御嶽山の規制区域に入山の疑い ― 2018年03月02日
読売新聞から
岐阜県警下呂署は1日、御嶽山の入山規制区域内に無断で入ったとして、読売新聞大阪本社制作局の嘱託社員の男性(61)=大阪府阪南市=を災害対策基本法違反の疑いで書類送検し、発表した。「噴火の現場を見てみたかった」と容疑を認めているという。
署によると、男性は昨年10月11日、岐阜県下呂市の小坂登山口から入山。立ち入りが禁止されている火口から1キロ以内の区域に入って剣ケ峰に登ったほか、火口から約300メートルの地点まで近づいた疑いがある。パトロールをしていた長野県木曽町の職員が見つけ、同県警木曽署に通報。入山地点の下呂署が検挙した。同法違反の検挙は岐阜県内で2件目という。 以下略
以上
災害対策基本法
(市町村長の警戒区域設定権等)
第六十三条 災害が発生し、又はまさに発生しようとしている場合において、人の生命又は身体に対する危険を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、警戒区域を設定し、災害応急対策に従事する者以外の者に対して当該区域への立入りを制限し、若しくは禁止し、又は当該区域からの退去を命ずることができる。
警戒区域
戦後日本では、災害対策基本法第63条に基づいて、災害による退去を命じられる区域をいう。同法第60条の避難の指示(避難勧告)とは異なり、罰則付きで区域内への立ち入りが制限・禁止され、許可なく区域内にとどまる者には退去が強制されるため、同法第63条の適用の是非を巡っては慎重の上にも慎重な姿勢がとられる。事実上の避難命令に該当する。
災害対策基本法(原則市町村長が設定 違反者は10万円以下の罰金又は拘留)
以上
以前も無断で入山してヤマレコに写真を投稿し、それで違反がばれてしまった人がいた。今回で2例目になる。しかもメディアの関係者なので責任は重いだろう。先回のことがあり休日には巡回しているのだろう。登山口の林道や駐車地のクルマである程度は判断して巡回するのだろう。
登山者の心得として興味本位で警戒区域に入山することは厳禁ですね。ホントにいつ噴火するか分からない。警戒区域指定は事前じゃなく事後に指定した人間側のアバウトな判断に過ぎない。乗鞍岳、白山、立山、八ヶ岳、富士山だって分からない。
標高2000m付近まで観光道路、ゴンドラ、スキー場などを過度に観光開発した火山地帯が噴火(水蒸気爆発)している。十勝岳、草津白根山、御嶽山、霧島連山、阿蘇山など。
岐阜県警下呂署は1日、御嶽山の入山規制区域内に無断で入ったとして、読売新聞大阪本社制作局の嘱託社員の男性(61)=大阪府阪南市=を災害対策基本法違反の疑いで書類送検し、発表した。「噴火の現場を見てみたかった」と容疑を認めているという。
署によると、男性は昨年10月11日、岐阜県下呂市の小坂登山口から入山。立ち入りが禁止されている火口から1キロ以内の区域に入って剣ケ峰に登ったほか、火口から約300メートルの地点まで近づいた疑いがある。パトロールをしていた長野県木曽町の職員が見つけ、同県警木曽署に通報。入山地点の下呂署が検挙した。同法違反の検挙は岐阜県内で2件目という。 以下略
以上
災害対策基本法
(市町村長の警戒区域設定権等)
第六十三条 災害が発生し、又はまさに発生しようとしている場合において、人の生命又は身体に対する危険を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、警戒区域を設定し、災害応急対策に従事する者以外の者に対して当該区域への立入りを制限し、若しくは禁止し、又は当該区域からの退去を命ずることができる。
警戒区域
戦後日本では、災害対策基本法第63条に基づいて、災害による退去を命じられる区域をいう。同法第60条の避難の指示(避難勧告)とは異なり、罰則付きで区域内への立ち入りが制限・禁止され、許可なく区域内にとどまる者には退去が強制されるため、同法第63条の適用の是非を巡っては慎重の上にも慎重な姿勢がとられる。事実上の避難命令に該当する。
災害対策基本法(原則市町村長が設定 違反者は10万円以下の罰金又は拘留)
以上
以前も無断で入山してヤマレコに写真を投稿し、それで違反がばれてしまった人がいた。今回で2例目になる。しかもメディアの関係者なので責任は重いだろう。先回のことがあり休日には巡回しているのだろう。登山口の林道や駐車地のクルマである程度は判断して巡回するのだろう。
登山者の心得として興味本位で警戒区域に入山することは厳禁ですね。ホントにいつ噴火するか分からない。警戒区域指定は事前じゃなく事後に指定した人間側のアバウトな判断に過ぎない。乗鞍岳、白山、立山、八ヶ岳、富士山だって分からない。
標高2000m付近まで観光道路、ゴンドラ、スキー場などを過度に観光開発した火山地帯が噴火(水蒸気爆発)している。十勝岳、草津白根山、御嶽山、霧島連山、阿蘇山など。
猿投山~東尾根から武田道へ ― 2018年03月04日
マンションの窓から眺める猿投山は山霞でまったく見えなかった。ちょっと行く気が失せるが、健康維持にためと言い聞かせて、朝7時20分出発。コンビニで昼食やドリンクを買う。猿投神社の駐車場は7時50分でも満杯だ。道路に面したところへ止めた。
朝8時、猿投神社登山口の駐車場を出発。車道を若干歩いて猿投川の支流にかかる橋を渡って右折。しばらくで左の尾根へと導く目印を見て一歩を踏み出す。尾根は277mへ登り、小さなアップダウンをくりかえす。途中、春の鳥が盛んに鳴いた林があった。暖かいので鳥も勘違いしただろう。植生は若い桧の植林に下生えの照葉樹林が混じる。尾根は猿投川の左岸に沿いながら徐々に高度をあげる。
トレランの人らが結構すれ違う。ブームなんだろう。不意に近づくと驚くことがある。出来れば走らないで欲しいものだ。
360m付近で一旦車道に出てすぐにまた尾根に戻る。傾斜がきつくなり山道は左右に分かれる。左は東宮へ、右は最高点の直下で550mの等高線を巻くように続いている。最高点の北東尾根に達した。左右に赤い印があるが左折する。右折すると北東尾根を北一色へ下る。やがて三叉路に着く。北一色への標識が立つ。左折するとまもなくで最高点632mだった。10時30分だった。良い道が下っていくので見てみると屋根が見えたので東の宮であろう。最高点からはもう1つ赤テープの踏み跡があった。これは藪がからみ行き先は不明であるが550m付近の巻道に合うだろう。
最高点を踏んで三叉路に戻り左折。下ると東海自然歩道に出た。一等三角点の山頂へ向かった。11時登頂。山は霞んで遠くは見えない。山頂はいつもの大勢のハイカーでにぎわっていた。小休止の後、「水」南沢へ5分の標識に従い下ってみた。確かに大岩から湧水があった。そこからの山道は沢で荒れていたが下流で右岸の良い道があった。モトクロスバイクのタイヤ痕があった。荒れ気味の山道をどんどん下って林道に着いた。林道からさらに広沢川の源流に沿う崩壊した林道に合流。血洗いの滝などを眺めながら三叉路に着いた。ここでもまだ11時45分。
