緑濃き御在所山の近江側の黒谷を溯る2018年06月04日

 6/2(土)夜9時、西庁舎前で合流。白川ICから都市高速、東名阪から新たな東員ICを経由すると鈴鹿へのアクセスは本当に近い。鈴鹿山麓の施設のPに仮泊。遠くからホトトギスが聞こえた。12時就寝。
 6/3(日)朝4時目覚め、すぐにお湯を沸かし、簡単な朝食。テントをたたみ、鈴鹿スカイラインの武平峠を目指す。千草は釈迦ヶ岳から流れる朝明川がつくった沖積平野。植田と麦秋の田が交互に広がる穀倉地帯である。ふと右を見上げると鎌や御在所の藤内壁にかかる朝霧が昇ってゆく。朝霧は女の腕まくりという。今日も暑いぞ、と思う。
 スカイラインは早朝から車が入っている。7時前といのに御在所の登山口はもうほぼ一杯になっている。
 武平トンネルを抜けると近江に入る。車を降りるとひんやりした空気が気持ちいい。ここもほぼ一杯で私たちで埋まった。沢登りの支度を済ます。今日は沢初めなので、ほぼ半年ぶりに、何かと装備の忘れ物や、技術的な準備不足を点検するのである。
 沢谷峠に向かう。峠ですでに800mを越えているので、標高差は余り無い。820mから920mの等高線に沿い横断する。ここからゆるやかに下り、雨乞岳への道を分けた分岐で約1時間。
 沢谷周辺は、小鳥の楽園さながらに日本三鳴鳥のオオルリ、ウグイス、コマドリの鳴き声を楽しませてもらった。
 さらに小さな谷を下って黒谷出合いに着く。出合には大岩に黒谷と赤いペンキがあり、ファンがいるようだ。ハーネスを装着、気合を入れて遡行を開始した。
 水量は少ない。あえて水勢に逆らうように登るが、両岸にもかつての炭焼きの道が残っている。カメラを濡らしたくないので、撮影しながら、適当に巻きながら先行者らを追う。
 適度の滝が現れる。リーダーはトップで慎重に滝を攀じる。後続はロープを降ろしてもらう確保する。実はロープワークと確保のトレーニングでもある。平凡な谷相かと思えば狭い斜め滝が行方を阻んだり変化がある。ここは左岸上からトラロープがぶら下がっていたので利用して登る。私は撮影のため、左岸の手前のガレが押し出した支谷を巻いた。
 さらに一段と高い滝が現れた。これは右岸から巻いた。ここもトラロープがぶら下がる。慎重に足場を確保しながら小さな尾根に立つ。そのまま流れと合うまで巻けるみたいだが、滝の落ち口に真上に懸垂下降を試みた。これもトレーニングの一環としてである。
 こんなことを繰り返しながら夏本番の沢登りまで熟達度を向上させていこうということである。
 ここを上がると核心部を終わった。黒谷の由来となった黒い岩と花崗岩とが半々になった。上部は花崗岩のみになった。二股にも大岩に赤ペンキの標があった。傾斜は緩み源流の態である。細流になり、低い笹
原になった。強い獣臭がしたがすぐ先で長者池になった。
 イモリ、アメンボなどの水生昆虫がいた。小鳥が美しく鳴いている。老鶯はケキョケキョと警戒した。近くの東屋で休みながら、濡れたザイル、衣類を干した。
 今日は7/10までロープウェイが点検のため休業中で、登山客のみだがそれでも人が絶えることは無い。武平峠までの下りではサラサドウダン、ベニドウダン、ヤマツツジが眼を楽しませた。 
 峠のマイカーに戻った。時間があるので希望荘で一風呂浴びて帰名した。

白樺を横たうる火に梅雨の風 前田普羅2018年06月05日

FB投稿
 ブログ「隠居の『飛騨の山とある日』
 5/30 男女の神様に会えた=笈破(おいわれ)峠
http://hidanoyama.jugem.jp/?eid=706

 俳人の前田普羅があるいた道でしょう。中々貴重な古を偲ぶ山歩きです。個人的にも一度は行ってみたい笈破です。そうではあるが熊が濃厚に棲息しているので単独で行く度胸はない。
 普羅の『渓谷を出づる人の言葉』にある”白樺を横たふる火に梅雨の風”という句の解説があり、笈破でできたことが分かる。まだ高山線も開通していなかった頃である。地貌を唱えた普羅らしい文章である。
 「飛騨にあこがれて行く人は、北からでも南からでも只まっしぐらに高山町(現高山市)まで飛び込んだだけでは飛騨は本当の姿を見せてくれまい。此等残された太古の飛騨高原を渓谷から渓谷に越す時にのみ「飛騨の細径」は真実の姿と心とを見せて呉れるのである。
 飛騨へ行くのは「飛騨に入る」と云うのが当たる。中略。然し一度この高原には入ってしまえば、黒土の山につけられた細径と小径が高まって出来た峠とは、小鳥の啼く湿原と耕された台地と又樹木に隠された往昔の人の通った飛騨街道とに巡り合わせて呉れる。峠は千尺乃至千二三百尺を出ない。
 馬小屋のある小さな農家は、小径の上に養蚕筵を投げ出して昼食をして居る。杉の造林や桑畑の中で思いがけなく人を見る。其の人達にものを問えば手を休めて径まで出て来ていつまでも話して呉れる。
 笈破は高原川の渓谷右岸千三百尺許りの高台地に残る飛騨高原の一部である。年中霧の深い所で六月の末ごろ通った時も、農家の大炉に白樺の大木が顔を突き込んで、胴体を家中に横たえ、梅雨風は火を煽って白樺の頭はブシブシと燃えて居た。
 主人が新しい筵を炉辺に敷いて呉れたので横になり、つい、うとうとと夢見心地になると、急に水を浴びた様な寒さを感じた。起き上がると直ぐ目についたのは戸口を塞いで走って居る山霧と、其の中に動いて居る濃紫のアヤメの花だった。」
 笈破霧というらしい。
http://outdoor.geocities.jp/so…/climate2/climate3/oiware.htm

