緑区滝の水緑地4等三角点へポタリング2017年11月03日

 午後3時、読書の乱読に飽きてポタリングに出た。目的地は名古屋市緑区滝の水緑地の4等三角点である。点名も滝の水緑地で63.8m。
 自宅は約15mの低地なのでまたペダルをこいで坂道を登る。R302号の側道に達したら、最高点である68mの標高点を通過する。そして西友ストアのある神沢の交差点までは長い下り坂を気持ちよく下る。そして登り返すとピアゴ滝の水店のある交差点だ。ここを過ぎると又下るので側道沿いに踏み跡がないか探るがないので戻って北側の住宅地との間の車道を走ると滝の水緑地の園地に着いた。ここまで4.8kmだった。
 東屋、ベンチ、トイレがあり、遊歩道まであった。今は小さな池の水を抜いている作業中だった。俳句の冬の季語に「池普請」があり、まさにその仕事であろう。立冬以後は水も枯れて、作業がしやすくなりこんな仕事が増えるだろう。
 園地の一角に自転車を止めて遊歩道を登る。赤松を主体にクヌギなどで構成した雑木林であり、典型的な里山の緑地である。歩道は幅1mあり2人で連れだって歩ける。散歩帰りの老夫婦とすれ違った。今はまだ緑だが冬になり落葉すると若干は見通しも良いだろう。登るというほどの傾斜も無く、4等三角点の「山頂」に着いた。5分くらいか。北側に開けており、藪の向こうにはピアゴやR302号の道路が見えた。晴れれば冬の白い御嶽山や恵那山が見えると思う。
 「山頂」から南に下る階段道があったので下ってみた。同じような雑木林の道である。主婦らしい「単独行者」に会った。キッチンを離れてふらりと歩いているのだろう。そのまま歩くと二手に分かれる。左は登り気味に山手に続き、右の凝木の道は湿地帯の木道である。
 わずかに水が浸み出している。そして小さな池に溜まるのだが、水抜きをしたばかりなので泥が日を浴びて新しい。作業は何とか協議会の腕章や高校生らしい子供らが協同でやっていたらしい。
 腕章の人に聞くとここは市有地で、かつてはサギソウも咲いていたが今は株を移植して咲かすらしい。宅地開発から逃れ、大都市に奇跡的に残された自然の一こまである。湿地ゆえに宅地に不向きとして残ったのだろう。
 帰路はR302号を戻り、島田住宅東まで登り返す。中平4丁目まで気持ちよく下り左折。このところ気になっていたマツダの販売店へ寄った。CX-8の展示車がないか、と思ったが来月半ばとのこと。クリ―ディーゼル、燃費17km/l、最低地上高20センチを確保した最新のSUVだ。車両価格で350万円超の高級車である。カタログをもらって当面夢を見させてもらう。喫茶店で一休みして帰宅。

