哀悼!女優・原節子さん2015年11月26日

朝日新聞から
ソース:http://www.asahi.com/articles/ASHCT7KPNHCTUCLV01B.html?iref=comtop_pickup_01
戦前から戦後にかけて銀幕のトップスターとして活躍し、42歳の若さで突然引退した後は「伝説の女優」といわれた原節子(はら・せつこ、本名会田昌江〈あいだ・まさえ〉)さんが9月5日、肺炎で死去していたことがわかった。95歳だった。葬儀は近親者で営んだ。

原節子さん、内なる美追求 孤高の生涯半世紀
特集:原節子さん
 同じ敷地に暮らしていた親族によると、原さんは8月中旬、神奈川県内の病院に入院。亡くなった日は、5人ほどの親族に見守られながら息を引き取った。それまでは「大きな病気もなく過ごしていた」といい、亡くなった時点での公表を控えたのは「あまり騒がないでほしい」との遺志を尊重したためという。

 横浜市生まれ。女学校2年の時に義兄の熊谷久虎監督に女優の道を勧められ、1935年、日活多摩川撮影所に入社。「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビューした。芸名の「節子」はこの時の役名からとった。

 山中貞雄監督の「河内山宗俊」など清純な美しさとかれんな演技で注目を浴び、36年、アーノルド・ファンク監督から、日独合作映画「新しき土」の主役に抜擢(ばってき)された。

 東宝系の会社に移籍。戦争映画への出演を経て、戦後の46年、黒澤明監督の「わが青春に悔なし」で、生の輝きに満ちた新しいヒロイン像を演じて注目を集めた。第2次東宝争議の最中、組合の政治闘争主義に反発し、長谷川一夫、高峰秀子らとともに組合を脱退し、47年3月に創立した新東宝に参加。この年の6月にフリーとなった。

 以降、「安城家の舞踏会」「お嬢さん乾杯!」「青い山脈」などに主演。みずみずしい美貌(びぼう)と着実に成長した演技力を発揮した。49年の小津安二郎監督の「晩春」では、大学教授の父(笠智衆)と暮らす、婚期が遅れた娘のこまやかな愛情を好演。この年の毎日映画コンクールの女優演技賞を受けた。

 「白痴」「麦秋」「めし」「東京物語」「山の音」など、戦後映画を代表する作品にたて続けに出演した。54年には、白内障の手術を受けたが、翌年、「ノンちゃん雲に乗る」で鰐淵晴子の母親役で再起した。

 その後も、「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」など小津作品や、「智恵子抄」などで活躍したが、62年、「忠臣蔵」を最後に突然引退した。

 その後は神奈川県鎌倉市の自宅で静かに暮らし、パーティーなどの公の場には一切登場せず、マスコミなどの取材にも応じていなかった。それがかえって神秘的なイメージを生んだ。
以上

 往年の名女優・原節子さんが95歳で死去。各メディアが一斉に大々的に報じた。死去の連絡に供えて予定稿が準備してあったかのような詳細な評伝も掲載された。

 何といっても、小津映画の紀子三部作が良かった。あれで鎌倉へ行きたくなって、ハイキングを兼ねて何度か観光旅行した。すぐそこの谷戸の一角の小さな家に原さんが住んでいる気がした。ひょっとすると小津さん亡き後の家を購入して住まわれたのではないか。それは私の妄想である。
 『東京物語』『晩春』『麦秋』という俳句の季語を映画の題名に与えていかにも小津さんらしい。『東京物語』には戦争への批判と皮肉が込められていた。『安城家の舞踏会』も良かった。原さんの凜とした美貌が生かされた。佐野周二と原節子共演の『お嬢さん乾杯』も楽しく可笑しい映画だった。また、鎌倉を歩いてみたい。

ユーチューブで「伝説の女優 原節子」がヒットしたので追記しておく。
https://www.youtube.com/watch?v=HBtziiAaN-g
以上によると、92歳のころに編集されたようで、都内の介護付マンションにて健在である、とある。実際は鎌倉市のおいの家の敷地内に住んで居られたらしい。