 5/10の同ブログの投稿記録にあった狛犬の写真は湖底に沈んだ有峰の狛犬(木製で今は富山市大山民俗資料館に保存)に形状が似ている。地理的に近いので関連がありそうだ。なぜこんな高冷地に住むことになったものか。やはり、緩斜面ということで耕作し易かったのだろう。となりの山之村では中河与一の小説『天の夕顔』の主人公が生活を始めるが大変だった。よそ者には住めるところではなく、何かよほどの覚悟を以って住んだであろう。
 普羅の文中に養蚕莚とある。養蚕は富山県八尾市の産業で、元禄年間から富山藩が奨励し養蚕農家が増えたという。「八尾の蚕種は全国の4分の1を占め」たそうだ。そうか、笈破の経済は八尾とつながっていたんだ。
 「元禄6年(1693)富山藩主2代前田正甫公が若宮八幡社へ祭神誉田別尊の御神体を供奉され、御神霊をご勧請。天明元年(1781)山屋善右衛門が奥州(青森県西津軽郡)から神霊を勧請、城ケ谷に養蚕宮(かいこのみや)を建立。」とあるように養蚕のメッカだったようだ。
 普羅の地域別句集「飛騨紬」には蚕と題した句が7句収録。
 ”雷鳴って蚕の眠りは始まれり” 普羅
またまた思い出した。中アの安平路山の麓に松川入という標高1000Mの廃村がある。ここもかつては炭焼きと養蚕で生業を立てていた。蚕種は風穴山(2058M)の涼しい所に保存したという。すると、笈破も仕方なく、住んだわけではなく、養蚕のためだったのか。
 水原秋桜子の「高嶺星蚕飼の村は寝しづまり」は「高い山々に囲まれた、蚕で生計を立てている閑静な村落に夜が訪れた。空を見上げれば、黒々とした嶺の高みから湧き出たかのように満天の星が明るく見守るように輝いている。」との観賞文がある。高原の山村のイメージである。
 養蚕は実家でもやっていたが早くに止めた。となりはおばあさんが存命中は飼っていたからよく見に行ったものだ。こんなものがあのシルクになるのか。それに製糸工場もあった。中国産の安価なものが輸入されるまでは盛んだったのだ。

冷蔵庫饐へしものみな捨つるべし 福永鳴風2018年06月08日

 前田普羅晩年の弟子を自認する辛夷社の3代目の主宰。1923(大正12)年生れで、2007(平成19)年死去。富山市出身。辛夷社を拠点に北陸俳壇の指導者として活躍した。

 梅雨入り後、今朝は特に蒸し暑い。寝ていても体が腐敗しそうな気分がする。今日は生ごみを出す日。しかも午前8時に繰り上がったので、早起きして、以前から気になっていた冷蔵庫の整理を始めた。
 あるわあるわ、2012年、2011年の瓶詰めの惣菜など、保存のきくものであったが、珍味はすぐ飽きるので、しまいっ放しになりやすい。閉店前に値下げされた食品もちょいと買ってしまう。すぐ食すれば良いのに。もったいないの気持ちが冷蔵庫を一杯にしてしまう。続いて、冷凍庫も底を探るとやっぱり、使いかけの肉のパックなどが出てきた。3ヶ月以内なら利用するがそれ以上だと健康を考えて二の足を踏む。
 ある有名メーカーに賞味期限後の食品の安全度を電話で問い合わせた。レトルトパックは空気を遮断しているので腐敗は無いが風味は落ちてしまうでしょう、との回答であった。試しに食べたが、その通りであった。食えないことはない。しかし、美味しくない。
 必ずしも饐えたものではないが、賞味期限、保存期間を越えたものは忍びないが捨てることにした。10Lの生ごみ2袋になった。もったいないと思いつつ捨てた。咄嗟に思い出したのが掲句であった。

 因みに鳴風先生の句風はや、かな、けりをほとんど使わない。俳句の上でも抒情性があり、当時の流行作家だった水原秋桜子が新興俳句を囃した影響が反映されているように思う。俳句とは妻や子供など家族を詠むことが指導、喧伝された時代であった。
 普羅の弟子を自認するが、富山県に生れながら自然詠には積極的ではなかった。自然に没することは孤独を愛する人間でないと無理。愛妻家であった鳴風師の限界である。高浜虚子も普羅に対し、普羅君は山が好きだね、僕は人間が好き、と言ったという。
 基本的に文学、文芸の世界は人間嫌いで何ともならない。それは承知の上で、人間は自然の一部に過ぎないという感じ方のできる自然詠が良い。普羅はそれを詠んだ。普羅先生は天才だよ、と鳴風師は言われた。凡人としての覚悟を見た。

