道迷い2006年09月02日

 このところお盆を過ぎてからというもの各地で道迷いの遭難事故が多発している。
 南アルプスの北岳では38歳の男性が水場を探しているうちに道に迷った。北アルプスでは針ノ木岳で58歳の男性が入山直後に道迷い7日ぶりに自力下山、白山山系の大笠山では75歳の男性がぶなお峠から入山後道迷い、鈴鹿でも高室山で60歳代の夫婦が道迷いで皆救助された。
 皆命が無事でよかった。それにしてもなぜこんなにも道迷いが多いのであろうか。鈴鹿を省くとベテラン風の登山者が多い。共通するのは鈴鹿を省いて単独行でしかも通い慣れた地元の山ではなく遠方から遠征している。
北岳=埼玉県さいたま市
針ノ木岳=横浜市
大笠山=神奈川県南足柄市
鈴鹿・高室山=岐阜県各務原市
 結局は土地勘のない地域の山に来て地図も見ないで歩いていたのであろうか。大笠山の場合は白山市側に下山していたらしいので大笠山以南の登山道のないルートをRFしながら下山していたのであろう。或いは奈良岳の登山道に迷い込んだか。
 75歳で単独というからベテランである。氏名を検索すると33年前の40歳代で100名山を目指している同地域同名の人がOL大会に参加した記事がヒットした。おそらくは100名山の後記にある大笠山や笈ヶ岳を狙っての登山であろう。危なっかしい登山であった。過去には深田クラブの会員も遭難死している山だ。舐めてはいけない。登山歴50年というが密度はどうかな。
 南ア北岳の人のように水場を探して登山道を外れてそのまま戻れずに遭難死するケースはたまにある。鈴鹿では東海自然歩道で60歳の単独女性が行方不明になり1年後に下流で遺体となって発見された。新潟の鉾ヶ岳の近くでも京都から来た単独の男性が戻らなかった事例があった。これも普通に歩けば迷うような山でなく水場を探して歩いているうちに迷ったのではないか。
 分からないのは針ノ木岳だ。入山直後に迷ったという。山霧であろうか。霧の中でリングワンダリングが考えられる。鈴鹿の60歳代の夫婦は未熟なまま余り人が歩かない山に登ったのが原因であろう。
 何はともあれ土地勘のない山に都会からクルマで乗りつけてさっさと登山してくるなんて虫が良すぎる。事前に地形図でシュミレーションしてから入山するべきだ。山に入ってから迷ったと感じてからでは遅い。
 よく地図を読む、なんていうが本当は地形を読む、であろう。地形を読んでおれば見えないはずの景色が見えたりしておかしいと感ずるだろう。地図は参考程度なのである。我々が山を歩くとき殆どは遠近の景色を見て進路を決めているはずだ。したがって夜は話にならず霧には勝てないのである。

続・道迷い2006年09月04日

 またも道迷いの結果夜遅くなり下山中に転落死の山岳遭難があった。
 場所は奥美濃の三国岳である。メンバーはJACの京都支部の9人の面々で死亡された方は70歳の女性であった。左千方にも足を延ばして道に迷い下山が遅れた様子である。計画外のコースで下山中だった、というが詳細は不明である。
 それにしてもなぜであろう。お盆過ぎはまだまだ残暑が厳しいが日没は40分は早まるから日帰りが多少忙しくなる。のんびり構えているとこんなことになりやすい。存命なら遭難騒ぎで済んだかも知れないが残念な結果になった。
 恐らく京都を出るのが遅くなり出発が遅れたために忙しくなった結果足の弱い女性に負担になったかも知れない。左千方は私も登ったが高低差が余り無く広い県境稜線上の三角点だけの山である。だから赤テープか旗などの目印をつけて往復することになる。踏み跡もあるがこれだけでは心もとない。
 左千方に登るほどなら好事家の類であろうから目印も万事怠らなかったであろう、とすれば時間切れであったか。気の緩みが一番怖い。

