哀悼!女優・原節子さん2015年11月26日

朝日新聞から
ソース:http://www.asahi.com/articles/ASHCT7KPNHCTUCLV01B.html?iref=comtop_pickup_01
戦前から戦後にかけて銀幕のトップスターとして活躍し、42歳の若さで突然引退した後は「伝説の女優」といわれた原節子(はら・せつこ、本名会田昌江〈あいだ・まさえ〉)さんが9月5日、肺炎で死去していたことがわかった。95歳だった。葬儀は近親者で営んだ。

原節子さん、内なる美追求 孤高の生涯半世紀
特集:原節子さん
 同じ敷地に暮らしていた親族によると、原さんは8月中旬、神奈川県内の病院に入院。亡くなった日は、5人ほどの親族に見守られながら息を引き取った。それまでは「大きな病気もなく過ごしていた」といい、亡くなった時点での公表を控えたのは「あまり騒がないでほしい」との遺志を尊重したためという。

 横浜市生まれ。女学校2年の時に義兄の熊谷久虎監督に女優の道を勧められ、1935年、日活多摩川撮影所に入社。「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビューした。芸名の「節子」はこの時の役名からとった。

 山中貞雄監督の「河内山宗俊」など清純な美しさとかれんな演技で注目を浴び、36年、アーノルド・ファンク監督から、日独合作映画「新しき土」の主役に抜擢(ばってき)された。

 東宝系の会社に移籍。戦争映画への出演を経て、戦後の46年、黒澤明監督の「わが青春に悔なし」で、生の輝きに満ちた新しいヒロイン像を演じて注目を集めた。第2次東宝争議の最中、組合の政治闘争主義に反発し、長谷川一夫、高峰秀子らとともに組合を脱退し、47年3月に創立した新東宝に参加。この年の6月にフリーとなった。

 以降、「安城家の舞踏会」「お嬢さん乾杯!」「青い山脈」などに主演。みずみずしい美貌(びぼう)と着実に成長した演技力を発揮した。49年の小津安二郎監督の「晩春」では、大学教授の父(笠智衆)と暮らす、婚期が遅れた娘のこまやかな愛情を好演。この年の毎日映画コンクールの女優演技賞を受けた。

 「白痴」「麦秋」「めし」「東京物語」「山の音」など、戦後映画を代表する作品にたて続けに出演した。54年には、白内障の手術を受けたが、翌年、「ノンちゃん雲に乗る」で鰐淵晴子の母親役で再起した。

 その後も、「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」など小津作品や、「智恵子抄」などで活躍したが、62年、「忠臣蔵」を最後に突然引退した。

 その後は神奈川県鎌倉市の自宅で静かに暮らし、パーティーなどの公の場には一切登場せず、マスコミなどの取材にも応じていなかった。それがかえって神秘的なイメージを生んだ。
以上

 往年の名女優・原節子さんが95歳で死去。各メディアが一斉に大々的に報じた。死去の連絡に供えて予定稿が準備してあったかのような詳細な評伝も掲載された。

 何といっても、小津映画の紀子三部作が良かった。あれで鎌倉へ行きたくなって、ハイキングを兼ねて何度か観光旅行した。すぐそこの谷戸の一角の小さな家に原さんが住んでいる気がした。ひょっとすると小津さん亡き後の家を購入して住まわれたのではないか。それは私の妄想である。
 『東京物語』『晩春』『麦秋』という俳句の季語を映画の題名に与えていかにも小津さんらしい。『東京物語』には戦争への批判と皮肉が込められていた。『安城家の舞踏会』も良かった。原さんの凜とした美貌が生かされた。佐野周二と原節子共演の『お嬢さん乾杯』も楽しく可笑しい映画だった。また、鎌倉を歩いてみたい。

ユーチューブで「伝説の女優 原節子」がヒットしたので追記しておく。
https://www.youtube.com/watch?v=HBtziiAaN-g
以上によると、92歳のころに編集されたようで、都内の介護付マンションにて健在である、とある。実際は鎌倉市のおいの家の敷地内に住んで居られたらしい。