南アルプス深南部・房小山を歩く2018年06月16日

 6月も梅雨入りしてからは山に登りがたい。それでも1月から考えてきた山行であった。3/31までは冬季通行止めと知って4月に延期、都合でまた延期になり、ついに平日に行くことになった。
 6/12の午後2時一社に集まり、出発。東名から新東名に入る。平日なのでトラックが多い。SAで一休み。島田金谷ICで降りてR473へ、家山から大井川左岸の県道を経て、上長尾から山犬段への林道に入った。曲がりくねった車道を走る。大札山森林公園までは舗装路だが先は未舗装となった。
 午後6時に山犬段に着いた。早速駒鳥が出迎えてくれた。クルマから綺麗な小屋にマット、シュラフ、食料、水、コッヘル、燃料などを運び込む。まだ明るいので今年の干支の山である山犬段のピークに散策した。
 小屋に戻って食事を済ますともうやることはない。午後8時には就寝しただろうか。ハイボール500MLを飲んだだけだが、夜になるとさらに冷えてトイレにたった。寒くはなく暑くもない快適な小屋生活だ。
 6/13、朝4時、駒鳥が鳴いた。早速起きて朝食の準備、済むと片付けてマイカーに積みこむ。小屋から約400Mほど先にゲートがあるのでそこまで走る。ここで身支度して、5時過ぎに出発。
 林道は整地されて歩きやすい。開けたところからは黒法師岳が文字通り黒い山容で見えた。今日は高曇りである。林道は急斜面を切り取ったせいか、上部からの土砂崩れで埋まっているとこRが何か所かあった。不安定な土砂の上をそーっと乗り越えた。するとその先に黒いものが動いた。熊だった。
 皆さんが一斉に笛を吹き鳴らして追い払った。蕎麦粒山の方へ登って行った。五樽沢のコルへの登り口に着いた。約40分。コルまでは15分と道標にある。ジグザグを切りながらコルへ登った。余り歩かれていないが歩きやすい。コルからは稜線を歩く。ブナなどの喬木が林立する。尾根が広くなると笹が出てくる。落葉広葉樹の疎林の中の笹の道は美しい。
 三合山の分岐に着いた。直進は日本三百名山の高塚山だ。それだけ登山者が多いと思われる。右へ振ると、やや道が狭くなったのは登山者が少ないせいだろう。キレットに差しかかった。痩せ尾根、フィックスロープを伝って攀じ登る箇所もある。何とか頑張ると千石沢のコルに着いた。ここにもブナの巨木がある。そして林道へ下ってゆく道が分かれた。
 千石平は文字通り広い高原台地であった。コンクリートブロック積みの建物を見ると夕立除けのスペースはある。仕切りの隣は便器がむき出しで見える。設置された当時は扉もあっただろう。
 膝くらいの笹の高原で自在に歩ける。千石平で一休みすると多数の虫にたかられた。同行者に虫よけスプレーをしてもらった。その先はすぐに鋸山を経由して広い緑の稜線を歩く。
 東の方に恵那山が見えた。左隣は大川入山か。高曇りだが輪郭ははっきり見える。延ゝ続くブナの森の稜線。立ち枯れの木もある。そしていよいよか、稜線は一段の高さを増す。笹を分けて高度を稼ぐと突然蛇を見たと騒ぐ。見ると蝮だった。枯木色にとぐろを巻いていた。ストックの先で笹を突いて追い出した。
 あと一歩。11時過ぎ、房小山の道標の立つ山頂だった。6時間の長丁場だった。三角点は笹藪に隠れていた。しばしの山頂の憩いを楽しむ。約30分後下山に向けて歩く。登りには気がつかなかった笹に隠れた道が下りでは神経を使った。赤ペンキのマーキングもあるにはあるがぷつんと途切れた平坦なコブがあった。1725M付近はいくつかの踏み跡かけもの道に分散して不明瞭だった。1572Mへはいったん南東の尾根に回り込んで下る。
 鋸山を経由、千石平へ行く。アップダウンを何度も繰り返すと、次はキレットの通過が待っていた。三合山へ登り返すとやれやれの想いがする。約35分で五樽沢のコルに着いた。ここから林道へ下ればあとは林道をたどるのみだ。所が好事魔多し、で先頭が別の道に入りかけた。入り口には枯れ枝を置いて先へ行かない工夫がしてあったがそのサインを見落としたのだ。この道は昔の蕎麦粒山の横断道か。今は枯れ枝が散乱し石ころもあるので歩きにく。余り踏まれていないことは歴然としている。
 正しい道は急降下してゆく。林道からはゆったりした歩みになった。危険個所はあるが既に学習した。午後5時20分過ぎにゲート着。下山も6時間かかった。6月の日の長い時期ならでは登山だった。
 また名古屋への長いドライブになった。ダムに水を吸い取られた大井川は川瀬を見せて哀れなものだ。並々と流れる大井川の姿を見たい。

