低山学入門3・・・山域別の山岳事情と遭難事例2016年12月02日

    概観・・・東海地方の山岳事情と遭難事例
〇愛知県での遭難事例は殆ど聞かない。近年では三ッ瀬明神山の鎖場で転落死された1件あるのみ。八岳山ではまれに長野県側への道迷いがあると聞く。
愛知の山は標高差が低く遭難の危険性は少ない。
 初心者が西三河や東三河の低山のハイキングから入門するには最適である。
 奥三河には東海自然歩道が貫通しているので道標があり整備が行き届いている。
 冬は冬型気圧配置になると晴れる確率が高い。 

〇三重県の遭難は鈴鹿山脈において年間50件前後と多発している。死亡事故は5件という年もあった。鈴鹿山脈は高速道路に囲まれてアクセスが格段に良くなった。東海地方では日帰りで登山を楽しめるため登山者の人気が高く事故も多くなる傾向である。
 御在所山では岩登りに関する転落死亡事故が多い。釈迦ヶ岳では行方不明事故が2件あった。1件は捜索の結果遺体で発見された。尾根からの転落と見られる。1件は不明のままだ。御在所山でも1件行方不明者がいる。
 藤原岳から御池岳にかけては道迷いが多い。御池岳ではボタンブチからゴロ谷へ転落死した例があった。T字尾根でも事故例がある。御池岳は山上部が広く、登山道が急斜面という特徴がある。ルートファインディングに慎重さが要求される。初心者同士で行くには厳しいので経験のあるリーダーのもとで行動したい。

〇台高山脈では北部の薊岳での道迷いが大きく報道されて記憶に新しい。南部では仙千代ヶ峰の行方不明事故がまだ発見されていない。山頂付近まで植林がされて枝道が多いために迷いやすいかも知れない。初心者だけで入山しないことだ。
 大杉谷では転落事故が発生しているので慎重な行動が必要だ。鎖や階段で整備されているとはいえ、谷筋や滝の高巻には細心の注意が要るので初心者向きではなく、しっかりしたリーダーのもとで登山することだ。どちらかと言えば中級者以上の向きといえる。
 この地域は冬型の気圧配置になると晴れる確率が高い。逆に夏は弁当忘れても笠忘れるなというほど雨が多い。

〇養老山地は養老山を中心に登山道が整備されている。養老の滝からの登山道は傾斜がきつく転落に注意したい。過去には転落死があった。鈴鹿と同様の断層山脈の常で東側の傾斜がきつい。笙ヶ岳周辺では道迷いの事故があった。登山道が分かりにくいので初心者だけの登山は注意すること。

〇布引山地は経が峰は初心者向き、登山道が厳しいので中級向きの錫杖ヶ岳などが登山の対象である。特に遭難の事例は聞かない。

〇岐阜県は美濃の西は伊吹山、東は恵那山と名山に恵まれた地域である。恵那山は過去に度々遭難があった。行方不明と長野県側では増水した川の橋を渡る際に落ちて流されて死亡した事例があった。水が引くまで待つか、ザイルを持った人に確保してもらう、或いは救助を待つ。危険性が低くなるのを待つ辛抱がいる。
 中濃では展望の良い高賀山が良く登られる。東濃は低山の宝庫でピークハントにもってこいの山域。阿寺山地は多少手強いが危険という山はない。但し山が深いので時間がかかる。
 盟主で最高峰の小秀山では出発が遅いために下山中に日没となり、ライターの灯りで歩行中に転落死した事例がある。十分な時間を見込むこと。この山も断層山脈で岐阜県側が切りたっている。

