春の丸黒山と日影平山2018年05月01日

4/29 飛騨清見の道の駅で仮泊後、県道462を走って乗鞍青少年交流の家に行く。7時45分に出発。交流の家のスタッフに登山口を教えてもらう。しばらくは林道のような遊歩道を歩く。終点は日影峠になっている。ここから右はカブト山へ、左は日影平山へ道が分かれる。
 丸黒山へは二筋に分かれるが右の道をたどった。一旦は急降下してゆくが、すぐに1559mへ登り返す。乗り越すと1570mの平らなブナヶ平に着く。ここで地元の人らしい人と会った。丸黒山では1人行方不明があったと教えてくれた。これは手前に左に巻き道もあって回避できる。眺めのいいところがある。そのまま下るとブナヶ平と合流する。またしばらくで二筋に分かれる。右は旧道である。左は新道で1694mの枯松山を経由して、枯松平休憩所に下る。現在は文字通り喬木となった唐松の疎林である。
 旧道は枯松山の山腹を巻きながら休憩所へ行ける。この道は近道であり、アップダウンもない歩きやすい道である。水場も2箇所確認した。途中のほとんど平らなところに鉄の支柱が倒れていた。これは鉄条網の支柱と見られ、かつては牧場であった名残である。
 『飛騨百山』の執筆者は「放牧された牛が、われわれを見ると寄ってきた」と書く。彼等がテント場にした枯松平には立派な休憩所が建っている。
 一休みしてから一旦ゆるく下る。平坦な唐松林を歩く。最初の急登はガンバル坂という。がんばると階段の踊り場のような白山展望台に着く。真っ白な白山が見える。道標にもあるし、地形図にある青屋への破線路は笹薮に埋もれていた。すぐに根性坂に差し掛かる。ここをしのぐと雪が出てきた。1926mの主三角点に着いた。少し先で12時を回り、相談の結果、計画を進めて奥千町ヶ原避難小屋に行けても明日に無理がかかると判断して前途を中止。スキーやザックをデポして水だけ持って山頂を往復することとした。
 丸黒山で12時半過ぎになった。撤退をしたものの丸黒山からは乗鞍岳、笠ヶ岳、槍穂高連峰などの大展望に癒されました。御嶽、恵那山は木立に遮られて少ししか見えませんでした。
 青少年交流の家の若いスタッフらが登って来たので話を聞きました。丸黒山から先は登山道の整備がないため這い松の枝が伸びて歩行が困難だろうとのことでした。丸黒山頂から滑降予定の千町尾根を眺めると余り雪が残っていませんでした。スタッフも丸黒山にこんなに雪がないのは珍しいとのことでした。登山口の別のスタッフの話では先週は1mくらいあったそうです。今日は斜面に20センチ程度残っていました。雨とかで急速に融雪が進んだようです。千町尾根は熊が棲息しているそうです。
 当初の計画段階では記録の多い岩井谷を検討しましたが雪解けが早く、雪の塊の崩壊などを恐れて尾根にしたのですが、岩井谷の無雪期は入山禁止になっているそうです。
 丸黒山を下山後は枯松平休憩所の避難小屋で一泊しました。ログキャビン風のきれいな小屋で上質な毛布の備えもあって快適でした。水場は近くに沢水があります。
4/30 避難小屋を出てWさん未踏の日影平山(ぎふ百山)に寄って下山。県道を車で走る途中でも白山、笠ヶ岳、槍穂高連峰などの一級の山岳景観を楽しみました。
 帰りは美女峠の水芭蕉を散策。帰路に見座というところの金峰神社の祭礼の行列に出会いました。R41で帰名する途中、下呂温泉で一風呂浴びて行きました。

春尽きて乗鞍の山懐に 拙作2018年05月02日

枯松平休憩所(避難小屋)
 標高1635mに建つ枯松平休憩所の避難小屋でビバーク。春満月の夜で明るい。厳冬期のような凍えるような寒さもなし。朝一番で小鳥が啼き始める。
 話をしているといつの間にかコガラが寄ってくる。始めは高い枝を遠巻きに枝から枝を飛んでいながら慣れると段々我々に近づいてくる。好奇心の強い小鳥である。
 奥飛騨の標高1500m超の高原の一角で雪山の景色を楽しみつつ、また急速に去ってゆく春の山に起居する。本当はまだ芽吹き始めたばかりの早春のよそおいなのに。
 山麓の村では桜が咲き、ボタンザクラなども盛りであった。水芭蕉は少し朽ちかけていた。山村の春は花が恋しく美しい。神社では祭の子らが練り歩く。農事に忙しい初夏の到来を告げているかのように。