大白木山の沢を溯る2018年06月18日

 山岳会の例会で出された大白木山(おじろぎやま)の沢登りの計画に参加した。今年はこれで2回目になる。
 前夜の6/16(土)8時、集合場所で合流。スーパーで夜食と行動食を仕入れた。同行者が最近はスマホのナビを活用し出した。頭の中にはすでに道筋が入っているが、ナビは意外にも、岐阜羽島ICを経由する。東海北陸道・美濃IC経由尾並坂越えより、ナビの方が早かった。美濃市までの市街地を一気に高速で時間稼ぎするより、地道だけでそんなに早く行けるものか、ナビに従ってみた。
 名古屋市内からR22を走り一宮ICから名神高速を岐阜羽島まで走る。ICを出てからは複雑な指示に従った。夜道なので全く地理勘が働かない。県道46、県道18と走り、長良川を渡ると、揖斐川の手前で県道220に右折。これは揖斐川左岸道路で、本巣市役所付近で、根尾川左岸にそのままつながって、県道92になるが、木知原でR157に合流するまでは、 北進するのみであった。根尾川左岸の堤防道路は狭く、ガードレールもなく、怖かったが、対向車がなく、かなり早く走れたのは幸いだった。
 R157からは勝手知ったる道で上大須ダムまで走り、ダム湖畔まで行く。夜11時半、約100kmで2時間余りかかった。が、土砂崩れで園地までは行けない。照明のあるトイレと東屋で仮泊の予定だったがしばらく右往左往した後、ダム近くの東屋に落ち着いた。
 6/17(日)朝食後6時に出発、折越林道を走る。標高点542m地点の大栃の傍らのPに駐車。大白木山に突き上げる越波谷(おっぱだに)の源流である。
 事前の調べで、大白木山 沢登りでググると、ブログ「山へ行きたい」の2012年6月23日記録がヒット、何年か前に三段滝遊歩道が開通したらしい。
 7時15分出発。10分ほど歩道を歩くと終点で、沢を渡った先に三段滝があった。岩盤を削ったような溝が3段になり、見事な滝がかかる。記録は右岸の土壁を攀じて1170mへ遡行している。
https://blogs.yahoo.co.jp/two2106_hira/30795220.html
 私どもは、本流に戻って、7時40分、遡行を開始。小さな滝をいくつも越えて行く。
 この谷は栃の大木が多い。栃の実は栗よりも一回り大きい。しかし、食用とするには渋をとる必要があり、手間暇がかかる。それでも各地に栃の地名が多いのは貴重な食料として大切にされたからだろう。
     山人に愛され栃の夏木立   拙作
 最初にして最後の核心部に来た。ゴルジュにかかる約15mくらい。直登は無理で、右岸から高巻。急斜面を木の枝を掴みながら攀じる。滝上のポイントへトラバースして、懸垂下降。30mのロープで5m余裕があったから25mほどか。
 ここからも小さな滝はあるが問題はなく突破。雨が少ないのか、否、そんなことはない。多分浸透してしまうのだろう。全体に苔むしている。地形図にある林道と交差して、現在位置をチエック。
 その後は一段と水量が減って荒れた登山道を歩くような感覚だ。荒れているのは一度は伐採されたからだろう。錆びたワイヤーロープが捨てられていた。周囲には杉の植林を確認した。谷が枯れたのは、根の浅い杉を植えたからだ。ブナ、ミズナラのような落葉広葉樹は根張りが広く保水力がある。
 完全に伏流しているかと思えばまた流れが復活するが、ついに水が絶えた。1000m付近から土の溝になり、傾斜が増した。沢筋に蕗や大きなヤブレガサが繁茂している。不思議な植物環境である。
 1100m付近から斜面が立ってきて、土の溝を登るのが困難になり、沢一筋にこだわるリーダーがいよいよ尾根に転じる時と判断。樹林帯の山腹に入り、木の枝、根っこにつかまりながら、喘ぐと呼吸を整えながら高度を上げた。12時55分、登山道に出た。ハイウェイのように見えた。5分ほどで山頂だった。
 リーダーのWさんは「ぎふ百山」を山スキーか沢登りのバリにこだわって踏破することを狙っている。この山で又1つ踏破できた。私は完登したがバリで踏破するならと2順目を同行する。隣の高屋山も谷から登った。以下の山名の(* )内はWさんの履歴である。*は同行した印。
 1234.5mの並びのよい三角点が埋まる。今年は能郷白山の開山1300年にあたるとかで、この山も本巣7山の1つと言う。それをアピールする幟が山頂標にくくられている。
http://www.motosukankou.gr.jp/01_event/01_02_05.html
 高曇りで遠望は無かった。2基の反射板のある広場から山岳同定を楽しんだ。沢の中から見た根尾富士(福井の中の谷から踏破*)も良かった。美しいコニーデ型の屛風山には癒された。山頂から眺める根尾富士はまた格別である。ほぼ真北に位置する。さらにその背後には重なって荒島岳(ナルサコから踏破*)が見えた。白山、別山は雲の中に隠れている。
 更に目を凝らし、記憶をたどると、越美国境の平家岳(日の谷から踏破)、滝波山(残雪期に踏破)、手前の左門岳(銚子洞から踏破*)、対岸のドウの天井、反射板の建つ日永岳(西ヶ洞から踏破*)が見えた。少し位置を変えて、山頂から南東に高賀山(北の沢*)も確認。能郷白山は樹林に隠れた。梅雨時の条件下では最高の展望に満足した。
 充分な山頂滞在を満喫。下山を開始。つい最近まで、廃道に近かった登山道は整備されて歩きやすかった。登山道の脇には、この山を特長づけるヤマボウシの花が盛りである。最初はハナミズキと見たのですが、時間を置いて、正しい名前を思い出した。同じ仲間だから当然である。
 登山道を下って、南東に舟伏山(初鹿谷から踏破*)を確認した。あれも「ぎふ百山」の1座だ。
 以前、荒れていた部分の植林帯はきれいに整備された。杉の倒木の切り口には2018.4.22と書かれていた。篤志家の伐採日かな。これから登る人に出会った。立ち話すると登りがきつかったとか。一旦下って登り返すと反射板への分岐(1050m)に着いた。新しい道標が設置されていた。右へ行ってみたが、何も展望は無い。反射板があるから眺めが保証されているわけではなかった。
 後は折越峠に向ってどんどん高度を下げた。根上がりの桧にも案内板があった。篤志家らの仕事だろう。816mを過ぎて、峠に近付いた。急な斜面をジグザグで下る。折越林道を歩いて542mまで行く。疲れた足には少しこたえる。
 Pに戻った。汗とヤブをこいだ際の埃で汚れた体を水で拭いた。蛭やダニもチエックしたが何もなかった。帰路は廃村・越波から廃村・黒津をめぐりR157から能郷へ走った。
 道草ついでに源屋で川魚料理を楽しんだ。一番安い定食でも、鮎塩焼き2尾、あまごの甘露煮1尾、味噌汁、デザート、漬物、等盛りだくさんのごちそうだ。季節のものの鮎に舌鼓を打つ。これで2480円。食後は白山神社へ戻って休んだ。今年も猿楽が奉能されたであろう。
 後は来た道を戻った。

