはこれを紛失し、童話集の話も流れてしまった。(20世紀に入って、この草稿はエーレンベルク修道院で発見されたため、『エーレンベルク稿』(Ölenberger Handschrift)と呼ばれる。)後に兄弟が自分たちの手で草稿の写しを元に1812年(第2巻は1815年)に発行した童話集が『グリム童話』の愛称で知られる『子どもと家庭の童話』である。初版発行時に文章の拙さ(兄弟が田舎の無学な女性から聞き取ったためとされた)や性的表現に対してクレームがついたため、数度にわたり改訂が行われた。日本でグリム童話が初めて紹介されたのは1924年(大正十三年)のことで、翻訳家、金田鬼一の手により完訳(断片、方言物を含む)。今では計248篇ものグリム童話を手軽に読むことができるようになった。また、初版の訳本も出版されている。」
 (明治期にも翻訳はあったらしいが日本人向けに翻案されてしまったそうだ。あの「金色夜叉」もアメリカの通俗小説の翻案といわれる。小津映画の最高傑作の「東京物語」もアメリカの生命保険会社のPR映画にヒントを得ているというから著作権の無かった頃は案外多く紛れ込んでいるかも。「遠野物語」もヒントくらいは得ているかも知れない)

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