車道を登りながら西の宮の前を通る。今日は参拝をパス。少し登って武田道につながる山道を登った。風化花崗岩の道は崩れ気味である。一旦車道に降りてすぐに登り返す。ここからはほぼ1本道になる。たまたま同じ道を歩いていた人が精通者で情報を教えてくれて城ヶ峰展望台を経て駐車場のすぐ近くの車道に下れた。東尾根の入り口もすぐで周回したことになった。14時過ぎにクルマに戻った。いい汗をかいた。花は東尾根で咲きかけの椿を一か所みただけ、武田道では蝶々を見た。早春の猿投山であった。
朝8時、猿投神社登山口の駐車場を出発。車道を若干歩いて猿投川の支流にかかる橋を渡って右折。しばらくで左の尾根へと導く目印を見て一歩を踏み出す。尾根は277mへ登り、小さなアップダウンをくりかえす。途中、春の鳥が盛んに鳴いた林があった。暖かいので鳥も勘違いしただろう。植生は若い桧の植林に下生えの照葉樹林が混じる。尾根は猿投川の左岸に沿いながら徐々に高度をあげる。
トレランの人らが結構すれ違う。ブームなんだろう。不意に近づくと驚くことがある。出来れば走らないで欲しいものだ。
360m付近で一旦車道に出てすぐにまた尾根に戻る。傾斜がきつくなり山道は左右に分かれる。左は東宮へ、右は最高点の直下で550mの等高線を巻くように続いている。最高点の北東尾根に達した。左右に赤い印があるが左折する。右折すると北東尾根を北一色へ下る。やがて三叉路に着く。北一色への標識が立つ。左折するとまもなくで最高点632mだった。10時30分だった。良い道が下っていくので見てみると屋根が見えたので東の宮であろう。最高点からはもう1つ赤テープの踏み跡があった。これは藪がからみ行き先は不明であるが550m付近の巻道に合うだろう。
最高点を踏んで三叉路に戻り左折。下ると東海自然歩道に出た。一等三角点の山頂へ向かった。11時登頂。山は霞んで遠くは見えない。山頂はいつもの大勢のハイカーでにぎわっていた。小休止の後、「水」南沢へ5分の標識に従い下ってみた。確かに大岩から湧水があった。そこからの山道は沢で荒れていたが下流で右岸の良い道があった。モトクロスバイクのタイヤ痕があった。荒れ気味の山道をどんどん下って林道に着いた。林道からさらに広沢川の源流に沿う崩壊した林道に合流。血洗いの滝などを眺めながら三叉路に着いた。ここでもまだ11時45分。
車道を登りながら西の宮の前を通る。今日は参拝をパス。少し登って武田道につながる山道を登った。風化花崗岩の道は崩れ気味である。一旦車道に降りてすぐに登り返す。ここからはほぼ1本道になる。たまたま同じ道を歩いていた人が精通者で情報を教えてくれて城ヶ峰展望台を経て駐車場のすぐ近くの車道に下れた。東尾根の入り口もすぐで周回したことになった。14時過ぎにクルマに戻った。いい汗をかいた。花は東尾根で咲きかけの椿を一か所みただけ、武田道では蝶々を見た。早春の猿投山であった。
伊勢湾のコウナゴ、3年連続禁漁の見通し ― 2018年03月05日
3/5付WEB中日新聞から
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20180305/CK2018030502000015.html
二年連続の禁漁となった伊勢湾と三河湾のコウナゴ(イカナゴ)の分布を確認する漁協などによる試験漁が三日、鈴鹿市沖などであった。試験漁は不漁になるとみられ、漁業関係者は肩を落としている。近く開かれる三重、愛知両県の漁業関係者による会議で正式に禁漁が決定される見通し。
春の味覚として名高いコウナゴは、両県の漁業関係者が漁獲の安定のため、次年度に向けて継続して漁ができる二十億匹を残す資源管理をしてきた。だが、二〇一六年にコウナゴが激減し禁漁となった。昨年も状況が改善せず禁漁となり、今年も続けば三年連続という異常事態になる。
例年、三重県の漁業関係者は伊勢湾でコウナゴを試験漁として採集し、県水産研究所鈴鹿水産研究室(鈴鹿市)で個体数を数えている。愛知県の漁業関係者も同様に試験漁をしており、両者の結果データに基づいて解禁するか判断する。
鈴鹿水産研究室によると、一六年は夏場や冬場の水温が高く、低温を好むコウナゴが多く死ぬなどした。一七年も生息数は増えず、今年も一月上旬から二月中旬まで、両県が伊勢湾や三河湾で分布調査を四度実施したが、コウナゴは見つからなかった。
同研究室の担当者は「一昨年、昨年と個体数が少なかったので、今年も産卵する親魚が少ないと予想される」と厳しい見通しを話した。
コウナゴ漁をする三重県ばっち網漁協の一尾康男組合長(66)は「三年連続の禁漁となれば非常に残念だ。今いるコウナゴが無事に育ち産卵するのを待つしかない」と話している。 (渡辺雄紀)
以上
こうなご、またはイカナゴが出回るといそいそと買って旬の味を楽しんできたが、今年も不漁でスーパーの店頭で出会えないようだ。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/02/09/6716529
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/02/25/7578977
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20180305/CK2018030502000015.html
二年連続の禁漁となった伊勢湾と三河湾のコウナゴ(イカナゴ)の分布を確認する漁協などによる試験漁が三日、鈴鹿市沖などであった。試験漁は不漁になるとみられ、漁業関係者は肩を落としている。近く開かれる三重、愛知両県の漁業関係者による会議で正式に禁漁が決定される見通し。
春の味覚として名高いコウナゴは、両県の漁業関係者が漁獲の安定のため、次年度に向けて継続して漁ができる二十億匹を残す資源管理をしてきた。だが、二〇一六年にコウナゴが激減し禁漁となった。昨年も状況が改善せず禁漁となり、今年も続けば三年連続という異常事態になる。
例年、三重県の漁業関係者は伊勢湾でコウナゴを試験漁として採集し、県水産研究所鈴鹿水産研究室(鈴鹿市)で個体数を数えている。愛知県の漁業関係者も同様に試験漁をしており、両者の結果データに基づいて解禁するか判断する。
鈴鹿水産研究室によると、一六年は夏場や冬場の水温が高く、低温を好むコウナゴが多く死ぬなどした。一七年も生息数は増えず、今年も一月上旬から二月中旬まで、両県が伊勢湾や三河湾で分布調査を四度実施したが、コウナゴは見つからなかった。
同研究室の担当者は「一昨年、昨年と個体数が少なかったので、今年も産卵する親魚が少ないと予想される」と厳しい見通しを話した。
コウナゴ漁をする三重県ばっち網漁協の一尾康男組合長(66)は「三年連続の禁漁となれば非常に残念だ。今いるコウナゴが無事に育ち産卵するのを待つしかない」と話している。 (渡辺雄紀)