晩秋の裏木曽・井出ノ小路山界隈を歩く2017年11月06日

 11/4の夜、世間ではもう寝るか、という10時過ぎ、メンバー4人が合流して名古屋市を出発。中央道を走って、中津川市から下呂への南北街道から付知峡に分け入ると、零時を回った。赤石園という小さな園地に幕営、空には都会では見られない青い月が微笑んでいた。月明かりだけでもテントは張れるほど明るい。おそらく零度近い気温に、ビールを飲む気になれず、ミニ宴会もなく5時起床とだけ約して1時30分に就寝。
 11/5、5時、非情の目覚ましベルに起床。簡単な朝食をとる。直ぐにテント撤収。登山口の林道ゲートまではすぐだった。身支度を整えて出発したのは6時20分となった。ゲートをくぐって林道を歩き始める。真弓峠への分岐を過ぎ、井出ノ小路橋を渡ると左岸に移る。合体木とか、神宮備林の案内板のあるところで美林橋になり右岸に渡る。しばらくはいい道だったがヘアピンを過ぎたころから路盤が荒れ始めてきた。谷が押し出されて埋まったところもあり、帰路、日没を想定してリーダーのW君が赤い布をべた打ちしてくれた。林道は延々続いたが突然、堰堤から下流の谷底がえぐられた箇所に来た。ここが事実上の登山口の茶屋小屋谷である。
 堰堤の左を巻いて谷芯に降りて遡行を開始した。遡行とはいえ、この時期は水は伏流して荒れた登山道を行くような感じで登攀の趣きである。かつて水が流れていたので岩は浮石が多く油断が出来ない。石車や抱き石に注意した。堰堤からしばらくは谷が立っているので高度は稼げる。厳しいところを過ぎて安定した谷相に入った。
 時計を見ながら鞍部へは予定通り着くかどうか。心配していると突然、明るい谷にも関わらず、右へ振るというリーダーの指示で笹を漕いで枝沢に移った。なるほど、上方からは明るい日差しが見えて今やっと日が昇ったかに思える。東南の方向へ振ったのである。
 苦労の末にたどり着いた鞍部は井出ノ小路山への鞍部ではなく、中の谷1806.4mへの鞍部であった。この時点で目的地への登山は断念せざるを得なかった。折角1700mまで高度を稼いだのだから中の谷の三角点を稼いで下山しようと提案したら乗ってくれた。この地点から下山すれば明るいうちに車に戻れるが手ぶらでは帰れないと誰しもが思ったのだろう。
 鞍部から中の谷への話は以下の通り。(東海白樺山岳会ブログ)
 井出ノ小路山と1806.4mの2等三角点の鞍部に詰める予定が、朝日が上がった方向(東南)を鞍部と勘違いして、その枝沢に乗り換えた。ここでコンパスを出して確認すべきだった。山勘だけに頼ると陥りやすいミスだ。ただし、現在位置は確認できたので、1806.4mの2等三角点「中の谷」だけでも踏んで下山することとした。間違った鞍部から激ヤブを漕いで中の谷に登った。途中、御嶽が至近距離に見え、遠く白山もみえて癒された。私は2回目で、中の谷は夕森山からヤブコギで往復した記憶がある。そばには抜き取られた御料局三角点が埋まり、桧の良材の宝庫だったことを彷彿させる。1806mから鞍部へは踏み跡もなく訪問者はきわめて限られた好事家しか登らないのだろう。鞍部も古い赤テープがあるだけで踏み跡は一切ない。
 井出ノ小路山は登山者のまれなヤブ山である。
 溝状の谷の下降も最初は急で神経を使う。半ばから少し傾斜が緩くなるがまた急になり、登る際には岩登りの感覚で登攀した箇所は右岸の笹薮の中のかすかな踏み跡をたどって下山した。堰堤から下流は谷底がえぐれて大変に荒れていた。蛇抜けであろう。日没前に林道に下れて良かったが、美林橋から上は荒れて谷の崩壊があり、押し出された土砂で埋まっていた。リーダーのW君は往きに日没がありうると想定し、危険箇所に赤い布をべた打ちしておいた。美林橋の手前から日没し、ヘッドランプで下山した。
 夜明けは6時16分ころで、ゲート前を朝6時20分に出発し、戻ったのは18時30分超で実に12時間以上の長丁場であった。日没の早いこの時期としては前夜発日帰り登山の限界を超えていた。中の谷を経由しなければ2時間は早く下山できただろう。中の谷をゲットできただけでも良しとしたい。
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 下山が遅れて温泉入湯は出来ず、夜自宅で入浴後、体重計に乗ると74.75kgを指した。少し前から1kgの減量となった。朝食はコンビニのおにぎり1個、バナナ1つ、カップ麺1杯、行動食としてミカン2個、餅を5つ、はちみつのスティック2本、300mmの牛乳1個、ドラ焼き1個を食べた。これだけ食べても空腹感があり、恵那峡SAでは夕食にビフテキカレーを平らげた。それでも減量したのだからいかに激しい運動量だったか分かる。ただし水は水出し麦茶1リットルで足りた。

うらをみせおもてを見せてちるもみじ 良寛2017年11月07日

 裏木曽の山に遊んだ際、紅葉、黄葉も盛りでした。全体が針葉樹林ですから殺風景な山を装う役目を果たしています。男性ばかりの集団に少数の着飾った女性が紛れ込んでいる風景です。