台高山脈の一角で2014年05月12日

小津安二郎資料室の前に建つ敬慕の碑
 今朝、4時、起きると灯りが煌々とついている。昨夜は登山の疲労で寝転んでいるうちに眠ってしまった。
 5/10の土曜日から出かけた。伊勢湾岸道で三重県に渡ったが、いつもの渋滞があるのでR23に下りた。そして、布引山麓のR23バイパスを走った。一旦途切れて、一般道を走る。久居からは新しいバイパスに入った。松阪市までは高速道路のように高架である。
 松阪市からR166に入ると前方に美しい山が見えた白猪山である。本居宣長が「高き屋の名におふ山も月影にそれとしら猪の峯ぞまぢかき」と、自宅・鈴屋から眺めて詠んだものか。鈴屋(すずのや)はいわば研究室兼書斎だったと思われる。学問に疲れると鈴を鳴らしたという。それよりも白猪山を眺めて目を休めたのかも知れぬ。息子は手伝いしていて失明したという。照明も充分でなかった時代であるが、それほどに打ち込んだのだろう。
 白猪山を見納めると六郎木峠を越えて飯南に入る。道路標識の登山口案内を見て左折。口山に当たる烏岳545mに1時間で登る。お局様が美しい姿で立っている。山名通り烏が多い。
 その後、宮前の小津安二郎資料室に寄り、宮前で1年間の代用教員時代を過ごした19歳のオーヅ先生の語り部を引き継ぐ岡本美夜氏に会い、話をうかがう。2013年は生誕110年没後50年でメディアの取材が多かったらしい。今日も朝から50名以上がバスで来館されたらしい。小津の名声は高まる一方だ。
 道の駅で若干のお買い物をして、高見山に向かう。奥香肌峡と呼ばれる谷合の山肌は照葉樹林の若葉で湧き立っているかに見える。
 高見山トンネルの手前でR166から左折。峠越えの旧道に入る。ここから峠へは羊腸の道が続いた。他に車はなく、荷を減らして登る。芽吹きの林から上部は疎林でまだこれからだ。約35分で登頂。360度の大展望であった。
 下山後は今夜のねぐら探しのドライブになった。トイレがあって、きれいな水場があるところが条件であったが結局迷岳登山口の整備された駐車場に落ち着いた。防犯灯があり、闇にはならない。トイレは少し離れた場所へ移動すればある。まだ明るいので車内を整理してスペースを作る。すると明日のあまご釣りの大会準備で忙しい監視員が来て監視された。抜け駆けに釣るんではないか、と疑われたのかな。当方は釣り人の着るベストを着用していたからか。
 迷岳登山だ、と告げたら、蛭が多いから、と警告された。又、道迷いもあるが、転落事故が増えているとのことだった。薄暗くなり、他に車もなく、静まり返った駐車場で夕食をとる。3月初めの退院以来、久々に缶ビールを飲んだ。短時間の登山とはいえ、体が欲していたのだろう。
 弁当はさやえんどうの卵とじ、鶏のもも肉の蒸し焼きと滲み出た油でキャベツ炒め、ビニールパックの肉、魚などのつまみ類に3合飯の内の1つを食べた。脱コンビニ食を目指している。弁当箱も6000円の投資をして、メンパを購入。まだ2回目であるが中々にうまい。
 月夜で明るく、演歌を聞きながら寝入る。

小津安二郎生誕110年没後50年!2013年11月20日

小津安二郎の無芸荘にて
 来る2013年12月12日(木)松竹の映画監督だった小津安二郎が生誕110年没後50年を迎える。
 それを記念して行事が盛り沢山である。岡山県、三重県松阪市、長野県諏訪市、東京都など、多忙で何処にも顔を出せないが、せめて映画の1本は見たいと考えていたら、神保町シアターで、11/23から1/13まで現存する全作品を上映する、と知った。
 誕生日で命日の12/12には出演者の香川京子(昭和6(1931)~)がトークにゲスト出演することになっている。評論家の川本三郎が『君美わしく 戦後日本映画女優讃』(文芸春秋、平成8(1996)年)の中で”白いブラウスの似合う先生”、と表現した清楚な佳人も12月5日の誕生日で、もう82歳の高齢である。お元気なことで何よりである。「東京物語」で若き日のその姿が見られる。前にみたことがあるが、大きなスクリーンで見たいものである。
神田神保町シアター
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/