虫干しや余り読まれぬ山の本2018年06月18日

 今日は名古屋商工会議所で面談会のある日。朝食をとって、しばらくしたら、ラジオで地震発生を聞く。時に7時58分とメモした。
 このマンションも14F建てで12Fに居るので、大きく揺れた。しかも何度も揺れが来た。食後のせいか、船酔いみたいに少し胃が気持ち悪くなった。嘔吐まではしなかったがぼーっと時間の経過を待った。
 ラジオは次々と地震の状況を報じた。関西に住む叔母さんが心配になった。時計を見ると10時を過ぎてしまったので急いで身支度して出た。雨の中、小走りに駅へ。名商の会議に間に合わず携帯で遅刻を連絡した。
 面談会では建設業経営の専門家、3名の税理士と会った。最後は先方から面談希望のあった若い税理士さんだった。会話の即応性が良く、仕事で関係が持てると良いなと思う。3時に終わった。
 栄のジュンク堂に寄った。2冊の新書を購入。事務所へ帰った。4時30分になり、上前津へ。
 JACルームで最終的に校正を反映させた支部報の編集会議を行う。記事の割り付け、写真の配置、誤字の訂正されていない箇所の指摘、新たな誤字の指摘など。まだひと踏ん張りしてもらう必要があった。
 隣室では書庫に保管中の山岳図書を虫干ししていた。誰も読んでくれなくてねえ、と一冊一冊を机に並べている。確かにカビ臭い。
 登山者の中高年化が進んで山の本や雑誌は売れなくなった。というより情報収集の手段がインターネット経由に移ったのであろう。ネット情報は便利だが、一覧性がない。 
 その点紙の本は一覧性がある。ネットも紙の書籍に依拠することが多い。紙の本は必要である。本は読むものではない、本は買うものである。備えて置くものである。
 それに登山者の主流は山岳会から旅行会社の商品に移った。山岳会では新人扱いされるが、旅行会社ではお客様になった。知識も受け身にならざるを得ない。であれば読まれなくなるのも道理か。

恵贈!五十嶋一晃『立山ガイド史Ⅱ』2018年06月23日

 今朝は雨。名駅前の夏山フェスタに出かけようとしたらポツリと冷たいものが降ってきた。この時期は降らなきゃ米も育たない。
 名駅前のビルに駆け込むときはもう傘が必要だったが小走りに会場に入った。正午ごろか、7Fに行くともう大混雑だった。7Fは山小屋とか観光のブースがある。その中に1年ぶりで五十嶋博文氏を見たのでごあいさつさせてもらった。今年の『山岳』に伊藤孝一の伝記を投稿したこと、今は北ノ俣岳になっているが、実兄で日本山岳会会員の五十嶋一晃氏は上ノ岳に戻したい旨の意思をもって当局に働きかけているという。その上ノ岳の跡地に行きたいと話をした。戦前に伊藤孝一が山小屋を建築したのである。また、折立の奥の間川の跡地にも行きたいなどと話し込んだ。小畑尾峠は今は廃道とかで行けないらしい。でも行ってみたい。今は有名な登山家でも無名時代はみなこの峠を越えたのである。
 そんな昔話で盛り上がったところで、表記の書籍を恵贈された。ずしりと重い781ページもの大著である。思えば北陸4県の登山家らは熱心に著作をものにする。中でも富山県の登山家は群を抜いて多い。第一に田部重治を筆頭に北アルプスの本拠にあるからだろう。
 目次を眺めると、戦前の立山登山史さながらにガイドが担ってきたのである。正編は読んでいないが、もっと詳細なのであろう。
 佐伯姓のガイドの中には伊藤孝一から有峰の旧家を間川に移築したり、上ノ岳と黒部五郎の鞍部に小屋を建設する依頼を受けたガイドらがいるはずである。当時の金で20万円を渡して、黒部源流の山々に拠点となる山小屋を建設。映画を撮影しながら積雪期縦走を果たすのである。
 あの加藤文太郎もずっと後に、これらの小屋を利用して、単独でスキー縦走を果たし、賞賛されるが、すでに先駆的な記録はあったのだ。当時は伊藤らの縦走は登山とは認めていなかった。日本山岳会の重鎮が、現代風にいうならばパワハラで無視したのであった。そのために加藤の記録が目立つのである。スポーツ界は潔くあるべきなのに寡頭政治は嫌らしいものだ。
 時間をかけて読ませてもらおうと思う。
 そのうち、通路スペースに人が溢れた。何かときくと「なすび」というタレントさんのスピーチが始まり、整理券を持っている人が行列中であった。私は「なすび」なんて知らんぞな。
 夏山フェスタの8Fにも回った。こちらは登山に役立つグッズの紹介のブースであった。またヤマップとかヤマコレなどのスマホ時代の便利なアプリを紹介する。こっちはまだデジタルには全面依存は出来ず、アナログ主体なので、導入はしないが、登山の知識の得方もつくづく変わったものである。会場を出て、本降りとなった名駅前を辞した。