以上
こうなご、またはイカナゴが出回るといそいそと買って旬の味を楽しんできたが、今年も不漁でスーパーの店頭で出会えないようだ。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/02/09/6716529
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/02/25/7578977
「嫁さんになれよ」だなんて缶チューハイ二本で 言ってしまっていいの 俵 万智 ― 2018年03月08日
日経新聞の見出しに「コカ・コーラ、日本で缶チューハイ発売へ 世界初 」とあった。
本文から「一方で、缶チューハイという独自のカテゴリーが伸びていることが日本での参入の背景にあるという。
缶チューハイの日本市場の伸びは続く。キリンによると、缶チューハイの17年の市場規模は前年比9%増の106万キロリットルに拡大。ビールから流れている消費者も多く、今後も市場の拡大は続く見通しだ。伸びる状況も踏まえ、コカ・コーラグループも参入」と報じた。よっぽど消費が伸びているのだろう。なぜなんだろう。
表題の短歌は俵 万智の歌集『サラダ記念日』の1首。1986年に 第32回角川短歌賞を受賞。今から32年前のことになる。メディアが大きく取り上げた記憶がある。
つい最近までビール党だった。ときどき日本酒、たまに焼酎のお湯割りだった。それが最近は缶チューハイを飲むことが多くなった。冷蔵庫にはいつも1~2本をストックしてある。理由は醸造酒は太りやすいのとアルコールが抜けにくいので・・・。
だから日経の記事にはそうかそうかと関心を持った次第。そして彼女の短歌を思い出した。俵さんはキャッチコピー創りの才があるんですね。
本文から「一方で、缶チューハイという独自のカテゴリーが伸びていることが日本での参入の背景にあるという。
缶チューハイの日本市場の伸びは続く。キリンによると、缶チューハイの17年の市場規模は前年比9%増の106万キロリットルに拡大。ビールから流れている消費者も多く、今後も市場の拡大は続く見通しだ。伸びる状況も踏まえ、コカ・コーラグループも参入」と報じた。よっぽど消費が伸びているのだろう。なぜなんだろう。
表題の短歌は俵 万智の歌集『サラダ記念日』の1首。1986年に 第32回角川短歌賞を受賞。今から32年前のことになる。メディアが大きく取り上げた記憶がある。
つい最近までビール党だった。ときどき日本酒、たまに焼酎のお湯割りだった。それが最近は缶チューハイを飲むことが多くなった。冷蔵庫にはいつも1~2本をストックしてある。理由は醸造酒は太りやすいのとアルコールが抜けにくいので・・・。
だから日経の記事にはそうかそうかと関心を持った次第。そして彼女の短歌を思い出した。俵さんはキャッチコピー創りの才があるんですね。
猿投山の広沢西尾根を歩く ― 2018年03月12日
6:45天白を出て県道58号を走り猿投駅前には7:20着。同行者は7:30合流する。県道を戻り広沢川に沿う車道に入る。一車線の狭い道である。奥の山家を過ぎると広沢天神のPに着いた。猿投山の案内図が立っている。ここは猿投神社とも山道で結んでいる。広沢天神は小じんまりした神社であった。
広沢天神の傍の白梅が咲いて春を告げる。
Pは朝8時5分に出発。慎ましい祠を左に見やりながら植林の道に入る。良く踏まれた山道であるので不安なく歩ける。里山にふさわしく微地形の尾根のアップダウンをくりかえす。有志らが整備したんだろう。小さなコブには巻道もついて丁寧なことだ。45分も歩いただろうか。三等三角点猿投2(加納山)309.4mに着いた。若干は見晴らしがある。
春霞でぼんやりと見えたのは右六所山と左焙烙山であった。
ここからもやや細い尾根をくねくね曲がりアップダウンをくりかえす。周囲の植生は人工林からいつの間にか自然林に変わっていた。南向きの尾根にはシダ類が繁茂し、照葉樹林がびっしり生えている。冬でも緑緑している。但し、落葉樹の林と違い何も見通せない。落葉も肉厚である。滑落しないように踏みしめて歩く。
標高が350m、400mとあがると植生がしっかりしてきた。日がささないから林床は地肌が見えている。尾根も太くなり、道幅も広がった。1台のマウンテンバイクとすれ違った。遠くからはモクロスバイクの爆音が聞こえてくる。松の木が増えたと思ったらちょっとしたピークに立った。この手前に右手に分かれる踏み跡もあったが、左へ振った。ピークからは左へ振った。踏み跡があるにはあるのだが踏まれていない。今までと突然違うので引き返し、ピークに立って真下に林道が見えた。先程の分岐で右へ振っても良いが直進して強引に林道に降り立った。林道を右へ戻ると踏み跡が尾根へ続いている。ようやくの想いで豊田市と瀬戸市の市界(尾三国境)に着いた。大きな鉄塔が立っている。しばらくで赤猿峠だった。
マンサクの花が咲き、遅い春を告げている。
ちょっと休んで最後の登りになった。さっきまでの道と違い、断然ハイカーが増えた。いつ来ても多い。
峠のすぐ近くのコブに立った。ここからは春霞の尾張野が見えた。遠くの頭だけ白い山は何だろうか。
山頂まで一気に登って昼食。昨夜テルモスに入れておいた熱湯がまだ熱い。寒い日にはさ湯でもありがたい。寒いので羽毛ジャケットを着てかつ雨具も上着にした。
また歩き出す。尾根への踏み跡があったので登ってみるとただのピークで見晴らしが良かった。なおも踏み跡が続いたが北一色に下るので山腹の踏み跡を東海自然歩道に戻った。最高点への正しい踏み跡をたどるとすぐに632mへ登った。先週の逆である。
最高点からはすぐに東の宮に下った。せっかくなので参拝した。社殿の屋根を仰ぐと千木が交錯する。この千木は内削ぎであった。すなわち女神の意味である。本宮の猿投神社の主祭神はオオウスノミコト、景行天皇、垂仁天皇でみな男神である。謎が残る。
東の宮を後にして自然観察路を下って西の宮に向った。杉の喬木もあって中々に自然が濃い。途中御舟石があり、かえる岩からの道が合流する。西の宮に着いた。この社殿の千木は外削ぎで男神である。オオウスノミコトは男性である。これは理解できた。長い急な石段を下ると車道であった。今日は武田道はパスして車道を下った。
武田道とは武田信玄のつくった道???と誤解していたが武田王がいる。ヤマトタケルの皇子というが良く分からない。
東の宮、西の宮はともに南西に位置する伊勢神宮の方向を向いているように建てられていると思った。その延長線上にアマテラスの胞を埋めたという恵那山がある。ほぼ一直線になる。
広沢川は花崗岩の美しい沢だった。ただ魚影はない。魚のいない川は淋しいのでニジマスでも放流して欲しい。途中に武田道という大きな看板のある道標を見た。これが入り口らしい。長い林道を歩いてやっと広沢天神に戻った。約7時間超の長い山歩きを満喫した。
