晩秋の蠅帽子嶺に登る2015年11月01日

            地元の本巣市で買い物
 10/31から11/1にかけて旧根尾村の奥山に遊んだ。10/31の朝10時にIKさんと金山駅前で合流し、一路、美濃路へ向かう。R157へ入るのが一苦労で、何とか本巣市に着いた。ここでもう1人のINさんとも合流した。最初の寄り道先は本巣市の大きなスーパーに入る。今夜の夕食の食材の調達である。白菜一束、鶏肉、キノコ類、副食類を買う。3人分で2800円ほどになった。後はお好みでビール、行動食などを買う。名産の柿も美味しそうだが、帰路の土産に買うことにする。
             根尾谷の奥へ
 R157を2台で旧根尾村の能郷白山の麓の大河原に向かった。現在はうすずみ温泉までは二車線の立派な国道だ。その先は車の幅一杯の酷道に豹変する。根尾能郷を過ぎると、いつもの倉見七里の険路を走る。飛び石連休のせいか温見峠から来る車もかなり多く、すれ違いに冷や冷やする。難所を通過すると廃村黒津に着いた。屋根が抜けて朽ちて行くばかりの哀れな廃屋が点在する。そして最奥の廃村大河原も閑散としていた。もう出作りの旧村民も山を下りたのか。
 その先の猫峠の道は全面通行止めだった。ハエ帽子峠の登山口の標示のある分岐に来た。今夜の寝場所探しになった。平地、水の確保、道路から隠れる、湿地でないこと、それに焚き火の枯木があることを条件に少し先まで走って見つかった。太い雑木林の木立の雰囲気が良い。早速、テントを張った。周辺から枯木や枯れ枝を集めた。枯れ枝を箒代わりにして落ち葉を掃きながらうずたかく盛り上げた。IKさんは川へ水汲みに行く。食材を並べて準備もした。少し早いが、落ち葉の山に古ダンボール紙をちぎって、着火した。湿り気はあるがすぐに着火してくれた。小枝を乗せ、火が乗り移ると、太い木や濡れた木もかぶせる。火力で湿気も蒸発する。何とか勢いがついた。
            山猿の咆哮
 近くで、山猿の、遠くには鹿の咆哮を聞いた。特に山猿は対岸の山腹がコロニーであるらしい。集団で吼えている。気味が悪い。火を使う我々を警戒中とも思う。鹿は妻恋の叫びだろう。

      ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿     芭蕉

 野生のプンプンする山奥の闇の中で、白菜、鶏肉、うどんを煮込んで食事を楽しんだ。どんな話も楽しい。
            焚き火は寂しがり屋 
 時々は焚き火の火加減を見た。焚き火は寂しがり屋なのである。枯木を追加してやり、時にはウチワで仰いで酸素を強制的に送ってやらないと元気がなくなる。焚き火は何よりも人間の話を聞くのが好きなのである。焚き火を囲んで取り留めの無い話をするとまた勢いを取り返す。どんな話でも喜んで聞いてくれる。火力の衰えは話を催促するかのようだ。
 そのうちに小型のパトカーが温見峠に向かって疾走していった。しばらくすると救急車、消防車が赤い回転灯を点けながら走ってゆく。何事か事故が起きたようだ。焚き火が終わりかけた頃、救急車が警笛を鳴らしながら町に向かって疾走していった。消防車などは回転灯は消灯して普通に還って行く。事故処理は終わったようだ。こんな人里離れた僻遠の地でどんな事故があったのか。

