山本紀夫著「雲の上で暮らす」ナカニシヤ出版2006年12月03日

 著者の山本紀夫氏は12/2のJACの年次晩餐会に先立つ表彰式で秩父宮記念山岳賞を受賞された。本書は氏の長年にわたるアンデス・ヒマラヤのフィールドワーク40年の集大成という。帯封には「人はこんなところでも生きて行けるのか。」とあり高地民族の生活史の研究を示唆している。
 本書の最初に出てくる岩波新書の中尾佐助著「栽培植物と農耕の起源」が彼の人生を決定づけたようだ。その本は私も持っていた。1984年版で23刷であったが現在も増刷を重ねて50刷になる名著になっているという。
 本多勝一の「アラビア遊牧民」というフィールドワークの本を読んだことがあった。中尾佐助、本多勝一らは京大のOBであり山本氏もその流れにある。彼は自分の学問を山岳人類学と名付けた。
 登山家としてはアンデスの未踏峰ハンコラーヤ峰5545mを初登頂した。この点が登山家としての矜持であろう。本来のJACの登山活動とは逸脱した業績であるにも関わらず受賞されたのはフィールドワークが高地であるから登山活動に近い点ではなかったか。実際登山家としての資質がないとこの仕事は勤まらないであろう。
 故今西錦司が(自分はもらえないかも知れない)文化勲章をもらっているにもかかわらず、(今西さんが本当に欲しがっていた)秩父宮記念山岳賞を受賞できなかった。それを自分はもらえて大変嬉しい、との愉快なエピソードも披露されて率直な感想を述べられた。
 氏は東京へ向う東海道新幹線に乗ると富士山を眺めることを期待している、という。山頂が見えるとあんな高い所でもアンデスの人は暮らしているのかとの思いに至るという。
 さて長い冬の夜を共に過ごす本がまた1冊増えた。

旧友の話2006年12月04日

 今夜突然10代の頃の旧(級)友のYが電話を寄越してきた。何と40年ぶりの声である。
 彼とは年賀状を交わす程度である。何の用かというと何と「愛知県の山」の本のことであった。登山をやるのか、と聞けばそうではなく、奥三河の川の写真を撮影するのが最近の趣味であるという。しかし川と山は一体のものだからつい山の本にも目が向いたらしい。表紙の写真に惹かれたという。概説を読むとどこかで聞いた名前で、(同一人物と見て)すぐに思い出してくれて電話を寄越したのである。
 余りにも綺麗な写真だなと誉めるのでリバーサルフィルムを使用したと明かしておいたがすぐに理解してくれた。彼も利用しているからだ。2010年には写真展を開催するのが目標らしい。特に設楽ダムが着工の運びになることを懸念していた。寒狭川のことを気にかけているようだ。
 彼は自然美を狙っての撮影ではなくリアリズムでいくらしい。ありのままを撮るのである。ドキュメントと言った。それなら東松照明の世界だね、と返した。今年愛知県美術館で初めて鑑賞した。単なる絵葉書的な美意識で撮影されたものではない。いかにも彼らしい。微かに脳裏に刻まれた彼の性格を思い出す。
 写真談義が続いたが登山の方へは興が向かないようだった。最後はまた会おうと電話を切った。義理で無理に買ってもらったわけではない、書店でふと手にした山の本に旧友の名前を発見した。ほお、あの男がねえ、というその驚きが伝わってきた。かつては同じ職場にいたが30人ほどいる仲間に勧めておいてくれるという。ありがたい。
 懐かしき電話の主は旧友か本に我が名を見つけて寄越しぬ
 嬉しさは格別なりきわが著書の読者として古き友の健在
 偶然にお買い下さるありがたさ本でつながる数々の話
 夢のごとき思いに浸る今宵なりたかが山書されど山書    以上拙作