GW後半へ2018年05月05日

 今朝は猿投山が見えていたのに午後は曇天になった。少し肌寒い。午後3時過ぎまで積読の本や雑誌を読みまくる。
 乱読に飽きると自転車に乗りたくなった。すると前に修理したパンクだが再び後輪がパンクしていた。已む無く、タイヤとチューブを交換してもらった。約6000円弱の支出になった。まあクルマよりは軽い。
 曇っていた空が黒くなり、雨粒が落ちてきた。すぐ止んだので平針市街地をぐるっと走った。すると土手には例の絶滅させたいオレンジ色の花の群落を見た。しつこい外来種である。
 夏モードに切り替える時期が来た。それからタイヤも夏タイヤに変えなきゃ。昨日はタイヤ4本を載せる台車の車輪が壊れたのでホームセンターで買ってきて交換した。
 さらに倉庫代わりの車内を整理をした。スキー板、ピッケル、ストック、山スキー専用靴、タイヤチエーン、シールなどを部屋の押入れに収納してすっきり。逆にポリタンの灯油の残りはディーゼル車の給油口に注いで空に。
 今日も見まわすと片付いたと思っていたが、まだワカンと冬用登山靴、冬用のヤッケもパンツも残っていた。ところが北アルプスから尾瀬にかけて北の山では冬に逆戻りで降雪中という。春山の怖さである。遭難が起きねば良いが。
 GW前半の山では心肺機能と持久力の低下を実感した。この年で鍛え直すなんてどうかなと思うが、走れる体に戻したいとは思う。減量のために減食で急いだために急病を招いた昨年の反省がある。少しづつランニングを取り入れたい。
 体には常にタンパク質とビタミンの補給が必須だと知った。さらに酵素も必須だった。要するに刺身のツマや付け合わせである。大根おろし、しょうがの付け合わせ、生野菜のサラダや生ジュースなど。加熱すると失われる酵素は様々な病気を引き起こす。犬や猫でさえ飼育されると人間並みの病気になる。それは酵素の不足だそうな。刺身のツマにも意味はあったのだ。白髪は酵素が不足して頭髪に回せなくなった結果だという。
 老いて知るのは先人の食の知恵には一切の無駄がないこと。

金子兜太を考える2018年05月06日

 立夏は5月5日。長いGWも6日で終わる。5日は登山日和だったがたまった雑用に費やした。まずは夏タイヤへの交換だ。タイヤを運ぶキャリーカートの車輪を交換した。古い車輪はホームセンターで引き取ってくれた。
 タイヤ4本載せても実に軽く移動できる。駐車場の狭い場所で冬タイヤを外し夏タイヤに交換する作業を4回繰り返すと汗が流れた。タイヤは重いので腰にも来る。これで全身の血のめぐりが良くなった。次々雑用が片付いた。
 よほど山へ行こうかと思ったが今後の生活を考えて内省を重視。たまった読書に費やす。昨日のタイヤ交換で腰に疲れが出た。

 俳句の原稿のこともあり、金子兜太の本を読みなおす。秩父の生れという風土性に土着の体質が良く似合うのだが、東大卒、日銀マンという貴族的身分に前衛俳句の洗礼をうける。

 前衛俳句とは「社会性・抽象性に富む傾向の無季俳句。」という。
 
 今井聖のツイッタ―「高柳重信は自分たちと、楸邨派(兜太や沢木欣一など)を識別するために「前衛」という呼称を後者に限定し攻撃しました。自分たちは「前衛」ではないと明言しました。では彼らは何だったのか、正統伝統派とでも呼ばれたかったのではないかな。まあ、新興俳句継承の盟主です。」

 芸術としての俳句のあり方について ─ 社会性をベースにした詩性の確立  日本ペンクラブ 北村 純一氏

「 社会性俳句が急速に閉塞した理由

 まず第一は、赤城さかえが「戦後俳句論争史」で、「今後の論者はこれらの引用で十分事足り議論の断片で意地悪く喧嘩をしかけることも可能である」と、自負とともにアイロニカルに断言したほど、昭和三十年前後に論議が高いレベルで出尽くし、その達成感に甘んじ、関心が薄れたことである。
 第二は、高度成長により資本主義の成長神話が生まれる一方、社会主義国のいわば自滅により体制論議が弱まった上に、既成の価値観が崩れポストモダンの考え方が広まったことである。」

 「風」の同人だった沢木欣一は「戦後より「風」誌を中心に社会性俳句を主唱。社会性俳句を社会主義イデオロギーを根底に持つ俳句と捉え政治性をはっきりと打ち出した。特に代表句「炎天に百日筋目つけ通し」を含む「能登塩田」連作(1955年)は話題を呼び、この連作を含む句集『塩田』は西東三鬼の激賞を受ける。
 日米安保条約改定後の1960年頃からは社会性を後退させ写実中心の作風に移行、正岡子規の写生説の見直しを行いつつ「即物具象」のスローガンを掲げた。後期の代表作に瓢湖での作「八雲わけ大白鳥の行方かな」(『白鳥』)がある。」

 沢木は晩年になると社会性俳句から遠のいていった。文部省の官僚になったこともあっただろう。ソ連の衰勢もあったと思われる。共産主義への疑問ではなかったか。

 しかし、金子兜太は違った。日銀マンと云う特権的地位にしがみつく意義は経済的にも大きいものがあった。日銀総裁の報酬は総理大臣よりも多かったほど優遇されている。
 資本主義のバックボーンとして日本経済の守護神としての役目を果たしながら、私的の場では親左翼を装い、中日・東京新聞「平和の俳句」の客寄せパンダ的な役割を果たした。
 先の戦争で苦労した、痛い目にあったという人はまだまだ多い。戦後のGHQは日本国民が悪いんじゃない、悪いのは軍部だと教育した。これで国民の多くは贖罪感を払拭できた。そして非武装、平和の日本国憲法を置き土産にしていった。憲法9条が変われない理由である。金子は9条の会にも招かれて講演している。