 さて、掲載の句は紅葉且つ散る、という季語をうまく織り込んでいます。全部落葉するのではなく一部が散りながら全体は多くが枝にとどまっているイメージです。そんな中でひらひらと散るのですが、裏を見せ、表を見せて散るという表現が秀逸です。
 良寛といえば、歌人とばかり思っていたのですが、こんな俳句も残していたんだ、と目を開かれた思いがします。この句の句碑が倉敷市にあるそうです。

 そのブログ「歴史・文化の町<倉敷>周辺の隠された魅力
地元倉敷に住み 倉敷を愛する「倉敷王子」が見た<倉敷周辺>を紹介してゆきます」から
https://blogs.yahoo.co.jp/kurashiki_prince/18941259.html

 「倉敷の玉島円通寺で若い頃修行した良寛は,住職の国仙和上から印可の偈(げ)を受け取ると,生まれ故障の越後に帰り,そこで晩年を迎える。

 円通寺には,良寛の辞世の句と言われている句碑がある。

 説明看板には,下記の説明が載っている。
 

      うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ


 これは良寛の辞世の句である。出家雲水の生活に入って
     
 実相の世界に住んだ良寛の,最後に到達した名句である。

 自然に観入したこの句は,また人生の真実を詠んで含蓄深い。

 この句碑が若き日の良寛ゆかりの円通寺に建てられたことは

 誠に灌漑(ママ 注:感慨)深いところである。

 すでに当山に建てられた良寛の漢詩や和歌のそれぞれの

 碑と合わせて この句碑は 浄土の世界に遊んだ良寛の心を

 窺い知るこの上ないよすがとなることであろう。

                       平成元年五月吉日
                       玉島文化協会

 越後で雲水の僧として各寺を訪れていたが,やがて五合庵という小さな板敷の庵で清貧に甘んじた生活を送る様になったことが知られている。

 雪深い越後の地で,食べるものが無くなると托鉢の為に山を降り,囲炉裏で燃やすものが無くなると山に枯れ枝を求め暖をとっていた。

 しかし良寛にも,<老い>は確実に訪れ,特に雪深い冬には水の様な粥をすすって飢えに耐えていた.恐らく死を覚悟したことは一度ならずあったことであろう。

 これを見かねた良寛の支援者である木村家が自分の蔵に良寛を住まわせ,ここが良寛の終焉の地となった。
  
     <木村家の良寛を見ずして良寛を語る勿れ>とまで
     言われたほど,能登屋木村家には100点を超える
     良寛及び関係者の遺墨が保管されている

 この場所に移ってから暫くして,良寛が70歳の時,若い尼僧である貞心尼と出会った.貞心尼は色白の美人と言われ,良寛と出会った時は30歳であった。
 その後の二人が交わした歌を追ってゆくと,その出会いは運命的と思わずにはおれない。

 二人が交わした歌が多く遺されている。

 人目を憚らず,手を携えて野で花を摘み,満月の夜,月を眺めながら語り明かし,,子供の様に二人で手毬をついて戯れる姿が,その歌から読み取れる。

 二人の年齢差は40歳もあるが,歌に込められた想いにはとてもその年齢の差は感じられない.それどころか,男と女の関係すら感じられるほどである。

 しかし,良寛と貞心尼とが出会って5年経過した冬のこと.老いた良寛は遂に自身ではたつことすらできなくなったという.

 寝たきりになった良寛は,トイレも1人で出来なくなり,尿と便で汚れたままになった着物を身につけたまま,誰かが来て取り替えてくれる日を待つようになったと伝える記録もあるらしい。