ノロウイルスに感染?2006年12月09日

 12月に入ってやや重くなり始めた体重を気にして徒歩通勤を始めた。約3,8Kを40分で歩く。その3日目の12/6の夕方も徒歩で帰宅の途上既に暗い町並みのあちこちにある居酒屋の赤提灯が誘う。減量の目的に反するので誘惑には負けられないが某レストランの牡蠣鍋の旗につられて食事をした。
 12/7の翌朝、体調がおかしいので朝食抜きで出勤。午前中にはもうトイレで吐き気に見舞われた。昼食も抜いた。吐き気、下痢、関節痛と散々な症状が現れ始めて仕事が手につかなくなった。応接室でしばしば休み休みしながら山を越えた4時頃にたまらずに医院に駆け込んで診察を受けた。
 とりあえずは解熱剤、下痢止めなどの処方をもらって帰ったが下痢は止まらない。結局1日絶食したことになる。
 12/8は軽い食事を摂ったが下痢はまだある。熱は下がって関節痛はなくなった。体のけだるさはなくなり快方に向っていることは自覚できる。この日も何と昼食のメニューは牡蠣フライであったから見ただけで蓋を閉じた。大好物なのに。だから今日も昼食なし。帰宅後も食欲はわかず軽食で済ます。職場で体重計に乗ってみたが殆ど減っていない。2日の絶食くらいでは減らないのであろう。
 12/9の日経朝刊の本文と別冊にノロウイルスのことが記載されていて分かった。医師には牡蠣鍋を食べたことを告げなかった。牡蠣で感染すると分かっていたら告げていたが。診断は何だったのか。職場の連中の話から胃腸風邪と自己診断していたがノロウイルスによる中毒の一種であったかも知れない。厚生労働省のノロウイルスQ&Aは以下のサイトで。
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/yobou/dl/040204-1.pdf

徒歩通勤はわずか3日で挫折した。来週からまたやり直しだ。月末には中央アルプスの登山を控えている。こんどお世話になった医院も某中央クリニックといい宝剣岳をイメージする鋭角の建物だ。隣接する薬局はアルプス薬局という。何となく山小屋のカウンターの雰囲気であった。二つあわせて中央アルプスである。こんどお世話になったら先生は登山が好きか、そこで生まれたかなんて聞いてみたい。

藤森栄一著「かもしかみち」を読む2006年12月10日

 山岳遭難で一番多発している道迷いのことを考えている。
 松本清張作「黒い画集」には”遭難”という短編があった。北アルプスを舞台にして妻の不倫の相手の山の友人を遭難に見せかけて殺す設定である。森村誠一の「死導標」は道標を故意にいたずらして恋敵を道迷いで遭難させる設定であったと記憶している。他にも新田次郎の作品は沢山の道迷い遭難を描いている。「八甲田山死の彷徨」は余りに有名である。吹雪の志賀高原の一帯で行方不明になったテーマは「シュプール」だったか。何故か引き返さずに進んでしまう遭難者の心理を描く。
 ノンフィクションでは表題の「かもしかみち」の冒頭の1、古道雑聚の”かもしかみち”に南アルプスの鋸岳で死体をみる件がある。藤森は考古学者として知らない人は居ない。しかしこんな文を読むとかなりな登山愛好家でもあったらしい。ザイルを使って鋸岳を縦走する途上、知り合いの猟師の死体を見つけるのである。そして疑問を呈する。長作がザイルなしでよくこんなところまで登って来れた、というもの。彼は多分沢を登攀してきたんだろうと推察している。元々かもしかみちなる名前も長作の云っていた言葉を拝借したようだ。
 長作は地図にない山道、獣道を知り尽くしていた猟師であった。地図も持たず、南アルプス北部の山々を跋渉していたのである。中央アルプス南部の名山といわれる安平路山も御所平に住んでいた安平という山師の作った山道であったというところから名が残った。http://sirakabaalpineclub.hp.infoseek.co.jp/page015.html
昔はこんな山びとがそこかしこに居たのである。彼らを案内人にしてアルプス登山を楽しんでいた時代があった。それは戦前であった。今では町で育った山好きが高じて山岳ガイドになっているが知識や登山技術だけでは心もとない。
 山名にも台高山脈の迷岳がある。ずばり猟師から恐れられてそう名付けられたであろう。西上州の父不見山(ててみえず)も何かしら道迷いで帰らない父親を案ずる家族を示唆している。岩科小一郎著「山ことば辞典」に”ミノハザワ”がある。解説には「遡行しても岩壁や壁などに阻まれて抜けられず結局戻ってこなければならない沢、行き詰まりの沢のこと。」箕輪と書くそうだ。今でこそハーケン、ボルト、ザイルがあるから何とか抜けられるが昔はそうではなかっただろう。遡行出来ても戻ることも出来ない沢もあったかに思う。そのままおろく(餓死)になったであろう。
 奥美濃の雷倉に登山しようと登山口の八谷の山家で道を尋ねたことがあった。先だっても岐阜の会の人が登りなさったとか。世間話するうちに猟師の夫が雷倉で道に迷い村総出で探してもらって九死に一生を得たことも聞いた。獲物を追う猟師山を見ず、という話そのものであった。
 猟師すら道に迷い、命をなくすこともあるのである。まして我々山の素人は慎重の上にも慎重を期するべきである。山には落し穴が一杯あるのである。楽しむことばかりでなくたまにはこんな本でも読み直したい。他に今西錦司「山の随筆」、柳田國男「遠野物語」「山の人生」など枕辺に置いておきたい名著である。