東京国立近代美術館フィルムセンターでも「小津安二郎の図像学」の特集を行っている。
http://www.momat.go.jp/FC/ozu2013/index.html
2013.12.12~2014.3.30 展示室にて

 関連
朝日新聞の藤田明氏の記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/09/11/6978112
無芸荘を訪ねた記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/08/26/6959282

小津安二郎生誕110年!2013年09月11日

数々の名作が生まれた無芸荘
 今朝の朝日新聞地域総合版22に生誕110年小津安二郎監督 上が掲載された。執筆者は小津ネットの藤田明氏。テーマは小津と戦争のことである。
 「だが、戦争の影も見せない「晩春」(49年)の後、「麦秋」「東京物語」では原節子の役などに戦争の影を伴わせたのである」という藤田明氏の論点は明解である。
 「東京物語」では戦死した次男の嫁役の原節子は籍を抜かないまま戦争未亡人であり続ける。一方で他の映画では戦争未亡人が口紅を塗って色気を出している云々のセリフが出てくる。あれじゃ、あいつも浮かばれないよ、という、戦友のセリフに小津の皮肉がこもる。いずれの映画も戦後10年くらいだから癒されている人は居なかっただろう。
 小津はまたこうも言った。戦後の映画に多い反戦という言葉を嫌った。これ見よがしの皮相、表装的な言葉を信じなかった。映画の中で反戦を主張するのではなく、人物を丁寧に描けばいい、と。
 例えば、『小津安二郎新発見』(講談社+α文庫)のP8に「社会性がないといけないと言う人がいる。人間を描けば社会が出てくるのに、テーマにも社会性を要求するのは性急すぎるんじゃないか。ぼくのテーマは”ものの哀れ”という極めて日本的なもので、日本人を描いているからにはこれで良いと思う。」がある。
 小津の映画には戦争を直接批判するセリフは出なかったように思う。人をして語らしめる。「東京物語」の終盤で「私ずるいんです、(貞淑そうに見えるが)いい人ではない」と原節子扮する戦争未亡人は言い、笠智衆扮する義父は「好きな人が居れば自由に(結婚)していいんだよ」と優しく諭す。二人をこんな会話に追い詰めたのは戦争である。充分な戦争批判になっている。ここが藤田氏がいう戦争の影である。
 小津はこれからも忘れられることなく語られ続けるだろう。
 次回は9/25掲載。

涼感!八ヶ岳山麓2013年08月26日

 8/24(土)朝7時、俳句仲間3人(70歳代前半)と付き添いの娘さん1人の合計5人が集合。行く先は信州の白駒池畔の白駒荘である。普段は市内から近郊の吟行であるが、3周年を記念して普通の主婦らには、異次元の世界を体験する吟行に誘った。たまには足もとを離れてみるのもいい。
 白駒荘は山小屋であるが、登山経験のないフツーの主婦らでも徒歩15分程度で行ける。ただし、民宿や旅館ではない。だから泊まっても2食が提供される以外のサービスはない。浴衣もないし、娯楽施設もないし、入浴も出来るが石鹸、シャンプー等は使えない。それでも行くのは標高2000m超の池と原生の自然がもてなしてくれるからだ。
 大企業に勤めていたある人が、一泊3万円の豪華ホテルでも旅の満足はない、と山岳会に入会してきた。提供されるサービスの消費者であるよりも自ら楽しみを生み出す登山に目覚めた。山の中でのサービスは最小限に留めたい。ビールが飲みたけりゃ自分で運ぶしかない。今時、登山小屋に隣接したキャンプ場ではわんさか買いに来るそうだが・・・。
            『蓼科日記』の現場・無芸荘へ
 さて、山岳宿泊未体験の主婦らを乗せて、一直線に目指しても時間が有り余る。道草には、蓼科高原のプール平にあるという小津安二郎(1903- 1963)の記念館でもある無芸荘に行くことにした。小津と脚本家の野田高梧(1893-1968)のコンビで数々の名作を生んだ山荘である。野田は小津の名声に隠れがちで目立たないが、10歳年長でもあり、経験豊富で人脈も多彩のせいか、映画に幅がでる。それに愛知一中のOBでもある。
 愛知一中は歴史があり、今の旭丘高校の前身にあたる。同校のHPから転載すると、( )は筆者の挿入。