梅雨の夜のジャズSAYAはげに熱唱す2018年06月23日

 夏山フェスタを辞して、丸の内の事務所へ移動。山岳会の会報を仕上げて送信した。
 少し休んで、徒歩で、名古屋有数の歓楽街の女子大小路に出向く。行く先はLive DOXY(ドキシー) - 名古屋栄の着席型ライブハウス。何日か前に偵察したが中々見つからなかった。地下にあったからだ。お陰で周辺を歩き回る結果になった。有名な宗次ホールもこの一角にあると知った。永井荷風が出てくるような陋巷(ろうこう)のような雰囲気が漂う。特に焼き鳥や焼き肉の臭いが充満する。

   市中はもののにおいや夏の月  凡兆

 目的は来名するSAYAのライブを聞くため。
 ジャズシンガーのSAYAはこんな人
http://www.1002.co.jp/aquarellerecords/saya/saya/biography.html

公式fb
https://www.facebook.com/saya.ohgi

 チャンネル桜のキャスターを務める。動画の最後の方で流される仙閣諸島の歌が美声であり、高音域が透き通るので一度は生で聞きたいと名古屋のDOXYで行われるライブに行った。
【守るぞ尖閣】尖閣諸島防人の歌
https://www.youtube.com/watch?v=AGjTvEj2tao&index=3&list=PLD6842BA2C2707BD6

 19時開演。すらりとしたスレンダーな肢体、中々の知的美人の熱唱に魅了された。それに期待にたがわず透き通るような美声で熱唱。ライブはどんな歌手であっても感動する。未体験だったがジャズってあんなにも熱唱するものなのか、と感動した。唄われた曲の半分くらいは少しは耳に馴染みがあった。
 ざっとメモった。どこかでいつか聞いたこともあるが、ジャズにアレンジされている。
○ニューヨークニューヨーク
https://www.youtube.com/watch?v=SAglWNyga98
○シェブールの雨傘
https://www.youtube.com/watch?v=SXysK0kwkQk
○ "Skindo-le-le"(スキンレレと聞こえたが・・・)
https://www.youtube.com/watch?v=AR_z1Q-9Xd4
○Let's Wait A While或いはオリジナルの「Wait A While(その日を信じて)」か
https://www.youtube.com/watch?v=PWR489Cqb2o

 暗がりの中でペンを走らせたので筆跡不明瞭。ライブは一期一会の出会い。アンコールの要望にこたえた歌唱も圧巻の内に終わった。SAYAは本物だなあ。というわけでサイン入りCDも購入しました。

 今日の新聞に金子兜太さんのお別れ会の記事があった。800人が献花したという。氏の俳句に確か、ジャズの句があったとググると

    どれも口美し晩夏のジヤズ一団  兜太

がヒットした。兜太らしいですね。

 梅雨の鬱陶しさをふっ飛ばしてくれたSAYAの熱唱ライブでした。ドリンクは焼酎の水割りとおつまみに入場料で6350円でした。

    焼酎に酔うSAYAの歌声に酔う

塩田に百日筋目つけ通し 沢木欣一2018年06月27日

 表記の作品は、月刊「Hanada」誌8月号のP192に室谷克実氏の連載を読んで、咄嗟に浮かんだ句。
 「24 奴隷がいる風景」の中で、韓国産の天日塩にふれて、悪魔の食材だから食べてはいけない、買っても行けない、と警告する。
 農薬が混入していることの指摘がある。さらに知的障害者を塩田に投入していると指摘するのだ。それは塩田奴隷というらしい。詳細は本誌を読むことである。
 私が驚くのは、韓国では、まだ奴隷労働が行われていることである。しかも知的障害者を人身売買までしている。強制労働とか言って、あれほど日本を叩きながら、本国では省みない。韓国人への嫌悪感がいや増す。
 日本でもブラック労働が蔓延している。しかし、自分の都合で辞めることができるから奴隷とまではいえない。私自身、若いころ、自動車工場で、昼夜勤交代勤務、長時間労働、肉体を酷使する重労働を経験している。『自動車絶望工場』の世界ではあったが、ずっと働かされたわけではない。自分の考えで、会社(仕事)を変えて、生きる自由があった。傍観者として社会をみてきたわけではない。

俳句と歴史の見方
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/05/10/8848676

 作者の沢木欣一についてウィキペディアは
「戦後より「風」誌を中心に社会性俳句を主唱。社会性俳句を社会主義イデオロギーを根底に持つ俳句と捉え政治性をはっきりと打ち出した。特に代表句「炎天に百日筋目つけ通し」を含む「能登塩田」連作(1955年)は話題を呼び、この連作を含む句集『塩田』は西東三鬼の激賞を受ける。日米安保条約改定後の1960年頃からは社会性を後退させ写実中心の作風に移行、正岡子規の写生説の見直しを行いつつ「即物具象」のスローガンを掲げた。」