帰路は山麓の桃畑を通り抜けて、猿投駅に同行者を送り、その足で長久手市のござらっせ温泉に入湯した。今日は少し膝に痛みが走る。寒いせいもあろうか。温まって少しでも緩和したい。小さな気泡の温泉は効能があるような気がするからだ。外へ出るとまだ明るい。
永き日や猿投山麓桃畑
広沢天神の傍の白梅が咲いて春を告げる。
Pは朝8時5分に出発。慎ましい祠を左に見やりながら植林の道に入る。良く踏まれた山道であるので不安なく歩ける。里山にふさわしく微地形の尾根のアップダウンをくりかえす。有志らが整備したんだろう。小さなコブには巻道もついて丁寧なことだ。45分も歩いただろうか。三等三角点猿投2(加納山)309.4mに着いた。若干は見晴らしがある。
春霞でぼんやりと見えたのは右六所山と左焙烙山であった。
ここからもやや細い尾根をくねくね曲がりアップダウンをくりかえす。周囲の植生は人工林からいつの間にか自然林に変わっていた。南向きの尾根にはシダ類が繁茂し、照葉樹林がびっしり生えている。冬でも緑緑している。但し、落葉樹の林と違い何も見通せない。落葉も肉厚である。滑落しないように踏みしめて歩く。
標高が350m、400mとあがると植生がしっかりしてきた。日がささないから林床は地肌が見えている。尾根も太くなり、道幅も広がった。1台のマウンテンバイクとすれ違った。遠くからはモクロスバイクの爆音が聞こえてくる。松の木が増えたと思ったらちょっとしたピークに立った。この手前に右手に分かれる踏み跡もあったが、左へ振った。ピークからは左へ振った。踏み跡があるにはあるのだが踏まれていない。今までと突然違うので引き返し、ピークに立って真下に林道が見えた。先程の分岐で右へ振っても良いが直進して強引に林道に降り立った。林道を右へ戻ると踏み跡が尾根へ続いている。ようやくの想いで豊田市と瀬戸市の市界(尾三国境)に着いた。大きな鉄塔が立っている。しばらくで赤猿峠だった。
マンサクの花が咲き、遅い春を告げている。
ちょっと休んで最後の登りになった。さっきまでの道と違い、断然ハイカーが増えた。いつ来ても多い。
峠のすぐ近くのコブに立った。ここからは春霞の尾張野が見えた。遠くの頭だけ白い山は何だろうか。
山頂まで一気に登って昼食。昨夜テルモスに入れておいた熱湯がまだ熱い。寒い日にはさ湯でもありがたい。寒いので羽毛ジャケットを着てかつ雨具も上着にした。
また歩き出す。尾根への踏み跡があったので登ってみるとただのピークで見晴らしが良かった。なおも踏み跡が続いたが北一色に下るので山腹の踏み跡を東海自然歩道に戻った。最高点への正しい踏み跡をたどるとすぐに632mへ登った。先週の逆である。
最高点からはすぐに東の宮に下った。せっかくなので参拝した。社殿の屋根を仰ぐと千木が交錯する。この千木は内削ぎであった。すなわち女神の意味である。本宮の猿投神社の主祭神はオオウスノミコト、景行天皇、垂仁天皇でみな男神である。謎が残る。
東の宮を後にして自然観察路を下って西の宮に向った。杉の喬木もあって中々に自然が濃い。途中御舟石があり、かえる岩からの道が合流する。西の宮に着いた。この社殿の千木は外削ぎで男神である。オオウスノミコトは男性である。これは理解できた。長い急な石段を下ると車道であった。今日は武田道はパスして車道を下った。
武田道とは武田信玄のつくった道???と誤解していたが武田王がいる。ヤマトタケルの皇子というが良く分からない。
東の宮、西の宮はともに南西に位置する伊勢神宮の方向を向いているように建てられていると思った。その延長線上にアマテラスの胞を埋めたという恵那山がある。ほぼ一直線になる。
広沢川は花崗岩の美しい沢だった。ただ魚影はない。魚のいない川は淋しいのでニジマスでも放流して欲しい。途中に武田道という大きな看板のある道標を見た。これが入り口らしい。長い林道を歩いてやっと広沢天神に戻った。約7時間超の長い山歩きを満喫した。
帰路は山麓の桃畑を通り抜けて、猿投駅に同行者を送り、その足で長久手市のござらっせ温泉に入湯した。今日は少し膝に痛みが走る。寒いせいもあろうか。温まって少しでも緩和したい。小さな気泡の温泉は効能があるような気がするからだ。外へ出るとまだ明るい。
永き日や猿投山麓桃畑
猿投山~森と人間の文化再考 ― 2018年03月12日
昨日の猿投山の下山は広沢川の車道を下った。広沢川は三角点からも流れるが最高点即ち東の宮や西の宮からも流れる。歴史的には最高点だけが重要であっただろう。猿投川は最高点が源流になる。中流に猿投神社がある。
1等三角点は明治時代になってからの埋設である。測量のためとはいえ境内を避けるのは当然であった。多分伐採が許されなかったであろうと推測は立つ。神域は清浄でなければならかった。
広沢川も猿投川も水がきれいであった。花崗岩の沢は一般的にきれいである。ところが魚影が一切見当たらない。そこで表題の言葉に思いを致す。渓流魚系の魚種がいても不思議ではない。
ぐぐって見たら次ぎのデータがヒットした。
「広沢川流域における水源林総合調査」
General research of the woodland in stream sourse area at the Hirosawa basin 洲崎 燈子 Toko SUZAKI」によると
「小型動物の生息環境」
今回の調査結果から得られた土壌動物の個体数は,文献値と比較してかなり少なかった(新島・伊藤,1996).原因は不明である.
水質は良好だったが,水生生物相も貧弱だった.広葉樹林の D 1では,河川河床に露出した礫層が水生昆虫に多様な生息環境を提出していたため,他地点と比べ水生昆虫相が豊富になったと考えられる.魚類がほとんど確認できなかった原因は不明である.数地点に設けられている砂防ダムの影響もある」とする。
「林と人の関わりの変化」
「広沢川は猿投山麓を流れる渓流だが,歴史をたどると人の暮しとの関わりがきわめて深い川であることがわかった.このことを反映して,広沢川沿いにはこの地域の河川上流域でよくみられるケヤキのような河辺の樹木がほとんどなく,植栽されたスギ,ヒノキ,竹類,あるいは里山の代表的な種であるコナラなどの優占する林が広がっていた.
しかしここで見られるコナラ林が,定期的な伐採と萌芽再生によって維持されてきた典型的な里山林だったかというとそうではない.前述のように,1960年代までもっとも広い面積を占めていたのがアカマツ林だった.
アカマツは貧栄養で水分条件の悪い土地にもよく育ち,過度の伐採を受けても速やかに種子から再生することができる樹種である上に,火力が強く,窯業に用いるのに適していた(豊原,1988).
このアカマツ林が,1980年代以降全国に広がった松枯れによって衰退し,その後コナラ林に置き替わったものだと考えられる.
1960年代まで,アカマツは薪炭として,スギやヒノキは用材として利用されてきた.図 10に見られる 1960年代の天然林の面積減少は,アカマツが盛んに伐りだされていたことを反映しているのであろう.