「戦後70年の2015年1月1日から1日1句を朝刊1面に掲載してきた「平和の俳句」は、2017年12月31日をもって、終了いたしました。

 平和の俳句は、現代俳句の第一人者の金子兜太さんと作家のいとうせいこうさんが、14年夏に本紙で行った「終戦記念日対談」をきっかけに発案し、お2人を選者として始まりました。17年10月の掲載句からは金子さんに替わり、俳人の黒田杏子(ももこ)さんを選者に迎えました。

 この3年間の投稿総数は、13万1288句に及び、多くの熱い思い、応援の声に支えていただきました。ありがとうございました。」
 知人の中日記者もこの企画は好評だったと言われた。

 ヤフーニュースから
https://news.yahoo.co.jp/feature/715
「自由な俳句は平和な時代だからこそ」古老・金子兜太が語る
2017/8/15(火) 12:49 配信

「俳人の金子兜太(かねこ・とうた)さんは97歳。白寿を目前にした現在に至るまで、時代を切り取る「社会性俳句」を詠み、俳壇の選者をつとめたり各地で講演をしたりと精力的に活動してきた。2年前、安全保障関連法案に反対するデモのシンボルとなった「アベ政治を許さない」の字を揮毫(きごう)したのも、金子さんだ。今なお衰えない発信の原動力を尋ねると「戦争です」と即答する。一世紀に迫る人生のターニングポイントや、経験から感じる時代の危うさについて語ってもらった。
(ノンフィクションライター・秋山千佳(元朝日新聞記者)/Yahoo!ニュース 特集編集部)」

「金子さんは「社会性俳句の意義は、今という時代を大事にすること」と言う。そして17文字ほどの俳句が、やがて時代を覆う空気を変えていくことに期待しているという。

「自由に俳句を作れるのは、平和な時代だからこそ。至るところで平和を匂わせるものを感受して、作品として提示し、戦争に対する警鐘を打つ。俳句なら誰もが声を上げられるし、その努力をすることに意味がある。そこから私と読者、さらに国民の間に議論が巻き起こってくれれば非常にもうけものだと考えています」」

・金子兜太は社会性俳句の最後の砦だった
・「アベ政治を許さない」と書いたって、これはもうバリバリの<隠れ>共産党員ではないか。議会制民主主義の否定につながる。選挙で選ばれた政治家を否定する俳人って?
・復員船で詠んだといわれる「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」は名句に値する。
・この後の兜太は川柳作家であった。
「川柳は、俳諧の<平句ひらく>が独立して文芸となったもので、発句として必用な約束事がありません。題材の制約はなく、人事や世帯、人情までも扱われます。」
「俳句には、<切れ字>が必用ですが、川柳では特にこだわりません。
 俳句は、主に<文語>表現ですが、川柳は<口語>が普通です。」
「俳句は、主に自然を対象に詠むことが中心でですが、川柳では、人事を対象に切り取ることが中心です。俳句では、詠嘆が作句のもとになり 「詠む」といいますが、川柳では、詠ずるのではなく「吐く」「ものす」などといいます。決して、詠ずるものではありません。」

・ちなみに川柳は俳諧の選者の名前である。柄井川柳がよく採用する句が川柳と呼ばれたのです。
・すると金子兜太の志向にあった句は俳句とは別の名前で呼ばれるのではないか。
・例えば「短詩」とか。「反戦詩」「平和詩」とか。
・草田男、楸邨らの人間探求派も実は川柳に先祖返りした句ですね。人間を詠めば川柳に近づいてしまいます。

 金子兜太の戦後の作品を川柳と指摘した批評や評論はまだ見ていない。左翼であることがメディアに頻繁に露出する機会が多く与えられた。イデオロギーの衣をかぶせた川柳をこれが俳句だと云い募っても大衆読者が疑問を抱くことはなかった。今後、俳句雑誌が金子兜太の追悼集を出すと思うので注目していきたい。

新潟県 五頭連峰の親子遭難今日も発見されず2018年05月08日

 5/5に五頭連峰の松平山に登ったまま下山しない親子の捜索が続いている。当日は「2人は5日午後2時ごろ、登山に出掛け、同日午後4時ごろ「道に迷ったのでビバークする」と甲哉さんの父親に連絡」してきた。
 ビバークという用語を使うくらいなので経験者である。また近くのコンビニでおにぎりやカップ麺を購入したことが分かっている。ということは、コッヘルにガスコンロも携帯していると思われる。親としては雪を溶かして水を作り、子にラーメンを食べさせる積りだっただろう。
 5日の夜は何とか過ごせたであろう。コンロもあるので暖房はできる。ツエルトがあれば良いが、カッパだけでも何とかなる。
 「6日午前7時半ごろ「下山する」との電話がかかってきて以降、通話ができない状態になっている」とのことで、夜になって警察に届けて大騒ぎになっている。
 当初は7日に赤安山、扇山を中心に捜索、ところが、登山口の登山届に山葵山から松平山への届けがあったというので、松平山付近に捜索範囲を移動。
 登山道をチエックすると北への枝尾根がいくつかあり、残雪があると迷いやすい。沢に下ってしまい、そのまま下れば里へ下れる、とは考えないだろう。ビバークの用語を知っているし、道に迷った際に沢を下っては行けないという教えは知っているだろう。
 それでは何処に。きっと岩陰で救助を待っているものと思う。子連れだからあちこち彷徨することも考えにくい。ヘリの音は聞こえるだろうが、連絡できない状況か。捜索範囲は狭まっている。がんばって欲しい。