東川本谷撤退2006年09月10日

 中央アルプスの伊奈川水系東川本谷の遡行は天気不順のため中途で下山し当日中に 帰名した。
 8日夜名古屋では月が出ていたが木曽に入ると雨だった。伊奈川ダムの奥まで入山するのを止めて大桑公園の東屋で仮眠。9日朝もどんより しており様子見しながら入山。
 林道を歩き始める頃は降雨こそ止んでいたがアブ(ブヨorヌカガ?)がひどく刺されたり血を吸われたりでうっとおしい限り。途中からまた降雨がありいつしかブユも消えてしました。羽のある虫は雨に弱いのでしょうか。
 一応林道終点手前の避難小屋で休憩。その後また霧雨となり金沢土場から倉本道の登山口のあるうさぎ平まで林道を歩きました。金沢を渡る金沢橋でも取水場がありました。入渓地点は過去の記録は更に2時間ほど登って北沢との出合いですが我々はうさぎ平から更に支線を下って取水場から入渓することにしました。Pから約2時間ほどの所要時間です。
 これは『日本登山体系』の中央アルプスの記録が約20年以上まえであり当時は伊奈川林道がまだなかった。空木岳へは倉本駅から八丁峠を越えて伊奈川を渡り延々長い尾根を登山した背景がある。当時の遡行者は北沢との出会いまでは登山道を登らざるを得なかった。ビバーク地点へ来るだけでも一日たっぷりかかった。インターネットの検索でも2件ヒットしただけである。殆ど遡行されていないのであろう。3日がかりでは少ないはずである。
 現在は伊奈川林道から直接入渓出来るが取水されて涸れ沢になっている。それに標高1080m辺りから1450mのウサギ平でも1時間強、標高差350mをいきなり出水の恐れがある沢を遡行するのは楽しくないし危険である。取水場辺りならば無難であろう。
 今回は天候不順で意気がそがれて敗退した。これで次の機会には遡行の目途がたちました。Pからほぼ8時間~10時間で木曽殿越の小屋に到着できそうです。前夜発1泊2日でも何とかこなせそうです。Pに夜10時までに到着すれば1時間ほど林道を歩き避難小屋で仮眠してもいい。小屋でもゆっくり宴会が楽しめる。翌朝は余裕をもって沢に入って行ける。
追記
 今回は偵察行になってしまいました。天気やら入渓地点までのアプローチ、時間などで迷いがあり、見透かされたように追い返されてしまいました。
 一通り偵察後は昨年、細尾沢から木曽駒、宝剣を越えて伊奈川を下降したことを思い出し伊奈川の渡渉地点まで散歩しに行ってきました。相変わらず人気のないところで静寂そのものです。八丁峠への登山道は草深く埋れているみたいです。昨年は草刈の手入れの跡があったかに記憶していましたが。

『地図で歩く鈴鹿の山 ハイキング100選』のこと2006年09月10日

 著者は70歳で山歴は20年。三重県に在住というから裏庭のごとく鈴鹿を歩き回って来られたのであろう。先に『鈴鹿の山ハイキング~21世紀の山歩き』を2000年に自費出版。本書は2003年9月に出版された。 
 発売後すぐ購入して長い間積読してあった本であるが様々な仕事が一段落してふと手にした本である。パラパラめくって読むと「鈴鹿に始まり鈴鹿に終る」という言葉が目に入った。所属の山岳会の先輩のN氏が以前よく口にしていた。「鈴鹿には氷河以外何でもある」とも言った。鈴鹿の山を知っておけば全国の山に通じるものがある、ということであろう。
 なぜ購入したかといえば丁寧な案内が出色ということである。中でも絵図を取り込んだのはは奥村氏の影響であろうか。こんなガイドブックは他に知らない。また山の選定も約300山から160山を取り上げたそうだ。これも『鈴鹿の山と谷』6巻の影響であろう。氏の人脈も鈴鹿の天狗といわれるような精通者が多数おられる。
 昭和15年に発売された『鈴鹿の山』は知らず、昭和23年の中京山岳会編の『鈴鹿の山』を古書店で購入したときは小躍りした。その後36年に改訂版を出して山口温夫氏の『鈴鹿の山』に継承されて行く。 
 理科の先生らしい自然へのまなざしがよかった。単なる山と道のガイドではなく自然を通して山を知ることに傾注されていた。「鈴鹿への誘い」から「鈴鹿のあらまし」の序章は未だに越えるものがない。いわば「鈴鹿の山岳誌」である。ガイドブックに自然科学的知識が加わって魅力をいや増しにしていた。それこそぼろぼろになるまで利用させてもらった。山口氏が死去後は長い間ガイドブックのブランクが続いた。
 その頃は私自身約70山も登った、という満足感があり、続々発売される鈴鹿の本からは遠ざかってきた。それがこの本は160山も紹介している、というのだ。これから鈴鹿に入る人にはこころ強いガイドブックであろう。
 あえて欠点をあげれば沢登りの案内は巧妙に回避された点である。愛知川、茶屋川、主要な谷の紹介くらいはあってもいい。鈴鹿の山を自在に歩くことが本書の目的ならば・・・。
 このことは50歳から登山を始めた著者の限界を示している。ハイキング100選と副題をつけた理由でもある。とはいっても著者がまったく沢を登っていない、ということではないであろう。鈴鹿の山を扱って沢歩き沢登りに触れられていないのは片手落ちである。
 私も入会した山岳会の新人歓迎会でこそ宮妻峡から入道ヶ岳に登ったが次はもう銚子谷の遡行であった。蛭にやられながらも何とかついて行った。度々沢をやってきた。朝一の新幹線で米原駅に行き乗り換え乗り換えして銚子ヶ口から谷尻谷を下り、中峠に出て朝明に下った。わらじ以外は一般登山と同じ装備であったが。山口版『鈴鹿の山』は一般は★でバリエーションは☆の数でグレードを表した。これは便利であった。自分で登山を組み立てて登りなさい、という著者のメッセージが込められていた。
 中高年の登山者全盛の時代となった今は「道迷い」を防ぎ、結果として「転落」を防止することが大切である。中高年の登山者の視点で書かれた本書に前書の内容を求めるのはないものねだりであろう。
 「鈴鹿に始まり鈴鹿に終る」という言葉を引いた著者に言いようのない親しみを覚える。鈴鹿のどこかでお会いできることがあるかも知れない。