旭丘高校の沿革

(1) 愛知県第一中学校
明治 3年 6月 (藩立)洋学校開設。(名古屋藩七間町)
    5年    県に管轄が変わる。愛知県洋学校と改称。
    6年    愛知県洋学校を成美学校と改称。
    7年 9月 県に管轄が変わる。成美学校廃校。官立愛知外国語学校開設。
(後に、官立愛知外国語学校を愛知英語学校と改称。)
    10年 2月 愛知英語学校廃校。
愛知県が校舎および設備を文部省から譲り受け、愛知県中学校を開設。
    11年10月 南外堀校舎(中区)に移転。 *1
    19年 9月 愛知県尋常中学校と改称。
    (26年11月19日 野田高梧誕生)
    29年 4月 愛知県第一尋常中学校と改称。
    32年 4月 愛知県第一中学校と改称。
    (33年4月野田高梧6歳で尋常高等小学校入学?)
    34年 8月 愛知県立第一中学校と改称。
    (41年3月野田高梧15歳で卒業後、4月愛知一中入学)
    41年 9月 西ニ葉町校舎(東区)に移転。
(大正2年3月野田高梧20歳で卒業)
(大正2年早稲田大学英文科入学)
(  同6年             卒業)
大正11年 5月 愛知県第一中学校と改称。
昭和13年 7月 新出来町校舎(現校舎)に移転。
23年 4月 愛知県立第一中学校と改称(ママ)。通信制・(昼間)定時制を付設。 (正しくは愛知県立第一高等学校)
*1南外堀校舎とは現在は名古屋市中区丸の内3-2-5で、丸の内三郵便局の敷地の玄関前に、愛知一中校舎跡の石碑が建立されている。移転はその後2回あるが、幼き日の野田高梧はこの地の校舎と西二葉町(武家屋敷の多い東区白壁地区)校舎で学んだことになる。
 当時から愛知一中は名門として知られ、「「バンカラ紳士」で鳴らした愛知一中の伝統を受け継ぐ自由な校風」の元で育った。その後早稲田大に進んだ。優秀な人物像が浮かぶ。旭丘高校出身人物リストの文化人に名前が挙がっている。同級生に小田喬がいて後に松竹入りの動機になったとされる。

 『蓼科日記』の記述は昭和29年8月18日から始まるというから59年前のこと。小津は昭和38年に死去するので9年間滞在した生の記録である。
 無芸荘は蓼科湖から急坂を登りきったところにぬっと現れた。
 茅葺の古い民家であるが、すでに何台もの車が止まって見学者があるようだ。8月中は毎日開館されているが、他の月は限定される。この点が、小津ネットワークの会員ながら、中々来れなかった理由でもある。中へ入ると囲炉裏があり、夏でも木を燃やしている。ほとんどくすぶり続けるので煙がたつ。自在鉤も真っ黒だ。
 屋内はかつての雰囲気を壊さないように資料や写真を控え目に展示、掲示されている。俳句を投稿するコーナーもあり即興で2句を投句した。他の同行者にも勧めた。気温は推定18度くらいなので、
 秋涼しけむり重ねる自在鉤    拙作
 