俳句と歴史の見方2018年05月10日

 徳川幕府の樹立は1603年。戦国時代が終わって、平和が訪れようとしていた。当時の生き残った武士は妻帯し、子供を産んだであろう。すでに妻帯者も同じで子供を産んだからべビーブームが起きた。
 「超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済等様々な分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立」した時代だった。農業生産が高まり経済成長があった。それが最高潮になるのが元禄時代(1688から1704)だった。俳人の松尾芭蕉(1644から1694)が活躍した。1674年に31歳で江戸に住み多くの俳人と交わった。頂点の「猿蓑」は1691年だった。
 
 明治時代は1868年とされる。それで今年は明治150年がはやされている。正岡子規(1867から1902)は1893年に俳句革新を唱えた。早世したが意思は虚子に継承された。1939年に「俳句研究」誌で山本健吉(1907~1988)編集長により、人間探求派が唱えられた。山本健吉は若干32歳だった。 
 金子兜太(1919~2018)の前衛俳句は1946年沢木欣一の「風」で社会性俳句が主張される。
 ウィキペディアには「句集としては『合掌部落』(能村登四郎)、『塩田』(沢木欣一)などが大きな話題となった。古沢太穂、金子兜太、鈴木六林男、佐藤鬼房など特筆すべき俳人は多い。また自由律俳句においては栗林一石路、橋本夢道、横山林二、吉川金次らがいる[1]。
 社会性俳句は、その後の高度経済成長のなかで生れた「一億総中流意識」や、文学運動として新たな発展がなかったことから、運動としては沈静化し衰退していった。
 俳句の文学性との矛盾や、単純な要求を掲げた「スローガン俳句」、「プラカード俳句」が社会性と誤解されることもあった。当時、急進的な立場だった沢木欣一や佐藤鬼房、能村登四郎などが徐々に保守化したことも運動の衰退の一因となった。
 1956年沢木欣一は金沢大学講師から文部省に移り、約10年間教科書検定に関わった。今井聖は「(社会性俳人)は流行を演出したあとバブル期に入るといちはやく「俳諧」に転向する。
 「社会性俳句」出身の「俳諧」俳人はごろごろいる。みんな俳壇的成功者である。」と強く批判する。」
と整理されている。

 以下はブログ「週刊俳句 Haiku Weekly」から転載
 「前衛俳句」のありどころ(下)金子兜太と林田紀音夫~「伝統」対「反伝統」の空無化
堀本 吟
『びーぐる 詩の海へ』第4号(2009年7月)より転載

「前衛俳句
昭和三〇年代に時代意識に関わる内面意識や心理、深層意識などを自覚的に掘り起こし、新たな表現様式の確立に向け果敢な詩的実験を試みた俳句運動を言う。(としてふたつの潮流をあげる)。一つは「二〇年代の社会性俳句の推薦者金子兜太が三二年に提唱した「造型俳句論」に立脚して、創作過程の意識や無意識の世界に注目した流れ。(堀本註。兜太を中心に「海程」へ結集した八木三日女、堀葦男、林田紀音夫等)。*他の一つは、自己の内部現実を詩的内部構造の次元から追及してきた冨澤赤黄男、高柳重信を中心とする「薔薇」から「俳句評論」の流れ。(堀本註。赤尾兜子、加藤郁乎、永田耕衣、河原枇杷男、安井浩司等)。運動は、書く行為の意識化の普及や表現様式の変革に一定の効果をあげる一方、隠喩のコード化や俳句性の逸脱等の問題が派生した。(この項川名大執筆)。

伝統俳句
「新傾向俳句、新興俳句、社会性俳句、前衛俳句に対して有季定型をあくまでも守るという立場から発言された言葉であろう。(中略)。「俳句の困難さとは、この形式に手を染めたが最後、伝統を背負わざるを得ない。」(同書。この項玉川満執筆)。」
以上

 日露戦争は1905年、 ロシア革命は1917年、 ソ連は1922年に成立1991年に崩壊。この間は日露戦争から86年、ロシア革命から74年、成立から69年になる。