 対岸の山腹から、再び山猿の咆哮が聞こえた。焚き火を処理してテントに入った。うるさいから早く寝ろ、と言わんばかりに聞こえる。

            11/1は歴史の山路へ 
 寒い夜だった。テント内はびっしょり濡れている。冬用羽毛シュラフでも手を出していると寒い。もう初冬の寒さであろう。6時に起きてすぐに食事の支度に入る。昨夜の残り汁に白菜の残りなどを入れてまた煮込む。うどん汁の追加をすると味が良くなった。食べられるか心配したが殆ど残さずに平らげた。テントを撤収。ゴミともマイカーに積み込んで出発する。分岐付近の駐車地で準備中に尾張小牧ナンバーの単独登山者が着いた。早朝に出発したらしい。行先は同じだ。
 登山口まではすすきや笹が刈り払われて4WD車なら何とか走れそうな車道を下る。難なく登山口に着いた。この切り開きは昨年の2014年は水戸天狗党の事件から150周年のイベントのためだったのだろうか。
 ここから対岸まではロープが張ってある。事前に渡渉があることは伝えてあるのでそれぞれが工夫して渡渉した。名古屋市指定のゴミ袋を2重に登山靴の上から履いた人、ビニール製買い物袋を両足に掃いた人、単独の人は胸まである釣師御用達のゴム長、私は膝まであるゴム長だったが、渇水期なのでゴム長でも水は入らずに渡れた。
            武田耕雲斎らの辿った山路
 対岸で登山靴に履き替える。杉の大木の横の乳くれ地蔵を横目に長い尾根の末端に取り付く。全山自然林である。藪がややかぶさる程度の野生味のある登山道はかつての記憶そのままである。
 水戸天狗党の武田耕雲斎ら800名は150年前の12月初旬にこの山路を乗り越して、越前国に入り、山伝いの村落をつなぎながら、敦賀市まで苦難の旅を続けた。800人というから先頭から最後尾まで1人分1m超の間隔とすると、ほぼ1kmの隊列になっただろう。馬もいたし、大砲も分解して運んだという。徒労といえば徒労の旅だった。苦労も空しく京都の徳川慶喜には会えず、越前藩は優遇してくれたが徳川幕府方に渡ると鯡倉に押し込められてその後は斬首にされた日本刑法史上最悪の結果になった。日本の夜明け前の暗さを反映したような事件だった。
            シロブナの純林の道
 ジグザグの急登が終わると、地形図に表現された尾根を忠実に辿る道と山腹を巻いてゆく道に分かれる。そこに朽木が横たわるが、知らないとそのまま山腹道を辿る。我々も往きは山腹を歩いた。標高が高まるとブナの自然林になった。木肌の奇麗なシロブナという。日本海側の樹種で純林を構成する。
 気温が低いせいか、汗をかいているはずなのに爽やかな気分である。周囲は鮮やかな黄葉というわけではない。今年は雨が少なかったせいか、黄葉する前に枯れている葉も多い。十分な水分を吸いあげておればもっと美しいだろう。
 シロブナの純林を堪能しながら歩いていくと、やがて、943mの道標を見た。傾斜が緩くなって歩きやすい。純林はここからが本番だった。そして県境に近づくと尾根がやせてきて、傾斜も急になった。峠道は尾根の左へ振る。すぐに稜線へ上がる近道の目印もあった。急な傾斜の山腹を横切るように歩く。すると谷にも道標があり県境へ行けるようだ。以前はここへ下りた記憶がある。
 峠道は今までと違って、藪が繁り、歩きにくくなった。同行者らは野生味があると喜んではいたが・・・・。県境に沿うように横切って行くと地蔵が祀られている蠅帽子峠に着いた。水戸天狗党のことを書いた道標が立っていた。まだ新しい。そこで一休みした。峠に着く気分は格別である。