 とはいえ、沢木欣一は根っからの左巻きではなかったと思われる。26歳で戦後を迎えた。昭和30年、36歳のころ、以下のブログに作品の背景が分かる。

 ブログ「透水の 『俳句ワールド』★俳句のアラカルト★古今の俳諧・俳句の世界を楽しむ」に
 「欣一は昭和三十年の夏、能登珠洲市で開かれた小・中・高教師の認定講習会に講師として出席した。終了後、輪島市町野町曾々木の塩田を訪ね、雑貨屋の二階に一泊し、翌日も原始的な上浜式塩田の作業を取材している。これは「俳句」の大野林火編集長から大作の寄稿を依頼されていたためである。
 自解によると、「塩田に砂を撒き汐をかけ烈日にさらすことを繰り返す。汐をかけた砂によく日が当るよう千歯で筋目をつける。重労働で夏百日続く」とある。これは能登の曾々木海岸にある揚浜式塩田のことである。
 同時に〈塩田夫日焼け極まり青ざめぬ〉がある、これも自解によると「夏の日焼けが黒いのは当り前だが、黒さ極まると青ざめた色になる」とある。他に、〈汐汲むや身妊りの胎まぎれなし〉〈塩焼く火守る老婆を一人遺し〉などなど労働句が多い。
 これら「塩田」を語るには欣一らが提唱し推進した社会性俳句運動を避けて通ることができない。
 沢木は昭和二十九年十一月号『風』の「俳句と社会性」というアンケートに「社会性のある俳句とは、社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から産まれる俳句を中心に広い範囲、過程の進歩的傾向にある俳句を指す」と言っている。
 さらに遡ると昭和二十一年五月、「風」の創刊号に掲げた「文芸性の確立」「生きた人間性の回復」、更に「直面する時代生活感情のいつはらぬ表現」という目標にも社会性を目指す欣一の決意が読み取れる。
 西東三鬼は、昭和三十二年度の『俳句年鑑』で「欣一は『能登塩田』によって大爆発した」とし、「時代の正統派はこの人を継ぐであろう」とまで述べている。一方欣一は、「能登塩田」だけで社会性を表現したのではない。
 社会性俳句とは時事的なことを詠うだけでなく、「自然風土と人間のさまざまな生産労働とに目を注ぐ」ことだ、と言明している。誠に傾聴すべき言葉である。」と肯定的であるが、時代を経ての評価は低下する。

 ブログ「よもやま句歌栞草」の中村 裕(俳人・編集者)の解説から
 「昭和30年代、俳句における社会性がさかんに議論されたころ、話題になった作品。塩田は塩を採るために、海水を絶えず撒き、炎天に曝すところ。水分の蒸発を早めるために、筋目をつける重労働が繰り返されるのである。
 人間の労働に対する素朴な感動が、この句の根底をなすが、自らがその担い手であるわけではない。あくまでそれを傍観しているのである。このあたりが当時の社会性俳句の限界と弱さで、作者も文部官僚、大学教授という体制内の道を易々として歩む。」と一時の流行性感冒のような広がりでしかなった。社会が落ち着きを取り戻せば、社会主義は忘れられてゆく。

 社会性俳句とは戦後に伝統に反抗する若者たちの運動であった。同じことは、映画界でも1960年代に日本ヌーヴェルヴァーグが興った。小津安二郎のような既存の権威に対する反抗であった。中心になった大島渚は1960年当時まだ28歳であった。はしかの一種である。

万緑を顧みるべし山毛欅峠 石田波郷2018年06月29日

 昨夜から強風が吹いた。蒸し暑い一夜だった。天白川も泥で濁っているから上流で相当な雨が降っただろう。先般、小学4年の子等の川遊びのために刈られた河川敷の刈草ももう枯れている。暑さである。梅雨明けも近い。その前に大暴れがあるか。
 明け易い。いくらも寝ていないのにもう朝だ。

 この時期が来ると思い出す一句である。そして好きな俳句である。

 句の背景をググルと「週刊俳句 Haiku Weekly」に

俳枕15 奥武蔵・山毛欅峠と石田波郷 広渡 敬雄

「青垣」18号より転載
 奥武蔵は埼玉県の南西部に位置し、武蔵野台地が緩やかに高さを増して丘陵、山岳となる辺り。その地域を名栗川(入間川)と高麗川が潤し、合流して荒川に至る。

 山奥まで集落があり、正丸峠、山伏峠を越えれば秩父盆地が開ける。

 歴史的には七世紀に新羅に滅ぼされ日本に亡命した高句麗の人々が、霊亀二年(716年)この地(高麗郡)に集結し創建した高麗神社があり、彼岸花で有名な巾着田の日高市、武者小路実篤の「新しき村」の毛呂山町、梅園で名高い越生町、最近では俳人石田郷子氏が居住し、創意工夫で心豊かな山村生活を発信している名栗村(現飯能市)等がある。

 萬緑を顧みるべし山毛欅峠  石田波郷

 七夕や檜山かぶさる名栗村  水原秋櫻子
 枯野きて修羅の顔なり入間川 角川源義
 桑を解くひとへ瞼の高麗の裔 能村登四郎
 実篤の書にいなびかりつづけざま 細見綾子
 擂粉木の素の香は冬の奥武蔵 三橋敏雄
 あたたかき砂あたたかき石名栗川 石田郷子

 山毛欅峠(橅峠・782㍍)は秩父盆地と飯能市の境・正丸峠と関八州見晴台のほぼ中程にある。

 現在は奥武蔵グリーンラインも通じ、峠の小高い杉並木に昭和五十年に建立の自然石に刻まれた石田波郷の句碑がある。但し、かつて波郷を驚嘆させた山毛欅林は杉の植林となり往時を偲ぶすべもない。