 つまり歴史は70年から80年の間隔で大きなうねりを繰り返している。

いみじくも金子兜太は1919年の生まれで、近現代史を同時代で生きて見てきた。
 徳川の御世は85年後の元禄時代で文化も大いに栄え、芭蕉を輩出した。その後は社会の停滞を招いて、様々な改革がなされる。
 柄井川柳(1718~1790)が台頭するのは宝暦の時代だった。芭蕉が1694年に死去して71年後の1765年に「誹風柳多留」が刊行。
 生命へのエネルギーがほとばしるような江戸時代前期と停滞して厭世感のただよう江戸時代後期に川柳が流行した。社会の締め付けが厳しくなったであろう。尾張の徳川宗春は元禄に生まれ、社会の低迷の中で規制緩和策をとり低迷からの脱却を図った。こんな時代には風景を詠ずよりも、風刺、うがちなどの川柳が流行した。川柳は社会を反映した人間と生活を詠む。
 現代に敷衍すれば、人間探求派から始まった社会性俳句の時代になる。
 1868年の明治維新から70年後は1938年で昭和13年になる。新興俳句運動が興ったのは昭和6年からになる。80年後は1948年になる。金子兜太が復員したのが1946年。
   水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る
 トラック島を引き揚げる復員船の上で詠まれた。
 戦後の日本国民は厭戦気分が強かったであろう。もう戦争は否だと。GHQは悪いのは日本国民ではない、軍部だと教えた。この時代からまた元禄時代のような生命のほとばしる俳句が生まれた。しかしイデオロギーで価値観が混沌とし始めた。
 すでに流れを見てきたように、社会性俳句の流行は川柳の普及した江戸時代末期の空気と重なるものがある。
 終戦の1945年から70年は2015年。折しも2015年から始まった中日・東京新聞の平和の俳句が大人気を得た。金子兜太が選者を努めた。平和は武力で支えると思っているが、句を投じた人らは憲法9条のお陰だと思っている(らしい)。
 ある結社の主宰は現在は駄句の山を築いていると断じた。その通りかも知れません。子規は江戸時代末期の停滞した時代の俳句を月並俳句と批判した。そこから写生理論が導かれた。
 人間を詠むのは難しいからだ。子規虚子はそれが分かっていた。沢木欣一も社会性俳句を主唱したが晩年は写生に徹した。金子兜太は無季で良いとし、韻律、季語などの約束を無視して押し通した。 
 それは日銀マンと官僚の生活力と経済力の差だったと思う。日銀貴族ともよばれる高収入で知られる。退職後も雇われなくても十分に食べていけるのなら自分を押し通せばいい。夏目漱石も東大から博士号をやろうといわれても断わったという。作家として収入があれば国に尻尾を振ることもないわけだ。

さみどりの御池岳を歩く2018年05月13日

 5/11の朝7時30分過ぎ、鳴海駅前で同行者と合流。伊勢湾岸道・東海ICから入って30km余りで延伸された東海環状道・東員ICを出た。そのままR365からR306へ。鞍掛トンネルは通行止めの看板あり。目指すはコグルミ谷でしたが平日でも路駐多数ありパス。ここまで2時間。鞍掛峠から登ることに。
 Pはほぼ満杯でした。鞍掛峠へのきつい登りをこなすとちょっと汗が噴いた。鈴北岳への尾根を歩く。県境北面の落葉樹林は今や新緑のいろどりがさわやかです。空気もドライです。
 ものすごく繁茂していたクマザサは今は全滅して土が露わになっているのに驚きます。60年に1度の笹の花が咲くと死滅するというのは本当だった。
 1056mのコブで同行者がタテ谷へ下るというマニアックなルートへ分かれた。踏み跡もなく赤布のマーキングもないルートである。知る人ぞ知るルートか。なんでも珍しい花を見るためらしい。この尾根は積雪期に捜索で下った記憶がある。
 ここからは登りが急になった。鈴北岳の手前でタテ谷からの道と合流する。そうかタテ谷にはコグルミ谷と結ぶ道があるのだ。鈴北岳に登頂後、小休止して県境稜線を歩いてみた。
 ここも積雪期には歩いたが無雪期は記憶がない。登山道ではなく、踏み跡程度だがマーキングはある。水を湛えた池が3ヶ所もあった。山頂は1182mから1090m付近で県境は北東へ分かれ、1060m付近でコグルミ谷からの登山道に合流した。気持のよい稜線歩きだった。新緑期ならではのルートである。夏草が繁茂するとどうなるやら。
 この後は登山道を歩き御池岳に登る。真の谷はイチリンソウの花盛りであった。またコバイケイソウが大群落をなす。途中で樹林越しに野生のシカを見た。こっちをじっと凝視している風である。鹿もコバイケイソウは毒草と知って食わないから繁茂するのだろう。
 久々の御池岳山頂に立つ。雪で白い白山、乗鞍岳、御嶽山がならぶ。目を凝らせば能郷白山や中央アルプスも見えた。手前は霊仙山、伊吹山と見える。昔からこんなに眺めが良かったかな。平日でもたくさんの登山者が集まって来た。それぞれに昼食を楽しむ。そのうち山ガール2人も上がって来た。2人並んでスマホで撮りたいので押してくれという。もちろんOK。若い人が山に増えるのは良いものである。
 山頂を辞してボタンブチに向ったが時間がないので引き返す。山頂から北西に下る登山道を歩く。オオイタヤメイゲツの原生林の下はやはりコバイケイソウの大群落だ。西の奥はたしか「日本庭園」とかいった。真の谷からの登山道と合流。平坦な道を歩く。緑のワンダーランドである。鈴北岳の麓で多くの登山者が何やら採っている。聞くとワラビだった。喜々として摘んでいた。
 昭和32年4月29日の滋賀大生の遭難碑を経て、ゆるやかに鈴北岳へ。あの笹原はどこへ消えたのか。鈴北の山頂も笹で覆われていたころはガイドブックの『鈴鹿の山』に県境尾根の道はxxxxで表示されていた。
 初心者のころは下降した際御池谷の枝沢に迷い込んだ。突然踏み跡が消えるし、県境尾根が見えるので戻って見ても3度目でも県境への踏み跡が見いだせず、ままよと下った。するとチエーンソーの音がするのでその方向に行くと伐採中の人に道を問うた。「ここは御池谷だ、俺らも終わるから付いてこい、峠まで送ってやる」というので甘えさせてもらったことがある。
 後年、捜索で御池谷の道を溯り、途中から山仕事の人らについて下った道へ入った。かすかに記憶がよみがえった。1056mから下る枝尾根周辺の植林帯だった。
 今は笹もなく見晴らしも良い。鈴北岳から延々くだって峠へ。そしてトンネルに着いた。Pに戻ってもまだ相棒が着いていない。携帯で電話しても圏外で通じない。しばらくで電話があり、コグルミ谷を下降中とのこと。1056mからタテ谷へ下り、県境の1148mへの尾根を登ったらしい。御池の山頂は踏まずにコグルミ谷を下った。御池岳は広大な面積をもつのでこんなお中道的な歩き方も出来るのだなと思った。コグルミ谷の入り口で合流して無事帰名した。