〇奥美濃は揖斐川源流域と長良川、板取川、吉田川流域を指す。登山道が整備された山は少なく、ヤブ山と言われるように道の無い山もまだまだ多い。玄人向きの山域である。夏は沢登り、冬は山スキー、わかん山行も楽しめる豪雪地帯にもなる。
 登山道がはっきりしているのは夜叉ヶ池くらいまでで、池から派生する登山道は整備状況が分からない。刈り払いしても5年位でネマガリダケが道を覆うようになる。三周ヶ岳、三国ヶ岳、左千方は事前に調べてから登りたい。夜叉ヶ池の岩壁では過去に転落死があった。左千方への道迷いで時間がかかり夜間の下山を強行したためと見られる。
 冠山、金草岳、能郷白山は良く整備されている。
 沢登りの事故はかなり多い。一番多いのは銚子洞で関西の人を中心に10名以上は死んでいる。銚子滝は30mだが高巻は70mの落差がある。岩ではなく、木の枝があるために懸垂下降しないで素手で下降を試みて枯れ枝をつかんで折れて転落死という事例を聴いた。北アルプスなら慎重に事を運ぶが低山だと軽く見るからだろう。木は折れるし、岩は崩れることがある。
 赤谷でも事故死した人の遭難碑がウソ越えにあったが今は見当たらない。道の無い釈迦嶺でも最近事故が発生している。
 金ヶ丸谷では過去に転落死があった。門入にまだ人が住んでいたころ住民から聞いた話では、京都の人が夜叉ヶ池から下降を企てたが帰宅しないので家族が地元に捜索してもらったら谷の中で死んでいたという。ダム湖ができて今は廃村になったが谷は生きている。
 虎子山では過去に道迷いの事故があった。登山道がはっきりしないので下山で間違えたがヘリが出動して無事に救出されている。
 どの山も標高は低いが山が深く、最近は廃村となって事情を聴く住民が居ない。十分な調査といつでも引き返す柔軟な気持ちが大切だ。 この山域は登山道を歩いて年季を重ねただけのベテランよりも総合的な登山技術や知恵を持った登山者が本気になって取り組むべきだ。

〇静岡県では駿河の竜爪山に事故が多いと聞く。勝手につけられた枝道へ迷うそうだ。地形図を読んでルートを見極めたい。
 遠州地域では南アルプス深南部を抱えるので初心者は近づかないこと。熊の生息域である。しっかりしたリーダーのもとで慎重に登りたい。

〇長野県でも木曽山地南部の山々は整備がされて登りやすくなっている。恵那山トンネルを抜けると伊那地域になる。中央アルプスの前衛的な山が多い。遭難事例は聞かないが入山者が少ないこともある。山が深いので初心者だけで行かないこと。熊の生息域である。名古屋からの移動時間や登山の時間もかかるので経験のあるリーダーのもとで慎重に登ること。

佐久島サイクリング行2016年12月03日

 今年2月末に取材で行ったのだが写真のデータが不足していたので再度の佐久島行となった。今回は膝痛もあり早足で歩けないので自転車に乗って走り回った。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2016/02/28/8032740
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/01/24/4836588

