謹賀新年2007年01月01日


          謹賀新年

   本年もどうぞよろしくお願いします。
        
                 2007年元旦

元旦2007年01月01日

 天気は初日の出は拝めない予報から好天に外れた。ラジオからあちこちで初日の出を拝む善男善女の歓声があがる。夢うつつの中で聞くだけである。寝正月はいいものである。
 ゆっくり起きた。昨年来の慢性疲労が少し回復してきたのか雑用が片付き始めた。毎年ながらずしりと重い新聞を読む。
 年賀状を受け取りに行くと結構来ている。相変わらずの交流であるが年賀でしか交わせない人もいる。意外な人からも来ている。そんな人から返信を書く。
 午後から郵便局へ投函に行くと神社が人だかりである。手を清めて境内に入るとずらっと行列が続いていたので参拝は止めた。やはり局に向った。小用を思い出してまた引き返す。
 ラジオからは富士山で遭難死があったことを告げている。寡雪だと滑落事故が多くなる。大雪であれば雪崩が多い。今年は滑落が多いだろうと予想していたらやっぱりあった。富士山の上部はブルーアイスと呼ぶ堅氷である。しかも尾根より沢の方が堅いといわれる。風を避けるために沢にルートをとるとやられるそうだ。関係者は正月早々大変だろう。
 元旦から結構車の通行量が多いようである。昔はしんとして静かなものだったが・・・。スーパーに入ろうとすると入り口から渋滞して道路にはみ出している。元旦営業に皆さん便利さを覚えてどっと客が入っていた。
 今年も無難な年で有りますように祈りたい。

初詣は荒子観音へ2007年01月02日

 初詣は今まで行ったことがなかった中川区の荒子観音にした。
 ネットの検索で知ったが荒子観音は越前の僧泰澄が創建したそうだ。それなら山やの自分として行かないではいられない。
 僧泰澄は682年に福井県福井市に生まれた。717年36歳で白山に登拝した。このとき十一面観音菩薩を祀ったという。白山信仰の始まりであった。以来2府17県に寺や神社を開いたそうだ。767年に86歳で死んだという。
 荒子観音は729年に泰澄が開基(他のHPでは草創といい天平13年(741年)自性上人が開山した。という記述もある)した。47歳であった。白山を開山以来名声が高まり11年後に創建されたことになる。正式には浄海山圓龍(円竜)院観音寺といわれる。天台宗の古刹とか荒子の観音さんといて親しまれている。ここは十一面観音菩薩ではなく聖観音菩薩を泰澄が彫ったそうである。
聖観音菩薩については
http://www.butsuzou.com/jiten/index.htmlが体系的で詳細だ。
十一面観音菩薩も掲載されている。
http://www1.cts.ne.jp/~butuzou/kannon.htmlは聖観音について詳しいので以下に転載する。
 「観音さまは仏になろうとして修行中ですが、現世に降りてきて、あらゆる災難に際して人間を守護しようとされている菩薩です。
 困難に面した人が、一心に観音さまにお願いすれば、その声に感じて願い事を聞き届ける、すなわち声(音)を観じるところからその名が付けられたそうです。
 観音様は、髪の毛を結い上げて、胸飾りをつけ、体つきを女性的に作りますが、本当は男女の性を越えた性と言う事です。
 観音様の頭上の前面には、阿弥陀如来の化仏を頂き、右手は「与願」印(願い事を聞き届けると言う印相)で、左手に持った花は、蓮の蕾が一輪だけ開き、悟りの開き始めを示しています。
 首に掛け、両腕に掛けた天衣は、縫っていない布で、ここから俗に「天衣無縫」の言葉が生まれたようです。
 「聖」の字は「しょう」と読み、「正」の字を当てる事もあります。観音菩薩は、現世利益の仏様で、十一面観音菩薩、千手観音菩薩と、一層の力を付けた「変化観音」と発展しましたので、「聖」の字を当て、「元の、本当の」などの意味で付けられたようです。」

 泰澄は今の平泉寺辺りから白山に登山したらしい。この実績を引っさげて白山信仰を広めた。病や水害、天災、不作など悩みはつきなかった当時の民衆の悩みに応えたのである。おそらくあちこちから引っ張りだこになったであろう。
 なぜ今の中川区なのかは謎である。今の荒子川を灌漑して新田を開拓したらしい。中小河川なので灌漑しやすかったとは思う。何よりも平地であるがゆえに白山がよく見えたであろう。
 心配した渋滞はなかった。それどころか参拝客のピークは元日だけであったみたいだ。2月3日の豆まきは相当な人出があるようだ。前田利家ゆかりの天満宮にも寄った。細い路地が印象に残る。
  
