中央アルプス・麦草岳目前で撤退!2017年10月02日

幸ノ川渡渉地から眺めた穂高連峰
 9/30は午前中は仕事、午後は句会とあわただしく、出発は夜9時になった。今回は麦草岳に挑戦する目的で福島Aコースを選んだ。2時間ほど走ると木曽路の大桑村に着く。R19から木曽川右岸に渡り、大桑スポーツ公園のPで車中泊する。公園なので照明あり、トイレあり、東屋ありで便利なところだ。よく通った頃はここを中継地にしていた。
 夜11時30分のR19の気温掲示は10℃だから相当寒い。名古屋の暑さになれた体は軽装になりやすい。長袖2枚を持ってきたのでそれを着こむ。シュラフもオールシーズンにしてよかった。車内の荷物スペースを整理するとフラットになり、手足を伸ばして眠れるバンは便利である。
 10/1の朝5時尿意で目覚め。夜が明けたのだ。おにぎりをお茶で流し込んで又走る。
 R19の木曽福島の外れに駒の湯の看板で右折、後は1本道でキビオ峠登山口に行ける。標高1200mはある。ここまで走れないことはないが、夏は良いが、秋は厳しい。予想以上に寒いので、長袖シャツの着替えも着こむ。さらに雨具の上着もヤッケ代わりにはおった。
 キビオ峠は今は舗装道路だが中山道以前に開通していた木曽古道の名残である。小さな園地になっていて、御岳山や乗鞍岳が一望できる展望台があり、トイレ、東屋もある。駐車場は結構広いし、テントを張る余地もあるので夏はいいだろう。
 6時40分、登山口の「熊出没注意」の看板に気が滅入るが、久々の中ア登山に勇気を鼓舞する。鈴を鳴らしながら一歩一歩登り始めた。最初は赤松のよく伸びた林の中を行く。白樺の美しい林になったと思うとすぐに雑木林になる。突然目の前を黒い獣が駆けあがっていった。熊か!とビビったが相当上部で振りかえり、こっちを見ている。何だ、カモシカだ。
 ジグザグの登山道を登りきると気持ちの良い木曽見台の分岐に着いた。7時30分。左折すると木曽見台、右へ尾根伝いに行くと登山道だ。笹の刈り払いはここまで。木曽駒高原スキー場が閉鎖されたためか、スキー場へ40分の道標が寂しく、登山道も笹に埋もれる。一方で地形図に描かれた破線路は今は笹に埋もれた廃道になり、尾根を直登するルートになった。
 登り始めは急で足に応えるのだが、周囲は原生林であり、特に大栃の樹木があり見事な自然美が癒してくれる。尾根を登りきった辺りでまた廃道に出会う。冬道は基本的に尾根を辿るから冬道が夏道になった気がする。
 尾根筋をたどってしばらくで山腹へ巻き始めた。1793mのコブを巻いたのだろう。わりあいはやく尾根に戻った。ここらになると岳樺の林になるが黄葉には早い。徐々に高まる尾根を歩くとまた巻き始める。赤林山だ。
 以前に山岳会でこの山に登山しに来たことがあった。登山道はないので南の痩せた尾根筋をたどって登頂し、コンパスで真北へ下れば登山道に出会うのでRFの練習になった。
 巻道は以前よりも荒れた気がする。道幅は細くなりアップダウンが多くなったように思う。記憶ではもっときれいな巻道だった。別人のスマホの軌跡をみると確かに標高差50mの違いがあった。