    峠見ゆ十一月の空しさに    細見綾子

 福井県側の山々は枯れ切っていた。IKさんが、あっ、あれは白山、と叫んだ。樹林越しに荒島岳も見えたが、冠雪した白山が見えて我々山旅人を喜ばせた。十一月の山ならでは風景である。空しいどころか、我々には嬉しい。部子山銀杏峰、姥ヶ岳、道斉山、堂ヶ辻山、屏風山も見える。越前側は完全な廃道らしい。かの天狗党は越前側に下るが、村々の家は焼かれていたという。係わり合いになるのを恐れたのか。
           蠅帽子嶺の三角点へ
 峠の越前側から尾根へ踏み跡が上がっている。これが三角点1037mに登る踏み跡だ。踏み跡はすぐに消える、又現れる、激しい藪に前途を阻まれながら3つばかりのピークを超えると三角点だった。先行の単独行者がいてあいさつした。落葉しているので見晴らしは良い。能郷白山が大きい。比高600mはあるから当然だ。
 単独行者はコンロを片付けるとさっさと下山していった。又静寂が戻った。3人だけの世界になった。するとどこからか一頭の大型の蝶が飛来してきた。アサギマダラだった。まだこんな山奥に居るのかと驚いた。先だって三河の三ヶ根山で見たばかりである。秋の蝶は弱弱しいというが何のそのという感じだ。
 我々も下山の時が来た。先ほど見つけた下山の尾根に下るポイントに戻り、激しいヤブ尾根を辿った。踏み跡程度だが結構な道のように思える。谷に直降するルートは見つからず、尾根を辿ると峠道に戻れた。地形図どおりである。漫歩気分でブナの純林の街道を下った。943mポイントをチエックした。IKさんが痙攣を起こして遅れたので休憩を取った。鞍部から右は先の方で倒木で塞がれていたから908mポイントへ軽く登った。誰もが記憶の無い道標だった。地形図の尾根を辿る旧来の道だった。広いために踏み跡が分散し、見失い勝ちになるが何とか凹んだ道形を探し、つないで下った。すると見覚えのある元の山腹道に合流できた。908mのピークを避ける道は後から付けられたのだろう。道の凹みは多くの旅人の足跡であろう。
 合流地点からはしばらくでジグザグの道を下った。長い気がした。やがて谷の音が聞こえると、長い峠道も終わる。再び各自のやり方で渡渉した。車に戻ったのが14時10分。出発は8時10分だから丁度6時間のアルバイトだった。また膝の痛みがぶり返すかなと思いつつも充実した山旅を堪能した喜びが優った。
 帰路は再び道の駅「綾部の里」に寄り、名産の柿の一袋を購入した。晩秋の美濃を後にした。

雪蛍2015年11月06日

朝日浴ぶ装ふ山のまだらなり

秋冷や久しく人の住まぬ里

冷まじや廃屋朽ちて屋根も落つ

根尾谷の猿も焚き火を恋しかろ

初雪の白山見へし峠かな

捕まえて見れば寂しき雪蛍

廃村の大河原なり芒原

黄葉に至らぬままに枯れており

天然の真珠のごと実むらさき

国境の稜線はみな黄落す

歴史ある雑木黄葉の道歩く(ありく)

鳴く鹿のたれも応えぬ無人境

秋蝶も北から山を越へにけり

代わる代わる焚き火の番や長き夜

山猿の咆哮を聞く秋の夕

道道で柿売る露店数多なり(本巣市)

奥三河紅葉ドライブ2015年11月09日

 11/7はあいにく曇天だった。11/8は立冬だが雨の予報というので欲張らず、奥三河のドライブと撮影行とする。途中で入った喫茶店で週刊「矢作新報」というミニコミ紙を読むと稲武地区の古橋懐古館の話題が出ていた。それじゃあと再訪してはみたがイベントには10日早かった。以前に観覧した展示物を見ただけで終わった。午後を回ったので、山には登らず、段戸裏谷に迂回しながら帰名することにした。
 R157を行くと大井平公園ではもみじまつりとかで広い駐車場が満杯で整理員もでているほどの盛況だ。その先の駒ヶ原山荘に向かう町道に右折。この道沿いの雑木林が紅葉黄葉の盛りだった。杉の植林山に見えても結構自然林はある。かつては伐採しまくっていたが少しは残す気運がが出てきたのか。
 駒ヶ原に上がると段戸の高原が広がる。右は農地が殆どだ。左折すると裏谷へ向かう林道を行く。こんな山奥に何の必要があって広域の車道が建設されるのか。車道は仏庫裡へ直進するので途中から宇連の方向に行く林道に入った。これが従来からのイメージにあう。一車線の未舗装路だが落石はなく何とか走れる。途中で澄川と裏谷に別れるが、道路状況が悪そうなので澄川に下る。宇連で県道33に出て裏谷に向かった。
 裏谷の段戸湖では小型バスがあり大勢がレクチャーを受けている。何かイベントがあったようだ。車を止めて裏谷林道を歩く。東海自然歩道に入ると針葉樹ばかりの中に落葉広葉樹が色づいている。曇天なので色は冴えないが晴れれば美しいだろう。今が盛りである。
 設楽町では「きららの森」と呼んでいる。矢作川源流のささやかな原生林ながら今となっては学術的にも貴重な森である。夏の間は大勢の釣り人が湖に立ち込んでいたが今は誰もいない。鴨が二三羽浮かんでいるのみの静寂を取り返した段戸湖である。
 R33を足助まで向かう。寧比曽岳の峠を越えてすぐの所にも落葉樹の一帯があり、それはそれは美しい黄葉に色づいていた。そこは薪にしたり炭を焼く為に保存されているという。足助の手前で百年草という入浴施設で温まった。足助から名古屋までは断続的に渋滞があった。足助の紅葉シーズンはこれからだ。しばらくは迂回する方が良い。