  旧年の日の匂いする布団かな

  積読の本そのままや去年今年

  雪深き旅先からの初メール

  介護ゆえ別れた人の賀状来る

 肺ガンと闘う、メニエル病とつきあうという一行を添えて
  病なほ治らぬままと賀状来る

  喫茶店に寄りたくなりしお元日

  穏やかな風もなき日の初観音

  二日はや人もまばらな露店かな
  
  氏神は二日とならば静かなり

尾張四観音巡り2007年01月03日

 今日はもう3日である。
 昨夜は久々に遅くまでTVの忠臣蔵を観た。遙泉院という浅野家の未亡人から見た忠臣蔵である。稲森いずみという女優さんの美貌は評判どおりであった。子供のころ時代劇で女優の着物姿を見たがみな綺麗な印象であった。最近はとんと見ない。口が小さ目で日本髪が良く似合うし当然着物姿もいい。久しく見なかった日本的美人女優を楽しませてもらった。
 仕えていた腰元はどこかでみた気がした。後で知ったが梶芽衣子であった。悪役、汚れ役のイメージがあるが脇役としてきらりと光る。それにしても彼女は169cmと長身のせいか歩き方がとても早い。早口なのも気になった。柳沢吉保を演じた高橋英樹は立派過ぎた。徳川家の番頭さんだからもっと適役がいるはずだ。亡くなった田村高広にやらせてみたい気がした。
 
 朝ゆっくりと起きて午後から尾張四観音巡りの続きで甚目寺に向う。甚目寺は友人宅があるところで年間を通じてよく行く。今までは地名として意識はしたが地名の起こりとなった寺に行ったことはなかった。
 国一から南周りで行く。新瑞橋から熱田さんに向うと昨年世間を騒がせたパロマの本社が目に付いた。隣はなんとトヨトミだった。熱田さん周辺はさすがにまだ交通規制中だ。歩く人が多い。ここも既に午後ゆえか渋滞になることもなく行けた。
 着いて見るとPにもスムーズに入れた。石の道標が歴史を語っている。山門が古めかしい。本堂は比較的新しいようだ。昨日の荒子観音よりも参拝客は多い。そのはずだ。今年はここが恵方になっている。名古屋城を中心に決まるそうだ。今更恵方でもないが・・・。でも何かいいことがあるだろう。
 参拝の後で帰りに麩餅(饅頭)をワンパック買った。昼食代わりに食べながら次の竜泉寺に向う。R302から庄内川を渡ってすぐに左折すると導かれるように行けた。ここは馬頭観世音を祀る。なぜここが四観音の一つなのか。他の観音と比べるとこじんまりとした境内である。ともに古い歴史があることだろうか。明日は笠寺観音へ行こう。

