恵贈!安藤忠夫著 画文集『絵本 わが山の日々』~山道も下山に入って~2017年01月22日

 1/21の新年会でご当人から恵贈を受けた。著者の安藤忠夫氏は愛知県足助町の産と聞いた。愛知県立高校の教諭の職のかたわら登山を継続してきた。JACの他に日本山書の会の会員であり、東海支部きっての教養人である。現在は仕事から完全にリタイアして信州・安曇野の一角に新居を構えて夫人とともに暮らしている。
 目次を読むと23本の章立てからなり、北アルプスを主に、御嶽、中央アルプス、八ヶ岳の山名が並ぶ。もちろんガイドではなく、随想集である。そのページに自筆の彩色の絵をちりばめた。ゆえに絵本と言うのだろう。
 眺めているとふと気づいた。安藤氏のもっとも好きな奥美濃は一遍もないことだった。しかし、あとがきを読むと、そんな脂ぎった山行記からは脱して来し方を振り返る趣向なのである。そして本書は饅頭本のつもりと別記する。古来希成りを過ぎて73歳という。いよいよお迎えの声を聞いたのだろうか。
 ちょっとは中身にも触れよう。P62の百瀬慎太郎著『山を想へば』から、の項。今も私が読んでいる最中だからつまみ読みしてみた。
 実は東海岳人列伝で取り上げた「伊藤孝一」の友人という立場で第一級の資料として、読んでいる。愛知県図書館を経由して、富山県図書館所蔵の同著を借りている最中である。今は古書が安いのでアマゾンをクリックして購入するが同著は33000円もするので借りた。借りた本も鉛筆書きされた38000円の値付けが読み取れる。山岳書としても名著にして稀覯本の類に入る。こんな本を安藤氏は蔵書に加えているのである。
 槇有恒の序文を読むと、百瀬は隻眼とあった。子供の頃は辛い思いで育ったようだ。旅館業も彼が好きで継承したわけではなかったという。「この自分の職業にむしろ批判的であった彼は、打算に疎くその深い教養によってかえって広く多くの友人との交誼を得たと思う。」と書いた。その通りである。
 中でも名古屋の伊藤孝一、燕小屋の赤沼千尋とは30年にわたる水魚の交わりを得たのである。そして、登山史に残る山岳映画撮影行として針ノ木峠越え、真川から薬師岳積雪期初登頂、上ノ岳から槍ヶ岳初縦走を記録した。遺稿集に伊藤孝一もあとがきの前の追憶蘭に書く地位を得た。「山を語り得た人」である。別格の扱われ方である。
 短歌蘭には50歳の時の回想の一首があった。
 ”此の山の真冬の深雪踏みしだき心しまりし昔思ひいづ”
     (大正12年2月、立山針の木峠越え)

 病中雑吟にも佳吟がある。3人の友情の溢れた一首だ。
 ”友垣の情けうれしも菊の花菜の花などをとりそへたまふ”
 (伊藤孝一夫妻、赤沼君)
 ”北陸の旅の便りもともしかりまして和倉の塩のいで湯は”
 (伊藤孝一氏)
 ”神風の伊勢の入海舟ゆき黒鯛釣ると羨まし黒鯛”
 (名古屋伊藤孝一氏)
 曾遊回顧の中から
 ”知多の海内海の浜にみさけりし鈴鹿の山の姿はおぼろ”

 12月21日夜伊藤孝一氏への手紙書きつつ浮かび出るままに31首の中から
 ”二十年はすでに経ちにし冬山の思い出の文書かむとするも”
 ”若かりし頃のゆたけき思い出を思ひつつ寂しわが五十一”
 ”深雪を蹴立てて来る時じくも芦倉の猛者八人来る”
 ”榾の火にいつくしき面火照らせつ平蔵が酌む茶碗酒かな”
 ”板倉さんの飯盒の蓋が火にとけしとしみじみとして八郎は語る”
 ”平蔵がどっかと雪に腰下し板倉さんは此処ですといふ”
 