時雨の中を2015年11月17日

しぐるるや大往生を弔ひぬ

冬菊に埋まるひな壇遺影かな

冬菊の白一色に包まれて

冬の夜いつか我が身と思ふ通夜

短日の登り気味なる八事坂

興正寺告別式は小春かな

棺に置く白く大きな冬の花

冬黄葉永久(とは)の別れのクラクション

マスクしたままで弔ふ女かな

冬の夕天白川に日は落ちて

JR三ヶ根駅から登る三ヶ根山2015年11月21日

 これまでは大沢から2回登ったが、お散歩程度で下山するので、マイカー登山ではいかにも物足りない。そこで電車を使って、駅から駅へとハイキングを企てた。
 標高14mの海辺に近い名鉄の西幡豆駅から登っても比高336mに過ぎない。三ヶ根駅の標高は60mくらいだから、比高250mから290mなので飛ばせば、ほぼ1時間程度の登りになる。但し、乗り換えの無い三ヶ根駅から登ることにして、西幡豆駅へ下る予定で出かけた。
          各駅停車の鈍行で西三河へ
 金山駅を7時51分の普通に乗車。840円也。快速や急行に追い越されてのんびり鈍行の列車旅を楽しむ。三ヶ根駅には定刻どおり8時59分に到着。人間ばかりの繁華街から田園の広がる田舎に着いた。人は少なく道を問う人さえ見かけない。
 ローソンで若干の食べ物と飲み物を買う。県道41号を行き、深溝苅谷門の交差点から県道322号に左折する。500mほど軽く登ると峠状の乗り越しになる。ホテルを越した先に登山口の道標を見出す。
 9時28分に登り出す。笹が刈られて幅2mくらいの細道が奥へ続いている。すぐに右からの道を合わせるがこれは車道で行き止まりになっている。3台から4台は止められる。周囲は桧の植林の幼木が密生している。山道もここから狭くなり、一旦谷の奥まった所から尾根に取り付きジグザグの急登が始まる。10分ほどで尾根に乗ると照葉樹林の植生に変わった。落葉しないので冬でも見晴らしはなく薄暗い。日光が届かないせいか、地面は笹も草藪もなく快適に歩ける。体が温まっても北風が吹き抜けるので丁度いい加減のコンディションだ。たまにある樹林越しの見晴らしから岡崎市街が見渡せる。
 標高219m辺りから上り下りを繰り返す。前方に三ヶ根山の一角も見える。ここで下ってくる男性に会った。片手に何かの道具を持っていた。多分自然薯掘りの道具だろう。先の方で穴を掘った跡があったからだ。
 10時30分。一旦軽く下って登りかえすとコンクリートの建屋に着いた。これがかつては愛知県で最初に開業された三ヶ根ロープウェイの終点駅跡だ。昭和38年に開業され、昭和51年に廃止された。年間220万人もの観光客を集めた愛知県有数の観光地も今は草深く埋もれる。ネットで見つけた名鉄のPRのユーチューブだ。
 「懐かしの名鉄グループCM」0:30秒辺りから0:55秒までが三ヶ根山観光PRになっている。
 https://www.youtube.com/watch?v=zQmeCbybWRU
 私も十代の頃、勤務先の忘年会で形原温泉に行った記憶があるが、今はどうなっているのやら。
 跡地からは蒲郡市街地や三河湾が見下ろせる。ここで10分間休憩とした。すぐ近くに形原温泉に下る山道の道標がある。やや草深い感じだ。しばらくで三角点へ行く案内板があるので左折。やや草がかぶさるが歩ける。平坦地にはなにもない。2枚目の道標で左の尾根へ下る。すると右にスカイラインと接する辺りに3等三角点が埋まっていた。何も見えない。ネットでは不明という記事を見るがここまで下る前に諦めるのだろう。往復10分で分岐まで戻る。