5年間で15倍増 家族関係の希薄化背景に2018年05月14日

https://mainichi.jp/articles/20180514/k00/00m/040/049000c?fm=mnm
 これも世相か。家族崩壊といわれて久しい。一方で「お一人様」「孤独を楽しむ」「極上の孤独」「家族と云う病」といったキャッチフレーズの本が売れている。
 家族はそんなに疎ましいものになったのか。
 それじゃ、大家族主義が良いのかというとそうではない。もともと民法は破綻法と習ったように家族でも常に離合集散がある。小津安二郎の「東京物語」は家族の崩壊を描いた名作である。「最後はみんなばらばらになるのよ」「自分の生活で一杯なのよ」といったセリフが出てくる。映画自体がアメリカの生命保険会社のPR映画の換骨奪胎だった。世界共通なのである。欧米でも人気があるという。
 人生の別離を前提に幸せを願って多くの習俗が生れた。
 例えば、山を歩くと白樺、岳樺、ウダイカンバ(鵜飼い樺)などを見かける。この樹種の皮はよく燃える。山に暮らす人や猟師らは皮をはいで、いざというときに種火にして焚火を起こす。雪の上でも焚火を熾せる。
 「華燭の典」の樺はカンバのことで、結婚式の異名である。結婚した2人が末永く燃え続けるようにと願っての意がこもる。逆に言えばそれだけ夫婦の縁ははかないものなのである。
 誰もが何らかの離別、死別を経て1人になってゆく。その最終形が孤独死ということか。
 先だって、母校の法科大学院の民法の教授から幸福学を受講した。幸福になるためには他人とのネットワーク構築が欠かせないと教わった。孤独死する人は多分、SNSすらつながっていないのだろう。
 かつて林梧堂だったと思うが「独身は文明の奇形である」と喝破した。検索してもヒットしないから忘れられた人だろう。要するに文明に支えられて困難な生活を維持していけるのである。
 リスクとは今はもっぱら危険を意味するが、投資家向けサイトに「アラビア語で「今日の糧を得る、明日の糧」といった意味の「risq」である。中略「目的を持って厳しい状況に身を置く」、あるいは「その環境」を意味していることが分かる。」とあった。
 リスクとは語源的には今日食べて生きることである。当該記事に「明日もまた 生きてやるぞと 米を研ぐ」との張り紙をして死んでいった人がいた。60歳代というからまだ若い。人生に欠けているのは、食べ物の充足だけではなく、他人とつながりたいという心の充足である。唯物論と唯心論の融合である。

高須清光写真展ーフォトスケッチ天白川⑫に行く2018年05月15日

 事務所へ行く前に、古書店に句集を見に行くが売り切れていた。もう1つ別の書店に回ったが在庫がない。刈谷まで行くか。
 古書店から地下鉄で事務所へ直行。会計シフト入力などを済ます。ネット関係のチエックもした。

 16時過ぎ、上前津のワキタギャラリーに行く。表題の写真展を見に行った。私が住む天白川の自然を中心に一こまを写し取った。俳句的な要素の描き方に共感。そのうちの1枚は近くの河川敷の草を刈はらったばかりを撮影。向こうにはわがマンションも写っていた。河川敷は今はきれいな草地を回復した。これから草茫々になってゆくのだろう。
 日本人が勤勉なのはこの自然の豊かさと言った人がいた。うかうかしていると田畑は草茫々になるから草取りをしっかりやらねばならない。草に負けて米や野菜は育たなくなる。山村の廃田を見ると1年であっという間に芒が占める。自然の回復力は恐ろしいほどである。
 高須氏の写真展は以前にも見に行ったことがある。その際、『ちょっと気になる風景』ー天白川撮り歩きーを恵贈された。帯封に写真の対象は身近にある、とあった。その通りです。ある俳人も足もとを詠め、と指導した。フォーカスが深まるのである。見ているのに見ていない。凝視することの大切さ。切り取る構図やアングルだけではないのだ。
 テーブルの写真集をめくっていたら故東松照明(1930~2012)さんを偲ぶ写真が何枚かあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E7%85%A7%E6%98%8E
 東松さんは目標になる写真家なのだ。それを聞くと、東松氏の足もとにも及ばないと謙遜された。モノを凝視するという点で高須氏も並の写真家ではないと思われた。2012年刊。文庫本サイズのカラー写真満載。後記を読むと1945年生れで西尾市出身。(あの有名な高須克弥氏と同じ出身地、姓名と生年。偶然か)写真展は5/16(~16:30)まで。