 赤林山の北で破線路は2050mまで登って巻き始め、南で2080m付近で尾根に戻る。軌跡は1910mで巻き始め、2030mで戻る。北の登りで140m、南で50mの下りを節約するためだろうが、山腹道は荒れやすいからかえって労力は増えている。新道?は歩きにくいものだが。
 赤林山の南の鞍部ではぱっと視界が広がったので一休みした。寒い風が吹き上げてくる。ここからは尾根に忠実に歩く。樹林の道が続く。ようやくの思いで6合目に着いた。道標は直進は麦草岳、左折は福島Bコースへの巻道になっている。時計は11時18分だ。ここまで4時間30分かかっている。麦草岳は2733mなので比高328mを1時間では登るのは難しい。上松コースと合流するまではやぶであるから1時間30分を見込むと12時50分登頂になる。休まず下って4時間とすると16時50分だ。山中で日没に捉まると厄介と考えてBコースを下山する周遊に計画変更した。
 幸ノ川の源流域を横断する登山道である。この道も若干荒れているが歩行に困難はなかった。幸ノ川を遡行すると登山道との交差地点で終了した。今日はちゃんと水が得られた。交差地点からは心なしか急に踏み跡が歩きやすくなった。
 避難小屋に着いたのは12時14分。小屋周辺は紅葉、黄葉できれいだ。1人ベンチで昼寝中だった。小屋の屋根に太陽電池パネルが追加した以外は変わりない。12時30分下山開始。力水には14時14分、渡渉地点は15時少し前、スキー場跡は15時30分過ぎになった。
 後から足音がするのでびっくりして振り返るとランニング登山の単独行で名古屋の人だった。軽装備でBコースを走り、麦草岳、牙岩、前岳、木曽駒、宝剣岳、三の沢岳を往復してきたそうな。どんな心臓と足をもっているやら。こういうのを韋駄天というのだろう。
 さて、韋駄天氏と立ち話している内に15時40分になった。ここからキビオ峠までは約3kmある。車道をスキー場から別荘地を抜けて一旦R19の分岐まで下り、ここから峠へ登り返した。30分から40分と見込んでいたが登りの疲れもあり、Pに着いたのは16時50分になった。1時間強かかった。平地のような感覚では歩けない。
 目的完遂のためにはもう2時間早く出発するべきだろう。5時には出発していないと登頂できない。膝痛を克服してからの試歩と思えばまずは良しとしたい。
 帰路は駒の湯に寄って入浴。650円也。以前は透明な源泉が噴き出すとすぐに鉄の錆びた色になりタオルも汚れたが、今はろ過して透明な色になった。その分効能も減った気がするが山の湯は良いものだ。
 木曽の夜は早い。まだ6時前だが目当てのソバ屋は閉店している。農協スーパーに寄って木曽の蕎麦を購入した。
 登山道で出会ったのはカモシカ、野兎、そして避難小屋の昼寝氏、韋駄天氏だけだった。
 それと雪虫が大量に浮遊していた。明日は雪が降るかも知れない。下山中の14時前、急に冷えてきて、赤林山にもガスがかかり、麦草岳は雲に隠れた。そして白いものがちらついた。霰だろうか。朝は素晴らしい日本晴れだったのに。秋山は急速に変化するから怖い。