 昭和19年 52歳 16首
   伊藤孝一の令閨死去
 ”愁しみを胸につつみて山を下る足下にふと龍胆の花”
  
 以下の歌は師匠が旅と酒と短歌に生涯を送った若山牧水であることを思うと苦笑を禁じ得ない。
 ”酒に生き酒に傷つく我にして忘れがたかる酒の味かも”
 百瀬は昭和24年、58歳で逝った。同い年の伊藤は昭和29年に62歳で逝き、赤沼は83歳の長命を得て、昭和54年に逝った。黎明期の北アルプスを知る生き証人を失った。「山を語り得た」百瀬の死は早過ぎた気がする。
 ”喘ぎつつ登り来たりてわが齢老けしを思ひ心寂しむ”
 50歳代にしてこんなに弱っていたのか。年は違えどだれにもこんな歌境になる時期が来る。

 安藤氏の住居は針ノ木峠にも近い。百瀬慎太郎に想いを寄せつつ、コマクサの花をめでる。そして、蓮華岳とはコマクサの群落に由来するのではないかと夢想する。コマクサの色はなるほどレンゲソウの赤紫の濃い色に似ている。それもあり得る。私は前田普羅の名句”霜強し蓮華とひらく八ヶ岳”のように寒い朝、眺めた山容に蓮華を見たのではないか。神々しさを想像する。新潟からの白馬岳は大蓮華山と呼ばれたごとしである。またそんな話をしに行きたいと思う。

恵贈!『山その大いなる旅Ⅱ』同志社大学山岳部・山岳会2017年01月22日

 1/21の新年会で和田豊司元支部長から恵贈を受けた。A4サイズ、244ページの立派な製本である。
 同志社大学山岳部の前身のスキー部が1925(大正14)年に創設されて、2015年で90周年を迎えたことから編纂された記念誌である。旧制大学発足は1920(大正9)年だから山岳部はその5年後に創部された。
 日本の近代史とともに歩んだ歴史のある大学と理解する。2011年に創立者の新島襄の妻の八重を主人公にした舞台劇は観たことがある。少しは同志社の歴史をかじったのである。
 また私の所属する山岳会にも同志社大学法学部OBで名古屋高裁に勤める会員がいた。女性でも転勤させるから優秀な官吏だったのだろう。
 私のようなものにも恵贈されたのは目次を一覧して東海支部に縁のある登山隊との関係だったと理解した。クビ・ツアンポ源流域学術登山隊の報告をメインに編纂されている。私にはヒマラヤの遠征経験もなく、少しでも理解をしようと、岩波文庫『ツアンポー峡谷の謎』という本を読んだことも思い出した。読んだだけではだめで、この本と合わせて読めばヒマラヤの秘境を知ることができるだろう。
 2007年のクビ・ツアンポ源流域学術登山隊では和田豊司氏が隊長となって率いた。隊員の千田敦司氏も支部員であった。このイベントがP26~P107まで三分の一強を占める。次は2010年の同志社大学ネパール登山隊、2015年の同志社大学極西ネパール登山隊(仙田裕樹隊長)がP183まで続く。
 以後、国内活動の報告があり、P229のブロッケンの章に2006年ローツェ南壁冬季登山隊(尾上昇総隊長、田辺治隊長)の思い出を千田敦司氏(副隊長)が4ページにわたって綴る。これは東海支部にとっても3回もアタックし続けた壮絶な登山隊だった。こんな難しい登山を遂げても山は非情なもので、田辺治氏は今もダウラギリの雪の下で永遠の眠りについている。千田氏には忘れ得ぬ登攀だったであろう。
 ともあれ、若い人にとって人生は忙しい。あっと言う間に年をとる。体力と技術、信頼の置ける隊員を得て、かつ暇とカネを工面してこのようなイベントに参加して、一書を綴れたら幸運というものである。