 すぐにスカイラインに出た。スカイラインは徒歩で歩けないので、車に注意して横断し、「ゆうとぴあ三ヶ根」に行く。観光地としては寂れたが現在も営業中である。山上では唯一の飲食店になる。ここでは慰霊碑のガイドもかねておられるようだ。そのまま三ヶ根観音まで歩く。比島観音や数々の戦争慰霊碑を経て、11時05分、展望台に着く。かつては名鉄グランドホテル・回転展望台が営業していた場所だ。(ユーチューブ参照)今は駐車場とトイレ、ベンチなど簡素な園地に変わった。
 ここからの景色は昔も今も変わらないままであろう。そのまま脇道を歩いて行くとアイシン精機の保養施設の前を通過してスカイラインに合流。アサギマダラ飛来地の案内塔が建つ。ここも通過車両に注意して横断。荒廃した観光施設の前を通り、向こう側の芝の園地に行く。「三ヶ根山」の石碑があり、あじさいや幹の分かれた珍しい桜が植えてある。その先のコンクリートのベンチがある園地で昼食とする。11時20分から40分昼食タイム。
 園地から下ると、目の前に大きな電波反射塔の建つピークが見える。左はスカイラインで、広大なPがある。右へは「殉国七士廟」への案内がある。ハイキングコースもここで西幡豆駅と東幡豆駅とに分かれる。左へは三河湾を見下ろしながら、スカイライン沿いの歩道を下り、東幡豆駅に下る。右は殉国七士廟に立ち寄って、小野ヶ谷下山道に行く。今回は右に振る。電波塔をめざす。
 分岐からすぐ車道の左からの階段の道を急登する。標高350mの最高点に達するが、東半分が開けて、三河湾方面に眺めはあるが360度の大展望というわけではない。車道を下ると元の道に戻れる。
 「殉国七士廟」へは広い車道を歩く。左の林道への分岐に小野ヶ谷下山道の案内板がある。とりあえず、殉国七士墓にお参りする。駐車場から右へ分岐する林道との辺りに四等三角点「三ヶ根」が埋まる。墓地ではボランティアの人が2名掃除中だった。思わぬ珍しい話を聞いた。私もネットで知る限りの断片的な知識で応じたが深い話に感心する。今回はお町さんの碑にも寄らせていただいた。満州の悲話である。
 小野ヶ谷の道まで戻り下る。延々とした林道歩きが続くが、スカイラインで車の排ガスを浴びながら下るよりは良い。地形図通りの曲折通りに下ると小野ヶ谷の山麓に着いた。そこで橋を渡るのが間違いで八幡へ行き、とんだ遠回りになった。素直に川沿いに行けば西幡豆駅の「はず」だった。駅に着いたのは2時28分で29分発の電車に間に合わなかった。約40分はロスしただろう。駅前の店で缶ビールを飲みながら時間を潰すと30分後に電車が来た。ワンマンカーだった。廃線寸前の様相である。山も海も寂れてしまったのか。
 ホテルはグリーンホテル三ヶ根以外はみな廃業。数多の慰霊碑だけが未だ人を呼ぶ。しかし、これとて、戦争体験者や語り部も高齢化して僅かに残るのみという。
 傍らの同行者曰く、中国や韓国から観光客を呼ばないとねえ、という。こんな慰霊碑群を見たら中国人が何と言うやら。左様、反戦をいわずして、反戦の山になったのだ。二度と戦争してはならない。