短歌日常2006年12月10日

 珍しく風邪に似し症状が出てかかる医師は何年ぶりか

 ウォーキング通勤三日坊主となりまた振出しに戻るべし

     12/15初登攀か 朝日朝刊、中日夕刊報道す  
 ローツェにて落石と雪と風と戦う隊員達の力信じよ

 メタボリックなる言葉気になりかけて圧力釜で炊きし玄米
    
        絶不調だったこの一週間
 ノロウイルス光のごとく通過して鉛色した冬空仰ぐ
      
        12/10はようやく晴れた
 遠くまで晴れ渡る日はベランダゆ雪に輝く御岳を見ゆ

 尾張なる猿投の山はぬばたまの
            黒きドームの如く見えたり

        山の本が売れない時代の寂しさ
 杁中の本屋にありし山の本なべて撤去されたるは何故

 今冬は暖かくあれと願いつつ小さき石油ストーブをだす

 癌といふ病魔に臥すわが山友(とも)よ
             今は静かに過ぎし日を思うのみ

 たまきはる人の生命を救うには医師の力と免疫力

短歌日常②2006年12月11日

 ただでさへ淋しき冬を弥増しに淋しがらせる便りの届く

 知る人がまた一人嗚呼あの方も顔見ぬままの宴会の席

 影写る身を苛みし山友よ今は静かに過ぎし日を思ふ

 夢のごと一生を歩む出会より酒で交はり山で交はる

「三河物語」の世界2006年12月16日

 大久保彦左衛門が著したという「三河物語」を読み返す。といっても昔の読み下し文であるから中々すらすらとは読めない。
 松平親氏に始まる徳川家の歴史を物語るのである。読み返したのは最近宮城谷昌光という中国の歴史小説を手がけていた作家の「風は山河より」が目に留まった。ポイントは関ヶ原の戦い以前70年の戦国時代なのであるが主人公は菅沼氏三代を描くという。その副読本的な「古城の風景」を買って読むと奥三河の山城のことがどんどん登場してきた。
 特に田峰城址は今年のGW「愛知県の山」の取材で田口の奥三河綜合センターに泊まって雨模様をやり過ごすために出向いたところであった。ガイドさんの説明はほとんど忘れたけれどまた一度行ってみたい。ここは段嶺菅沼家の居城であった。「三河物語」も六所山の取材過程で親氏のことを知るためであった。道理で天下峰とか天下茶屋の名前が付けられているわけだ。
 菅沼家が松平清康の家来に転向したことは「三河物語」にもちゃんと書かれている。そこでは降参して来た、とある。山家三方配下の作手、長篠、段嶺、野田、設楽、などである。大久保さんの目にはかつての敵が家来にしてくれと云って来たわけである。
 「風の山河より」のコピーは「戦国前夜の奥三河。野田城主・菅沼新八郎定則は、瞬く間に西三河を統一した松平清康の驍名を聞き、卓越した判断力で帰属する今川家を離れる決意をする。鬼神の如き戦術の妙、仏のような情義の心。家康が目指したのは、祖父の清康だった―。中国歴史小説の巨匠が初めて挑む戦国日本、躍動の第一巻。 」であるから「たぶんこの作家は「三河物語」を縦糸にして菅沼三代を横糸にして小説を組み立てるのではないか。今川家を離れる、とは清康につくということだ。
 惜しくも清康は25歳を前にして家来の謀反にあう。これが森山(守山)崩れという。菅沼三代が松平側になってからは強固な勢力に固まる。家康までの松平家は「三河物語」が説明するが重要な家来となった菅沼家のことは小説を読まないと分からない。そこが小説家宮城谷さんの面目躍如である。
 司馬遼太郎の「覇王の家」では家康を主人公にするがはなはだ家康がお嫌いなようである。模倣の精神が嫌いな理由である。徳川260年を支えたのは大久保さんのような旗本と優秀な側用人であったという。政治は英雄だけでは続かない。
 トヨタが模倣したという徳川流の経営(行政と同意)は強力な協力会社群である。米国のGMが一社で鉄鋼から電装品、タイヤまで製造するのに比べると対照的である。世襲と番頭経営のバランスをとりながら世界一を目指すトヨタ。世襲と忠実な三河武士に支えられて日本一になった徳川家康と何故かだぶる気がする。