しかし 1960~70年代の高度経済成長期における燃料革命,外材の輸入量の増加といった要因により,里山や植林地で伐採が行われなくなった.これは全国的な傾向である.
広沢川周辺の 1965年以降の森林面積の変化は確認できなかったが,部分的に禿山だった状態から,斜面が全て森林に覆われるまでに回復したことが聞き取り調査から明らかになった.
過度の伐採から開放され,森林面積は拡大してきたが,それと同時に,身近な自然に関する評価や関心は低下してきた.このことは,人間の生活環境の悪化とも密接に関わっている.広沢川ではかつて河川水のみならず,岩石や薪炭材といった生産物も流域住民の生活を支えてきた.このような過去を踏まえ,回復した河辺の森林を水源林として,また生物の生息環境として良好な状態にしていかなくてはならない.
要 約
1)豊田市内猿投町の広沢川で林の組成や構造と土壌の保水力の関係を調べた.調査地の環境を総合的に把握するため,補足的に土壌動物,水生生物,河川水の水質などについても調査した.調査地周辺の利用史についても調査を行い,これらの結果から,今後源流域の森林を整備するにあたって留意すべき点について考察した.
2)表層土壌の終期浸透能は広葉樹の本数や胸高断面積値が増加するほど高くなり,逆に針葉樹の本数や胸高断面積値が増加するほど低くなった.落葉広葉樹の胸高断面積値が高いほど,夏季に林内が明るくなる傾向があり,林内の光環境と終期浸透能の間に関係がある可能性も示された.
3)土壌動物の個体数は文献値と比較して少なく,河川の水質は良好だったが水生昆虫相および魚類相は貧弱であった.
4)広沢川流域の林木や岩石はさまざまな用途で人に利用されてきたが,現在は人との関わりが少なくなった.今後はかつての禿山から回復した森林を,水源林としても生物の生息環境としても良好な状態にするための管理手法を考えていく必要がある.」
以上
そういうことだったのだ。余りにも過度の利用で疲弊してしまったのだ。水清ければ魚棲まず、というのはつい最近になって回復した自然であった。魚が棲む環境ではなかった。しかし今は違う。
以前は報告書の通り、薪炭林として利用され、そのために砂礫が露出して荒れた。『分県登山ガイド 愛知県の山』の旧版のコラムに書いておいた営林署職員の詩に「黄色女体」とまで表現されたはげ山の姿があった。これは「瀬戸層群」という詩だった。
瀬戸層群 名古屋営林局 牧野道幸
芸術や生活があんまり健啖であったので
緑の丘は食い尽くされてしまい
七百年の間
黒い煙が陶器の誇りを守ったにしても
あそこもここも
山の河原が眩しい日照りだ
ぼうぼう光る一画の粘土の層面には
植物化石が日を浴びて
見上げるドームは黄色女体
『年間詩集 Poetcar Works』 名古屋営林局詩の会 昭和27年3月発行
『分県登山ガイド 愛知県の山』P104コラム①「猿投の森を歩く」に引用
猿投山の三角点から最高点にかけて歩くと喬木があるにはあるが稜線だけだった。ちょっと下ると杉や桧の純林即ち人工植林に変わる。むしろ東大演習林の方が植生が豊かである。演習林内でも魚は見なかった。
今回発見したことは単純な林層では生物多様性はないことだった。
1冊の本を思い出した。JAC東海支部が愛知県から猿投山の北面の県有林を借りて取り組む猿投の森事業があり、理論的指導者であった只木良也氏の著書『森の文化史』のキャッチコピーは
「太古、豊かな照葉樹林に囲まれていた日本列島。しかし二千年前の登呂遺跡から出土した木製品はスギ材にかわり、現在の白砂青松はさらなる森の荒廃を証明している。日本の環境破壊は弥生時代に起こっていた——。「森の文化」と呼ばれるわが国で、人びとは森林とどのように接してきたのか。そしてその先に見えてくる、文明と自然の共生関係とは何か。」
『森と人間の文化史』のキャッチコピーは
「森を知れば人間の将来が見えてくる。
森の役割をグローバルな視点で捉える!
1988年刊行の『NHKブックス 森と人間の文化史』に加筆、修正を加えた、新たな時代への提言。
森を守ることは人間を守ること
森は太陽の恵みを受けて、地球上のすべての生命活動を支えるとともに、人間の心に繊細で穏やかな情緒を育んできた。
森林の成り立ちや、その果たす役割をグローバルな視点で描き、文明の母といわれる森と人間の深いかかわりを辿りながら、森の存在が人間にとっていかに“かけがえのない”ものであるかを詳らかにする。」
猿投山の再生はまだまだこれからだ。二書のキャッチコピーにヒントがある。東大演習林の自然林を参考林にして広沢川の源流部の再生をプランしてみたらどうか。源流部の荒れた林道を見ると桧や杉の保水力のなさは如何ともし難い。
伐採したままだと日本では松の木しか生えないそうだ。大陸では砂漠化する。後は野となれ砂漠になれである。朝鮮半島の山でも併合した頃ははげ山だった。朝鮮半島は花崗岩だそうだ。そこに植栽をすすめて緑の山にした。植栽は文化である。
1等三角点は明治時代になってからの埋設である。測量のためとはいえ境内を避けるのは当然であった。多分伐採が許されなかったであろうと推測は立つ。神域は清浄でなければならかった。
広沢川も猿投川も水がきれいであった。花崗岩の沢は一般的にきれいである。ところが魚影が一切見当たらない。そこで表題の言葉に思いを致す。渓流魚系の魚種がいても不思議ではない。
ぐぐって見たら次ぎのデータがヒットした。
「広沢川流域における水源林総合調査」
General research of the woodland in stream sourse area at the Hirosawa basin 洲崎 燈子 Toko SUZAKI」によると
「小型動物の生息環境」
今回の調査結果から得られた土壌動物の個体数は,文献値と比較してかなり少なかった(新島・伊藤,1996).原因は不明である.
水質は良好だったが,水生生物相も貧弱だった.広葉樹林の D 1では,河川河床に露出した礫層が水生昆虫に多様な生息環境を提出していたため,他地点と比べ水生昆虫相が豊富になったと考えられる.魚類がほとんど確認できなかった原因は不明である.数地点に設けられている砂防ダムの影響もある」とする。
「林と人の関わりの変化」
「広沢川は猿投山麓を流れる渓流だが,歴史をたどると人の暮しとの関わりがきわめて深い川であることがわかった.このことを反映して,広沢川沿いにはこの地域の河川上流域でよくみられるケヤキのような河辺の樹木がほとんどなく,植栽されたスギ,ヒノキ,竹類,あるいは里山の代表的な種であるコナラなどの優占する林が広がっていた.
しかしここで見られるコナラ林が,定期的な伐採と萌芽再生によって維持されてきた典型的な里山林だったかというとそうではない.前述のように,1960年代までもっとも広い面積を占めていたのがアカマツ林だった.
アカマツは貧栄養で水分条件の悪い土地にもよく育ち,過度の伐採を受けても速やかに種子から再生することができる樹種である上に,火力が強く,窯業に用いるのに適していた(豊原,1988).