大島山の登山道の整備2006年09月12日

 中央アルプスの大島山2143mは登りがたい山の一つである。それが地元の篤志家達の労を惜しまぬ努力で笹刈りが行われて登山道が整備されたようだ。
「伊那谷の山」というサイトの掲示板で知った。この道は昭文社のガイド地図にも掲載される予定とか。
 大島山は飯田松川のウサギ沢?を遡行してやっとこさ登れた難峰であった。それが本高森山から峰続きで登れるようになった。また登りに行きたいものである。
 別名を寺屋敷という。奥三河の岩岳の名倉側に張り出した尾根の突起も寺屋敷山(906m)の名前があった。これは古いワンデルングという雑誌に掲載されていた。どうもより高い所から張り出した尾根の広いピークという点で共通する。山寺の有り様はそんなイメージがないでもない。大変眺めのいい山であった。知られるにつれて人気化するであろう。
 
 http://www.janis.or.jp/users/yoichi-k/

私の履歴書(三浦雄一郎氏)を読む2006年09月13日

 日本経済新聞に連載中の私の履歴書は現在プロスキーヤーの三浦雄一郎氏が執筆中である。父親はまた有名な三浦敬三氏で今年他界された。
 スポーツマンの連載は新聞の性格上珍しい。しかし、山やである私には楽しみである。特により傾倒している敬三氏が子供の目から語られる部分が面白い。敬三氏は八甲田を滑り尽したらしい。それを知らない息子の雄一郎氏はやはり滑り尽して大いなる満足をしていた。父を越えたとも書いているが父の友人らからその活躍ぶりを聞かされて手のひらで踊らされていたに過ぎないと悟る件である。
 確かに敬三氏は古い「岳人」の山スキー特集などで見ると板のエッジでかっちり雪面を切っている瞬間の写真が掲載されている。その写真のイメージを記憶して自身もゲレンデで何度も繰り帰しイメージの再現を試みるのである。イメージトレーニングである。美しいフォームで滑る八甲田山を想像するしかない。
 最近入手した雄一郎氏のスキーの本でもきれいなフォームで決まっているが筋力が段違いに強いせいか中々及ばない。比べると筋力の弱っている敬三氏は力を感じさせない。リラクセーションという語彙がふと浮かんだ。それは中学生のころ陸上競技の100mダッシュで強くなってくれと先生が分解写真を見せてくれたことがあった。外人選手の力強いフォームながら力みがない。
 スキーの極意もまさにそれであろう。100歳でも滑降できた所以である。
 今後どんな展開か、楽しみな毎朝である。