 ワキタを出てからはまた古書店を2軒めぐったが得るモノはなし。但し、『ぎふ百山』の正続で7500円という売り物があった。出版されて久しいがまだ結構な値段が付いている。上前津からはバスで栄へ。
   初夏や市バスに乗れば冷房す

段戸山村を詠んだ郷愁の俳人・児玉輝代2018年05月17日

 児玉輝代(1926~2011)の句集を拝読したくて豊田市の図書館をたずねた。豊田市出身の俳人として知られた人なので図書館もきっちり収蔵している。
 森澄雄、岡井省二に師事。「杉」、「槐」を経て、2001年加藤かな文らと「家」を創刊、代表。森澄雄に師事したというからには地味な句風を受け継ぐのだろう。
 1977年の角川俳句賞を受賞。「段戸山村」という題名がいたく気になった。先日愛知県図書館所蔵の「俳句」10月号の作品を読んだ。一読すると、静謐である。何か出来事があったり驚きや感動を詠むのではなく、なんでもない事象を季語に委ねて句にしている。地味な句風である。
 受賞作「段戸山村」が収録された句集は『出小袖』(1979年)でした。凝った題名ですが「能「葵上」では、主人公と思われる葵上は、役としては登場せず、舞台正面先に置かれる折りたたんだ着物「小袖」によって象徴されます。これは出小袖(だしこそで)と呼ばれる能独特の表現方法を用いています。」に由来。能「出小袖」は『源氏物語』に題材を得ています。
  
  白髪のときに炎のいろ薪能    児玉輝代

 後、『山容』(1989)、『白栲』(1984)、<しらたえ=梶(かじ)の木などの皮の繊維で織った白い布。>、『滴心』(1998)、<てきしん=果樹などの頂芽を摘みとること。芯を止めること。側枝を伸ばすためやよい花や実を得るために行う。>、『天穹』(2005)と続く。
 児玉さんは教員で社会に出たが結婚してすぐに家庭に入った。最初の句集の題名には学生時代に学んだか研究した源氏物語に題を得た能から命名した。教養が滲み出る。
 しかし俳句に詠むとなれば古典に拠るばかりでは空想句になる。生活圏の豊田市を出て、段戸山村=設楽町に句の題材を得る為に出かけられたと思う。
 「段戸山村」では日常生活詠から脱却して自然の多い山村で眼前のモノを詠む。緑であっても庭木や街路樹ではない樹木、虚栄に満ちた都会人よりも鄙びた山村の人に句作の力を得た。手堅い作風を確立した。
 『俳句』(1977年10月号)に寄せられた受賞感想を読むと、昨年の初めての応募で予選を通過した「「久女の地・小原」は父の生地でもあり、この度の「段戸山村」はあけくれ眺める段戸の山々と、その山間の村々の云わば私の心のふるさとでございます。自動車産業一途な豊田の街から程遠くないこれらの土地に、機会あるごとに足を延ばしては、やがて開発と言う名のもとに消えてしまうかも知れない平穏な自然と、素朴な人情を、胸の奥深く刻みつけて参りました。」と語る。俳句で語り部たらんとしたのだった。
 「段戸山村」の50句はどれも隙がない。しかし、突出した句もない。どれも抒情的である。

   田から田へ雲を満たして植田水
・・・ちょうど今頃の山奥の棚田の風景である。田毎の月の先例もあるが、この句では雲が田一杯に映っているというのである。簡単な叙景であるが、一瞬をとらえた。

   万歳に陽ざしの深き一間あり
・・・三河は山村民俗の宝庫。街では失われた風俗が生きている。文化は辺境に残るとも。恒産なければ恒心なしで、万歳を支えるのも文化。
 冬は日があがると南をかすめるように落ちて行く。貴重な陽ざしをうけて万歳が始まっているというのだ。命をいとおしむかに。私の子供時代でも戸別に訪ね歩く万歳を見た記憶がある。
 「三河万歳は、家の繁栄と家族の健康を祈る寿詞(よごと)を太夫と才蔵の二人で述べる祝福芸として、江戸の大名家や、後の東京の華族の屋敷を訪れ、上がり込んで芸を披露した。」(文化財ナビ愛知)

  田の隅に父の足跡蝌蚪生まる
・・・父は小原村の出。作者も通ったであろう。心象風景か。作者は私の父母と同じ世代(父は大正12年、母は昭和3年)だから、戦前から戦後の風景か。私の子供時代でも農薬が大量に使われて川に度々魚が白い腹を見せて浮かんだ記憶がある。よほど、辺鄙なところへ行かないと見られない。