このアカマツ林が,1980年代以降全国に広がった松枯れによって衰退し,その後コナラ林に置き替わったものだと考えられる.
1960年代まで,アカマツは薪炭として,スギやヒノキは用材として利用されてきた.図 10に見られる 1960年代の天然林の面積減少は,アカマツが盛んに伐りだされていたことを反映しているのであろう.
しかし 1960~70年代の高度経済成長期における燃料革命,外材の輸入量の増加といった要因により,里山や植林地で伐採が行われなくなった.これは全国的な傾向である.
広沢川周辺の 1965年以降の森林面積の変化は確認できなかったが,部分的に禿山だった状態から,斜面が全て森林に覆われるまでに回復したことが聞き取り調査から明らかになった.
過度の伐採から開放され,森林面積は拡大してきたが,それと同時に,身近な自然に関する評価や関心は低下してきた.このことは,人間の生活環境の悪化とも密接に関わっている.広沢川ではかつて河川水のみならず,岩石や薪炭材といった生産物も流域住民の生活を支えてきた.このような過去を踏まえ,回復した河辺の森林を水源林として,また生物の生息環境として良好な状態にしていかなくてはならない.
要 約
1)豊田市内猿投町の広沢川で林の組成や構造と土壌の保水力の関係を調べた.調査地の環境を総合的に把握するため,補足的に土壌動物,水生生物,河川水の水質などについても調査した.調査地周辺の利用史についても調査を行い,これらの結果から,今後源流域の森林を整備するにあたって留意すべき点について考察した.
2)表層土壌の終期浸透能は広葉樹の本数や胸高断面積値が増加するほど高くなり,逆に針葉樹の本数や胸高断面積値が増加するほど低くなった.落葉広葉樹の胸高断面積値が高いほど,夏季に林内が明るくなる傾向があり,林内の光環境と終期浸透能の間に関係がある可能性も示された.
3)土壌動物の個体数は文献値と比較して少なく,河川の水質は良好だったが水生昆虫相および魚類相は貧弱であった.
4)広沢川流域の林木や岩石はさまざまな用途で人に利用されてきたが,現在は人との関わりが少なくなった.今後はかつての禿山から回復した森林を,水源林としても生物の生息環境としても良好な状態にするための管理手法を考えていく必要がある.」
以上
そういうことだったのだ。余りにも過度の利用で疲弊してしまったのだ。水清ければ魚棲まず、というのはつい最近になって回復した自然であった。魚が棲む環境ではなかった。しかし今は違う。
以前は報告書の通り、薪炭林として利用され、そのために砂礫が露出して荒れた。『分県登山ガイド 愛知県の山』の旧版のコラムに書いておいた営林署職員の詩に「黄色女体」とまで表現されたはげ山の姿があった。これは「瀬戸層群」という詩だった。
瀬戸層群 名古屋営林局 牧野道幸
芸術や生活があんまり健啖であったので
緑の丘は食い尽くされてしまい
七百年の間
黒い煙が陶器の誇りを守ったにしても
あそこもここも
山の河原が眩しい日照りだ
ぼうぼう光る一画の粘土の層面には
植物化石が日を浴びて
見上げるドームは黄色女体
『年間詩集 Poetcar Works』 名古屋営林局詩の会 昭和27年3月発行
『分県登山ガイド 愛知県の山』P104コラム①「猿投の森を歩く」に引用
猿投山の三角点から最高点にかけて歩くと喬木があるにはあるが稜線だけだった。ちょっと下ると杉や桧の純林即ち人工植林に変わる。むしろ東大演習林の方が植生が豊かである。演習林内でも魚は見なかった。
今回発見したことは単純な林層では生物多様性はないことだった。
1冊の本を思い出した。JAC東海支部が愛知県から猿投山の北面の県有林を借りて取り組む猿投の森事業があり、理論的指導者であった只木良也氏の著書『森の文化史』のキャッチコピーは
「太古、豊かな照葉樹林に囲まれていた日本列島。しかし二千年前の登呂遺跡から出土した木製品はスギ材にかわり、現在の白砂青松はさらなる森の荒廃を証明している。日本の環境破壊は弥生時代に起こっていた——。「森の文化」と呼ばれるわが国で、人びとは森林とどのように接してきたのか。そしてその先に見えてくる、文明と自然の共生関係とは何か。」
『森と人間の文化史』のキャッチコピーは
「森を知れば人間の将来が見えてくる。
森の役割をグローバルな視点で捉える!
1988年刊行の『NHKブックス 森と人間の文化史』に加筆、修正を加えた、新たな時代への提言。
森を守ることは人間を守ること
森は太陽の恵みを受けて、地球上のすべての生命活動を支えるとともに、人間の心に繊細で穏やかな情緒を育んできた。
森林の成り立ちや、その果たす役割をグローバルな視点で描き、文明の母といわれる森と人間の深いかかわりを辿りながら、森の存在が人間にとっていかに“かけがえのない”ものであるかを詳らかにする。」
猿投山の再生はまだまだこれからだ。二書のキャッチコピーにヒントがある。東大演習林の自然林を参考林にして広沢川の源流部の再生をプランしてみたらどうか。源流部の荒れた林道を見ると桧や杉の保水力のなさは如何ともし難い。
伐採したままだと日本では松の木しか生えないそうだ。大陸では砂漠化する。後は野となれ砂漠になれである。朝鮮半島の山でも併合した頃ははげ山だった。朝鮮半島は花崗岩だそうだ。そこに植栽をすすめて緑の山にした。植栽は文化である。
幸福学を受講 ― 2018年03月13日
朝早く6時半に自宅を出てクラブ愛知の会合に出席。今日の講師は愛知大学法科大学院長の伊藤博文(いとうひろぶみ)氏を迎えて、まず同学の司法試験合格率の上位にあることの苦労話をさくっと話された。
続いて本題の「幸福学」の講義を拝聴した。ふわっとした幸福を科学的に解明しようとする学問であるとのこと。ハーバード大学の教授が創案したとか。
最後の質疑で、教授はユダヤ人かと聞いたらそうだとのこと。ハーバード大学教授の60%はユダヤ人だそうだ。
それに何より、幸福のような主観的な課題を科学するという発想が、科学的社会主義そして共産主義を発案したユダヤ人らしい。社会主義はマルクス以前は空想的社会主義(武者小路実篤の新しき村など)と言った。
国際共通語のエスペラントもポーランドの歯科医だったザメンホフの考案であり、彼もユダヤ人だった。EUを発案した人もユダヤ人である。ユダヤ人は流浪の民族ゆえ、グローバルであることがメリットである。
共産主義は=グローバリズムである。
万国の労働者が立ちあがって暴力で革命を起こし旧制を倒した。そして共和制の国家にしたというが実はユダヤ人が皇帝などを殺害して社会の中枢を握った。
ロシア革命というのはユダヤ・クーデターと言われる。ワイマール共和国もワイマール憲法もユダヤ人が深く関与した。ドイツ人がこれに不満を持ち、ヒトラーが政権を握る。そして授権法を成立させる。議会制民主主義でもいつの間にか独裁体制になって行った。(麻生副総理はこれをポロっとしゃべった。)
ユダヤ人は知恵者であるがどこか抜けてもいる。賢すぎて大衆心理が分からないのだ。