   田園の彼方に恵方詣かな

   恵方ゆえ伊吹颪のまだ吹かず

   甚目寺の塔が見へたり淑気満つ

   三日はや二つしかなき露店かな

   三ヶ日静かに過ぎてしまふなり

尾張四観音巡り 最終日2007年01月04日

 今日は休みも最後である。幸い天気は悪くない。
 午後1時半から笠寺観音に詣でた。車ではどうせ混雑するだろう。この1週間の運動不足を解消するためにも自宅から徒歩で行くことにした。勤務先まで3.8kmなのでその倍はある。1時間半もあればいけると踏んだ。通勤道路では面白くないので相生山経由の山越えルートを絡めた。
 相生山にかかるとオアシスの森とか整備されているらしい。先を急ぐ旅ではないので立寄った。雑木林がとても気持ちいい。遊歩道を出来るだけ利用した。最後には道路建設現場に遭遇した。相生山団地から菅田橋まで新道が建設中である。
 一部が台無しである。そこから鳴子団地まで一旦下ってまた登り返すと古鳴海である。藤川に出るとやがて天白川と落ち合う。堤防の道を天白橋まで歩くと旧東海道筋である。昔は入り江がこんな奥まできていたんだろう。右折すると名古屋市内を通る東海道で唯一残るという一里塚に遭遇した。
 一里塚から600mで笠寺観音であった。三時半前に着いた。これで尾張四観音巡り満願となった。ここもコンパクトな境内である。竜泉寺よりは大きく、甚目寺より小さい。荒子観音と同規模か。しかし都心に近いだけあって参拝客は他の3観音より多い。昔は東海道筋にあっただけに芭蕉も訪ねているらしい。句碑も建立されている。
  星崎の闇を見よやと啼く千鳥   芭蕉翁
これは死後であろうか。近くの緑区鳴海町の千鳥塚には芭蕉が生前許した唯一の句碑がある。千句塚公園として知られる。  
 背中に薄っすら汗をかいた程度で程ほどの運動になった。気がつかないうちに膝痛も消えた。ご利益があったのか。境内をでて本笠寺駅から金山駅まで名鉄で移動。名鉄の鉄路はJRと比較してもピカピカである。多数の乗客の重みでレールも磨耗が激しいのである。
 金山駅は外部から見て変ったと知っていた。駅から地下鉄へ抜けるのに間違えるほど変ってしまった。垢抜けしない構造である。地下鉄で上前津まで行く。
 大須観音に詣でて締めくくった。ここでは行列が出来ていた。参拝客の多さは圧倒的である。尾張33観音の1番札所である。しかしなぜ尾張四観音に入らなかったか。それは羽島市大須に創建された年が1324年、1612年に名古屋へ地名共々移設されたから歴史的には随分新しいことが原因のようである。日本3大観音の一つである。浅草観音、津観音と並ぶらしい。徳川家康の篤い信仰心から大切に保護された寺院であった。
 羽島市大須は元は根尾村の大須とも縁があるらしいが上大須、下大須でも侘しい山村であるから何の根拠があるのだろうか。
 地下鉄でようやく帰路についた。下車するとザック姿の男がいた。どこかで見た人だ。「Kさんですか」と声をかけるとすぐに振り向かれた。懐かしい。久々の出会いである。初登山で鳩吹山に登ったらしい。住まいはすぐ隣であるが。また一献傾けることを約して別れた。

    相生山から見る浮雲
   冬の雲養老山の上に浮く

   枯木山行き交ふは老いばかりなり

   一里塚枯れきってゐる榎かな
   
   冬の暮みな背を丸め歩くなり

   四日でも賑わふ大須観音は

   うなぎ屋の席もまばらな四日かな

   古稀越えてなほザック負ひ初登山

   夕刊の配達されし四日かな

戸隠スキー行2007年01月08日

 JACの恒例のスキー懇親会に参加。天気の晴れ間を見て飯綱山へ山スキー、と考えて行ったが結果は1週間遅れの寒波に当ってしまい散々な結果であった。台風並みの低気圧に3日間翻弄された。
 1/6は中津川まで高速を利用した。飯田以北はチエーン規制であったからどうやら渋滞か、と見たがR19も木曽福島で動かなくなった。ようやく御岳山へ行く橋を渡って木曽川右岸を走り渋滞をパス。しかし塩尻、松本で高速を下りた車の渋滞にはまった。豊科からは順調に走れたが現地に着いたのは午後5時過ぎであった。8時間かかった。午後券で少しは足慣らしと思ったが甘かった。
 1/7は終日ゲレンデで遊んだ、と書きたいが昼食をとった午後から猛風雪となりリフトもストップした。諦めて宿に帰った。1/5はゲレンデにブッシュが出始めて最悪のコンディションと聞いていたからこの雪でいい状態になった。
 1/8は午前中何とか昨日の午後の分を取り戻せた。だが今シーズン最初とあってワックスの塗布を忘れ滑らないスキーにほとほと足が疲れてしまった。昨年のシールの糊が若干付着したままのようだ。余り使わないゴーグルも忘れた。しかし上手くはないが転倒はせずに済んだ。カービングスキーのお陰であろうか。
 寒いことこの上ない気がしたが雪質はすこぶるよかった。北海道から来ていた会員も道内に劣らないという。いわゆる粉雪である。あまりシュプールのないところを選んで浮遊感も味わった。まずは楽しめたといえる。久々の交流もよかった。
 午後2時宿を出発。帰りは東京へ帰る友人を長野駅まで送った。飲食後、午後4時半、再びR19を走った。長野道、中央道も順調な状況であったが渋滞のピークが過ぎていることもありそのままR19を行く。木曽薮原ではマイナス4度と冷えていた。中津川から高速に入り自宅へは午後10時着。合計で8時間であるが休憩を除くと7時間位か。
 年に一度はロングドライブ、スノウドライブをやりたい。とりあえずは実行できた3日間である。