 早朝に起床したが出発は7時半過ぎになった。実は昨日も2時間遅く行ったがR302とR1の交差点などで渋滞にはまり正午の船便に間に合わなかった。2時間早めて行くがやはりR1との交差点で渋滞する。やむなく間道を抜けていく。昨日の学習はあるがそれでも9時30分の出発10分前になった。わずか50km前後に2時間近くかかった。乗船して15分ほどで西港に着く。
 佐久島の海岸沿いのサイクリング道を時計回りに走ることにした。港でもらった観光地図で海岸沿いに道が案内されていた。波ヶ崎の灯台を過ぎるとすぐ近くで夫婦が漁船で何やら漁をしている最中だった。
 その先には1人で釣り人が居たので尋ねるとアイナメを釣っていた。どうやらこの海には多いようだ。先回来た際は民宿でアイナメの舟盛りを食べた。アイナメは足が速いので名古屋では食えない。浜に近い旅館で食うのだろう。
 サイクリング道は海よりも1mくらい高い位置でセメントで固められている。波に洗われた波打ち際の上に造成したのだろう。陸地側の崖には石蕗の花が沢山咲いている。松も植えられている。佐久島の北側には日光は殆どささないせいか、民家もない。民家は南側の日当たりのいい場所に集中して建っている。
 荒磯が多いが少しは浜辺もある。白浜という。佐久島の東西を分ける鞍部である。東に目的の富士山=ふじやまがあり、秋葉山、と無名の2等三角点がある。西には遠田山、大山(白山社)がある。いずれも40m以下で山というより丘である。サイクリング道は入ヶ浦へ回り込む寸前で止まった。高千谷といった。そこからは自転車を持ち上げてハイキング道に移る。少し高いところに展望丘がある。そこをパスしてかつて歩いた道を自転車でたどると38.1mの2等三角点の横を通過。三角点は探して撮影済だ。峠を越えたので砂利道だが自転車でゆるゆる下る。一旦下って登り返すと白山神社への道が分かれる。そのままでも通じている。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-3a-06/jiro1125k/folder/447862/70/11673970/img_3?1390529753
 下ってゆくと佐久島西港へと通じるがその前に都会人のオアシスのような農家が点在していた。クラインガルテンとかいう。ドイツ語で市民農園の意味。いくらかの賃貸料を払うと5年間は住めるとか。農業体験の家とか東屋、トイレ、自販機もあり休憩にもってこいだった。
 更に下って西港の上部にあるコールタールで防水と錆び止めを施した黒壁の家並を歩いて見た。狭い路地は自転車通行もままならない。漁網などがあり漁師町だろうか、佐久島の中心地である。そこから戻ってアスファルトの車道を東港に向かってサイクリングするのは気持ちが良い。何といっても車は殆どないから我が物顔で走れる。
 東港には島の観光の拠点になる飲食店が集中している。多分後から発展したのだろう。その内の食堂に入って刺身定食を注文する。魚種は不明ながら多分アイナメと思う。焼いた牡蠣、煮魚など潮のにおいがたっぷりの料理を味わった。
 食後は前回来た道を少し違えて富士山弘法道を自転車を引きながら辿った。古い看板には富士山32.5mとなっているが三角点はない。今も椿の花のトンネルになっている。念願の浅間神社の写真撮影で今日の目的は果たした。その後は入ヶ浦に下り、平坦路を戻る。東港からは大島へサイクリングした。鯨切なる浜辺があり、そこから富士山を撮影した。盛り上がりの全くない丘のような山である。
 この富士山は日本山岳会が日本一低いと認定した秋田県の明田富士35mよりも4m低い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1_(%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%9C%8C)
 東港から乗船して一色港へ向かう。西港へ寄ると多くの渡船客が並んでいた。今日はにぎわったらしい。船内は満員になった。海苔粗朶を右に見ると一色港は近い。三河湾の真ん中に浮かんだ楽園のような島だった。観光地化の進まない今こそその良さを味わうべきだろう。人生に疲れたら山奥も良いがこのような島も良い。
 そういえばあの食堂に今日の新聞はなかった。♪三日遅れの便りを乗せて♪という歌が流行ったが、島では郵便も新聞も1日遅れるのかな。そういえば体験農業の人の話ではTVは見られるがインターネットは出来ないとの話だった。
 9時半に一色港を乗船して東港を14時50分に乗船だから5時間は滞在できた。結構遊ばせてもらった。これで自転車代ともで2160円。レンタルサイクルもあるが1日1000円、1時間300円。私はバンなので楽に自転車を積めるがセダンタイプならレンタサイクルも良い。

低山学入門4・・・登山届と山岳遭難の経済学2016年12月04日

〇山岳会の役割の一つに遭難の際に捜索救助活動がある。
 山岳会といっても多々ある。ここでは各県の山岳連盟や労山に加盟する団体とする。それぞれ上部団体があるが岳連は公益社団法人日本山岳協会である。ここで山岳保険を扱う。
https://www.jma-sangaku.or.jp/cominfo/
 万一の遭難に備えて保険加入は常識になった。

〇山岳保険のあらまし
詳細は日山協のHPにあるので読んでおこう
http://www.jma-sangaku.or.jp/kyosai/profile/about-insurance/

 山岳会への加入はしないでも岳連に個人加入する手もあり、山岳保険にも加入できる。詳細は各県の岳連に問い合わせる。

 山岳保険は日本山岳会会員に独自のサービスがある。
 日本勤労者山岳連盟(労山)でも独自に扱う。
 平成19年には日本山岳救助機構合同会社がjRO(ジロー)という山岳保険も開発された。山岳団体への加入というハードルがない分加入しやすいと思う。
http://www.sangakujro.com/

 山岳会の捜索救助といっても北アルプスの岩場や深い山域では困難である。県警ヘリで救助されることも多い。問題は低山における捜索救助である。御在所山の岩場で事故があると友人で岩登りのエクスパートのTさん(故人)に協力要請が来たそうだ。岩場の事故はクライマーでないと手が出せない。
 現在は鈴鹿山脈では三重岳連と傘下の山岳会と有志が四日市西署に協力する形で捜索にあたる。北アルプスでは山岳捜索隊が独自に編成されているが三重県ではいわば民間協力に依存している。

〇救助・捜索費用の負担
 山岳会では万一に備えて捜索費用相当額を見積もってお金を貯めている。家族から捜索願いが出され、県警ヘリが出動するが存命の可能性が無くなれば出動しなくなる。
 それから後は家族の意思で有料で地元消防団などに依頼して遺体の捜索に当たる。山岳会でも有志を募って捜索に当たる。