 句集『風切以後』に収録されているこの句は、『日本百名山』の著者深田久弥や中村汀女も愛誦し、波郷自身も「私の数少ない自然を詠んだ句で一番気に入っている」と語っている。

 自句自解等には、「昭和十八年五月、長男修大誕生直後、文学報告会職員のハイキングで奥武蔵に遊んだ。見はるかす四方の浅黄、萌黄、浅緑、深緑の怒涛のように起伏する爽大な風景に魂を奪われ即刻にこの句を為した。三月から月俸九十円の一書記であった」とある。

 矢島渚男は昭和32年3月、二十二歳の大学生の時、東京都江東区砂町の波郷宅を訪ね、以後師事したが、その日にこの句を色紙に書いていただいたと「亡師追想」で述べている。

 波郷は大正2年愛媛県の松山市生まれ。松山中学時代から俳句を始め、十七歳で水原秋櫻子門下の五十崎古郷に師事し、「馬酔木」に投句。昭和7年同巻頭を得て単身上京、百合山羽公、瀧春一、篠田悌二郎、高屋窓秋、石橋辰之助、相生垣瓜人等錚々たる俳人とともに二十歳で最年少同人となり、窓秋、辰之助と並んで「馬酔木三羽烏」と称された。

 健康にも恵まれ、辰之助等とハイキング、スキー等を意欲的に楽しんだ。終生の師横光利一にも目をかけられ、二十二歳で第一句集『石田波郷句集』を上梓し、二十四歳で「鶴」を創刊主宰。

 三十歳の結婚を機に「馬酔木」を辞した。

 召集による入隊以後体調を崩したが、終戦早々の昭和21年、「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」と宣し「鶴」を復刊する。

 その後肺を病み、再三の成形手術、清瀬の東京療養所入所により、「療養俳句」の一時代を確立した。

 万全な体調でないものの、朝日俳壇選者、現代俳句協会さらに俳人協会の設立に尽力し、昭和三十年、四十二歳で『定本石田波郷全句集』により第六回読売文学賞を受賞、俳壇で重きをなした。

 昭和44年には、句集『酒中花』で芸術選奨文部大臣賞を受賞するも、同年11月21日五十六歳で逝去。深大寺に葬られた。「今生は病む生なりき烏頭」

 戦後十二年間暮らした江東区の砂町文化センターに平成12年、「石田波郷記念館」が開設されている。

 句集は十六冊あるが、句の重複も多く『石田波郷全句集』には『鶴の眼』『風切』『病雁』『雨覆』『惜命』『春嵐』『酒中花』『酒中花以後』の八冊が収録されている。玄人跣の自身の撮影写真も添えた『江東歳時記』、『清瀬村』等の随筆集もある。

 長男修大氏著の『わが父波郷』『波郷の肖像』は、父波郷とのほど良い距離感があり、最良の語り手を得た感がする。

 作風は馬酔木調の抒情的青春性の横溢する二十歳代前半、加藤楸邨等の影響を受けた「人間探究派(難解俳句)」時代、戦後直後の「焦土俳句」時代、そして四十歳からの長い「療養俳句」時代と生涯に大きな変遷がある。特に後半は自身の診療生活の限られた句材を詠んだ私小説風の俳句も多い。

 終生、「俳句の韻文精神」、又、「豊饒なる自然と剛直なる生活表現」を唱え、「俳句は文学ではない」との俳句の本質を喝破した言葉も残している。
 山本健吉は、句集『風切』(昭和18年)で、抒情的新興俳句と訣別し、蕉風「猿蓑」を手本に古典の格と技法とを学び生活に即した人生諷詠としての俳句に開眼したと述べる。

 多くの波郷の佳句の中から、自然詠に限って記したい。

 元日の殺生石のにほひかな(那須湯本)
 花ちるや瑞々しきは出羽の国
 雪降れり月食の汽車山に入り(越後湯沢へ)
 雨蛙鶴溜駅降り出すか (軽井沢にて 草軽軽便電気鉄道)
 葛咲くや嬬恋村の字いくつ
 蓼科は被く雲かも冬隣 (霧ヶ峰 鷲ヶ峰)
 浅間山空の左手に眠りけり
 琅玕や一月沼の横たはり(手賀沼)

 ◎泉への道後れゆく安けさよ(軽井沢)

*山毛欅峠の句は句集『風切以後』の表記に拠った。
以上
 江東区の砂町文化センターの「石田波郷記念館」は行ったことがある。両側が個人商店が並ぶ狭い路地を抜けて歩いた。庶民の街である。ちょっと離れた場所に古石場文化センターがあり、小津安二郎の生誕の地がある。
 登山・ハイキングを兼ねてブナ峠の句碑に行って見たいと思う。奥武蔵は埼玉県の奥で西部鉄道沿線らしい。1000m級以下の低山がほとんどで奥三河の山のイメージに近い。
 自然詠は自然の中に入らないと得られない。芭蕉も旅に出て佳吟を残した。旅といえども、他人に面倒を一切任せた商品として、バスや電車に乗っての観光旅行ではない。
 旅することは生きることと思うようなイメージである。それは山旅に近い。登山こそが本来の旅の原型を残している。波郷のころはまだ峠の趣があったが今は写真で見ると車道が通じている。まあそれでも足で歩けば少しは感じるものがあると思う。