俳句と歴史の見方2018年05月10日

 徳川幕府の樹立は1603年。戦国時代が終わって、平和が訪れようとしていた。当時の生き残った武士は妻帯し、子供を産んだであろう。すでに妻帯者も同じで子供を産んだからべビーブームが起きた。
 「超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済等様々な分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立」した時代だった。農業生産が高まり経済成長があった。それが最高潮になるのが元禄時代(1688から1704)だった。俳人の松尾芭蕉(1644から1694)が活躍した。1674年に31歳で江戸に住み多くの俳人と交わった。頂点の「猿蓑」は1691年だった。
 
 明治時代は1868年とされる。それで今年は明治150年がはやされている。正岡子規(1867から1902)は1893年に俳句革新を唱えた。早世したが意思は虚子に継承された。1939年に「俳句研究」誌で山本健吉(1907~1988)編集長により、人間探求派が唱えられた。山本健吉は若干32歳だった。 
 金子兜太(1919~2018)の前衛俳句は1946年沢木欣一の「風」で社会性俳句が主張される。
 ウィキペディアには「句集としては『合掌部落』(能村登四郎)、『塩田』(沢木欣一)などが大きな話題となった。古沢太穂、金子兜太、鈴木六林男、佐藤鬼房など特筆すべき俳人は多い。また自由律俳句においては栗林一石路、橋本夢道、横山林二、吉川金次らがいる[1]。
 社会性俳句は、その後の高度経済成長のなかで生れた「一億総中流意識」や、文学運動として新たな発展がなかったことから、運動としては沈静化し衰退していった。
 俳句の文学性との矛盾や、単純な要求を掲げた「スローガン俳句」、「プラカード俳句」が社会性と誤解されることもあった。当時、急進的な立場だった沢木欣一や佐藤鬼房、能村登四郎などが徐々に保守化したことも運動の衰退の一因となった。
 1956年沢木欣一は金沢大学講師から文部省に移り、約10年間教科書検定に関わった。今井聖は「(社会性俳人)は流行を演出したあとバブル期に入るといちはやく「俳諧」に転向する。
 「社会性俳句」出身の「俳諧」俳人はごろごろいる。みんな俳壇的成功者である。」と強く批判する。」
と整理されている。

 以下はブログ「週刊俳句 Haiku Weekly」から転載
 「前衛俳句」のありどころ(下)金子兜太と林田紀音夫~「伝統」対「反伝統」の空無化
堀本 吟
『びーぐる 詩の海へ』第4号(2009年7月)より転載

「前衛俳句
昭和三〇年代に時代意識に関わる内面意識や心理、深層意識などを自覚的に掘り起こし、新たな表現様式の確立に向け果敢な詩的実験を試みた俳句運動を言う。(としてふたつの潮流をあげる)。一つは「二〇年代の社会性俳句の推薦者金子兜太が三二年に提唱した「造型俳句論」に立脚して、創作過程の意識や無意識の世界に注目した流れ。(堀本註。兜太を中心に「海程」へ結集した八木三日女、堀葦男、林田紀音夫等)。*他の一つは、自己の内部現実を詩的内部構造の次元から追及してきた冨澤赤黄男、高柳重信を中心とする「薔薇」から「俳句評論」の流れ。(堀本註。赤尾兜子、加藤郁乎、永田耕衣、河原枇杷男、安井浩司等)。運動は、書く行為の意識化の普及や表現様式の変革に一定の効果をあげる一方、隠喩のコード化や俳句性の逸脱等の問題が派生した。(この項川名大執筆)。

伝統俳句
「新傾向俳句、新興俳句、社会性俳句、前衛俳句に対して有季定型をあくまでも守るという立場から発言された言葉であろう。(中略)。「俳句の困難さとは、この形式に手を染めたが最後、伝統を背負わざるを得ない。」(同書。この項玉川満執筆)。」
以上

 日露戦争は1905年、 ロシア革命は1917年、 ソ連は1922年に成立1991年に崩壊。この間は日露戦争から86年、ロシア革命から74年、成立から69年になる。

 つまり歴史は70年から80年の間隔で大きなうねりを繰り返している。

いみじくも金子兜太は1919年の生まれで、近現代史を同時代で生きて見てきた。
 徳川の御世は85年後の元禄時代で文化も大いに栄え、芭蕉を輩出した。その後は社会の停滞を招いて、様々な改革がなされる。
 柄井川柳(1718~1790)が台頭するのは宝暦の時代だった。芭蕉が1694年に死去して71年後の1765年に「誹風柳多留」が刊行。
 生命へのエネルギーがほとばしるような江戸時代前期と停滞して厭世感のただよう江戸時代後期に川柳が流行した。社会の締め付けが厳しくなったであろう。尾張の徳川宗春は元禄に生まれ、社会の低迷の中で規制緩和策をとり低迷からの脱却を図った。こんな時代には風景を詠ずよりも、風刺、うがちなどの川柳が流行した。川柳は社会を反映した人間と生活を詠む。
 現代に敷衍すれば、人間探求派から始まった社会性俳句の時代になる。
 1868年の明治維新から70年後は1938年で昭和13年になる。新興俳句運動が興ったのは昭和6年からになる。80年後は1948年になる。金子兜太が復員したのが1946年。
   水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る
 トラック島を引き揚げる復員船の上で詠まれた。
 戦後の日本国民は厭戦気分が強かったであろう。もう戦争は否だと。GHQは悪いのは日本国民ではない、軍部だと教えた。この時代からまた元禄時代のような生命のほとばしる俳句が生まれた。しかしイデオロギーで価値観が混沌とし始めた。
 すでに流れを見てきたように、社会性俳句の流行は川柳の普及した江戸時代末期の空気と重なるものがある。
 終戦の1945年から70年は2015年。折しも2015年から始まった中日・東京新聞の平和の俳句が大人気を得た。金子兜太が選者を努めた。平和は武力で支えると思っているが、句を投じた人らは憲法9条のお陰だと思っている(らしい)。
 ある結社の主宰は現在は駄句の山を築いていると断じた。その通りかも知れません。子規は江戸時代末期の停滞した時代の俳句を月並俳句と批判した。そこから写生理論が導かれた。
 人間を詠むのは難しいからだ。子規虚子はそれが分かっていた。沢木欣一も社会性俳句を主唱したが晩年は写生に徹した。金子兜太は無季で良いとし、韻律、季語などの約束を無視して押し通した。 
 それは日銀マンと官僚の生活力と経済力の差だったと思う。日銀貴族ともよばれる高収入で知られる。退職後も雇われなくても十分に食べていけるのなら自分を押し通せばいい。夏目漱石も東大から博士号をやろうといわれても断わったという。作家として収入があれば国に尻尾を振ることもないわけだ。