 良寛は自分の死期が近いことを悟りながらも,貞心尼を想う気持ちが次第に高まってきた.しかし貞心尼が良寛の住む場所に来るには,雪深い難所の峠を越えなければならない。

 夏でも難所と言われる峠を,雪深い冬のこの寒い時期に女の足で超えられる筈もないと思いながら,極度に高まった貞心尼を慕う熱い気持ちを,弾ける様に,次の歌を詠んだ。

    梓弓 春になりなば草の庵を

    とくとひてまし逢ひたきものを

 この歌は貞心尼の元に届けられた.誰かが,見かねて貞心尼に届けたのであろう。
 
 貞心尼は良寛の死期が近いことを悟った.そして,この歌を受け取った貞心尼は,良寛の元に,雪道を走った。

 彼女と行動を共にした人がいたかどうかは知らない。

 彼女は,雪深い峠を,凍死するかも知れない危険を冒しながら,死ぬ前にもう一度だけ良寛に会いたいと,一心不乱に雪道を駈けた。

 そして,病臥に伏せていた良寛の枕元に辿りつき,生きて師である良寛に会うことができた。

 貞心尼の姿を自分の眼前に見た良寛は,喜びの余り布団から身を起こし,貞心尼の手を取って涙を流して泣いたと言われる。

 その時詠んだ歌がある。

    いついつと 待ちにし人は來りたり

    今はあひ見て何か思はむ

 貞心尼も,その時良寛の死が近いことを知り,その時の気持ちを歌っている。

     生き死にの 境はなれて住む身にも

     さらぬわかれの あるぞ悲しき

 良寛は,駆けつけた貞心尼の手厚い介護を受け,10日後の年が明けた頃に,最愛の尼弟子<貞心尼>に見取られながら,この世を去った。

 別れる間際に,良寛の口から洩れた句がある.現在では,この歌が良寛の辞世の句と言われている。

   裏を見せ 表を見せて 散るもみぢ

 この句を見るにつけ,今年の歌会始めの雅子妃が詠んだ次の歌を想い出す。

  吹く風に 舞ういちやうの葉 秋の日を

  表に裏に 浴びてかがやく

恐らく,心が砥ぎ澄まされてくると,空から落ちてくる一瞬の落ち葉の振る舞いが,映画のスローモーションをみている様に永く永く感じられるに違いない。」
以上

 何と言っても写生から実相観入(斎藤茂吉の短歌論)して、深い心を詠んでいるところが良い。こんな境地になるには修業がいるんだろう。

塩味論争2017年11月10日

 http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171026-OYT8T50009.html?page_no=2
 記事中の「一方、給食が「まずい」理由として、塩味があまり強くない薄味であることをあげる人がいますが、これには同意できません。子どもが塩分を取りすぎないように配慮して、味付けをしているからです。こうした味に慣れておくことは将来の生活習慣病の予防にもつながります。また、薄味なら、食材そのものの味を楽しむことができます。」というのですが、サンデー毎日11/19号に反論が掲載されていました。
 飲食店の味噌汁を飲むと、出しをきかせる汁と味噌味だけの汁とに分かれます。薄味なら出しをきかせればいいのですが、コストの制約があるのでしょう。出しは結構高くつきます。
 私がごく親しくしていた医者からも塩分と高血圧に因果関係はないと言いました。なぜこんな混乱が生じているんでしょうか。
 2年前に入院した病院でも西山さんは血圧が高いからと降圧剤の処方を勧められましたが断りました。食事指導にしてくれ、といいました。年相応に高血圧になることと降圧剤そのものが飲むと習慣になり止めるとやがて死にいたることがあるのです。知人2名が降圧剤の服用をやめて後に死んでいます。栄養士との雑談では本音を言いました。医者と製薬会社の癒着があることです。過去の健康情報は間違いだらけです。
 スポーツ面からでも塩分補給は大切です。塩分が少なくなると死にいたることがあります。スポーツマンが意外に早死にするのも塩分はじめミネラルの不足と思われます。
 執筆者が栄養指導の実務家であり専門家でも鵜呑みにはできません。粗食がブームになりましたがやはり下火になりました。長命で粗食の人はいないそうです。
 ある山寺の僧の墓をみるとみな40歳代でした。塩分の不足に思います。南アルプスの獣らには塩をなめる場所があるようです。塩は大切な栄養源なのです。塩分摂取に関する正しい知識を得たいものです。