木守柿2006年12月17日

 先週は土曜まで仕事に終始した。夏なら何でもないのに冬は短日のせいかせわしなく1週間が過ぎる。本年最後の土曜勤務。これで年末に向けて追い込みである。山の方は曇りがちで行けなかった。
 小秀山のサイトにアクセスすると登山した人の報告があって深いところで20cmの積雪らしい。1980mの標高ならそんなものか。来週の山は標高ab2300mはある。30cmから50cmを覚悟しなければ。
 出かけようと外に出ると意外に天気は持ち直した。青空に柿の実が照らされている。ふと前田普羅の句を思い出す。
   しみじみと日を吸う柿の静かかな   普羅
ほんとに日を吸っている気がした。冷涼な日の光を吸いながら来年も実りますようにとおまじないのつもりで残す。それが木守柿(=こもりがき又はきまもりがき、と読む。)である。
  
 午後から鶴舞図書館にビデオを返却に行った。新聞でもと思ったがすでに占有されて見れない。どこの図書館でも暇そうな老人がゆっくり読んでいていらいらして待っておれない。いつもであるが。俳句雑誌、短歌雑誌を閲覧したが以前より減った気がする。どこの結社も会員減少に悩んでいるようだ。子規の俳句革新から100年超。そろそろ天才が現れて変革を促す時期であるが。

  あわあわと花柊に日の当る    
  冬川に羽休め居る番いかな    
  マスクしてもノロウイルスは防がれず  
  白々と梅の木に掛け大根干す
  青空に浮かぶがごとき木守柿
  どの道も渋滞気味や年の暮     以上拙作

一酸化炭素中毒の怖さ2006年12月18日

 世間では昨年の松下電産の石油ストーブの事故、治まったと思ったらパロマの給湯器の事故、今又トヨトミの石油ストーブの事故と相次いで中毒死が報じられている。
 昔アパートに入居した際大屋さんから風呂のガス湯沸かし器は気をつけて、怖いんだからね、と念を押された。
 炭鉱や鉱山ではカナリヤを籠に入れて入山したらしい。カナリヤのような弱い動物は酸欠にすぐに反応するからだったらしい。今の人にとってもたとえ家庭人であってもこの程度の知恵は必要である。
 危機意識のなさ、これに尽きる。企業にとってはすべては利益優先からコストダウンを徹底する。すると安全よりは利益である。今後もどこかで起きそうな気がする。一流メーカーだからと盲信することの怖さ。
 登山でも夏山はとにかく冬山のテント内では一酸化炭素中毒は発生する。かつて五竜遠見尾根で実際にあった。雪がどんどん降ってきてテントが埋まり除雪をしなかった。中でストーブを燃やしていたから酸欠で中毒が発生したのだ。一度も体験した事がないから生きている人には怖さが分らない。
 北アルプスのような豪雪地帯では雪洞しかないのではないか。テントも重みでつぶれる。家でさえつぶれるほどの重さである。そんな場合は行かないに限る。

オフコン哀史ーレガシーなるもの2006年12月19日

 勤務先では現在基幹業務を担うシステムを更新する検討に入っている。
 
 私は28歳で初めてキーボードを叩いた。それはオフコンというものだった。今よりももっと大きなFDにプログラムを、もう一枚にはデータを入れる。容量が大きなCPUがなくFDで起動していた時代の産物であった。アルプス電機の製品であった。まもなく第二次石油ショックが起きた。1978年倒産。 
 