 即興なので満足できないが、俳人でもあった小津さんへのご挨拶である。隣には分厚い『蓼科日記 抄』が置いてあった。先月末に発刊されたばかりだ。手にとってぱらぱら見ると俳句もちらちら見えるので購入した。3990円也。蓼科湖まで戻って観光案内所で購入できる。そこで昼食もする。
          白駒池へ
 地図を見て、麦草峠に行くR299への抜け道に入る。羊腸の道を辿り、R299へ合流する。この道もかつて走ったが、もう記憶はない。峠までは何度も急カーブをやりこなし、少し佐久側へ下った辺りに有料駐車場があり、白駒池への入り口になっていた。車から降りると寒いほどの気温で、長袖を着込み、合羽の上着をヤッケ代わりに着用した。
 薄暗い米栂類の原生林の道を登り下りすること15分ほどで池畔に出た。この2月には文字通り白い白駒池を見たばかりであった。凍結していた。今は生きているという気がする。小波が立ち、浮き草がゆれる。5分で白駒荘であった。
 受付で宿泊を申し込む。予約しておいたので個室を確保できた。4人の女性は個室へ、私は相部屋で寝ることにした。1周40分らしいが、今からでは遅いのでゆっくり休む。夕食後しばらくで、コンサートが始まった。和洋の弦の調べがテーマだった。バイオリン1、ビオラ1、琴2の協奏、合奏である。演歌、流行歌以外に余り関心のない私には理解不能であるが、固定ファンがいて、大変込み合う。演奏後は懇親会で、食べ物、飲み物が提供されて、宿泊費+2000円に見合うサービスになっている。普段は寂しい池畔の宿も今夜は演奏で賑わったのである。
  秋の夜の和洋の弦の調べかな   拙作
  
 8/25(日)はどうしますか。外はあいにくの雨の朝だ。周回もままならず、駐車場へ戻る。また蓼科やビーナスラインに戻っても芸が無い。佐久側へ下って、野辺山、清里を経巡り、柳生博の「八ヶ岳倶楽部」に遊ぶことにした。ここで丁度昼食タイムになり、有名なカレーを食す。その後は再び茅野市へ戻る山麓の道をドライブして、「縄文の湯」に入湯した。さっぱりした。ここでもまだ標高1000mはある。小雨そぼ降る信濃路を後にした。

『一人息子』の中国人の悲劇2012年12月29日

 愛知県蟹江町で2009年5月に起きた一家三人を殺傷した事件があった。12/28に起訴された中国人留学生の林振華容疑者(29歳)のことを朝日新聞が12/28と12/29の朝刊で連日報じた。12/28の記事では記者が両親の元へ取材した。「できるなら私たちの命で息子の罪を償いたい」と58歳の母は泣き崩れ、55歳の父は宙を見つめた、とある。国は違えど子供を思う親心には国境はない。両親は息子に7年半仕送り続けた。共働きの給料のほぼすべてをつぎ込んだという。

 ここまで読んで、小津安二郎のトーキー第一作『一人息子』(昭和11年)を思い出した。ある人のサイトから一部をコピペ。

「でもとうとうある晩大爆発!こんな僕に失望しただろうと息子が問えば、母やんはそんなに簡単に諦めてくれるな!お前はまだ若いじゃないかと!実はもう家も土地も残らず売って、母は紡績工場の長屋住まい!それもこれも何もかもおまえの勉学のために頑張って来たのに!お前がそんなに簡単に立身出世をあきらめてしまったのでは母やんはやるせなす~~~!
子どものためと思えばこそ、堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、血と汗と涙を流して仕送りを続けたのに!全人生を一人息子のために捧げてきたのに!その息子があなた!東京はそういう所なんです、人が多すぎるんです、偉くなれるのは一握りなんですっ!東京なんて出てこない方が良かった!進学なんてしない方が良かった!って、胸が締め付けられそうな言訳三昧ですけど、母やんの人生の全否定ですよそれはああっ!母子ともに悔し涙の魂の激白合戦~~~。」