第19回名古屋モーターショーに行く2015年11月23日

 金城埠頭のポートメッセで開催中の名古屋モーターショーに行った。過去には晴海にも行ったし、名古屋にも行ったことはあるがもう記憶はない。昔も今回も車は変われども、車の横に美女を置く演出は変らない。
 名古屋駅からあおなみ線に乗るが、着席できないほど混雑していた。殆どはモーターショー目当ての乗客だった。家族連れも多く、一種の行楽代わりにもなっているかのようだ。終点で降りるとすぐ行列になり、会場までぞろぞろ歩いた。中へ入ると、来たことを後悔するほど混雑していた。特にトヨタブースは前列に人だかりがあるので見えない。何がこんなに人気なのか。
 トヨタは避けて他のブースへ飛ばす。スバルに期待したが、レガシーはぶくぶくね、という声が聞こえてきた。ホント、皆3ナンバーになり、アメリカンサイズになってしまい、清少納言の「星はすばる」に由来するというもっとも日本的なブランド「スバル」「SUBARU」で、日本の狭い道をよく知っていたメーカーだったが、軽からも撤退し、小型車もなく、今は外国の高級メーカーのようになってしまった。以前はレオーネを2台乗り継いだスバリストだったのだが。
 続いて注目の車はマツダ。CX5,CX3,アテンザなどいい車だが、登山をやっている間は使えない。良すぎてもったいない。日産、ホンダ、スズキ、ダイハツはパス。三菱のアウトランダー、D5は素晴らしい性能を誇る。PHVは特に良い車だと思った。
 三菱車の良い点は、ボディーのふくらみが少ないことである。ウインドウがほぼ垂直になり、ボディのふくらみも少ないので死角が生まれにくい。他車はウインドウを丸めてキャビンを小さく絞りデザイン重視にするために死角が生まれる。
 外車では、ルノーカングーが面白い。日本車はすべてフロントウインドウを極端に寝かせて空力特性を稼いでいる。燃費優先思想から必然だろうが、すべてがスポーツカー見たいだ。カングーは車の使われ方をよく考えてウインドウを立てて居住性を優先させた。楽しい車になった。
 メルセデス、BMWはパス。さて、注目のフォルクスワーゲンのブースに来た。あんな事件があったせいか、来客は少な目なのは仕方ない。日本では10月の売上が48%減、アメリカは若干アップ、欧州は微減らしい。質実剛健のイメージが良かっただけに惜しい。D車の販売はないのに、日本人の目は他国よりも厳しい。
 但し、ボディ剛性は良かったし、国産より安全性も高い気がする。かつて、日産ではサンタナ(パサート)をノックダウンしていたが、国産はシルの部分はスポット溶接するのに対し、サンタナは電気溶接だった。そのことがドアを締めた際にパシッという音に現れる。悪路でもボディが撓る際のミシッという音もしないそうだ。日本車ではコスト重視、燃費重視で軽視されている設計思想だろう。目に見えない良さが知られれば、きっと人気は盛り返す。
 蓮舫さんは「世界一になる理由は何があるんでしょうか?2位じゃダメなんでしょうか?」とスパコンの予算ににいちゃもんをつけたことで知られたが、VWもトヨタを台数規模で追いかけず、車本来のよさで勝負する原点に帰って欲しい。GMは400万台クラブを提唱したが、自ら倒産してしまったではないか。スパコンはともかく、車会社は世界一になる意味はユーザーにとっては何ら意味は無い。
 概して、日本車は電子制御に優れている。ドイツ車は機械的に優れている。そんなイメージだったが、今回の事件で、あんな不正ソフトが開発できるんだからデータのごまかしではなく、性能向上に役立てるべきだろう。
 2号館は外車専門のスペースだった。その中ではボルボが良かった。北欧のメーカーなのに日本人に好まれそうなデザインとディーゼルエンジンもラインナップ。電子制御の塊のようなHVではなく、ディーゼルで勝負することがヨーロッパ的良心でもある。
 1号館では、ステルスのコーナーに注目した。
http://www.stealth-jp.com/
 今、乗っているキャラバンは13年目にして、ついに19万kmを超えた。4ナンバーで毎年車検がある。メリットは自動車税が安いこと。3000CCでも安く済む。デメリットは後席の居住性が悪いこと。荷物車だからやむをえない。新車で購入時にカスタムすることも考えたがいつまで乗れるか分からないのでバンのまま乗って来た。
・エンジンはディーゼルだが10万kmを超えた辺りから調子が良くなった。当りがついた気がする。
・広大な荷物スペースは腰を伸ばして寝ることができる。
・リーフスプリングは固いが、荷重が大きくても沈まないから地上高17センチでも地面にこすらない。ボディも頑丈だ。
・車幅170センチは日本の狭い道を考慮して考えられたように思う。最近の3ナンバーワゴンは180センチ以上あり、日本の山道では扱いにくい。
というわけで、バンの良さを知り、乗り換える気がなくなり、長く乗ってきた。この会社に依頼すると、バンのボディはそのままに、シートはワゴン並みにカスタムメイドすることができると知った。その分荷物スペースは狭まるのは致し方ない。
 ひと回りしたらもうくたびれた。帰りも並んで乗車。満員電車にゆられて帰宅しました。しかし、収穫はあった。