暖炉のある宿 戸隠小舎に泊る2007年01月09日

 昨日まで宿泊した宿はJAC会員である佐々木徳雄氏が50年も昔に建てた家であった。戸隠小舎(とがくしごや)と呼ぶ。外観は欧風の瀟洒なデザインである。
http://www.tgk.janis.or.jp/~togakoya/index.html
 今年が戸隠に開業して50周年という記念すべき年である。50年前には他に小屋などもなかったらしい。ただただ戸隠の山と自然に魅入られて開拓されてきたのであろうか。
 経営者の佐々木徳雄氏は登山家でありダウラギリに登山された経歴がある。宿の中に設えた暖炉を中央にして床にはネパールで織られた大きな絨毯が敷かれていた。絨毯に織り込まれた文字もダウラギリであり記念に特注されたのであろう。壁にはダウラギリ遠征ののときの寄せ書きが飾られていた。残念なことは病気で体が不自由になってしまわれたことだ。しかし息子さんの常念さんが立派に後継者として活躍されている。
 夕食はフランス料理もだされて豪華な感じがした。日本の山の中の田舎に来たという気がしないのである。それは最近流行語になったもてなしのこころであろうか。日本風の宿もいいが欧風化された宿も非日常を味わわせてくれる。
 
  寒波来て木曽路はなべて渋滞す

  朝早くより雪下し木曽の家

   雪の中の戸隠小舎に到着
  冬館雪に埋れしごとく建つ

  暖炉こそ夢にまで見し雪の宿

   常連のK氏を想ひ
  今は亡きスキーの友に黙祷す

  何で割る氷柱を折りてウィスキーに

  林間をぬひ宿へスキーで帰りけり

  地吹雪にスキーリフトも止まるなり

  コース外こそ楽しけれスノボ達

  二日居ればほのかに雪に焼けにけり

  達者なり古稀も八十路もスキーする

日脚伸ぶ2007年01月14日

 久々に風邪を引いてしまった。昨年までは医者にかかることもなかった。この所の暖冬で体が弛緩してしまったか。正月は暖冬続き、成人の日の三連休が厳冬でおまけにスキー場で急激に寒気にさらした。着実に老いに向っている体には負担だったかも知れない。そんな反省も込めて2連休はひたすら静養に努める。
 今朝は疲労が取れたせいか早起きした。7時前であるが三河の空が赤く焼けている。今日の夜明けは7時1分、日没は17時2分である。(国立天文台HPによる)夜明けは一年で一番遅い。日没は12月初旬の16時40分で最も早く沈む。日没に関しては10月下旬と同じである。
 1/12の5時半過ぎ。勤務終了後に施錠しようと玄関に行くと西の空が明るかった。季節は着実に春に向っているのだ。日脚は日没が遅くなることつまり日脚が伸びることで実感できる。なんだかほっとする。
 しかしまだ1/20の大寒がある。寒さのピークが終ると寒明けであり、立春である。寒さに慣れない体には不安もある。1回か2回は名古屋にも降雪を期待したい。そういえば新潟市の友人は1/5時点で市内には雪はないそうだ。その後の寒波で降ったとは思うが。
  
   社員らの明るい声や日脚伸ぶ

   寒暁に染む山なみの遙かなり

   咳き込めば祖母の苦しむ身を想ふ

   風邪薬受けて安堵の心地する

相生山緑地オアシスの森を歩く2007年01月14日

 風邪で寝てばかりもおれない。午後から小寒いが散歩に出かけた。
 快晴であるが風がある。自宅を出て目的地は1/4に立寄った相生山緑地である。菅田まで約30分歩くが少しも温まらない。双子池では3名が釣りをしている。鮒でも釣れるのか知らん。
 ところで双子池なのに池は一つしかない。相生の原義は双子なのである。たぶん山が二つに見えるの意味であろう。相生山(たぶん双子山と言ったか)の麓の池の意味であろう。
 池の淵を右へ下って普段は通過した事もない裏道を歩く。どこの家も昔からここに住み着いた感があって風格がある。特にキンカンを植えてあったり、南天もよく見た。私の実家でも南天はあった。懐かしい。寒椿、冬薔薇も見た。
     冬薔薇咲く家何かおくゆかし