中国の両親も見知らぬ日本の大学で生活する息子を慮って仕送り続けたが、悲惨な現実に言葉もない。今年、中国人女性留学生に「理由書」を依頼されて書いてあげた。あの娘さんも両親から叱咤激励されて勉学に勤しんでいた。
http://daisyoninn.asablo.jp/blog/2012/04/22/6421673

 新聞では「周囲は、物静かな印象とのギャップを埋められずにいる。」とあるが、週刊新潮12/27号の変見自在のコラムニスト・高山正之氏は文中で
・支那人を入れると300万円くれるから三重大は彼を入れた。
・「累犯強盗だ。裁判官は懲役3年にすればよかった。」のに支那朝鮮人に甘い裁判官は罰金20万円の温情判決を下した。
・外国人は懲役1年以上か、売春、薬物で捕まれば即国外退去になる。
・しかし、彼は山東省の人間だ。温情はあだになる。かれは罰金を用立てるのに路上強盗を思いつく。

 そこで今回の行状に及んだ。「息子には『どうして人殺しなんてしたんだ』と聞きたい。人の道理を教えてきたのに」と朝日新聞の記事は締めくくる。

 林容疑者も人間だ。犯罪の罰金を払う金がないから、と親に無心はできまい。日本の生存競争は中国よりも厳しい。日本人同士でさえ出世は困難だ。外国人が日本の大学を出ても難しいのは分かりきったことであろう。それが分からない。中国から見ると日本は高度に発達した資本主義国だから何とか食べていけると夢を見たのだろう。
 映画『一人息子』では母親の犠牲で東京の大学をでたけれど、夜学の教師になっていた。偉い役人に出世するものとばかり夢見ていた母の落胆。これからは東京だ、と奨めた先生も上京したが、トンカツやの親父になっていた。人生は思うようには行かないものであるがだからといって強盗殺人にまで及ぶことはない。

 日本人と中国人の決定的な違いは他人への不信か。

 高山氏のコラム「彼を含め日本にいる支那人は必ずナイフを持つ」そうだ。犯罪者は国外追放(例外の特別永住権も含めて)を徹底することだろう。いつぞや、日本人が中国内で麻薬犯罪で捕まった。あれよあれよという間に死刑にされた。相互主義で行くべきだと思う。