 名古屋市の60歳の単独の女性ハイカーが御在所山付近の東海自然歩道で行方不明になった。1ヶ月、土日に地元消防団に依頼して捜索されたが見つからず打ち切った。1年後下流で遺体で発見された。捜索費用の余りの高額に耐えられないこともあった。この方は多分山岳会に未所属だったのだろう。

 名古屋市の40歳代の男性が2月中旬に藤原岳で行方不明となった。所属の山岳会から協力要請があり、合計7回ボランティアで捜索活動に出た。朝6時ごろ集合し、手分けしてそれぞれのルートをしらみつぶしに捜索したが、4月末、滋賀県側の谷で遺体で発見された。
 所属山岳会はなかったが、インターネットで拡散して多くのボランティアの協力者を得た。延べ人数に日当などを掛け算すると700万円相当にもなった。妻、中二の娘さん、両親、親族などが早朝から顔を出して我々に呈茶のサービスをして慰労にあたる姿に多くのボランティアがこの人らのために働こうと、心を動かされたのだ。また三重岳連の人脈も大きい。

 当事者の家族が一切顔を見せないと捜索協力は長続きしない。捜索には経済的負担だけでなく自分の生命をかけているからだ。

 北アルプスの八方尾根で行方不明になった高校生の息子を探すために家を処分した話も聞く。尾根に立つケルンはその記念碑と聞いた。
http://mtgear.blog18.fc2.com/blog-entry-67.html

 岐阜県では条例で12月1日から登山届を義務化して且つ違反者には罰金を科する規制が開始された。これまでも登山届の周知活動は活発に行われていたが罰則がないためか十分ではないと聞く。より徹底しようということである。
 警察側即ち岐阜県側からの立場では家族から捜索願いが出されたら動かざるを得ない。そこで登山届が出ておれば計画のルートを追って捜索活動ができ絞れるから短期に発見が可能になる。出ていなければ着手すらできない。

 例えば山スキーの好きな知人が長野県のある山に登山届を出した。1月中旬のことだ。帰ってこないので家族が捜索願を出したものの、登山口には車がないと分かった。車は北アルプスの白馬47スキー場の駐車場に置かれていた。天気が悪いのでゲレンデスキーに変更したのは良いが、ゲレンデだけで収まらず、村尾根のバリエーションルートに入ったらしい、と推測された。また、法大スキー小屋から南の尾根に滑降したとも推測された。最初は県警ヘリが空から捜索してくれたが絶望視された。私も4月から捜索隊に加わって考えられるルートを下ったが発見できなかった。結局6月になって村尾根の左の沢の中で遺体で発見された。5月GWに一度ならず捜索したが硬くて深い雪に埋もれていたのだ。
 この事例も未届けに当たる。岐阜県の条例は捜索救助で運よく救出されて、登山届が出ていなければ罰則が適用されると解した。死体では責任を問えない。何よりも捜索に要した費用は遺族の負担になるという事実。県警ヘリの捜索は税金で賄われるから本人や家族に負担はない。存命なら助かる。但し、遺体の捜索は友人であっても無償と言うことはない。

 山岳会で貯めているお金は出動してくれる会員に自弁させないための制度であって、遭難した人の救済制度ではない。だから事後は保険から支払われた保険金で弁済をしてもらうことになる。旅費交通費は当然であるが日当は各保険で出す出さないの違いがある。
 愛知岳連では山岳保険が出るまで立替える制度が新設された。設立の歴史が浅く遭難対策資金の積み立ての無いか、少ない山岳会が利用すればスピーディな捜索活動に入れる。

 山岳遭難を起こすと経済的には大いなる負担が生じる。生還できれば働いて返すこともできるが死ねば遺族にのしかかる。

 万一の遭難に備える意味で登山届提出の意味は大きく深いものがある。

12月句帳~漱石忌2016年12月09日

  12/1 クラブ愛知忘年会
盛会を祝う先輩忘年会

OBのジャズを聴くなり忘年会

  12/3 佐久島
佐久島の森をにぎわす冬の鳥

頭より高く咲きけり寒椿

佐久島は浮世離れや石蕗の花

寒中美人アイナメ独り釣る

冬の海網を引くのか夫婦船
  
島で買ふミカン酸っぱしそこが好き

殻つきの焼き牡蠣潮の味がする

老い猫が日向ぼこりに目を細め(黒壁集落)

冬野菜島で年金暮らしかな(佐久島クラインガルテン)