哀悼!女優・原節子さん2015年11月26日

朝日新聞から
ソース:http://www.asahi.com/articles/ASHCT7KPNHCTUCLV01B.html?iref=comtop_pickup_01
戦前から戦後にかけて銀幕のトップスターとして活躍し、42歳の若さで突然引退した後は「伝説の女優」といわれた原節子(はら・せつこ、本名会田昌江〈あいだ・まさえ〉)さんが9月5日、肺炎で死去していたことがわかった。95歳だった。葬儀は近親者で営んだ。

原節子さん、内なる美追求 孤高の生涯半世紀
特集:原節子さん
 同じ敷地に暮らしていた親族によると、原さんは8月中旬、神奈川県内の病院に入院。亡くなった日は、5人ほどの親族に見守られながら息を引き取った。それまでは「大きな病気もなく過ごしていた」といい、亡くなった時点での公表を控えたのは「あまり騒がないでほしい」との遺志を尊重したためという。

 横浜市生まれ。女学校2年の時に義兄の熊谷久虎監督に女優の道を勧められ、1935年、日活多摩川撮影所に入社。「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビューした。芸名の「節子」はこの時の役名からとった。

 山中貞雄監督の「河内山宗俊」など清純な美しさとかれんな演技で注目を浴び、36年、アーノルド・ファンク監督から、日独合作映画「新しき土」の主役に抜擢(ばってき)された。

 東宝系の会社に移籍。戦争映画への出演を経て、戦後の46年、黒澤明監督の「わが青春に悔なし」で、生の輝きに満ちた新しいヒロイン像を演じて注目を集めた。第2次東宝争議の最中、組合の政治闘争主義に反発し、長谷川一夫、高峰秀子らとともに組合を脱退し、47年3月に創立した新東宝に参加。この年の6月にフリーとなった。

 以降、「安城家の舞踏会」「お嬢さん乾杯!」「青い山脈」などに主演。みずみずしい美貌(びぼう)と着実に成長した演技力を発揮した。49年の小津安二郎監督の「晩春」では、大学教授の父(笠智衆)と暮らす、婚期が遅れた娘のこまやかな愛情を好演。この年の毎日映画コンクールの女優演技賞を受けた。

 「白痴」「麦秋」「めし」「東京物語」「山の音」など、戦後映画を代表する作品にたて続けに出演した。54年には、白内障の手術を受けたが、翌年、「ノンちゃん雲に乗る」で鰐淵晴子の母親役で再起した。

 その後も、「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」など小津作品や、「智恵子抄」などで活躍したが、62年、「忠臣蔵」を最後に突然引退した。

 その後は神奈川県鎌倉市の自宅で静かに暮らし、パーティーなどの公の場には一切登場せず、マスコミなどの取材にも応じていなかった。それがかえって神秘的なイメージを生んだ。
以上

 往年の名女優・原節子さんが95歳で死去。各メディアが一斉に大々的に報じた。死去の連絡に供えて予定稿が準備してあったかのような詳細な評伝も掲載された。

 何といっても、小津映画の紀子三部作が良かった。あれで鎌倉へ行きたくなって、ハイキングを兼ねて何度か観光旅行した。すぐそこの谷戸の一角の小さな家に原さんが住んでいる気がした。ひょっとすると小津さん亡き後の家を購入して住まわれたのではないか。それは私の妄想である。
 『東京物語』『晩春』『麦秋』という俳句の季語を映画の題名に与えていかにも小津さんらしい。『東京物語』には戦争への批判と皮肉が込められていた。『安城家の舞踏会』も良かった。原さんの凜とした美貌が生かされた。佐野周二と原節子共演の『お嬢さん乾杯』も楽しく可笑しい映画だった。また、鎌倉を歩いてみたい。

ユーチューブで「伝説の女優 原節子」がヒットしたので追記しておく。
https://www.youtube.com/watch?v=HBtziiAaN-g
以上によると、92歳のころに編集されたようで、都内の介護付マンションにて健在である、とある。実際は鎌倉市のおいの家の敷地内に住んで居られたらしい。