赤谷偵察行2006年09月17日

 17日から18日にかけて奥美濃の赤(アカン)谷を狙っていたが天気図に台風が現れて躊躇していた。相棒のW君が先日雨の休日を利用して9/25から試験湛水の開始される徳山ダムの湖底となる部分を走って入渓地を偵察してくれた。多分入山禁止と読んでいた私は悲観的であったからこれは朗報と喜んだ。だが台風とあっては誤魔化しができない。
 16日(土)は終業が遅れて6時半になってしまった。急いでW君宅に走ったが出発は9時頃になった。この時点ではまだ雨模様ではない。ところが地道を走って揖斐川町のコンビニで買い物を済まし旧久瀬村のトンネルを潜ると雨になっていた。奥美濃は気候上は福井県なのである。とすれば降雨率80%であろう。美濃なら30%くらいだったが。
 奥美濃では「細引きのような雨が降る」と言われるが私も経験がある。クルマのワイパーが使えず待機させられたことがあった。幸いまだ台風は東シナ海上である。横山ダムから先は間欠ワイパーから連続になる。そしてダム堰堤だが暗闇とガスで何も見えない。堰堤を越えて湖底に下る。西谷川へは一般車は入山禁止の検問があった。
 本郷への橋を渡り一路櫨原か塚の「公団住宅」を目当てに走ったがそれらしい建物はなかった。W君は確認済みであったが9/22から道路の付け替えが行われるのに伴いすでに撤去されていた。雨の深夜ではテントを張る気になれず空き家を探した。ポンプ小屋には蝙蝠が居て追い出すわけにもいかずマイカーの中で仮眠した。
 9/17の早朝もすっきりはせずゆっくり支度をする。台風は確実にこちらに向っている。一時的に晴れてもそれは偽の晴れ間である。結局は偵察行になった。入渓地点には長野ナンバーが1台。釣師であろうか。
 ウソ越えまで走るがガスで何も見えないままだ。ツカタンド谷で釣師を2人見ただけの寂しい所だ。ウソ越えから赤谷に沿う林道を下って帰りは谷を遡行することにした。
 薄の穂波たつ林道の廃道を下るが踏み跡は鮮明である。廃道にありがちなでこぼこ道ではない。赤谷を渡って右岸を下るが倒木以外は総じて歩きやすい。抉れて道がなくなったところもある。周囲は2次林と見られる。原生林は皆伐したのであろう。戦後6回も大洪水に見舞われた原因がここにある。林道工事の土砂も谷に捨てたから川底が上がる。水位も上がる。
 右に吹き付けた壁のところで小沢を経て赤谷に下った。そこにケルンがあり、おそらくミトダニから笹ヶ峰に登る登山者の少なくないことを物語る。我々はここで持ってきた渓流釣を試みたがさっぱりであった。石の裏をみると川虫は相当豊富で魚はいそうだ。W君は得意の潜りで淵を潜って探ったが2尾居たという。下流でも4尾見たそうだから居ることは居る。腕次第である。
 諦めて納竿した。素人のにわか渓流釣師では太刀打ちできないほどすれているのであろう。高倉林道を作る際にすべての土砂を谷に捨てたらしく赤谷の源流部は滝は一切ない。すべて埋められた感がある。おかげでらくらく元の渡渉地点に戻れた。
 ウソ越えで帰り支度しているとダム方面から続々クルマが登ってきた。峠を越えて福井へ抜けるのであろう。空には若干晴れ間がのぞいている。天気は持ち直したであろうか。入渓しておれば今頃はこの辺などと尚も未練がある。そこを断ち切るように冠山峠にも立寄って名古屋に帰った。
 櫨原の湖底になるところでラーメンを作って食べていたら地元の元住民らしいグループが続々参集した。そこは望郷の広場、船着場になる、とか話が聞こえてきた。遊覧船も浮かべるのであろうか。愛知県の鳳来湖でも建設から3年くらいはボートを浮かべたりして観光客で賑わったが次第にあきられて消滅したらしい。是非止めて欲しいものである。
 東洋一とかいうキャッチは魅力的であろうが1年を通じて天気が悪い、夏はアブ、ブヨの大群が発生する。熊もいる。そんな荒っぽい観光地はすぐに自然に帰るだろう。
 ラーメンを食べ終えると雨が降ってきた。クルマに戻ってまた走る。本郷の役場跡でも道草を食った。映画「ふるさと」の石碑が抜き取られていた。加藤嘉、長門裕之、樫山文枝、前田吟、樹木希林ほかの出演だった。特に加藤嘉は良かった。なりきっていた。又見たいとDVDを探したが見つからない。
 白山神社の石碑にも寄った。ここで昔来た際、老婆は徳山の大火を話してくれた。『徳山村史』の年表には昭和22年に出火し50戸が全焼したとある。恐ろしい記憶として人に語らずにはおれないのであろう。
 もううす暗くなった。二度と来ることはない湖底を後にした。雨は本降りとなり、入渓しておれば今頃沢の中で台風の到来に不安な一夜を送っているだろう、と慰めた。ガスの中に巨大なコンクリートの橋脚と長い橋(R417)が浮かび上がった。来週はあそこを走ることになる。
 ダムを過ぎて旧藤橋村を通過。久瀬村のトンネルをくぐるとあら不思議、雨が止んでいた。なんてことだ。天気の分水嶺は久瀬村のトンネルのある山なのである。

