デコイ(鳥の模型)2010年02月01日

 いつものように天白川の人道橋を渡る。ふと川面に目をやると岸辺に白い鳥が立っている。じっとして動かない。餌を捕食しておるわけでもなさそうだ。まるでデコイのように動きが止まっている。
   ふと見ればデコイのごとき冬の鳥    拙作
 今日で2月入り。新聞は相変わらず暗い記事が満載。米国トヨタ車のリコール問題がどうやら解決に向かうようだ。当局と欠陥部分の改良で合意があったようだ。生産を再開しないと影響が大きい。こんな初歩的なミスを何で犯すのだろう。世界一になって同時に夜郎自大になってしまったのだろうか。
 日本でも4年前にハイラックスサーフの部品の強度不足で熊本県警から告訴された事件があった。8年間もリコールを遅らせていた。生産を急拡大し、コストダウンで品質を落とすどころか信用まで落としてしまった。現在の豊田章男社長が当時「自動車会社として恥ずかしい」と言わしめた事件だった。
 ものづくりを標榜するなら人を使うことがうまい事務系より品質重視の生産、技術系の役員を抜擢することも必要だ。世界一になる価値はゼロ。
 外出から戻ると郵便受けに長野県、富山県からの楽しい郵便物が届いた。春が待ち遠しい。
   春待つやずしりと重き郵便物    拙作

冬山路俄かに温き所あり2010年02月02日

『虚子五句集』(上)から。昭和19年。
 11月半ばの小諸辺りの里山を歩いての嘱目だろう。俄か、というからにはそこまでは霜柱の下りた道をざくざくと歩いていたのである。或いは木立の中の日光の差さない道である。倒木とか伐採跡などで南面ならば日溜まりに出合う事がある。そこは風通しも良くなくてちょっと腰を下ろしてみたくなる。
 「おい、ちょいと休んでいこうか」
 「ああ!熱いコーヒーでも飲もうか」
 「それもいいな」
などと会話を交わしながら低山を歩くのだ。

映画「仁義無き戦い」鑑賞2010年02月03日

1973年東映製作。深作欣二監督。
いわゆるやくざ映画であるが迫真の演技が観るものを飽きさせない傑作であった。まずはWIKIで概略を知る。
 「『仁義なき戦い』(じんぎなきたたかい)は、戦後の広島で実際に起こったヤクザの抗争を題材として、飯干晃一が著したモデル小説。また、この小説をもとに東映で作られた映画。映画は好評を博し、シリーズ化された。また、東映実録路線の先駆けとなった作品でもあり、代表作でもある。
 「キネマ旬報」は2009年に実施した<日本映画史上ベストテン>「オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」に於いて、本作を歴代第5位に選出した。」
 「飯干晃一の小説より先となる獄中手記を美能幸三が執筆した原動力は、1965年、中国新聞報道部記者である今中瓦が『文藝春秋』四月号に執筆した「暴力と戦った中国新聞 ― 菊池寛賞に輝く新聞記者魂 "勝利の記録" 」という記事への反論からであった。
 この記事の中に"美能が他の組幹部の意向を無視して山口組と勝手に盃を交わした"、"破門された美能が山口組と打越会に助けを求めた"という記述があった。特に美能は "打越会に助けを求めた"という部分にプライドを傷つけられた。助けを求めたなどと書かれては、ヤクザとして生きていく以上、黙ってはいられない。ウソを書かれて悔しいと翌日から舎房の机にかじり付いた美能は、こみ上げてくる怒りを抑えながら、マスコミに対する怨念を込め、7年間にわたり総計700枚の手記を書き上げた。手記は汚名返上の執念が書かせたものであった。このため廻りまわって週刊サンケイ(現・SPA!)から連載が決定した時、"登場人物を全て実名で掲載すること" を連載の条件に付けた。実名を出せばトラブルになることは分かっていたが、あくまで名誉回復のためなので「実名でなければ断る」と頑なであったという。」と書いてあるから凄い背景に裏づけされたことが分かる。作り話ではなく実録なのである。
 見終わるとぐったりするくらいの大作であった。血を流す場面は見たくないがすっきりした。法治国家では暴力は悪である。戦後のどさくさの中で弱体の警察力ではやくざも一つの治安力であった。
 名台詞が脳裏に刻まれる。「狙われる者より、狙う者のほうが強いんじゃ。そげなこと考えると隙ができるど」というのは一般的には「追うものは追われるものより強い」ともいう。そして映画でも弱音を吐いた親分が射殺される。
 自動車の生産世界一を争っていたトヨタもGMを抜くまでは強かった。ところが世界一になった途端にリコール問題で躓いた。あの台詞の通り心に隙が生まれたのだ。看板車種のプリウスにまで及び始めた。GMはトヨタ車から買い換えを促す販売作戦を展開しているというから正に「仁義無き戦い」ではないか。
 やくざ同士の抗争を描くだけでなく、台詞に渡世の真実が語られていることが大ヒットした要因であろう。観たくない映画であったが観て後悔はない。