  12/6 豊川市へ
冬日和本宮山は富士のごと

  12/9 早朝の空
ロンドンの空のやうなり漱石忌

漱石忌拙に生きたし守るべし

小津安二郎忌2016年12月12日

 今日は小津さんが亡くなった日だ。丁度60歳の誕生日でもある。今夜は久々にDVDを鑑賞してみよう。

低山学入門5・・・登山の装備と道具、服装など2016年12月12日

 登山の用具、服装は私の山歴40年の間にめまぐるしく変わった。
 当初は日常に着ていたシャツのお古、はき古したズボンを転用したり、帽子、手袋などは一般品を使っていた。高価なウールのシャツ、ズボン下を着て厳冬の山に登山してきた。

 ウールの保温性は抜群である。毛玉ができやすいことで擦り切れてしまい穴が開く。洗濯で水洗いができない。圧迫を受ける箇所はフェルト化しやすい。激しい使い方をするにはメンテナンス性が悪いというわけで登山衣料の世界からは姿を消した。わずかに手袋、帽子、靴下で頑張っている。

 今は登山専用にカスタマイズされた便利な機能的な衣類が普及している。例えばズボンのポケットのジッパーは一般品にはない機能である。割高な価格を除けば結構なことだと思う。
 友人の中には作業着の専門店で間に合わすのも居る。これは価格は50%OFFであるが丈夫さを機能とするためかやや重い。

 透湿性、吸汗性、保温性、洗濯に強い、防臭性はどの衣料も当然のようになった。登山用衣料から始まった差別化は一般化しているから量販店のものでも間に合うだろう。

 肌に着ける下着についてはナイロン製ながら機能的で画期的なものがある。汗を吸い上げて重ね着した衣料で発散する仕組みである。沢登りで全身が濡れても沢から上がるとさっと水切れして乾きが早い。これは優れものである。今までは衣類が水分を吸って重くなるわ、体温が奪われるわで対応が大変だった。長い距離では大きな差がつく。これは防寒着の下着にも有効である。冬でも汗で濡れることもあるからだ。

 登山靴も大きく変わった道具の一つだ。革製重登山靴からプラスチック製になった。中級から初級クラスの登山ではまだ革製が幅を利かせている。ナイロンの表皮が多かった軽登山靴は水分を発散するためにゴアテックスを組み込んだ靴を多く見かけるようになった。基本的には靴底がしっかり土や雪に食い込むパターンのものを選びたい。

 ストックは中高年世代が登山の世界に遊ぶようになってから急速に普及した道具の1つである。それまでは冬山でピッケルくらいしか手に持つ道具はなかった。山スキーではストック2本は必備の道具であり、それが独立して一般登山者をサポートする道具になったのだろう。伸縮機能付きが普通になった。

 地形図、コンパスは必携なのは昔からであるが近年は高度計付時計、更にGPS機能のスマホ、GPSが登山者に広まっている。この傾向に比例するように道迷いの事故が増えているのは皮肉である。使いこなせていないのだろう。事前に地形図をにらんで地形を読み込んでシュミレーションしておくことが肝要である。
・コンパス・・・自分の立ち位置を中心に方向を知る道具
・高度計・・・気圧を利用するので誤差を織り込んでおく。独立標高点があれば修正するか誤差を知っておく。
以上を踏まえて行き先を判断する。
・尾根、稜線、山頂・・・周囲を眺めて特徴のある山、地形があれば立ち位置からの方角を地形図に合わせる。特に山頂からは放射状に登山道が集まる場合は下山に要注意である。
・谷の中・・・特徴のある地形・・・滝、大きな崖、大きな岩、大きなガレ、大きな崩壊地、谷の上を横切る高圧電線、谷の下に広がる風景などを判断することになる。

 ザックは殆ど変わり映えのしない道具である。機能は収納だけであるからそう進歩することもなさそうである。

 ヘッドランプは夜間の照明に欠かせない。乾電池のたゆまない改良、電球がLEDに進化して革命的な商品が出回る。もう重くてちょくちょく切れた電球のヘッドランプは使えない。

 雨具も画期的なゴアテックス製が普及して久しい。但し、私は購入したことがない。余りにも高価なのと使う機会がないこととで安いもので間に合わす。但し、ヤッケだけはゴア製を利用している。