     裏道の奥に家あり寒椿
   
 ここらは昔からの典型的な農家なのである。菅田は「すげた」と読むがスガは砂地の意味である。ここらの畑では人参栽培が多い。たまねぎも多い。でなければ梅を植えて放置してある。
 相生山に上がって行く細道を見つけた。かろうじて車一台分の幅はある。最奥の家を過ぎると地道になる。すぐに道標が見つかった。1/4に行きかけた遊歩道はここが出発地で菅田口といった。このまま行けば山根口まで登る。緩い谷筋になっている。今日は反対側の見晴らしの丘を目掛けて登った。
 この道も大変好ましい雰囲気がある。やや薄暗い竹林の谷から登ると尾根に出て照葉樹林の道になった。これだとかつての植生のままで未利用であった可能性がある。1/4はこもれびの道をちょっと歩いたがすべて雑木林であった。ここは薪炭林として繰り帰し伐採され今は利用されないまま放置されている。やがては照葉樹林に遷移して行く森である。ただ最近憂慮されいるのは「カシノナガキクイ虫」の害である。ここは大丈夫だろうか。
 http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/z/07/
 http://fserc.kais.kyoto-u.ac.jp/asiu/kasinaga/
 低木林を登りきると櫓が建っていた。今時嬉しいものだ。登って見ると遙かに恵那山、御岳山、猿投山が見えた。鈴鹿方面は見えなかった。なるほどこの眺めを以って見晴らしの丘と名付けたか。

     御岳も恵那山も見え冬日和

 ここが最高点らしいので三角点を探した。かつて勤務先の上司が昼休みに歩いていたので試みに三角点へ案内したことがあった。その時分はまだ遊歩道はなかった。がさごそやりながら探したものだ。2.5万地形図(名古屋南部)がないと難しいので諦めた。

     寒禽のオアシスなれや里の山

 二人連れと行き違いに菅田西口に向って下山した。道は二手に分かれたが直進は散策エリアへ行くので道標にしたがった。(後で地形図でチエックすると散策エリアの一角に三角点がありそうだ)薄暗い竹林を通るとまもなく農家の横に出た。ここも随分たわわに実った南天があった。
 そして車道に出て右折すると往きに歩いた道に合流した。菅田神社の横を通り喫茶店「バリグ」で一休みする。ちょっと高いがダージリンティを注文する。山の雰囲気を味わうためである。
 ダージリンはインド北部のヒマラヤ山麓にある土地で世界三大紅茶の産地である。生産量以上の茶葉が出回っているそうで偽物が多いという。しかし本物を飲んでいないから信じるしかない。後は天白川を一回りして帰宅。

     冬川のいぶし銀めく蛇のごと
http://www.city.nagoya.jp/shisei/jigyoukeikaku/douro/nagoya00009619.html
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/3513/
http://f44.aaa.livedoor.jp/~oasis/

日脚伸ぶ②2007年01月18日

 今日の日の出は午前7時ジャスト。明日からは6時59分となる。1月中は二日で1分毎に早くなる。2月からは1分毎に早まって行く。
 心なしか三河の山間部の空がより明るくなった。根拠はある。方位である。北を基準に冬至の頃で最大118度、夏至の頃は60度である。今は115度位。14日は116度だったからわずか1度北に日の光の差す範囲が広まったと理解できる。90度になるのは3月の20日頃だ。この時期になるともう寝てはおれないほど明るくなる。
 日本列島は東西南北に長いから地域格差も大きい。

地域    日の出     日の入り
札幌     7:02        16:28   
東京     6:49        16:53
小笠原   6:22       17:01 
名古屋   7:00       17:06
大阪     7:04       17:13
福岡     7:22       17:35 
鹿児島   7:17       17:39
那覇     7:18       18:01

とまあこんなに違いがあるとは驚きである。当然であるが南北の差よりは東西の差である。小笠原は東ゆえに朝が早く、那覇は南ゆえに日の入りが遅い。というよりは西だからであろう。西の字は入りと同義語である。西表島は「いりおもてしま」と読む。英語ならSunsetislandとでもいうのであろうか。
 冬の間は南を掠めるように推移する太陽も春が近づくにつれて北に光が及ぶところとなる。この時期はゲレンデで腕をみがき、春になれば春スキーの時節到来となる。雪の上を伸び伸びと行動できる春山が待ち遠しい。

   冬深し三河の山のあさぼらけ

   寒卵野菜炒めに落としけり

   業病のごときしつこさ咳辛し

   マスクとり強き言葉を吐きにけり

   施錠して帰るころなり雪催