徳山村を巡る思い出の山旅2006年09月18日

 徳山村がいよいよ湖底に沈む。今日は過去の思い出に浸ろう。

 初めての徳山村行きは昭和53年10月のの冠山登山であった。この年山岳会に入ったものの奥美濃の山につきあってくれる人はなく単独であった。まだマイカーはなく土曜日の夜にレンタカーを借りて走った。揖斐川沿いの道が不安で根尾村経由で入村した。峠を下ると霧に沈んだ徳山の里が幻想的であった。正確にいえばこの年の5月に能郷白山に登って郡界を踏んでいるから2回目ということである。
 『樹林の山旅』の復刻版が昭和58年に出版されてすぐに買った。金ヶ丸谷の紀行文が良かった。偵察にと門入に走った。今度は揖斐川沿いの道だ。度々の遠出にレンタカーは不便で不経済なのでマイカーを買った。愛車は中古の日産チェリーであった。まだ現在のような2車線の道路はなく地形を忠実になぞった狭い道でこわごわ走った。名古屋を朝6時に出て門入に着いたら11時を回っていた。近くて遠い徳山村であった。
 村の人に熊のことや金ヶ丸谷の様子を伺うと京都の登山者が遭難して亡くなった。家族が心配して村に来て捜索を依頼されて谷で倒れていることが分かった、という。あんたも気をつけなさい、熊よりも谷の方が怖い。入るのはお止しなさい、と忠告されて帰った。
 それからあちこちの山を登ったが千回沢山、不動山が手ごわい山であった。特に千回沢山は徹底ガイドの取材を兼ねていたから単独で挙行した。印象深い遡行であった。後日、大垣山岳協会から『美濃の山』1巻を見て驚いた。私と同じ日に登山していたからだ。
 下る際見た草が踏みつけられた跡は彼らだったのである。私は左又を遡行し、彼らは25m滝を高巻く右叉を遡行している。私のルートは遠回りになり後から来た彼らに追い抜かれたのである。
 その後は足踏み状態が続いた。中々いい仲間が得られなかった。クライミングが出来、ヤブを嫌がらず、きつい登山でも向っていく、という三拍子揃った登山者は稀有としか言いようがない。
 W君が奥美濃の沢に理解を示し付き合ってくれてからようやく金ヶ丸谷を遡行できた。昭和58年の偵察から実に23年が経過していた。その時の日記を転載しておこう。
2005年10月10日
  奥美濃・三周ヶ岳を巡る谷歩き              2.5万図 広野
念願の金ヶ丸谷の遡行と根洞谷の下降についに成功した。
 『樹林の山旅』の世界がここではまだまだ残っていた。清冽な流れ、ブナ、トチ、ミズナラなどの大木の森、これらが渾然一体となって私達を迎えてくれた。緩やかな谷を悠々と溯り、渓魚に見とれた。夥しいブナの森の中に一夜を過ごした。胸まで浸かった谷の深さも一跨ぎのせせらぎとなり、草付の中に絶えた。
 10/8の夜、名古屋は雨だった。どうしようか、行くまいか、中止するか。大いに迷った。W君も私も休暇に極めて恵まれない者同士である。簡単には中止できない。とりあえず山の中で飯を食いに行く、とだけ決意。W君の職場に向った。W君は迷いはなかった。いつものヤマナカで買い物を済ます。名神高速に入ってしばらく走るともう路面は乾燥していた。大垣付近は降った形跡もない。ICで降りると徳山ダム工事現場までまっしぐら。
 工事現場に近い宿舎は電灯が明々としていた。堰堤工事、国道工事、湖底と過ぎると明かりはなく真っ暗な中を走る。門入まではまだ遠いので戸入の小屋で一晩を明かす。ここは照明のついたトイレもあり、過ごしやすい。今回は先回の失敗を考えて飲酒をセーブした。
 10/9はぐっすり寝た。泡盛のせいであろう。6時起床と山の朝にしてはスローであるのはお互いに疲れた中年の域にある男だからか。とにかく疲れがとれないまま次の週へと過ぎていく。
 食欲はあまりないが無理にでもいなりすしを食べる。また門入へ走る。昨夜のうちから朝にかけてかなりな車が奥へ走っていったらしい。今日は全国的な連休できのことりで賑わうか。
 門入から奥は久々である。車のサイドが草や枝でこすれて悲鳴をあげている。構わずに行く。入谷との出会いで橋を見ると橋の上に水溜りがある。ここまでか、と待機すると軽トラが勢いよく橋を渡っていく。よし我々もと後を追う。悪路また悪路でボディがきしむ。4WDでも大きいので高さの恐怖感から途中で駐車した。まだ奥があるが軽の世界である。事実、終点には軽が5台以上は停まっていた。以前、不動山に来た際は最奥まで走れたが崖崩れのまま放置されて徒歩を余儀なくされた。長者平を過ぎるとかつての終点に近い。谷への下降地点に目印がある。これは以前と同じ。