渡部昇一『知的生活の方法』刊行40周年!2016年12月14日

 梅棹忠夫『知的生産の技術』は岩波新書から1969年に初版が出た。1949年生まれの私は20歳の時だから初版時に購読したはずだ。当時は工場労働者だったが知的好奇心も旺盛だったから岩波文庫や岩波新書でエンサイクロペディアをつくろうと考えて買い集めたりした。この本を参考に知的生産をしたいとカナタイプライターを購入したが全くものにならなかった。何せ知的な行動は何もなかったから入力もせずに出力などあるはずもない。青春時代は徒労に終わった。
 1976年、渡部昇一『知的生活の方法』が出た際も飛びついた。丁度27歳の頃だ。一周遅れで大学を出てさて何をするのか。と考えて二重生活で落ち込んだ体力回復のために登山を始めた。28歳で山岳会に入会して本格的にのめり込んでいった。山行を終えると、先輩から感動したことを書いておくと良いよ、と勧められてガリ版で書くことを始めた。ガリ版は20歳当時、サークル活動の会報つくりのために買ったものだ。再び埃を払って活躍することになった。山は毎週行くから書くことはある。会報も毎月発行する。とはいえ、会報係は表紙を持ってくるだけで、中身はガリ版で刷って自分で持ち込みホッチキスで綴じるだけだ。
 ガリ版はやがて10円コピーになり、ワープロになり、PCのワープロソフトに進化した。40歳くらいから登った下った雨だ雪だ、花だ、というだけでは物足らなくなって文章鍛錬も始めた。山村民俗、歴史、文学、地誌などの本を集め始めた。資料となる本代を惜しまないことにした。たちまち本が増加していった。
 『知的生活の方法』を実践するようになったのは山の本の出版が契機になった。1988(39歳)年に『一等三角点百名山』の出版。するとその後にも『名古屋からの山なみ』(1995年)、『ひと味違う名古屋からの山旅』(1994年)、『名古屋周辺山旅徹底ガイド』(1995年)など次々話が舞い込んでくるようになった。
 夏はステテコと扇風機で消夏していたが、1998年(49歳)に『新日本山岳誌』の出版事業に参画してからPC導入と同時にエアコンも買った。夏でもキーボードに向える環境作りを整えた。執筆生活=知的生活が始まったのである。7年後の2005年に上梓できた。山の雑誌からも執筆依頼が来るようになり山やの知的生活は日常になってきた。今でも所属結社の俳句雑誌の連載を続けている。
 必要な本、資料がすぐ手に取れる環境があるのは快適なものである。躊躇なく調査ができる。着手が早くなる。不足するとアマゾンや日本の古本屋をググってまるで有料図書館のような感じで注文して購入する。たまに山岳雑誌から写真の融通、原稿の依頼、新聞社からも執筆依頼が舞い込む。多少は稿料をもらうので本代の足しにはなる。何のためにこんな本を買い込んだのか我ながらバカじゃないかと思っていた本が活き活きとして活躍してくれるようになった。特に1年9ヶ月40回連載した新聞社の山の記事を続けられたのはこのような環境があったおかげである。
 渡部先生のように印税生活ができれば悠々自適の人生になるがそう甘くはない。
 正岡子規の獺祭書屋というのはビーバーの巣のことで、自分の寝床の周りに本の山が何周もできる環境を例えて言った。自分の寝床もまさにそんな光景で獺祭を実感する。
 但し、渡部先生はそんなだらしないことはしない。整然と片付いた書庫の中で生活と執筆を分離しておられる。とはいえ、私も4畳半のアパートの時は寝床と食卓の分離を理想と考えてきた。今では独立した事務所もあるから少しは、いや大いに進歩している。
 こんな生活に導いてくれたのもこの本の書恩というものだろう。渡辺先生の本は大抵は購入する。今、86歳とか。今後も健筆を期待する。
最近、「書痴の楽園」(DHCシアター)というユーチューブを見つけた。漱石、清張、シェークスピアなど30分単位だが面白くて夕方から深夜まで見て、朝また続けて見た。氏の知的源泉は読書にある。15万冊という書庫から泉のような知識をくみ取って分かりやすい歴史書や国際関係の本になるのだろう。何が出るのか書店をのぞきたい。

熊沢正夫ノート2016年12月16日

 『上高地』を読むと序文から圧倒された。26歳の時の何とみずみずしい文であることか。

「晴れた日の空を仰いで見るとき透徹した大空の青い色ほど美しく又すがすがしいものはない。青空に浮かんで絹のように白く光り輝く一塊の入道雲の動きほど、大自然の無限の力を暗示するものもあるまい。中天に峭立し、白雲をいただいた高峰はたとえそれが地表の突起であっても動かすべからざる意思そのものの権化で大空に戦を挑んでいるのではないか!」以下略