富山県・牛嶽に登る2017年10月08日

 秋の3連休、高速では朝から渋滞情報をつたえる。7日は北アルプス前衛の猫又山の予定だったが、雨予報で中止した。行く先を牛嶽に変更し、名古屋を出発したのは7日の午後3時。高速ではなく、R41を走った。R302から春日井市のR19へ、街中は大渋滞だった。春日井ICに入る車が多く、渋滞を抜けて、その先はガラガラになり、そして尾張パークウェイからR41へ走る。R41も美濃大田を抜けるとピッチが速まった。
 R41は流れがよく快適に走れる。名古屋では晴れていたが飛騨川流域は小雨模様だった。濡れた路面に気を使う。下呂、飛騨小坂は小雨、宮峠も雨だった。高山市内で夕飯にする。食後ももくもく走り、飛騨古川、神岡と走る。富山県境を見ると間もなく道の駅「細入」だった。今夜のビバーク地である。
 道の駅「細入」のPは60%くらいの入りだった。大型トラックは1台も無く中型トラック数台だけだった。寂しさを感じさせず、しかし、多すぎて騒音が多く眠れないほどではない。仮設トイレで用を済ませて、バンの荷物室を整理してシュラフにもぐったのは午後9時30分だった。しばらくはアイドリングの音がうるさかったが、そのうちに出て行った。
 8日は午前5時に夜明けとともに起きた。6時出発、神通川に沿うR41を下る。事前の調べて、新笹津橋の手前から県道25号に左折。後は山田温泉入り口までひたすら25号の道路をたどればよい。入り口で山田温泉やスキー場の名前を初めて確認できる。
 県道59号、県道346号でスキー場に着く。スキー場は閑散として誰もいない。地図で確認するがスキー場内の斜面の道を走るのは気が引ける。一旦戻って地元民の老婆に聞くとスキー場内を行けばよいとのことだった。山坂ばかりの里の女性はエンジン付きの1人用カートで移動する。近道も教えてくれた。
 スキー場ゲレンデのトップまで走れたが登山口なる案内はない。右往左往するとまた一筋の林道に導かれた。ふたてに分かれたが右が新牛嶽登山口で、2本杉の4等三角点を経て日本杉登山口に至る。左がダイレクトに2本杉の登山口に行ける。
 登山は登山口さえ確認できれば登ったようなものである。
 天気はよろしくないのでモチベーションは低下したままだが、登山口まで来てUターンはない。霧の山だが、40分のことだ、行ってみるか、と気を取り直す。Pは10台は止められる広さがある。人気の山なのだろう。
 熊の出没注意の看板が一際目立つ。熊除けの鈴をとりつけて出発する。杉の木立の中の登山道を歩く。まもなく、階段道が現れて急坂になった。6合目の標識が出てますます急になった。樹相は杉から雑木になり7合目を過ぎて、鍋谷のブナの林になった。太くはなく二次林と思われるが白ブナは美しく気持ちが良い。そこを霧が漂う。
 幻想的な霧のブナ林を歩くと前方が明るくなり牛嶽大明神を祀る牛嶽神社に着く。まだ石の風化も見られず、新しい。工事のためか、ここへも車道が上がってきている。せっかくなので神社に詣でる。オオナムチノミコトを祀る。「牛嶽は、大国主命が牛に乗って登られた山であることからその名が付けられた」そうだ。残念ながら富山平野は霧に隠れて見えない。わずかに山麓だけが見えているだけだった。
 2等三角点へは良い道が下っている。一旦、鞍部まで下ると小牧からの登山道に合う。そこから一登りで登頂だ。黄葉にも早く、ナナカマドのみが赤い。神社まで戻り、またブナ林を歩いて下った。ようやく2人連れや親子連れにも出会った。
 マイカーに戻るとまだ9時30分過ぎだった。今度はゲレンデの車道を下った。牛岳温泉グリーンパレスでひと風呂浴びた。さっぱりして背広に着替えて富山市内へ向かった。俳句結社辛夷社の年次大会は午後1時からだが、12時に市内Pに着いた。1年ぶりの師友と旧交を温めた。大会、懇親会後はビジネスホテルに一泊。