 西谷川本流に下降。V字形の谷ゆえに深い。周囲は自然そのまま。ここでは時間が止まったかに見える。といっても悪場はない。励谷との分岐までは既知の世界である。分岐からいよいよ金ヶ丸谷に入る。渓相はいたって穏やか。清冽な流れに足を浸して溯る。時々地形図で現在地を確認するが分りにくくなる。大ヤブレ、小ヤブレといった枝谷を確認のためのポイントにした。S字地形、滝も確認ポイントになる。やがてゴルジュ、また平凡な流れ、またゴルジュと続く。凄い滝はない。大きな釜を持った滝も現れるがさほど困難さはない。ようやく抜けたと思った頃はもう4時を回っていた。テン場探しである。焚き火も楽しみたい。あれこれ相談しながらタイムリミットの5時に素晴らしいブナの樹林帯の中に一段高くなった草地に落ち着く。大急ぎで夕飯の支度で、焚き火はもう困難な時間であった。濡れたままの半乾きの着衣でツエルト内で炊飯をする。泡盛で乾杯。
 10/10の朝もゆっくり起きた。6時50分出発がやっとであった。ブナ林を探勝しながら尚遡行を続ける。やがて水が涸れて来た。笹が出て美濃らしい気分がする。低い樹林を潜り抜けると登山道に合流した。鞍部に近いところである。左折して山頂へは10分で到達できた。
 周囲は360度の大パノラマであった。まず恵那山、白山、伊吹山、荒島岳、能郷白山、金糞岳、高賀山、小津三山、近くの黒壁山、笹ヶ峰、千回沢山、不動山、蕎麦粒山、美濃俣丸、夜叉ヶ丸、三国ヶ岳、上谷山、横山岳など展望を堪能できた。Wさんが梨を出してくれた。旨かった。
 いよいよ未知の根洞谷の下降に向けて下山した。すると鞍部で登ってくる登山者に出会った。早い登頂者である。一言二言交わして分れた。先の鞍部から少し先からヤブを分けて下る。すぐに急なルンゼがでてきたので懸垂下降、30mザイルでは少し足りないので回収後はずらして下る。若干下るとまた小さな滝で割れたような岩場となっているのでザイルを出す。すぐに明らかな滝に出た。なんと人の声がする。遡行の人たちであった。我々が懸垂で下ると入れ替わるように登って行った。彼らは夜叉ヶ池の登山口から黒壁の鞍部を越えて下降して来て根洞谷の源頭を登るのであった。つまり変則的な周遊コースをとったのである。どこのクラブ?シガクカイ!えっ歯学界、私学会?と頓珍漢なやりとりでした。黄緑のヤッケのリーダーはどこかのサイトで見たことがある、と思ったらK仙人と呼ばれている達人であった。やはり!。奇遇というほかない。
 また一箇所ザイルを出した。これでようやく平らな流れになった。右から1本、2本と枝沢が合わさってくると水量も増えた。谷が広くなり、幅も広がると悪場もなくなった。
 私の目を楽しませたのはミズナラやトチの大木であった。立ち止まっては写真を撮った。周囲は自然の色濃い原生林そのままである。さぞや紅葉期は素晴らしいであろう。
 現在地の確認には枝沢の現れる度に地形図と付き合わせた。ほぼ間違いなかった。大きな枝沢が合わさると益々河原の広がる優しい川に見えたが本流に近いところではかなり深い淵もあって簡単には下れない。コモズ谷の出合以降は釣師のゴミが目立って増えた。Wさんはいたたまれなくなってゴミを拾いながら下ってきた。マナーの悪い人たちは来て欲しくないものである。
 本流と出会うとさすがに疲れが出てきた。そうも言っておれず、左岸の登り口を探す。買い物袋を結んだ目印があり、そこを登ると踏み跡が濃くなって林道に出た。4時半である。まずはほっとする。
 休む間もなく、林道をひたすらあるく。かつては私も車で走った道である。ススキの茂る林道もゴミは多いのでWさんはせっせと拾う。やがて明るく開けた谷間の向うに黒々とした巨体が見えた。Wさんはあの山は?と問う。あれは先月苦労してミヤマ谷から登った蕎麦粒山ですよ、と私。最低鞍部がくっきり見える。ここからでもかなりの登りでがあると思う。
 蕎麦粒山の尾根は門入と戸入に向って北東に伸びるので北西のここからはどっしりと見えるわけである。二つの村は蕎麦粒山に遮断されているといってもいい。昔はこの尾根の末端を越える峠道で結ばれていたのである。
 夕闇迫る林道を尚も歩く。この林道に沢山合った車はすでに1台もなく私達だけであった。村跡に尚も残って住む家の中から私達の車をうかがう人影が見えた。
 さようなら廃村門入!