蓼科山の天高し!2012年11月05日

 11/3から11/4は信州・蓼科高原に遊んだ。山岳会の2名の有志が、日本百名山の全山踏破を達成した。9名がそのお祝いに参加し、総勢11名の山行になった。友人の蓼科高原・緑の村にある別荘を利用させてもらっての楽しい2日であった。
 朝4時起床。友人宅で合流しながら、蓼科山登山口を目指した。天気が良いせいか、早朝から交通量が多かった。駒ケ岳SAで休憩し、朝食をとる。
 とりあえずは別荘の入り口で車を2台に集約して再出発。高原は登るにつれて、紅葉になるが、時既に遅し、の感あり。北斜面は落葉している。草つきも枯れている。山は晩秋から初冬に向かっている。
 登山口は以前に登ったことがある大河原峠である。ここからも雪化粧した北アルプスが見える。10マイルマラソンの中継地になっているようだ。
 ここで2000mを越えている。標高差は250mくらいだから2時間程度か。支度して出発。いきなり、樹林帯の中の岩のむき出した悪路に入る。霜柱も立つ。長年の登山によって荒れてきてしまったようだ。ほぼ直線に登ってゆくと2380mの前掛山最高点に着いた。ここは地形図で見る通り平らな山頂になっている。赤谷の分岐で、右へ細道をたどってみたが、2353.6mの三角点は見つからなかった。帰宅後調べると、昭和51年の五万図/蓼科山にはあったが、ネットの地形図では・2354の独立標高点に格下げされていた。亡失か廃止か。
 一旦、蓼科山荘のある鞍部まで下り、急な斜面の岩場を登りきると山頂であった。山頂は広く、展望は広大であった。三角点を確認後、一段下の石社まで下って昼食にした。有志2名はこの蓼科山で完全に踏破した。全員で記念写真を撮影後は下山した。蓼科山荘は11/4で小屋じまいとか。窓に戸を打ち付けて冬支度である。
 Pに着くと、マラソンランナーが来てはまた走ってゆく。過酷なレースである。しかし、徒労とは言うまい。
 下山して、別荘に向かい、買い物班と入浴班に分けて行動した。山麓まで下ると「河童の湯」があり、400円で入浴できる。さほど発汗はしていないが、冷えた身体が温まる。
 管理棟のゲートを入ると小川を挟んで、様々なデザインの別荘が建つ。灯が灯る別荘には人恋しい雰囲気がある。
 会場となる別荘別荘に着いた。瀟洒なデザインの木造家屋である。ダンボールの食材を運び入れる。暖炉に火入れ、男女数名が厨房に入って、買い出した食材を次々調理してゆく。まるで飯場である。出来上がった料理をテーブルに並べると、食べるのを待つばかり。先ずは百名山完全踏破達成の乾杯!だ。
 その後は、山談義のうちに夜が過ぎてゆく。
11/4。今朝はパンと飲み物、野菜、など豪華な朝食に目覚める。片付け、掃除、点検を済ませると、別荘域内から富士山を眺めるためにミニドライブとなった。行き止まりまで上り、朝の富士山の眺めを拝んだ。
 別荘を出て、ビーナスラインへの道に向かう。車山の南にある駐車場からは富士山が雄大に見える。そこを出て、八島湿原に向かう。ここから鷲ヶ峰に登った。360度の大パノラマである。この山からは中部日本の多くの名山が見える。蓼科山よりは広大である。
 雪化粧した北アルプスが特に目を引く。白馬までは見えず、五竜らしい山が頭だけだしている。浅間山の北東には遠く、白い山が見えるが、地図がないため山岳同定は難しい。北関東辺りの独立峰か?赤城山かなど山名がでるが不明。
 下山後は、買い物組みと帰名組に分かれて解散した。
 茅野市のJAでは「シナノゴールド」というりんご、小津安二郎が脚本を書くときは、ここ蓼科の野田高梧(愛知一中→早稲田大学→松竹・脚本家)の別荘「無芸荘」にこもって書き上げたという。その際に愛飲したのが「ダイヤ菊」という清酒だった。蓼科山の伏流水で醸造した地酒である。その酒も買った。昨夜食べて食感のよかったパリパリのレタスも味噌も買った。何しに来たのかというくらい買い物も楽しめた。

映画『RAILWAYS愛を伝えられない大人たちへ』鑑賞2011年12月05日

 朝、ベランダに出ると快晴の冬空に白い御岳がうかぶ。山日和であるが今更行けないがさりとて自宅には居れない。昨日の中日新聞夕刊に紹介されていた表題の映画を見ることにする。12/3全国公開されたばかり。
 ミッドランドスクウェアシネマにて。当日ながらインターネットで予約すると大人1800円のところ60歳以上は1000円とありがたい。
 入りはまあまあ。座席を指定したときは少し空きが目立ったが劇場へ来てから買う人もいるのだ。前宣伝がかなり長く続いた後、ようやく開幕。 
 映画『潮騒』を観て以来の三浦友和ももう当年とって59歳という。初々しく神島で恋人同士の愛を演じた友和の頭はシルバーグレーで風格を出しているがやや老け役に見える。42年間の鉄道員の人生を終えようとする役どころだ。
 定年後は妻と二人で国内か海外旅行にでも行きたい希望がある。不規則な電車の運転士のために弁当を作って送り出してくれた。長年連れ添った妻への愛をそんな形で伝えたいと思っている。
 本人は50歳で結婚したという妻役の余貴美子(55)は初見。55歳には見えない美人女優である。
 長年連れ添った妻のくたびれた感じを出すためかすっぴんで、しかも目元のしわ(いわゆるからすの足)まで演出されている。これはちょっとやりすぎだろう。ひっつめ髪で余りお化粧する様子はない。元看護士の妻は夫の定年を待ちわびたかのごとく仕事に復帰したい希望である。
 映画はこんな熟年夫婦の心のずれを描くところから始まる。どこでもありそうなテーマはふと小津安二郎のホームドラマを彷彿する。そりゃあ、松竹さんの真骨頂ですからね。
 浮気とか伴侶の突然死とか別れがあるわけではない。大した事件性のあるドラマではなく、勤務先の富山地方鉄道の職場風景、車窓の風景、車内の場面、自宅の畳の居間、キッチンの風景だけである。
 中途から仁科亜希子扮する高校時代の同級生がバツイチ役で登場するがあれは何の目的かね。花があり過ぎて浮き上がっている。吉行和子扮する老婆役もやや不似合い。
 人間間の些細な波風はいくらでもある。しかし、そこに挿入される立山連峰の雪景色とレトロな電車がマッチして懐かしい風景を醸し出す。これが楽しみで観にいったようなものであるが・・・。天気のいい日に立山連峰を眺めたことがないので。
 余貴美子の好演が光る映画でした。夫に対し控えめながら粘っこい?富山の女性気質を演じていたように思う。富山弁も良くこなれていたんじゃないか。しかし、どこにでもいる雰囲気の女性ではない。正装の余さんはやっぱり都会的な綺麗な人です。ファンになりますね。