富山県・高落場山に登る2017年10月09日

 富山市内のビジネスホテルの朝食は本当に美味い。とくにご飯が美味いため、朝食に時間がかかった。7時過ぎには出る予定が8時20分になったのは昨日の長旅の疲れもあった。
 R41を南行しながらGSを探すが昨日より10円ほどアップして安いところはなくなった。富山県の山際の県道を西へ走った。南砺市でR304に出会うまで道の田舎道を走った。
 R304からは縄ヶ池に向う林道に左折。高落場山へは若杉集落跡が登山口である。かつては五箇山街道の宿場の里として栄えたというが御影石の記念碑以外は何もない。
 『村の記憶』によると、「若杉は江戸時代五箇山と城端を往来する街道の要衝に位置し、物資の中継や宿場として栄えたが、中略、昭和42年五戸の住民は旧大鋸屋小学校校舎跡地へ集団移住した」。続けて「上流の夫婦滝から流れる内尾川のせせらぎの谷間にあって、多い時は30軒の合掌」家屋があったらしい。
 「五箇山往来の利賀の中継地として、また宿場としても栄え、番所などもあって奉行所の役人や二百人に近い五箇山への流刑人もここを通ったと言われる。そして、五箇山への荷物を運搬する牛やボッカの往来が絶えなかった。」のも今はもう幻となった。
 さて、出発の準備中、地元のお巡りさんがパトロールに来た。熊に注意してくれといわれた。春に目撃されたかららしい。ここまできて帰れとでもいうのだろうか。登山者が襲われたことはないらしい。今までも襲われるのは山菜とりがほとんどだ。山菜とりは熊の好物を横取りするけしからん敵なのである。
 10時20分出発。足元は石畳の歴史ある道である。濡れて滑りやすいから注意がいる。20分ほどで唐木峠に着いた。ここから左が高落場山だ。直進は朴峠への旧道であるが、すぐ先は笹刈りも無く藪になっていた。しかも通行禁止の看板もあった。
 ここからが地形図にもある「人喰谷」への道で名前も恐ろしい。他のサイトによれば、「「横渡りの難所」の看板には以下のように書かれている。
 『横渡りとは人喰谷の五重の谷を大きく迂回するこの辺のことをいいます。山崩れやなだれのため、道が崩壊して交通の難所となっています。昔からなだれを防ぐため付近一帯は禁伐林となっています。現在も大雨などにより木が倒れてくるなど危険なところです。』」だそうな。
 唐木峠で喉をうるおすとすぐに急登の尾根に入った。最初は右に杉林を見ながら登るが、しばらくで見事な白ブナの原生林が展開する。低山にしてこのブナの大切にされ方は雪崩防止の禁伐林ゆえだった。
 時折ブナを見上げながら、木肌に熊の爪痕がないか、こずえに熊棚がないか探したがなかった。これだけ急だと熊の棲息には適さないのか。嗅覚も大いに働かせるが獣臭はしない。うん、大丈夫だ、と鼓舞する。
 ブナを堪能した後も坦々とした尾根歩きは続く。先行者らの声が樹林を通して聞こえてくる。車は数台あったから10名位は登っているだろう。分岐に来ると右へが山頂だ。一旦軽く下って登り返すと切り開かれて明るい高落場山頂に着いた。
 アキアアカネが群舞する。アサギマダラが舞う。やがて南方へ旅立つ蝶々である。ナナカマドが赤く秋の山を象徴する。遠望は若干はあるが全体図がないことと、高峰が雲がくれしているので分からない。
 軽い昼食をとったあと下山を開始。途中で男性ばかり5名のパーティに会う、草沼山からの縦走らしい。分岐では来た道を戻った。高清水山はまたの機会にする。今日は暑かった。汗びっしょりになった。ほとんど休まず登山口まで下る。
 着替えて、縄ヶ池へ行く。途中、夫婦滝が見事だ。広い駐車場に着く。ここも熊の注意喚起の看板がある。この春のGWにはここで目撃されたらしい。池は林道の向こうにあった。チエーンがあるので徒歩で数分歩くと山中の池を俯瞰できた。
 神秘的な雰囲気があるが、遊歩道へは進まず、熊への警戒心もあって眺めるだけにする。1979年(昭和 54) 年に泉鏡花の『夜叉ケ池』が映画化された時のロケ地となった。主演は坂東玉三郎、池の中から美しい女の人がヌーッと出てくるシーンだったらしい。
 以前から一度は見てみたかった。小説に出てくる夜叉ヶ池も神秘的だが、深さも浅く、小さいし、車道が通じていないため代替地として縄ヶ池になった。なるほどと思うスケールがある。
 すべての予定を終えた。R304から高落場山の真下のトンネルを通って五箇山に出た。R156を走った。白川温泉でひと風呂浴びた。御母衣ダムの畔を走って荘川村へ。高速は使わずR158へ高山市へ抜ける。給油の後は早目の夕飯をすませ、R41、R19、R302で帰名する。