  木流しの束の間谷のにほひけり
・・・木流しが季語。「筏を組む網場まで伐採した材木を出すこと。丸太を並べてそれに材木を滑らせたり、堰を作っておいて、流れに落とした材木を一気に流したりする。」
   筏師に何をか問む青あらし    横井也有
横井也有は尾張藩の家老。重職にあった。木曽上松の臨川寺の句碑。木曽川の支流の奥の赤沢美林は広大な木曽桧の宝庫だ。そこから鉄砲流しで桧が流されて、筏に組まれた。木曽川を下って熱田に集められた。

 林道の発達しなかった昔は山奥で伐採した材木を鉄砲流しとかで水をためて一気に流した。私も見たことはないのでどんな臭いがしたのかは不明。木と木とがこすれあうので生木のにおいだろう。段戸では今は林道が四通八達しているから記憶の中にあるのだろう。
 特に伊勢湾台風をきっかけに森林鉄道が痛手をうけた。その後は林道に作り変えられた。今では体験できない貴重な一句になった。   

   分校の児の瞳(め)が綺麗こぶし咲く
・・・どこの分校か。この作品には固有名詞が一切ない。段戸湖の近くには田峰小学校裏谷分校があった。
昭和 9 年 (1934) 裏谷分教場 裏谷に設置
昭和42年 (1967) 裏谷分校独立裏谷小学校となる
昭和54年 (1979) 裏谷小学校を閉校し、田峯小学校裏谷分校となる
平成 9 年 (1997) 田峯小学校裏谷分校閉校となる 3月
 作者は大正15年(昭和元年、1926年)生れなので、歩かれた時代は昭和40年代後半から昭和51年ごろまで。だから分校があったころに訪ねたのだろう。今はきららの里になり思い出す縁(よすが)もない。作者は短いながら教師だったから子供への愛着は一入である。

   産湯沸かす水も山より椎の花
・・・山水を引いている山家で出産でもあったか。とはいえ、常緑高木の椎はそんなに山間奥地でもあるまい。私も子供のころ神社の境内で拾って食べたことはある。実のなる木は大切にされた。
    先づ頼む椎の木も有り夏木立   松尾芭蕉

   ほととぎす鍵も掛けずに母遠出
・・・私の生家でも夜以外は鍵を掛けなかった。外から掛ける鍵もなかった。家族全員が家に揃い、内側からしか鍵は掛けなかったのである。だからこの句は当然ともいえる。この句もまたありし日のふるさとの実家での記憶を呼び覚ましたのだろう。
以上

 これらの観賞を通じて、前田普羅の『飛騨紬』の序文奥飛騨の春の一節を思う。
 「「やがて汽車は高山町を通り越して、名古屋市と富山市とを結びつけ、新しい文化の建設のために、奥飛騨のかたちと、やさしい古色とは壊はされてしまうだろう」という危惧の念は江戸時代の面影が明治の近代化によって失われ変貌することへの恐れにある。壊されてしまう前に飛騨を訪れてみたいという願いであった。」(山恋の俳人 前田普羅)のである。
 また能村登四郎は『合掌部落』の動機として、「私が飛騨の山峡で見たものは、ダムと化することによって、日本伝統の美とほこる民族の生活が無惨にも崩壊してゆく姿であった。」(能村登四郎読本ー伝統の流れの端に立って)
 作者も又「やがて開発と言う名のもとに消えてしまうかも知れない平穏な自然と、素朴な人情」を俳句で書きとめたのである。その危惧は今日の設楽町の設楽ダム工事を見ると当っていた。
 だから抒情性において、郷愁性においても共通するのである。それは必ずしも生地ではなくともふるさとを愛するという点で変わりない。
 さらに言えば、秋桜子、加藤楸邨、森澄雄とつづく師系から見るように、切れ字がほとんどない。あやうく散文化するところを季語の力で助かっている。石田波郷がそれに気がついて韻文精神を唱えた。「馬酔木」の中のホトトギス派と呼ばれたのも由なしよしない。
 そうか、ここまで書いてきてやっと思い出した。師系の源流にあたる水原秋桜子の『葛飾』だ。
   葛飾や桃の籬も水田べり
 山本健吉の言葉を引用すると「〈葛飾と秋桜子は切っても切れない因縁がある。処女句集『葛飾』の中からだけでも美しい風景句をいくつも探し出すことができる。葛飾は一ころの作者にとって格好の吟行地であった。
 だが彼は言っている、「私のつくる葛飾の句で現在の景に即したものは半数に足らぬと言ってもよい。私は昔の葛飾の景を記憶の中からとり出し、それに美を感じて句を作ることが多いのである」。
 句集『葛飾』のあの瑞々しさ、情趣の豊かさ、絢爛さは、彼が幼年期から長い期間にわたって育て上げた美しいイメージが、時を得て咲き出たことによるものだと思われる。〉」
 吟行に同行した仲間は俳句になった作品を見て不思議がったという。同じもの、風景を見ているのに作品は違うというのだ。それは山本の言葉にあるように心につくられたイメージだった。すると秋桜子もまた郷愁の俳人と云うべしや。
 児玉輝代も師系の端に立って、吟行地として段戸山村を選んだ。そして受賞で俳人として開花した。選考の先生らも特に良い俳句は無いと良いながらも落とせなかったのは自らも師系を同じくすれば当然のことだった。