 おそらく八高時代に漢詩を学び文章鍛錬を良くされたと思わせた。口語文だが簡潔な中に格調があり、写実的だが詩的高揚感がある。漢詩文の文脈で書かれたと感じる。
 八高 漢詩でググると中国からの留学生がヒットする。

「郁達夫八高入学百周年記念展示会」から抜粋

「郁達夫は一九一三(大正二)年、魯迅や郭沫若と同じように日本に留学した。一九一五(大正四)年の秋、八高の三部(医科)に入学、 翌年一部(文科)に転じ、 一九一九年夏までの約四年間を名古屋の地で過ごした。後ほど、東京帝国大学在学中、留学生仲間の郭沫若、張資平、成仿吾たちと文藝雑誌発行の計画を進め、当時中国新文壇に
おける大きな文学結社―「創造社」の創立となり、出世作『沈淪』が生まれた。」
「愛知の地で名高い漢詩文学者服部擔風は、当時『新愛知』漢詩欄の選評者の一人であった。郁達夫の投稿詩について高く評価した。一九一六年暮春、二十歳に満たない八高生の郁達夫は、当時弥富町にある服部擔風宅を訪ね、初めて擔風先生に面会した。帰りに、人力車に乗る郁逹夫を年長者である擔風先生は歩いて弥富駅まで見送り、感銘を受けた郁達夫が、 「訪擔風先生道上偶成」の詩を書き、擔風先生は「次韻詩」を以て評語とした。その後、漢詩を通じて二人は深く親交を結んだ。」とあった。

http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/hatutoritannpuu.htm
lから服部擔風の漢詩を引用

    郁達夫来訪  有詩
弱冠欽君来東海。     弱冠 欽す君が 東海に来り
相逢最喜語音通。     相い逢うて 最も喜ぶ 語音の通ずるを
落花水榭春之暮。     落花 水榭 春の暮
話自家風及国風。     話して家風より 国風に及ぶ

・・・春風のような暖かい人柄まで伝わる。

 大正時代の新愛知新聞(中日新聞の前身の一つ)には今につづく俳句や短歌に続いて漢詩の投稿欄があったのだ。石川忠久『漢詩を作る』(大修館書店)によれば、「ただ、すべての新聞から「漢詩蘭」が消えたのは、大正6(1917)年だということ」らしい。とはいえ、 そういう文学的風土が名古屋にもあり、中国人とは漢詩のやりとりができるんだからレベルも相当な高さを想う。
熊沢正夫の入学とは数年のズレがあるが文化は醸成されていた。漢詩は衰退はしたが残光の中で学ぶことはできた。私の想像は外れていないと思う。日本は文明開化を急ぐあまり良い文化まで捨ててしまう。

 復刻版『上高地』に入っていた冊子を読むと「名古屋大学山岳会会報第三十三号の「熊沢正夫追悼特集」(1983.3.)」があることを知った。名古屋大学附属図書館にWEBから閲覧の希望を申し入れたがない。さらにネットでググるとほとんどは名大ワンゲル部の情報だったが最後に名大山岳部掲示板がヒットした。そこに書き込まれたOBのアドレスにメール。本人は持っておらず、2名を紹介していただけた。その1人が保管しておられた。早速PDFで送っていただいた。

 熊沢正夫は登山に熱中しながらも江戸時代の俳句にも通じている。飛騨にある芭蕉の高弟・凡兆の句碑は私も行ったことがある。あの俳句の樟の木についての見解が面白い。俳句への関心も実は植物学者らしく、あんなところに生えない、というばっさり。
   鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ     野沢凡兆
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/06/06/4346470
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/07/21/4448556
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/07/21/4448560
 ネパールへ行っても飛行機の窓から眺めてネパールは原生林を伐採していることをはっきり見て取った。