赤谷を歩く2006年09月25日

 22日夜から24日にかけてついに名渓赤谷(あかんたに)の遡行をやり遂げた。実に23年ぶりの思いが実った山行であった。
 22日夜は先週と同じ道を走ったが徳山ダムを過ぎて最後のトンネルを出た所から新しく供用開始となっらR417となった。大きな橋脚を持った近代的な橋である。塚の付近から旧道に降りてサイノクラの手前の工事現場の一角にある広場で車中泊とした。明日は冠山を登山するKさんも別の車で参加した。
 23日朝はうす曇だが次第に快晴となった。先週台風の恐れの中を強行しなくてよかった。山は好天に恵まれるのが最高である。早くから車が通過していく。ダム湖に湛水が始まると人気化して車がもっと増えそうだ。
 サイノクラまで走ってKさんと別れた。好天に登山できる幸運を祈った。我々は早速赤谷に入渓した。川幅は広く水量も相当なものである。最初の深い淵は岩場を巻いた。最初はイチンタニが右岸から合流している。広い河原歩きが続いて道谷と出合う。この谷の源流は赤谷と同じウソ越えに達する。
 この地形がよほど面白いと感じたのか森本次男は名著『樹林の山旅』の巻頭に配している。「天魚の渓谷」と題し「釈迦嶺を繞(めぐ)る谷々」と副題をつけている。次章は西谷川の金ヶ丸谷であるから最初は徳山村の沢歩きで始まる。
 道谷を過ぎても河原歩きが延々続いた。岩陰にさっと走る岩魚もまだ見ない。そのうち渓流釣の人に追いついた。釣り終えるのを待って先行させてもらった。右岸からすだれ状の滝が落ちている。右に曲がると最初の滝にであった。右を巻く。以後また釣師に追いつかれてツカタンドを目指すようだ。
 そのツカタンドを過ぎて川幅も若干狭まる。周囲の樹林はすべて落葉樹で占められる。これがいい。地形図を出しては現在位置を確認するが核心部といえるものは印象としてはないに等しい。おそらく源流の林道工事で流された夥しい土砂で殆どの滝や淵は埋まってしまったようだ。
 物足りない気持ちのまま中津又谷出合いに着いた。午後2時前であった。この先もまだ地図上のいわゆる毛虫が続いているのでここで遡行を打ち切ってビバークすることにした。Wさんは岩魚と遊びたいらしい。
 適地を探すとすぐに見つかった。中津又の左岸にはふみあとがあったので登って見ると先行者のドームテントが張ってあった。我々は対岸に適地を見出したが適地だけに釣師たちらしいゴミが散乱し、デポしていった張り綱やマットなどいい気がしない。もうここしかないと渋るWさんを説いて張った。
 草地は軟らかくすぐに張れた。木で作ったペグも簡単に打ち込める。適当にある立ち木は張り綱を結ぶのにいい。焚き火の枯れ木を集めた。倒木も携帯の鋸で伐って小寒い体を温めた。焚き火の基礎に石を集めて敷いた。土の上では水蒸気が上がって火がつきにくいからだ。そうして小枝に着火するとめらめら燃え出した。その上に中くらいの木、さらに太い木を重ねた。火勢は勢いを増した。成功である。
 夕食は五目御飯である。Wさんが愛用する丸飯盒に5五合の米を炊いた。ガスコンロでじっくり時間をかけたが目一杯までふっくらしたご飯が炊けた。そして一杯やりながら夜は更けていった。Wさんが米を洗っていると釣師たちも戻ってきてKさんと話している。Wさんの手には岩魚が4尾あった。釣果のお裾分けにあずかったらしい。お返しとて何もないがカンビール1缶とお菓子を差し上げた。せめてものお礼である。
 火勢を増した焚き火に串を刺した岩魚を並べて焼く。遠火の強火でじっくり焼くとほっこりして美味い川魚特有の淡白な味わいは格別である。今度こそは自分達で釣って焚き火の廻りに並べたいね、と話し合った。沢登りと釣りは中々両立しがたいのである。