富山県~呉西と呉東、山と道の文化2017年10月11日

 10月8日初めて富山県の牛岳に登った。
 以前から前田普羅の
  牛岳の雲吐きやまぬ月夜哉   普羅
の俳句で名前だけは知っていたからだ。句意は八尾辺りから眺めて次々と雲が湧き起こる、そしてふっと消えて行く牛岳の自然への感興を俳句に詠んだのであろう。
 登ってみて、スキー場開発で多くのブナは失われたにちがいない。それでも鍋谷のブナ林は二次林として再生している。それが水蒸気即ち霧そして雲の発生源にもなる。登った際も霧が流れては消えていった。
 当日は高曇りで富山平野全景を見はるかす訳にはいかなかったが、 山頂から麓の田園地帯を俯瞰して、位置的にこの山から呉羽丘陵を派生していると知った。
 富山市中心地に近い呉羽山は145m程度であるが1等三角点が置かれて東西南北に眺めがいい。そればかりか昔から呉西、呉東という聞きなれない言葉の意味も分かったのである。
 呉東は神通川と常願寺川の沖積平野として富山市を中心に立山町、黒部市、滑川市でまとまり、呉西は庄川、小矢部川の沖積平野が高岡市を中心に小矢部市、射水市、砺波市、南砺市、氷見市でまとまっている。
 それぞれが山と水の融合による社会を形成している。そして高岡市の方が産業、文化的にも古い伝統の街と知った。たしかに万葉集の編纂者の大伴家持の古さは尋常ではない。また伝統工芸が脈々と続いていて中小零細企業が集積している。一方で富山市は豊富な電源開発を背景にした近代企業が多く、工業地帯となっている。
 それぞれが補完しあって富山県を一つに結んでいる。
 10月9日は高落場山に登った。登山口は福光町に近い。富山市から山際の県道をなぞりながら地形を確かめるように走ってみた。R41から神通川を渡ると呉羽丘陵を越えて庄川に至る。そこがR156が貫通する砺波市だ。砺波平野から富山平野の広がりがある。庄川からは散居村を抜けて城端の街を抜けてR304に合流する。南砺市になる。
 高落場山の登山口の若杉集落跡も実は五箇山街道の要衝であった。それが時代によりR304にとってかわり、今は袴腰山の直下にトンネルを穿って東海北陸道が五箇山へ貫通している。
 だから城端は高岡市からは行き詰まりであり、文化の吹き溜まりのような街になる。R156を白川村から砺波市まで走ると五箇山からは急にさびれた気がするのは昔から高落場山の峠道をからんで城端に抜けていたからだった。現代は車に変わってもそのルートは大筋では変わらない。

鈴鹿・藤内小屋の夜2017年10月15日

 14日は朝は曇り。桑名付近からの鈴鹿山脈は稜線付近に雲がかかっていました。R23で行ったため、渋滞にはまり、登山口は10時近くになった。三つ口谷コースは止めて武平峠往復に変更。約1時間の登りでした。頂上直下の登山道は稜線の崩壊が激しく、西側の尾根のう回路に付け替えられていました。それでも急でした。幸いに登頂時は360度展望が良く見えました。下山時には近江側からガスが流れ始め不安定でした。
 下山後は希望荘で一風呂浴びました。R477のPへ止めて藤内小屋へ歩き、35分で到着。豪雨による水害で氾濫した爪痕はそのままですが、少しは落ち着いてきたかに思います。散乱する巨大な花崗岩の間を流れる沢の水が透明できれいです。道中、ノコンギクやアケボノソウが路傍にさいて秋の風情を漂わせています。有志?が登山道の整備に汗をながしていました。小屋に近くなると急登になり、希望荘で流した汗もまたちょっと汗がでてしまいました。藤内小屋は初めて泊ります。部屋をあてがわれて、早速長袖の下着に着替えたり、軽い防寒着をはおったりして秋冷に備えました。
 小屋の前で時間を潰していると金丸氏がバリルートから突然現れました。山と渓谷社の『分県登山ガイド 三重県の山』の著者の金丸氏とは昨年、迷岳に登山した際にニアミスしていました。FBで同じ山に取材登山していたと知って、上梓後に交流を希望していました。また今年の4月からNHKの「ゆる山へGO」でも三重県を担当され、私は愛知県の担当と、何かと縁ができたわけです。それで14日に藤内小屋で交流の機会を得た次第です。金丸氏はクライマー系の登山家ですが、理科系の教員をしておられたので、植物に非常に明るいのです。
 同著者の内田氏も後からワインを持って駆け付けて来られました。現役の教員ですから土曜日も何かと指導教師の仕事があるようです。また取材を共にされた女性2名も後から別々に駈けつけられて本や山の話で盛り上がりました。夕飯から食後の懇談まで尽きることなく懇親の場を持つことができて楽しかったです。
 14日夜は小屋の窓から四日市の夜景も見えていました。15日は朝から降雨でしたが、出発するころにはあがっていました。登山口に着いて皆さんと別れ散会となりました。

