訃報 俳人・稲畑汀子さん死去 ― 2022年03月01日
ソース:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220228/k10013505641000.html
俳人 稲畑汀子さん死去 日本最古の俳句雑誌「ホトトギス」主宰
俳句雑誌「ホトトギス」を主宰し、俳句の普及活動にも尽力した俳人の稲畑汀子さんが27日、心不全のため兵庫県芦屋市の自宅で亡くなりました。91歳でした。
稲畑汀子さんは神奈川県出身で、ともに俳人だった祖父の高浜虚子や、父の高浜年尾から手ほどきを受けて、幼いころから俳句に親しみました。
1979年に俳句雑誌「ホトトギス」の主宰を父から引き継ぎ、1987年には日本伝統俳句協会を設立して、伝統的な俳句の普及や継承に力を尽くしました。
「ホトトギス」は、1897年に創刊された日本最古の俳句雑誌で、現在まで125年にわたって刊行が続き、去年の12月号で1500号を迎えています。
全国から俳句を集めて選評する番組「NHK俳句」では、選者や講師として出演し、2019年にはNHK放送文化賞が贈られています。
家族によりますと、稲畑さんは最近まで精力的に仕事を続けていましたが、27日に心不全のため兵庫県芦屋市の自宅で亡くなりました。
91歳でした。
以上
・・・もう10年も前に俳句仲間と愛媛県松山市の高浜虚子の生家跡に行ったことがある。虚子は汀子さんの祖父にあたる俳句界の巨人である。虚子の本は何冊も持っていて読んできた。優しい文章である。虚子は苦労人でもあったという。それでもあの当時の東大を出ているのだから貧乏ということではなかった。同郷の子規の継承者になった。これには多くの本がその顛末を書いている。
ともかくも「ホトトギス」の発行所を東京の丸ビルに設置したことが運の始まりであろう。
当時は俳句雑誌が他にないからパイオニアとして売れたし、権威にもなった。それが後輩を育成するテキストにもなった。
虚子をひとまず師として仰いだ。虚子を踏み台に飛躍して行った俳人も多々ある。こうして曲折を経て「ホトトギス」は昨年末で1500号に到達した。
創業よりも承継が難し。とは言う。孫の汀子さんはリレーの中継ぎとして大役を果たした。俳句歳時記も虚子編と汀子編とあるが、両方を持っている。多くの弟子をまとめることも大変だったと想像する。この世界に限らないが、離合集散は世の倣いであるから、次々と有力な弟子が離反していった。そして虚子の教えを伝統俳句として日本伝統俳句協会に収斂した。
俳句を家業として小さくまとまることなく、普遍的な文学の一部として社会に問うたのである。金子兜太は個人として逝った。越える目標とはならず、独立峰のように孤高の存在感のある俳人である。同時に雑誌も廃刊となった。
しかし、虚子は違う。「ホトトギス」も今は息子さんに継承された。これからも俳句史の中に燦然と輝く存在であり続けることだろう。
俳人 稲畑汀子さん死去 日本最古の俳句雑誌「ホトトギス」主宰
俳句雑誌「ホトトギス」を主宰し、俳句の普及活動にも尽力した俳人の稲畑汀子さんが27日、心不全のため兵庫県芦屋市の自宅で亡くなりました。91歳でした。
稲畑汀子さんは神奈川県出身で、ともに俳人だった祖父の高浜虚子や、父の高浜年尾から手ほどきを受けて、幼いころから俳句に親しみました。
1979年に俳句雑誌「ホトトギス」の主宰を父から引き継ぎ、1987年には日本伝統俳句協会を設立して、伝統的な俳句の普及や継承に力を尽くしました。
「ホトトギス」は、1897年に創刊された日本最古の俳句雑誌で、現在まで125年にわたって刊行が続き、去年の12月号で1500号を迎えています。
全国から俳句を集めて選評する番組「NHK俳句」では、選者や講師として出演し、2019年にはNHK放送文化賞が贈られています。
家族によりますと、稲畑さんは最近まで精力的に仕事を続けていましたが、27日に心不全のため兵庫県芦屋市の自宅で亡くなりました。
91歳でした。
以上
・・・もう10年も前に俳句仲間と愛媛県松山市の高浜虚子の生家跡に行ったことがある。虚子は汀子さんの祖父にあたる俳句界の巨人である。虚子の本は何冊も持っていて読んできた。優しい文章である。虚子は苦労人でもあったという。それでもあの当時の東大を出ているのだから貧乏ということではなかった。同郷の子規の継承者になった。これには多くの本がその顛末を書いている。
ともかくも「ホトトギス」の発行所を東京の丸ビルに設置したことが運の始まりであろう。
当時は俳句雑誌が他にないからパイオニアとして売れたし、権威にもなった。それが後輩を育成するテキストにもなった。
虚子をひとまず師として仰いだ。虚子を踏み台に飛躍して行った俳人も多々ある。こうして曲折を経て「ホトトギス」は昨年末で1500号に到達した。
創業よりも承継が難し。とは言う。孫の汀子さんはリレーの中継ぎとして大役を果たした。俳句歳時記も虚子編と汀子編とあるが、両方を持っている。多くの弟子をまとめることも大変だったと想像する。この世界に限らないが、離合集散は世の倣いであるから、次々と有力な弟子が離反していった。そして虚子の教えを伝統俳句として日本伝統俳句協会に収斂した。
俳句を家業として小さくまとまることなく、普遍的な文学の一部として社会に問うたのである。金子兜太は個人として逝った。越える目標とはならず、独立峰のように孤高の存在感のある俳人である。同時に雑誌も廃刊となった。
しかし、虚子は違う。「ホトトギス」も今は息子さんに継承された。これからも俳句史の中に燦然と輝く存在であり続けることだろう。
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