猿投山の北尾根と戸越峠界隈を歩く2017年11月19日

北尾根で見つけた滑子
 余りの暑さに負けて撤退した7/15の再挑戦である。8時30分に県道33号から沢に伸びる車道に入る。7月はムンムンした草いきれと水滴でびしょぬれになったが、今は落葉し草も枯れて踏み跡も明瞭になって歩きやすい。車道終点から沢に下りる。沢歩きといっても沢足袋などは使わず、登山靴のまま渡渉するのである。
 最初は傾斜も緩くどんどん遡る。すると最初の堰堤に当たるので左岸から巻く。また沢床に下りて溯ると最初の分岐に出た。左又へ行く。先月の台風でまだ緑の葉をつけた灌木が倒れてやや歩きにくい。7月には見なかった赤テープがあるので好事家が入渓しているのだろう。
 7月には右岸の高巻をしたが、今回はゴルジュに入った。風化花崗岩の地質であるが、両岸が切り立っているからゴルジュと言える。左岸の山腹の根こそぎの倒木が沢一杯落ちて前途を阻んだ。小滝もあるので右岸から巻いた。巻きあがった所は7月に左岸から北尾根にエスケープした所だった。ここで一旦ゴルジュは途切れた。
 ゴルジュは滝の後退という。その通りである。滝が落ちて浸食が進むと沢が削られて、溝状になるのだ。
 今回はエスケープ地点からも沢を進んだ。ゴルジュではないがV字形の険しい渓谷であある。猿投山の秘渓といいたいが、高巻道はあるし、山腹に古い道形が残っているので知る人ぞ知る溪であろう。第一、二次林や植林の山では自然味は少ない。険しさだけが取り柄である。
 二股ではスマホでチエックをしてもらったが、必ずや赤いテープのマーキングがあった。これを信じて進めば問題ない。とはいえ、先蹤者にもミスはあるので注意するにこしたことはない。
 どんどん進むうちに沢が立ってきて傾斜が強くなった。元々細かった水流も途絶えた。稜線が明るくなってきた。落石に注意しながら這うように登った。源流が広がり右手の尾根に乗り移ると踏み跡や赤テープがあった。たどっていくと北尾根の界標131に達した。10時30分、2時間が経過していた。ここで小休止。
 南へ歩くと、赤テープを2重に巻いた分岐に着いた。これが地形図の破線路の道だが、7月はここから踏み跡をたどったがすぐに見失い、藪尾根を強引に下って東大演習林の林道に下りて県道に出た。
 分岐から南へは独立標高点480mへ行き、猿投山に達する。11時となり、登頂すると往復2時間、下山1時間30分を見込むと日没につかまる恐れがあるので引き返した。
 再び、沢からあがった地点に戻り、北尾根の急斜面の山腹とやせ尾根のマーキングをたどりながら北進する。地形図の戸越峠の「越」のところのコブには左を巻く赤テープと直進に分かれた。左は峠へ行くのだろう。直進してコブに達し、右折した。このコブから右(東)への踏み跡やマーキングがあった。明瞭な尾根であったから不安なく下れた。最初の右又と左又の分岐だった。沢床を行くと2回目の堰堤があり左から越える。すると良い道がまた沢に下っていく。さらに最初の堰堤も左から越えてすぐに車道に出会った。後はマイカーまで戻った。帰路につくと間欠ワイパー程度の小雨になった。猿投山は黒い雲に巻かれていた。時雨模様の寒い1日だった。
 帰路は保見から長久手市に周り、「ござらっせ」で入浴して体を温めて帰名した。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/07/15/8621285