 30歳で転職を余儀なくされた。30社以上を面接に訪問した。よほどSEを目指そうかと悩んだ。しかし、SEの寿命は35歳説ともっぱらの噂であった。30歳では冒険は出来なかった。SEで採用内定先を断って結局今の勤務先に経理マンで入社すると汎用機システムが稼動していて驚いた。中小企業なのに中型機が採用されていた。もっと驚いたのはプログラマーが3人も居たことだった。まるで大企業なみであった。彼らは寝袋持参で会社に泊まりこみ徹夜でシステムを立ち上げたといった。しかしやることは伝票発行機であり帳票印刷しか利用していなかった。しかもカタカナだけ。まだまだ何もかもが未熟であった。
 富士通のそのシステムはプログラマーの相次ぐ退社でどうにもならなくなった。彼らは次々システム開発をしたかったのだ。1日中データを入力するなんて単純作業には変換できなかった。中小企業にそんなにシステム開発の仕事があるわけではない。新たな開発を志向して去っていった。
 1983年になって次はリコーからリコム3000が入ってきた。これはコマンドを打ち込まなくてもよく使いやすかった。穿孔テープ読み取りからFDに変った。パンチでカードに穴をあける仕事は熟練を要した。ミスすると何度でもやり直す。個人差の大きな仕事であった。BUも磁気テープでなくFDになったから使い勝手が良かった。データが増えてCPUを増設したり拡張が行われた。しかし、机より一回り大きなデスク一体型はすぐ限界が見えた。1台650万円もした。リコムIという機種に変ってCPUは増加したが図体は小型化した。パーツが切り離されてセットが柔軟になった。これは他社の廃棄したものをもらったらしい。ソフト代は当然有償である。ここが一つの変わり目であった。当時ソフトにカネを払う会社はなかった。馬鹿高いハードで暴利を得ていたのである。転機はIBMが富士通などのIBM互換機を売っていたメーカーを著作権侵害で訴えた事件であろう。以来ハードはコストダウンが進んだ。一方で多様化したソフト需要はアップしていった。
 1985年にマイクロソフトという会社が誕生した。彼らはDOS-V、またはMS-DOSなるOSを開発した。まだ海のものとも山のものとも分らない時代であった。DOSとはディスクに書き込むことに先進性があった。パソコンが産声をあげたのである。
 WIN3.1,WIN95,WIN98、WINME、WIN2000、WINXPと矢継ぎ早に開発された。その度にこの会社は大きくなった。まだオープンシステムなど覚束ないことであったがすでに内在していたであろう。
 次はIBM製のPCが入った。しかしパソコン的な使い方ではなくWindws&OS2をインストールしてその上でCOBOLで造った従来のシステムを改善して稼動させるというものであった。 つまりオフコンである。当然分散処理はするがサーバーでつなげた。或いはFDを介してデータをやり取りした。
これではグラフなどは印刷できない。経営側の不満は高まる一方だ。これをとりあえずMOでデータを切り出してWINDWSに移行してグラフを作成している。もはや限界である。以前信頼性のなかったWINDOWSは飛躍的に改善されていた。環境は整ったといえる。
 時代は変った。
 マイクロソフトとインテルの寡占の時代となった。ネットワークが時代のテーマとなった。インターネットはここ数年で驚くべき普及をみた。私でさえ銀行取引、書籍購入(新刊も古書も)みなインターネットである。個人でHPを立ち上げる時代になった。IBMはダウンサイジングに乗り切れず相次ぐリストラ策が発表された。PC生産を中国企業に譲渡。ソフトに専念した。OS2は開発を中断した。
 オフコンはシステムの拡張性のなさに限界が見えてきた。ソフトも限定的だ。しかも囲い込みでコストダウン、デフレの時代というのに新たなソフトは高いものについている。取り扱う会社が減少すると逆に競争原理が働かずコストアップとなる。相手の言い値が通る。通さざるを得ない。しかしその安定性、気安さ(オペレーターとして)、長期的にはコスト不変という良さは捨てがたい。電話一本ですぐ対応に来てくれる。(その費用も前払いしているかも)
 今はオープンシステムの時代という。ここ数年、大企業から進展を見せてきた流れである。ここに来て中小企業の段階ではまだ進展を見せない。それは必ずしも安くないからだ。機器類、ソフトなどどれも安い。だが社内で使いこなすにはソフトに明るい人材がいる。特にサーバーのメンテには専門性があろう。その人材に要する人件費はソフト会社に払うわけではないから一見安い錯覚を起こす。増えた人件費の多さに気づいてももう後戻りはできない。オフコンはもう機器も少なくなった。ソフトも高いのだ。前門の虎後門の狼である。ならばオープンシステムに移行するしかない。これをシステムマイグレーションという。
 日本の会社数はおよそ50万社。中でも大企業(社員数10000人超、売上1兆円超、上場企業)は数千社もあるかどうか。中小は従業員数では90%も占める。大企業一社で社員数は多いが全体では中小が圧倒的に多い。一体どれだけの会社が使いこなしているのか。我々中小企業にとっての最適なシステム環境の模索はしばらく続く。