「埋甕」を見に弥富市の愛知県埋蔵文化センターへ行く2017年10月18日

 午後3時ころ、期日前投票後、愛知県埋蔵文化センターへ行く。10/15にも山の帰りに寄ったが、土日は休日という。県の博物館にしては珍しい運営である。少し時間を作って出かけた。
 http://www.pref.aichi.jp/soshiki/maizobunkazai/0000032060.html

 10月7日(土曜日)から11月4日(土曜日)に同じ施設で愛知県埋蔵文化財センタ ー主催「秋の埋蔵文化財展」も行われていると、中生涯学習センターにあったパンフで知った。
 「埋蔵文化」のボキャブラリーにはどこか心に響くものがあった。それは恵那山の山名の由来を調査していて文献的に行き詰まり、考古学の本で「埋甕」(うめがめ)という言葉に出会ったからだった。
 それは木下忠『埋甕―古代の出産習俗 (考古学選書) 』である。
 この中に、胞を底のない壺に入れて埋めるのは古代から近代の習俗という知識を得た。徳川家康の胞塚も岡崎城の一角にあるそうだ。
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説で「えな」がヒットした。
「胞衣とも書く。後産 (あとざん。→胎盤 ) のこと。イヤ,イナなどともいう。以前はエナは土中に埋められたが,その埋め方が,生児の一生の安危にかかわるものと信じられ,また,埋め方が悪いと,生児が夜泣きするともいわれた。その埋め場所は,人に踏まれないところがよいというのと,その反対によく踏んでもらうところがよいという2通りの説がある。前者は大黒柱の下とか産室の床下,墓,便所のそば,厩 (うまや) のそばなど,後者は土間の上り台の下とか,敷居の下などが選ばれた。埋めた上を最初に通ったものを,生児が一生恐れるというので,父親が最初にまたぐという例がある。また他人に踏んでもらえば生児がまめに育つとか,産後の肥立ちがよいなどという。エナは,布やこも,油紙などに包んで埋めたが,壺や瓶に入れて埋める例もある。」
 展示品の「埋甕」は奥三河から産出された。用途は解説の通りであるが、埋文センターの解説者によればそうとは言い切れないと言われた。何分1000年以上の物質なので証拠物がないからだった。
 しかし、見学はしたもののここまでである。解説者の曰く、恵那山の話をしてみたらアマテラスは皇祖神だからあちこちの山に祀られるよ、とものの分かった人である。
 そういえば、先日の鎌ヶ岳の山頂にも「天照皇大神宮社」の小さな祠があった。果たして鎌ヶ岳は信仰の山だったのか。いや、後から勝手に鎮座したものだろう。もっと前、奥三河の須山御嶽山にも天照皇大神の石碑があった。言われる通りである。
 恵那山の恵那の地名は恵奈で10世紀以前からあるようだ。それが山頂に埋められた経緯が分からないから伝説なのである。
 元来はあの阿木村の血洗池辺りを胞山と言ったのではないか。根の上高原や保古山と向かい合う無名の山の三角点の点名には血洗とあったからだ。
 アマテラスは一地方の神だったのに皇祖神になる。時期は持統天皇の時代。その時代から伊勢神宮の20年に1回の遷宮も開始される。その度に桧の用材を大量に消費する。皇祖神に献上する(させる)ありがたみを出すためにアマテラスの胞山を今の恵那山に変えた。恵那山の北から流れる湯舟沢の国有林は桧の宝庫でかつては森林鉄道もあったほどの桧は無尽蔵であった。
 桧は木曽川に流し、筏を組んで伊勢湾を航行して伊勢に運ばれる。運搬はトラックや鉄道に変わったが、木曽桧は今も遷宮に使われる。今や誰も疑いもしない、恵那山という名称に巧みな伝説の謎を思う。一先ず、胞を家内の土中に埋める文化が確実にあったことの確認であった。