 夜空を焦がすような豪勢な焚き火を堪能したが私は疲れが出てきたのと酔いが回ってきて先にツエルトにもぐりこんだ。Wさんは焚き火を最後まで見守り見届けてから就寝したらしい。
 寒い夜であった。シュラフカバーだけでは足が冷えて目が覚めた。一度覚めるともう寝付かれない。朝までうちらうつらするだけであった。
 えいやっとツエルトから抜け出して朝食の用意。残りご飯とスープの簡単なメニュだ。体が温まってきて出発の準備である。ツエルトを片付けてパッキングを済ます。昨夜の焚き火跡がまだ暖かいのでヘルメットに3杯の水をかけて消火を万全にした。
 釣師さんたちに昨夜のお礼をいって先行した。後半は狭い廊下帯で始まる。S字形に曲がりくねっていかにも悪場がありそうな予感がする。しかし後半も巻いた箇所は1箇所。へつりで抜けたところも少ない。ここも土砂で大方は埋まった感がある。
 狭い廊下帯を抜けると小広くなり、河原歩きとなる。大きなトチの実を見つけた。Kさんが出合いで川に潜って見ると実が一杯川底に落ちていたそうだ。熊の好物と聞いたことがある。この分では豊作のようだ。
 ミト谷の出合いに来た。ケルンが積んである。これは笹ヶ峰の古典的ルートだからだ。入口こそ大人しそうだが詰めに入ると登攀の領域だそうな。
 もはや悪場は殆どない。空が開けて明るい。谷は広くなったが川幅は狭い。源流近し、といった感じである。傾斜も余り無くとんとん登って行く。
 先週見た林道のコンクリートの擁壁が見えた。但し林道にはすぐに上がらず、ミノグサと思われる出合いまで溯った。『樹林の山旅』によるとこの辺はかつてはブナやトチの巨木が多く、地名も木地屋小屋場とか言ったらしい。
 テントを張り一夜を過ごしたくなるようなところからは林道に上がった。それでもまだ崩壊箇所や倒木、ぬかるみもあって快適とはいえない。疲れた足に鞭打つように歩いた。そして又赤谷を渡るところまで来て対岸の林道に渡った。
 ススキの穂が風に揺らいでもはや夏の名残はない。赤紫の釣舟草、鳥兜などの秋草を眺めながらウソ越えに到達した。11時半であった。7時10分の出発だから4時間ほど。ハーネスを外し飯を食べた。
 パッキングを終えてさあ車までの長い林道歩きだぞ、と思ったら釈迦嶺への林道から人が下ってきた。夕べの釣師グループであった。立ち話をしていたら車まで送ってあげる、とありがたい申し出があり嬉しく受けた。また私達もどこかでお世話になることがあるから、と謙虚なこころを語ってくれた。
 姫路NOで今庄から来ていた。元々は山やさんであったが(それはそうだろう、あんなに奥深くテントを担いで移動できるのは)今は釣りと登山と酒の楽しそうなサークルを楽しんでいる、といった。かさねてお礼を言って別れた。
 さて徳山ダムへは車の往来が大変多い。TVで報道されたか、見物客がひっきりなしである。ダム湖上にある橋では駐車して景観を楽しむ人が多くて渋滞気味であった。奥美濃の異変である。
*写真は
http://sirakabaalpineclub.hp.infoseek.co.jp/
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赤谷吟行2006年09月27日

            赤谷を歩く

 秋の夜徳山谷に星が降る

 オリオンややがて湖底となる村に

 赤谷の河原に秋の蛇さはに

 ブナはまだ9月の青さ保ちけり

 澄む水に稚魚固まって泳ぐなり

 大粒の栃の実を見て山豊かなり
 
 秋山の空を焦がすや大焚火

 秋の夜や焚火にかざし岩魚焼く

 冠山ひねもす秋の雲の中

 穂ススキの並ぶ峠を越えて行く

 よく目立つツリフネソウの花の色