女優・高峰秀子さん逝く2010年12月31日

 ネットの新聞で女優の高峰秀子さんが亡くなったことを知った。
 亡くなったのは12月28日のこと。86歳だった。大往生といえるだろう。
 小津安二郎には可愛がられて小津映画「東京の合唱」では子役で出演してオカッパ頭の可愛い子供を演じた。お父さん役は岡田時彦(女優・岡田茉莉子の父)だった。成人してからも「宗方姉妹」に出演している。
 自伝的エッセイ『私の渡世日記』が素晴らしく面白い。自分を客観視できる書き方でテンポよく筆が進む。実際記憶力がいいから女優も務まるに違いない。朝日文庫から文春文庫に代わりまだ売れているロングセラーだ。
 一番良かった映画は何といっても林芙美子原作の映画化「浮雲」かな。次は『二十四の瞳』。味わいのある『流れる』も良かった。若大将シリーズ以前の若き日の加山雄三と共演した「乱れる」もいい。レンタルDVDで見れるものはみな見た。美人というよりは高齢になっても可愛い感じの女優さんだった。
 大物俳優が次々世を去る。池部良もその一人でやはり面白いエッセイを残していた。エッセイの中で相互に書きあっている。戦前戦後を生き抜いた名俳優の死を惜しむばかりだ。
 ご冥福を祈る。

映画「晩春」観賞2010年07月04日

 久々に小津映画を堪能した。愛知県図書館の名画鑑賞会の催事であった。開場は13:30というのに13時過ぎには2、30名がずらっと行列を作った。職員が見かねて5分前に開場してくれた。と同時に100座席はあろうかという小さな劇場は大方埋まった。14:30上映までには後ろに予備席も設置されて盛況であった。
 観客はおおむね後期高齢者らしい年齢層が多かった。しかし明らかに若い人もいた。1949年の劇場公開以来61年経過してこの人気ぶりはいかに説明されようか。つい最近も貴田庄著『あるがままに生きて』というタイトルの原節子を回想する本が出版された。原節子は未だ健在なり、と思う。
 今日の映画はその原節子が主演する。また小津映画は初出演になる。公開当時は大きな反響を呼んでヒットした。以来、『麦秋』『東京物語』を主演して紀子三部作が完成した。すべてが名画の誉れ高い。
 DVDで何度か観賞したからもう筋書きを書くのはよそう。新しい発見はないか。うーん、小津映画の中の原節子の花嫁姿はこれが最初で最後ではないか。
 見終わって図書館から中日新聞社脇を通り、愛知県護国神社に行くと大きな茅の輪があった。茅の輪くぐりの催事があるのだろうか。一句詠むまでには至らなかった。三の丸と丸の内の間のお堀跡は今夏草の繁茂で埋まる。
  夏草や昭和を偲ぶ小津映画   拙作