人生ことごとく運である。 山岳遭難もまた運である。赤沼千尋2017年10月19日

 北海道の旭岳で吹雪の中下山中に道に迷い、沢でビバークを強いられた4人は今朝無事にヘリで救出された。あの厳寒の山中で耐えてみな生存していたのが奇跡に思えた。あの4人は本当に運が良かった。
 1989年10月8日の立山の稜線で吹雪かれて8人が死んだ。天気が急変する秋山は怖いと思ったものだ。撤退の判断ができなかったリーダーには悔恨の出来事だった。
 旭岳は迷い込んだ所が沢の窪みで良かった。不幸中の幸いだった。トムラウシ遭難の場合は吹きさらしの稜線で9人が死んだ。
 つくづく運の良さ悪さを思う。
 そこで思い出すのが表記の言葉だった。赤沼千尋『山の天辺』の中にある。赤沼は燕岳山荘の創業者である。
 続いて引用してみよう。
「ことに雪山、それは荒れた日には、眼も開けられぬ恐ろしさに総毛立つ魔者となり、晴れた日と雪崩と言う武器で、音もなく襲いかかる狡猾な肉食獣となることがある。登山する人間にとって、このような山の災厄から逃れられる唯一の道は、天候などの条件のよい日に登山する以外はない。
 そして、早く登山したいはやる心を押さえながら、良い天候を待ち続ける忍耐心と、待ちに待つ時間がとれるかどうかということが問題なのである。
 冬山は夏山とは違った生き物である。景観も通路も異なり、気象に一喜一憂しなければ、あっと言う間に風雪に吹かれて道に迷い込み、或いは雪崩の巻き込まれるのである」

 天気の良い日を選んで登山すれば遭難なんてまず起きないものである。ところがアルピ二ズムという西洋の登山思想に染まった登山者は悪天候を突いてこそ登頂の価値があるとばかりに突き進む。
 これは人間の業である。いや登山者の業である。
 どうしようもない感情である。国学者・本居宣長はこれを「もののあはれ」とかいった。映画監督の小津安二郎も映画で「もののあはれ」を表現した。
 小椋佳作詞作曲で美空ひばりに与えた「愛燦燦」の歌詞の一節に
   ♪雨 潸々と この身に落ちて 
    わずかばかりの運の悪さを恨んだりして 
    人は哀しい哀しいものですね♪
これまたどうしようもない人間の感情を表現して秀逸である。
 
 同じ忍耐なら厳寒の中で忍耐するよりも安全圏にいて、好日を待つ忍耐が良い。命あってのものだねということだ。
 故渡部昇一氏の『論語』の本で人生は待つこと、と解説してあった。中々待てないからだから修養が必要である。運を良くするには待つ修養が大切なのか。

シニア人材交流会で高岡市へ出張2017年10月20日

 朝6時半の地下鉄に乗車、7時半にはJR名古屋駅に着いた。コンコースは人でごった返している。花金ということだろうか。この移動のエネルギーを見るととてもデフレ不況にあえぐ日本ではない。バスの時刻まで間があるのでコーヒー屋に入ると行列であった。時間をつぶしてBバースへ行く。行く先は富山県高岡市である。
 シニア人材交流会に出席するためだが面談の時間は25分程度しかない。核心にふれようとすると時間切れになるので第一印象である。バスは定刻通り、10名を乗せて出発し、東海北陸道を走った。小雨と霧でさえない高速の旅だ。標高1000m付近が黄葉していた。 
 予定通り高岡市に到着するが面接の時間まではたっぷりあり読書に宛てた。順番が来て企業担当者と金融機関の2名と面談。その企業が抱えている課題の解決策を提案する。しかし、深い話はできない。2次面談に呼んでもらえるかどうか。数名が面談するので企業側に選択権がある。多分地元優先、若い人を選択するんだろうな、と思いつつ一縷の望みを抱く。最後は縁であり運である。
 帰路は5時半出発。名古屋駅前は9時半、自宅は10時過ぎになった。くたびれた。しかし、富山県にはゼニが落ちていると思って行くのみだ。次は豊橋市になる。小牧市の企業は2次面談はなしと連絡のメールあり。
 中小企業は無尽蔵だ。自民党が圧勝すれば来年はいよいよ人出不足が本格化する。シニアにもチャンス到来だ。当るまで行く。