池田輝政と姫路城までの軌跡2017年11月19日

姫路城2017.10.28雨
 11/9に豊橋市に所用で行った際、駅前の精文館書店で『三遠の民俗と歴史7号』(三遠地方民俗と歴史研究会編)を購入した。立ち読みしたら、中野豊光氏の「池田輝政の飛躍は吉田城にあった」という論考が目についたからだった。
 テーマは「豊臣秀吉によって愛知県豊橋市の吉田城に入り、徳川家康によって姫路に移った」ことである。冒頭にメインテーマを掲げて、後で肉付けしてゆく。
 輝政は時に27歳にして15万2千石に取り立てられる。そして吉田城を10年間にわたって城下町とともに拡張してゆくのである。
 輝政31歳にして、何と家康の娘督姫(30歳)を娶る。秀吉の死後、1599年の関ヶ原の戦いでは当然、家康につく。これで52万石の加増となり姫路城に移った。本書はここまでの記述で終わる。
 輝政の吉田城時代の仕事ぶりが秀吉のみならず、家康の目にも留まったであろう。秀吉の一声で督姫を娶らされるが、それが一大転機となった。姫路城の改築には吉田城での経験が良い試練になった。
 輝政の才覚もさることながら池田家には相当先の読める家臣がいたにちがいない。織田家+家康を相手の長久手の戦いでは家来に戦に行くのを止められた運、秀吉の指示で吉田城を任された運、家康の娘と縁を結んだ運、関ヶ原の戦いでは家康の計らいで実戦には加わらず、大切にされたことが伺える。
 人生はことごとく運である。とはいえ、どんな人間性だったのか。運ははこぶものだ。信長には勇断と細心を学び、秀吉には細かい配慮と深謀遠慮を学んだだろうし、家康からは待つこと=辛抱(運が巡ってくるまでの)と愚直を学んだか。輝政の生涯には三英傑の人生の知恵が詰まっているかに思う。

 話は前後するが、10月28日は行政書士の支部旅行で姫路城へ行った。あいにく雨にたたられたが、立派な城だった。ガイドさんの解説の名前に本多などの名前が出てくるとここは尾張と三河勢で固めてあると知った。もう一度丁寧に歩きたいものだ。
 退城後は日本料理屋の「生松」で美味しい御馳走をいただき、さらに酒蔵も見学して新幹線で帰名した。
    秋雨や生松の味旅の味    拙作

第20回名古屋モーターショーへ行く2017年11月24日

 朝、マイカーに自転車を積んで名古屋モーターショーの会場・ポートメッセなごや (名古屋市国際展示場)へ行く。以前に稲永まで自転車でポタリングしたが、交通量の多さ、信号の多さで疲れた。稲永までマイカーで行き、ポートメッセまでポタリングと計画したが、距離が少ない。荒子川公園からの距離は9.3kmと出たので荒子川公園のPに駐車した。
 Pは午前中ながら数台は空きがあった。早速、走りだす。稲永までは既視感があるのは当然だ。稲永からは企業の配送センター、倉庫、工場がならぶ。ほぼ一直線の道を走るとやがてポートメッセに着く。マイカー組はPに入るため行列中だった。自転車を適当な場所に固定。入り口まで行くとチケット売り場も行列だった。
 当方は前売り券ですいすい入場、まずはマツダのブースへ。目当ては12月中旬発売の新型CX-8に注目。幅1840、長さ4900とあってかなり大きいという印象である。運転席、後席、3列目にも試乗させてもらった。運転席は深深として、前方視界が悪い。フロントを見下ろす感じがなく、前方のみ視界が広がり、車両感覚がつかみにくかった。特に左側の死角はハイウェイ走行以外は気になる。着座ポイントをかなり高くしないと解消しないだろう。ここがどう評価するか。タイトなカーブの山道走行は厳しい。左側が絶壁の道も怖い気がした。
 次は三菱車のブースだ。D-5に試乗してみた。幅1795、最小回転半径5.6mはCX-8より20センチ短いから扱いやすい。アイポイントが高く死角は気にならない。外から見て肩から腕が15センチ見えるか隠れるかで死角は改善される。アウトランダ―と姉妹車も良い。
 スバルのブースではレヴォーグに試乗してみたが、これはかなり良いデザインであった。SUVの先進的なメーカーと思わざるを得ない。但し、ガソリン車しかない。
 ディーゼルはD-5,CX-8がラインアップするのみ。
 日産のブースは見るべきクルマがなかった。エクストレイルは旧型はあったディーゼルを排してハイブリッド化してしまった。丸いデザインは大きな車体を小さく見せるから扱いが厄介である。
 鈴木のブースの参考出品車のクロスビーは1000ccながら楽しいクルマのようだ。長距離走行をやらなければこれで十分だろう。トヨタ、ホンダ、ダイハツとも見るべきクルマはない。
 それにしても日本人はクルマが大好きなんだ。連休の谷間でも皆さん休暇をとって車を見に来たんだろう。だから1億人余の市場なのにトヨタ、日産、ホンダ、スバル、マツダ、三菱、ダイハツ、鈴木などが相当な売上を確保している不思議。
 3号館に移動。愛工大のブースに置かれていた初代カローラを見て懐かしかった。日産サニーの1000ccに比べて、プラス100CCの余裕とか日本のハイコンパクトカーとかいう宣伝を思い出す。他の見学者とともにこんなに小さかったかなあ、と話した。シンプルな運転席にも目を見張った。
 2号館はヨーロッパ車専門のブースだった。どの車も一回り大きい。そんな中でルノーはかなり日本車にちかくコンパクトであった。それを係員に話したら日産と組んでいるから最近のルノーはクルマ作りがうまくなりました、という。車台を共通に使用しているのかも知れません。ルノーは倒産しかかっていたところをゴーン社長が乗りこんで再建している。日産も同じだった。ゴーン社長のすご腕というべき経営術を尊敬したい。約3時間見て回って退場した。また自転車をこいで荒子川公園に戻った。