日本人には幸福学なんて概念はもとよりないと思われる。
またhappinessは幸福と翻訳したのは誰であろうか。
伊藤先生曰く、日本語の幸福はwell-beingがふさわしいとも言われた。
「ウェルビーイング」(well-being)とは、身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを意味する概念で、「幸福」と翻訳されることも多い言葉です。1946年の世界保健機関(WHO)憲章の草案の中で、「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態(well-being)にあることをいいます(日本WHO協会:訳)」
かつて西周がphilosophyに哲学という造語を当てて翻訳した。今では哲学が独り歩きして例えば経営哲学とか登山の哲学とか、本来の概念から外れた言い回しになってしまった。
コトバンクには「…〈哲学〉という言葉は,明治初年の段階で,西周(にしあまね)によって,英語の〈フィロソフィーphilosophy〉の訳語として作られた。〈フィロソフィー〉は,ギリシア語の〈フィロソフィアphilosophia〉に由来し,〈知恵(ソフィアsophia)を愛する(フィレインphilein)〉という意味の言葉である。」と説明される。
このように幸福と云う言葉(漢語)も突き詰めると違った意味になるだろう。大和言葉では幸せと書く。定義は中々に微妙である。民法の先生がなんで幸福学を研究するのか。たまには遊びたいのだろうか。
続いて本題の「幸福学」の講義を拝聴した。ふわっとした幸福を科学的に解明しようとする学問であるとのこと。ハーバード大学の教授が創案したとか。
最後の質疑で、教授はユダヤ人かと聞いたらそうだとのこと。ハーバード大学教授の60%はユダヤ人だそうだ。
それに何より、幸福のような主観的な課題を科学するという発想が、科学的社会主義そして共産主義を発案したユダヤ人らしい。社会主義はマルクス以前は空想的社会主義(武者小路実篤の新しき村など)と言った。
国際共通語のエスペラントもポーランドの歯科医だったザメンホフの考案であり、彼もユダヤ人だった。EUを発案した人もユダヤ人である。ユダヤ人は流浪の民族ゆえ、グローバルであることがメリットである。
共産主義は=グローバリズムである。
万国の労働者が立ちあがって暴力で革命を起こし旧制を倒した。そして共和制の国家にしたというが実はユダヤ人が皇帝などを殺害して社会の中枢を握った。
ロシア革命というのはユダヤ・クーデターと言われる。ワイマール共和国もワイマール憲法もユダヤ人が深く関与した。ドイツ人がこれに不満を持ち、ヒトラーが政権を握る。そして授権法を成立させる。議会制民主主義でもいつの間にか独裁体制になって行った。(麻生副総理はこれをポロっとしゃべった。)
ユダヤ人は知恵者であるがどこか抜けてもいる。賢すぎて大衆心理が分からないのだ。
日本人には幸福学なんて概念はもとよりないと思われる。
またhappinessは幸福と翻訳したのは誰であろうか。
伊藤先生曰く、日本語の幸福はwell-beingがふさわしいとも言われた。
「ウェルビーイング」(well-being)とは、身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを意味する概念で、「幸福」と翻訳されることも多い言葉です。1946年の世界保健機関(WHO)憲章の草案の中で、「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態(well-being)にあることをいいます(日本WHO協会:訳)」
かつて西周がphilosophyに哲学という造語を当てて翻訳した。今では哲学が独り歩きして例えば経営哲学とか登山の哲学とか、本来の概念から外れた言い回しになってしまった。
コトバンクには「…〈哲学〉という言葉は,明治初年の段階で,西周(にしあまね)によって,英語の〈フィロソフィーphilosophy〉の訳語として作られた。〈フィロソフィー〉は,ギリシア語の〈フィロソフィアphilosophia〉に由来し,〈知恵(ソフィアsophia)を愛する(フィレインphilein)〉という意味の言葉である。」と説明される。
このように幸福と云う言葉(漢語)も突き詰めると違った意味になるだろう。大和言葉では幸せと書く。定義は中々に微妙である。民法の先生がなんで幸福学を研究するのか。たまには遊びたいのだろうか。
鶴舞動物園の「龍」は「瀧」か? ― 2018年03月14日
今朝は暖かい。そのせいかマンションの窓から見える猿投山も霞んでいる。空も白っぽく典型的な春霞である。
冬はもうすぐ過ぎてゆく。ただ空ぜきが相変わらずひどい。おまけに昨日は花粉が飛んだのか鼻がむずむずしてくしゃみも出る。咳こむわくしゃみやらで忙しい。
読売新聞の朝刊に面白い。名古屋市営動物園100周年を振り返る記事に鶴舞時代があったという話。その中で園舎の配置図に熊舎があり北西の「龍」の文字が意味不明で、名古屋何でも調査団が3/17から情報提供を呼びかけるという。
面白い話なので、「鶴舞 動物園」でググるとundaer zeroがヒット。その中に新聞よりも広範囲の地図がある。新聞では確かに龍であるが、こちらでは瀧に見える。そこでダウンロードして拡大してみたが三ズイが分かる。園内の庭園に瀧が設けられたのだろうか。
後考えられるのは十二支の動物には方角を示す意味がある。かつて南紀の子ノ泊山の由来を調べたことがあった。結果は熊野灘を航行する船の燈台代わりの山で北の方角を意味した。その山の方角に向えば港に行けるのだった。
すると龍は南東である。ペリカン舎からは南東になる。益々意味不明になった。新聞記事は長老級の市民に写真、思い出話や記憶を期待している。
冬はもうすぐ過ぎてゆく。ただ空ぜきが相変わらずひどい。おまけに昨日は花粉が飛んだのか鼻がむずむずしてくしゃみも出る。咳こむわくしゃみやらで忙しい。
読売新聞の朝刊に面白い。名古屋市営動物園100周年を振り返る記事に鶴舞時代があったという話。その中で園舎の配置図に熊舎があり北西の「龍」の文字が意味不明で、名古屋何でも調査団が3/17から情報提供を呼びかけるという。
面白い話なので、「鶴舞 動物園」でググるとundaer zeroがヒット。その中に新聞よりも広範囲の地図がある。新聞では確かに龍であるが、こちらでは瀧に見える。そこでダウンロードして拡大してみたが三ズイが分かる。園内の庭園に瀧が設けられたのだろうか。
後考えられるのは十二支の動物には方角を示す意味がある。かつて南紀の子ノ泊山の由来を調べたことがあった。結果は熊野灘を航行する船の燈台代わりの山で北の方角を意味した。その山の方角に向えば港に行けるのだった。
すると龍は南東である。ペリカン舎からは南東になる。益々意味不明になった。新聞記事は長老級の市民に写真、思い出話や記憶を期待している。
亀鳴くや見事天寿を全うす ― 2018年03月15日