救助要請は当事者でないとヘリは飛ばない2017年10月24日

 今夜は愛知岳連の理事会だった。様々な報告の中で書きとめておきたいことがあった。
 それは今夏、D山岳会4人パーティが槍ヶ岳の北鎌尾根で先頭が事故発生した際、場所が場所だけにドコモの携帯の電話が通じなかった。すぐ動けず、通りすがりの山岳ガイドの携帯がAUで使えたので救助要請を委託した。ところが、現地に3泊して食料も尽きかけても救助ヘリが来ない。それでメンバーの1人が携帯の通じるところまで降りて警察に連絡できた。何とかけが人をピックアップしてもらったという。
 なぜそんなことになったのか。いろいろ調査すると
 警察は当事者からの通報でないと動きませんとのこと。また山岳ガイドもピンからキリまであり、ただの添乗員みたいなのもいるので信頼してはいけないとのことだった。それよりなにより山岳ガイドはお客の引率が使命であり、旅行会社の命令下にあるので余計な仕事には係わらないとも言われた。つまり当てにしてはいけないのである。

 もう1つ、別の報告でも事故が発生して救助要請する際は、警察へダイレクトに連絡せよ、とのことだった。山岳会の留守役、家族、友人を経て連絡すると、警察がすぐ必要な事情を聞いてくるが、当事者以外だと、今どんな状況なのか、分からない。怪我は食料はメンバーは現地の様子はなど緊急で知りたいことがおおく、ヘリを早く出動させるにも正しい情報が欲しい。

 というわけで、救助要請は他人に委託しないこと、警察とつながったら「山岳事故です」と通報すること。それでも、単独行で事故ったら通りがかりの登山者は有力な協力者になりうる。過去には通報してもらって助かった例もある。この点は考えものである。
 結局、山岳ガイドがきちんと救助要請してくれたかどうか。警察は連絡をうけても動かなかったらしいがちょっと信じがたい。長野県は今ヘリが飛ばせないこともからんでいると思う。現在は埼玉県から飛んでくるらしい。
 墜落事故でヘリを失い、今は特別態勢という。
https://thepage.jp/detail/20170721-00000009-wordleaf
 こんな事情もあるかも知れません。

 山の常識の基本のキのような話であるが、遭難事故が激増している今は心しておきたいことである。

ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏の祖父2017年10月27日

 週刊現代10/28号を読んだらノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏のことが出ていました。その記事でかれの祖父が東亜同文書院大学OBと知りました。
 ウィキペディアの生い立ちには「長崎県長崎市新中川町[2]で海洋学者の父・石黒鎮雄と母・静子の間に生まれる[3]。祖父の石黒昌明は滋賀県大津市出身の実業家で、東亜同文書院(第5期生[4]、1908年卒)で学び、卒業後は伊藤忠商事の天津支社に籍を置き、後に上海に設立された豊田紡織廠の取締役になる[5][6]。」とあり間違いはないです。
 東亜同文書院大学は上海にあり、中国語の語学力、中国の歴史、経済、商習慣、政治などを学びます。卒業後は商社マン、外交官、政治家、ジャーナリストなど様々な人生を歩みますが、コスモポリタンに生きるのです。つまり日本人であるが、ダブルスタンダードで世渡りするといいます。日本の国益だけを考えている訳ではない。
 コスモポリタンといえば、丹羽宇一郎氏もそうです。氏は名大OBですが、伊藤忠の幹部から中国大使を歴任して話題になりました。花田紀凱氏の評価は「日本は中国の属国として生きていけばいいのです」。丹羽氏は自信に満ちてそう明言したのだ。要するにこのところの日中関係の冷え込みで、自らの商売にもさしつかえるようになった。だから中国よいい加減にしろと言ってるのだ。商売さえできれば、日本がおとしめられようが、領土を奪われようが知ったこっちゃないが、商売に影響があっては困るのだ。
 カズオ・イシグロ氏もまさにコスモポリタンなのです。現実にはイギリス人として生きながら、文学者としては日本への望郷の念を隠さない。小津安二郎の映画に愛着があり、「もののあはれ」を学んだのでしょう。そうと知れば急に親しみがわきます。1冊くらいは読みたいと思います。ではどんな作品が良いのか。
 ググってみると『わたしを離さないで』みたいです。アマゾンの書評「著者のどの作品をも超えた鬼気迫る凄みをこの小説は獲得している。現時点での、イシグロの最高傑作だと思うーー柴田元幸(本書解説より)」とあります。