忘年山行(那須ヶ原山~唐木岳)兼新人歓迎会2017年11月26日

 11/25から11/26にかけて山岳会恒例の忘年山行と1名の入会者があったので新人歓迎会を催した。場所は鈴鹿南部のゲストハウス関ロッジ。かつては国民宿舎だった宿だ。観光の目玉がない亀山市周辺では経営が覚束ないのか数年前に閉鎖してしまった。今回は7月ごろにリニューアルオープンしたが、一度利用した実績もあり、また使ってみることにした。
 但し、料理は自分らの自炊ということになった。メニューはすきやきにして食材調達は会の幹事が担った。
 ともかく午後5時ごろにはメンバー13名がそろった。テーブルにコンロ3台、あらかじめ切ってある食材を並べて調理してゆく。アルコールはビールは館内自販機で買うのが条件。焼酎は持ち込み可能というのでずらっと並んだ。差入れの日本酒もあって山屋にふさわしい宴会になった。自己紹介から始め、あとはもう宴たけなわとなるや気が付いたら布団に寝ていたという次第。1名が宴会後帰宅して12名が泊った。
 26日は帰宅組と山行組に分かれて行動。山行組は6名が残り、R1から滋賀県入り、蟹坂から大原貯水池を目指す。参道橋の先にいいPがあって2台を止めた。
 参道橋まで戻り、舗装の林道を登り始めた。荒れた林道の終点から山道が始まる。黒滝の手前の小屋に2合目とあった。参道橋といい、2合目の表示といい、那須ヶ原山へのメインルートだった証拠だ。登るにつれて傾斜が増す。谷から尾根を伝い高度があがった。枯れすすきが晩秋の山のシンボルのようになびく。遠くには綿向山、雨乞岳、御在所岳、鎌ヶ岳と鈴鹿を代表する1000m級の名山が横に並ぶ山容が圧巻である。
 2回目のネットをくぐると山頂は近い。約1時間ほどで登頂。簡素な祠を風雨や風雪から守るために建物で囲ってある。その下も避難小屋か登拝者の休憩室が設けてある。三角点は建物の後にあった。
 ここから81歳の長老と女性は下山し、我々4人はミニ縦走の道に入った。稜線は土が痩せているせいか、つつじ科のあせびのトンネルになっている。春の開花期には白い米粒のような花を咲かせる。
 三つ頭山、唐木岳へは標高差はないが、細かいギャップが続く。キレットを通過、小笹山に立ち寄り、さらに坂下峠への道を下降した。峠道は三重県側へ下る。若干登り返す。災害で荒れた道を歩くときれいな舗装の林道に出てPに戻った。
 山上でリーダーのスマホに連絡があったが電池切れでキャッチできなかった。下山後、宿に寄ると布団の中に時計の忘れものがあったと知った。メンバーの1人だったので良かった。管理人の計らいで無料で入浴を勧められた。もちろん、ありがたく入浴させてもらった。
 これで万事終了であったが、リーダー同行でもう一つ立ち寄りたいところがあった。今夏訪ねた亀山市の能褒野(のぼの)にあるヤマトタケルの墳墓と鈴鹿市の加佐登神社と白鳥塚を訪ねた。後はR1,R23を経て帰名した。