北鈴鹿・万野に登る2015年11月30日

 11/28から11/29は山岳会の忘年会と今年は異例に増えた新入会員の2回目の歓迎会を兼ねた行事になった。宿泊は鈴鹿中部の朝明渓谷の山荘を貸切で利用させていただいている。もうはや常設会場になった。
 28日の食事の準備は買出し組に一任してもらい、新人3名と先輩新人3人、旧人2の8名で向かったのは近江の大君ヶ畑(おじがはた)だった。ここから茶野、大見晴、万野を結ぶ周回を計画したが、万野と大君ヶ畑の間が情報不足なのでそこから登ることにした。
 金山駅前を8時前に出発。今日の御池岳、鈴北岳の登山口はマイカーで埋まる。コグルミ谷の登山道も修復されて登山者が上ってゆく。鞍掛峠の登山口のPも満杯。R306を鞍掛峠のトンネルを抜けるとそこも満杯。登山口の大君ヶ畑へは9時30分過ぎに着いた。廃屋が多くなった。寺も廃寺になったようだ。ここだけは山眠る季節のせいですべてが眠るがごとく静かだ。
 万野へ向かうのはわれわれだけのようだ。最初は林道を進む。終点で沢沿いの廃道を歩く。沢の分岐で右のはずだが、上部にむかう気配を感じさせるケルンを見た。杭の上に置かれた石ひとつでそう判断した。沢は山抜けのために顕著な溝になっていた。
 地形図で送電線の下に巡視路があるはずとの読みで、落石に注意しながら急斜面を登ったが何も見つからず、そのまま尾根を登った。やがて、滝洞谷(北鈴鹿で一番の悪相の谷)を見下ろす本尾根に合流すると茶野が大きく聳えるのが見えた。われわれが登ったのは顕著な尾根ではなく、枝尾根であった。
 そのままゆるやかに登ると760mの等高線のコブに着く。ここからコンパスを見て真西に振る。すぐに赤テープを見出す。これは実は大見晴れへの目印らしい。そのまま西進すると三角点のある万野へ着いた。すでに11時30分なので茶野はおろか大見晴も断念して大君ヶ畑へ下ることに注力した。
 山頂の一段下に鉄塔が見える。そこまで下る。さいわいに巡視路のプラスチックの階段もみえたが、中腹から下は崩壊して急斜面の土に埋まっていた。等高線の詰まったイメージ通りで、踏み跡もなく急斜面の下山は困難を極めた。時々落石もあり緊張した。メンバーの1人が足がすくんで恐がるので、旧人が持っていたロープで確保してもらった。何とか難関を突破して、下ると尾根が顕著になった。その辺りから巡視路のトラバース道らしい踏み跡もあったがそのまま尾根を下った。
 万野から真北に伸びる尾根と登りにとった尾根との間に挟まれた小尾根のようだ。末端らしいところで一旦左に振るが、別の(北)尾根にトラバースするので、沢に下ってみると、落ち込みが急なので、末端に戻って右に振ると踏み跡が現れてそのまま登りにとった沢を横切った。対岸に見覚えのあるケルンを見た。何と、そのケルンは登る際は右に振れ、というサインだったのだ。よく見ると、山側に踏み跡が続くので下ると林道終点に下りた。2時過ぎだった。

 8人中6人の新人様には道なく、道標もなく、不安なことであったと思う。それでも地形図を食い入るように見て、コンパスを見て、地形を読みながら、悪場をしのぎながら無事に下山した。この体験を大切にしてもらいたい。
 鈴鹿ではどんな変なルートでも殆ど人に会わないことはない。そのジンクスは今日は通じなかった。それだけ変なルートだった。これが本来の山登りというものである。
 8人が迷いつつ、目的を万野登頂に置き、苦行(というほどではないが)を続ける。それは確かにわずかでも忍耐を要するし、正常な人には理解できない行為なので「精神障害」を疑われるかも知れない。

原真『乾いた山』から
 「我々はみな多かれ少なかれ目的の固定化によって、頂上へ向かって歩き続ける。歩いては止まり、止まってはまた歩く。立ち止まったときにはただひたすら呼吸をする。よくのどの粘膜が破れないなと思う。頂上は目前に迫っているのに歩調はますます遅くなる。この苦行に満ちた単純作業は、忍耐でもあり、悟りでもあり、精神障害でもある。」