越中の春2010年02月04日

春立つや始発のバスで遠き旅

ひるがのは春の深雪に光るなり

春雪に半ば埋まる文学碑

ギャラリーに華活けてあり春立てり

春雪を突いて疾駆す高速バス

雪国の城や春立つ越の国

ゆく春の書に対すれば古人あり2010年02月05日

虚子五句集(上)昭和15年から。
 1/30から2/7まで富山市の北日本新聞社ギャラリーで俳句雑誌「辛夷」が1000号を達成した記念に初代から現在に至る主宰の俳句作品展を催している。
 それぞれが個性的な俳句を展示しているが短冊や色紙に書いてある。初代の前田普羅は書においても凝った文字を書いている。つまりこれは「書」の世界でもある。
 1000号の雑誌でもグラビアで掲載してある。眺めて鑑賞してみよう。初代の前田普羅は直線的で長く尾を引くような書である。山岳俳人として有名なだけに山に係る枕言葉「足引きの」ような書のデザインである。
 2代目の中島杏子(きょうし=本名は正文)は戦前の日本山岳会の会員であり、黒部奥山廻りの研究家として名を馳せた。『日本百名山』にも名前が登場する人だ。普羅を物心両面で支えた。一字一字が小さくまとまる書は緻密で几帳面な性格を思う。
 3代目は福永鳴風で細くて繊細な書の世界を形成する。本職は逓信省の地方公務員であった。辛夷きっての理論家といわれ、若手の指導に熱心であった。自らレッスンプロを名乗った。書に見る繊細さは気配りのよい性格をも思う。読書の好きな勉強家だと聞いた。平成19年6月に死去。中坪達哉にバトンタッチ。
 4代目の中坪達哉主宰はまだ50歳代後半のこの世界では若手の部類であろう。丸みのある柔らかなタッチの書である。人当たりがよく組織をまとめ上げる人望がある。主宰継承にありがちな分裂、大量脱会などの波乱はなく無事1000号達成に漕ぎ着けた。
 表題のゆく春は晩春の季語である。虚子はどこかの書の展覧会を見学したのだろう。今は昔の作家に思いを馳せたのだ。春を惜しむ心を昔の人を偲ぶ心にかけているのだろう。ギャラリーでも初代から3代目までは故人となった。俳句だけでなく書の面でも故人を偲ぶよすがとするのだ。
   花辛夷守らせたまえ普羅杏子   鳴風
 その願いはかなった。開花する4月半ば頃記念大会が行われる。

繭相場度拍子もなく上がるとか2010年02月06日

虚子五句集から。昭和19年作。
 虚子はWIKIによると「昭和19年(1944年)9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、昭和22年(1947年)10月までの足掛け4年間を小諸で暮した。」のでおそらく蚕都と呼ばれた上田市辺りの相場情報をを耳にしたのだろうか。
この句に続いて
 この村に一歩を入れぬ繭景気
 よき蚕ゆへ正しき繭を作りたる
なんていう俳句を発表している。
 繭相場は大正時代は上昇し続け、昭和4年の恐慌で暴落した。そして戦時下でも繭相場は上がったようだ。
 あるサイトでは「日本の最重要な輸出・輸入の国家品目の中で、米・小麦など食品以外で保護されてきたのは絹と生糸以外にはなかった。それは伝統ある民族衣装用とか、外貨獲得の輸出製品用のほか、軽目羽二重は砲弾の火薬を入れる袋やパラシュートにも使用され、非常時には貴重なタンパク源になる重要な軍事物資でもあったからです。第二次世界大戦前、日本から絹織物の輸入が止まり、困ったアメリカ政府が、デュポン社に国の総力を上げて絹に代わるナイロンを造らせたのは有名な話である。当時は細い糸が出来ず、ナイロン製のパラシュートは重く、取り扱いが大変だったと思われる。」とあるから興味深い。戦略物資だったんですね。
 昭和20年には敗色が濃くなり8月15日ついに終戦となる。繭相場も暴落したであろう。
 山岳俳人の前田普羅なども蚕の俳句を沢山残している。訪ね歩いた山村のあちこちで目にしたであろう。
  雷鳴って御蚕の眠りは始まれり   普羅
  高嶺星蚕飼の村は寝静まり     秋桜子
  繭干すや農鳥岳にとはの雪     辰之助

