「三河物語」の世界2006年12月16日

 大久保彦左衛門が著したという「三河物語」を読み返す。といっても昔の読み下し文であるから中々すらすらとは読めない。
 松平親氏に始まる徳川家の歴史を物語るのである。読み返したのは最近宮城谷昌光という中国の歴史小説を手がけていた作家の「風は山河より」が目に留まった。ポイントは関ヶ原の戦い以前70年の戦国時代なのであるが主人公は菅沼氏三代を描くという。その副読本的な「古城の風景」を買って読むと奥三河の山城のことがどんどん登場してきた。
 特に田峰城址は今年のGW「愛知県の山」の取材で田口の奥三河綜合センターに泊まって雨模様をやり過ごすために出向いたところであった。ガイドさんの説明はほとんど忘れたけれどまた一度行ってみたい。ここは段嶺菅沼家の居城であった。「三河物語」も六所山の取材過程で親氏のことを知るためであった。道理で天下峰とか天下茶屋の名前が付けられているわけだ。
 菅沼家が松平清康の家来に転向したことは「三河物語」にもちゃんと書かれている。そこでは降参して来た、とある。山家三方配下の作手、長篠、段嶺、野田、設楽、などである。大久保さんの目にはかつての敵が家来にしてくれと云って来たわけである。
 「風の山河より」のコピーは「戦国前夜の奥三河。野田城主・菅沼新八郎定則は、瞬く間に西三河を統一した松平清康の驍名を聞き、卓越した判断力で帰属する今川家を離れる決意をする。鬼神の如き戦術の妙、仏のような情義の心。家康が目指したのは、祖父の清康だった―。中国歴史小説の巨匠が初めて挑む戦国日本、躍動の第一巻。 」であるから「たぶんこの作家は「三河物語」を縦糸にして菅沼三代を横糸にして小説を組み立てるのではないか。今川家を離れる、とは清康につくということだ。
 惜しくも清康は25歳を前にして家来の謀反にあう。これが森山(守山)崩れという。菅沼三代が松平側になってからは強固な勢力に固まる。家康までの松平家は「三河物語」が説明するが重要な家来となった菅沼家のことは小説を読まないと分からない。そこが小説家宮城谷さんの面目躍如である。
 司馬遼太郎の「覇王の家」では家康を主人公にするがはなはだ家康がお嫌いなようである。模倣の精神が嫌いな理由である。徳川260年を支えたのは大久保さんのような旗本と優秀な側用人であったという。政治は英雄だけでは続かない。
 トヨタが模倣したという徳川流の経営(行政と同意)は強力な協力会社群である。米国のGMが一社で鉄鋼から電装品、タイヤまで製造するのに比べると対照的である。世襲と番頭経営のバランスをとりながら世界一を目指すトヨタ。世襲と忠実な三河武士に支えられて日本一になった徳川家康と何故かだぶる気がする。

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