 熊沢正夫の略歴は以下の通り。
明治37(1904)年 名古屋市生まれ
東海中学校、
大正12(1923)年 19歳 第八高等学校入学、山岳部入学
大正13(1924)年12月 積雪期の木曽駒ヶ岳に初登頂 
昭和元(1926)年 22歳 八高を卒業後、東京帝国大学に進学、スキー山岳部に所属、山稜会(八高山岳部OB会)設立
昭和4(1929)年 25歳 理学部植物学科卒業、
               日本山岳会会員(No1129)になる。
昭和5(1930)年 26歳 『上高地 登山と研究』出版
昭和8(1933)年 29歳 金沢の第四高等学校に赴任、結婚
昭和9(1934)年 27歳 共著『登山とキャムピング』出版
昭和17(1942)年 38歳 第八高等学校へ転任
昭和24(1949)年 45歳で名古屋帝国大学教授
昭和28(1953)年 49歳 名古屋大学山岳会設立 顧問に就任
昭和41(1966)年 62歳 同会会長になる
昭和42(1967)年 63歳 日本山岳会東海支部第三代支部長に就任
昭和43(1968)年 64歳 名古屋大学を定年により退官
                マカルー遠征の委員長に選ばれる。
昭和45(1970)年 66歳 マカルー学術遠征隊の総指揮を執る
昭和47(1972)年 68歳 東海支部は休会に追い込まれ、熊沢氏宅で行われる。
昭和49(1974)年 70歳 東海支部支部長を退任
昭和54(1979)年 75歳 学術書『植物器官学』出版
昭和57(1982)年 78歳 死去
昭和58(1983)年 「名古屋大学山岳会会報第三十三号の「熊沢正夫追悼特集」を発刊
昭和63(1988)年 『上高地 登山と研究』復刻版を名古屋大学山岳会が出版

一等三角点研究会会報『聳嶺』新世紀第九号 創立十周年記念号2016年12月17日

 創立10周年ということで多くの原稿が集まり197ページの大冊になった。登るだけでなく書くことも好きな山岳会である。1等三角点だけに特化しているが狭いかというと反対に深く広いのである。はまると船をチャーターして離島の1等三角点にも行く。
 会員数はいつしか178名に増加している。それに住んでいる周りに必ずあるから全国にまたがる。
 里山とか、名山とか、何とか百山とか、そんな分類にとらわれず、1等なら丘に埋まる三角点から3000m級の山でも行く。必ずしも最高点にあるわけではなく、一段低い尾根上にある例外も面白い。地形図制作のために置かれるから位置が大切なのである。日本最高峰の富士山にないのが証拠である。マニアックといえばそうだし、フェチシズムともいわれる。そんな魅力がある。
 巻頭は会長の挨拶、特集は全部で25本の論考で構成。資料として10年間の歩み、例会記録、総索引で構成。他にも多彩な論考があり充実の1冊で読み応えがある。

俳句会の忘年会2016年12月19日

 昨日は夕方から近くの鰻屋で句会の忘年会をやった。5人のフルメンバーが揃うと話が弾む。1人はミニゴルフで転倒し顔に大けがして癒えて行く最中、1人は第九の歌唱レッスンからの帰途に寄り、と色々多事多難の話題を振りながら約3時間があっという間に過ぎて行った。
 俳句の話はほとんど出なかった。それでもお互いに全く違う人生を生きて終盤を迎えつつある人らばかりで私も同じである。60歳で始めたこの会も6年経過、来年は7年になる。出入りはないが皆さんが大切と感じているのか仲間割れもなく続いている。
 今朝も1人の男性が酔いに任せて言い過ぎたことはなかったか、と謝罪があった。確かに談論風発という感じで主張していた。そこは元主婦でやんわりと受け止めてやんわり返す手際の良さに関心もした。亡夫との仲違いの経験もあるから深刻でもなさそうだ。四国や東北の出身の違いであろう。土地土地で意識は違う。
 地方の城下町で少年期を育つ。整然とした街並みの背景で、礼儀作法を叩きこまれる。それは儒教の教えとはいかないまでも目上、年長者への尊重の念、女性、子供は男性に従うなどいう秩序が根付いている。男性の発言に対して女性の反論は一一対応が難しいと感じる。一方でかかあ天下と言う言葉があるように男性をしのぐ文化の地方もある。熊本県や群馬県、東北地方は男女同権でなければ生活を保てないだろう。
 俳句などの趣味で結ばれた会を堺屋太一は好縁社会という。女性会員は皆連れ合いを亡くされたからこの会で世間とつながることになる。地縁血縁職縁の果ての好縁である。こちらが考える以上に重要な役割を担っているのかも知れん。
 人気の繁盛店だが隣の部屋は次々客が入れ替わるのに私どもは3時間も粘ってオーダーストップまで居座った。まだ話たりないそうなところを打ち切ってお開きにした。来年も健吟を期待する。