奥美濃・滝波山撤退2010年02月07日

 2/6夜、いつもの場所から深夜発となる。行く先は滝波山である。随分昔に薮を漕いで登った山をスキーで登る試みである。
 美濃ICを出て市街地を通過するがちらちら降雪する。長良川にかかる橋を渡り、板取川へと進むにつれて降雪も激しい。遠目のヘッドランプでは向かってくる雪とスピード感が相殺されて止まったような錯覚をする。非常に危険な走行環境であった。ようやくの想いで板取川温泉のPに着いて車中泊。幸いトイレ周辺はロードヒーティングされて雪が積もっていないので助かる。
 2/7未明ながら中々起きられず。6時待ち合わせのF君が声をかけてきた。友人がスタックしたとの知らせに救援に行く。アイスバーンでスリップし、雪の塊に突っ込んだらしい。何とか脱出する。当方もチエーンを着装した。
 板取最奥の体育館前にP。ようやくわかん、スノーシュー、山スキーなどそれぞれの登山スタイルで出発だ。今回はF君の友人3人が加わり全部で6名となった。こんなマイナーな山に大勢が参加するとそれだけで楽しい気分がする。天気もいい。
 車道からシールを貼って歩く。最奥の林道は雪捨て場になっていた。その先は1m以上の積雪でラッセルが大変だった。そのうち彼らが追いついてきてラッセルは交代してもらった。先頭だけが大変なアルバイトを負担するが後続は楽勝である。
 粘り強くラッセルするが高度はほとんど上がらない。彼らとは1004mの独立標高点に突き上げる尾根で別れた。我々も上を目指したが急登なのでスキー組は林道を行く。しかし、万事休す。雪が多いだけでなく重いのである。日本海の水蒸気を一杯含んだ春の雪は重いのである。対岸の山がよく見えるところで13時撤退を決めた。
 下り始めるとさすがに早い。ラッセル跡の溝状の道と付かず離れずで滑る。30分ほどでラッセルが始まった辺りまで滑走した。そこから先は除雪されてスキーは使えず。体育館まで徒歩。その後は久々に温泉で汗を流す。空は快晴になった。こんな日こそ登りたかった、と思っても力不足というよりドカ雪に悩まされた、と言い訳にして村をあとにした。
 東海北陸道の各務原辺りから見た伊吹山は美しい姿であった。その隣には次に予定する虎子山、ブンゲン、貝月山の伊吹山地が連なる。少しでも雪が締まって欲しいな、と願った。養老山地の上に西日が今にも落ちんとする。鈴鹿山脈が美しいシルエットで並んだ。昨年発刊した『東海・北陸の200秀山の』表紙のような洗練された山なみである。W君の自宅に近づくと鎌ヶ岳が立ち上がるような姿に変わる。山はいいなあ、と帰路についた。

美しく残れる雪を踏むまじく2010年02月08日

虚子五句集。昭和19年から。
添え書きに2月20日相模原吟行とある。虚子には「鎌倉を驚かしたる余寒あり」という句もある。関東南部でも結構寒いのであろう。
 動詞/踏む+助動詞/まじ+打ち消し推量を表す未然形/くで構成した虚子らしい技巧的な俳句ですな。滅多に降雪のない相模原に吟行に行ったら残雪がとても美しかった。こんな美しい雪を踏んで汚すことが出来るだろうか。いいえ、とても出来ませんよ。
 昨日登った美濃は板取川の源流の一つの滝波山でしたが朝方は春の雪に覆われた山が青空に映えて綺麗だった。そして泥で汚れのない雪道も家並みも美しかった。立春以降はもう暦の上では残雪期に入る。穢れの無い白い雪を称えるのは太平洋側の俳人には格好の句材であった。

雪深く心はづみて唯歩く2010年02月09日

虚子五句集。昭和20年から。小諸の前書き。
またも2/7の続き。奥美濃の厳冬期にも山へ行ったが大抵はスキー場の背後の山であった。だからスキー場までは除雪が進み走りやすい。今回のように最奥の村から歩くのは珍しい経験であった。
 必ずしも心が弾んでいたわけではなかったが大勢で歩くのは楽しいものであった。小高い地点で諦めがつくところまで登れればいい。そう思いながら歩いたのだった。掲載句のように雪深い林道を唯歩いただけであった。
 虚子も小諸の山の一角を歩いただろうか。噴煙を吐く浅間山を見つつ、黒斑(くろふ)山辺りまで。明るい高原の景色が浮かぶ。

秋山やヒカゲノカヅラ露しとど2010年02月10日

新訂普羅句集。昭和6年11月。
 前田普羅は15歳頃、『日本風景論』を読んで登山に目覚めた。その後植物研究会にも入会して山野を巡る。大正元年に初めてホトトギスに投句する。大正9年頃まで断続的に投句して虚子から指導を受けた。大正13年に報知新聞社富山支局長として富山に転居。昭和4年に退職し、俳句結社「辛夷」の初代主宰として経営に当たる。
 この句は専門俳人として2年後、生活も落ち着き、富山市周辺の里山での嘱目であろうか。ヒカゲノカヅラというような地味な植物に注目して俳句に織り込むのは深い知識があったことが伺える。一茶にも「ハンノキのそれでも花のつもりかな」という俳句がある。目立たないものに優しい視線を注いだ一茶らしい俳句である。植物観察は孤独を癒すというが俳句に詠めば尚癒されることだろう。