3月14日未明死去とK氏から電話があった。山岳会では30年の長きにわたって交誼のあったO氏への追悼句。享年88歳。
亀鳴くは春の季語。「きごさい歳時記」http://kigosai.sub.jp/から
「春ののどかな昼、あるいは朧の夜に亀の鳴く声が聞こえるような気がする。亀は実際には鳴かないが、俳句の季語として親しまれている。『夫木和歌集』にある藤原為家の「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり」が典拠」
亀鳴くは春の季語。「きごさい歳時記」http://kigosai.sub.jp/から
「春ののどかな昼、あるいは朧の夜に亀の鳴く声が聞こえるような気がする。亀は実際には鳴かないが、俳句の季語として親しまれている。『夫木和歌集』にある藤原為家の「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり」が典拠」
西三河の2座をへめぐる ― 2018年03月19日
猿投山の北一色ルート2本
猿投山のバリルートの探索行シリーズである。正規のルートを歩くとあちこちから道が合わさる。その道にも好奇心が湧くから限がないほどである。今回は前回の最高点につながる赤テープがどこにつながっているのかの調査であった。地形図に破線のない豊田市北一色町の尾根を踏破してみた。1本は最高点の632mから北東に伸びる尾根を登りにとった。もう1本は最高点と三角点の間にある630mのピークから北東に伸びる尾根を下った。
北一色町へはR419から県道に左折。飯野川の手前で左折するとあとは1本道になる。奥深くまで走ると舗装が切れる。そこが終点になっているが、まだ未舗装の林道が二手に分かれる。
8:04.標高300mの地点にクルマを止めて向って右(南西)へ歩きだす。5分で林道が分かれるが左へ進む。8:11.すぐの終点に山の神の石碑が建っている。ここから渡渉して尾根に取り付く。しばらくはジグザグの急登が続く。8:17.450mの等高線の尾根に着く。ここからは薄い踏み跡をたどる。枝道があるが尾根通しに登る。周囲は桧の植林であるが常緑樹が混じり日がささず若干薄暗い。8:40.我慢して登るうちに先回の分岐に着いた。直進すれば分岐で左折して最高点になる。
今日は先回と反対に東尾根への巻道を歩いた。9:01.東尾根分岐に着く。左は東の宮の道標あり、東尾根を直進する。するとすぐに右へマーキングが目立つように見える。このルートが最高点への踏み跡だった。9:15登頂。下から約1時間強かかった。すぐに東の宮に下り、東海自然歩道を三角点に向う。地形図で630mの等高線の無名のピークに登る。良い踏み跡が続く。9:36.山頂にはベンチが設置されて展望台になっている。遠望は恵那山、左へ中ア、御嶽が並ぶらしい。
踏み跡は北東へ細々と続き赤テープやペンキなどのマーキングに助けられて沢の右岸に下った。堰堤工事のための林道の廃道を下った。地形図には水線も実線も描かれていないが堰堤の記号はある。実線のある林道と交わると右折。しばらくで車止めだった。10:15だった。
猿投山を登り終えるとまだ10時過ぎだった。帰名するには早過ぎるので、入湯と兼ねて曽良山へ向った。
小原町松名の俳人・杉田久女の婚家の句碑を再訪
R419を走る。松名の地名が懐かしい。数年前に俳句仲間と訪ねたことがある。それ以前にも何度も来たが、滅多に来れないので再訪する。歌舞伎門前のしだれ桜はまだ咲いていない。ちょっと右の白梅が盛りである。白は清浄な色である。久女の性格にふさわしい。
立派な歌舞伎門の通用口をくぐる。左に写真付きの説明板があった。昔は屋敷だったのだろう。今は更地になり石碑が建つ。その背後の桜はまだ一分咲きだった。
観音像が建つ。その横に「灌浴の浄法身を拝しける」の句碑。いつ来ても新しい花が活けてある。ファンがいるのだろう。さらに娘の石昌子の墓も建つ。
石昌子は『アルプス登攀記』の訳者の石一郎に嫁いだ。それだけに山歩きも楽しんだ。
久女はここ杉田家に嫁いだ。美術教師の夫にともない北九州へ赴任。英彦山に登って高浜虚子選に「谺して山ホトトギス欲しいまま」が入選。一躍名を知られた。
「花衣脱ぐやまつわる紐いろいろ」と女性の目線で佳吟を多く残した。夫宇内が将来は画家になるとの期待空しく「足袋つぐやノラともならず教師妻」と詠んで夫を怒らせた。ノラとはあるサイトから転載「イプセンの戯曲「人形の家」の女主人公。一個の独立した人間として生きようとする,新しい女性の典型とされた。 」
気位(プライド)の高い女性を妻にすると厄介なものだと思う。久女は俳句に人生をかけてゆく。宇内は優しく受け止めるが、56歳の若さで死去。晩年の宇内は久女の遺骨を抱いてまたここに戻った。そして猟師を趣味として生きる。杉田家の墓は少し奥にある。
曽良山に登る
曽良山は愛知県側は西山と呼ぶ2等三角点の山。西三河では最高峰になる。岐阜県側も昔はまだ整備されず、測量櫓の建つ素朴な山頂であった。
R419に戻り、岐阜県を目指す。途中県道354に左折。県境で県道11号になり、R363に合流。バーデンパークはすぐだ。曽木公園を右へ右折し、大草の山里にある曽良山の道標に従って山道を走ると舗装路の終点になる。先も走れそうだが未舗装で路面が荒れているので畑仕事の人に断ってここに置く。
11:55に出発。林道を道なりに歩くと3人連れとすれ違った。30人パーティだが足の故障で引き返したとの話。林道から分かれて広い山道を登る。途中で林道に3か所位寸断されている。山道が沢沿いの道になれば道標であと20分とか10分と出てくる。鞍部を経て右へ緩やかに登ると12:30.山頂だ。
眺望は左から猿投山、折平山、アンテナの林立する三国山である。12:45.休んだら元の道を戻った。バーデンパークに入湯して帰名した。
猿投神社に寄る
気になっていたのは東の宮の社殿の千木の内削ぎのこと。里宮はどうなっているのか見ると内削ぎになっている。売店の女性に聞くと年代によって違うとのこと。内削ぎは女性神、外削ぎは男性神という決まりはないそうだ。
猿投山のバリルートの探索行シリーズである。正規のルートを歩くとあちこちから道が合わさる。その道にも好奇心が湧くから限がないほどである。今回は前回の最高点につながる赤テープがどこにつながっているのかの調査であった。地形図に破線のない豊田市北一色町の尾根を踏破してみた。1本は最高点の632mから北東に伸びる尾根を登りにとった。もう1本は最高点と三角点の間にある630mのピークから北東に伸びる尾根を下った。
北一色町へはR419から県道に左折。飯野川の手前で左折するとあとは1本道になる。奥深くまで走ると舗装が切れる。そこが終点になっているが、まだ未舗装の林道が二手に分かれる。
8:04.標高300mの地点にクルマを止めて向って右(南西)へ歩きだす。5分で林道が分かれるが左へ進む。8:11.すぐの終点に山の神の石碑が建っている。ここから渡渉して尾根に取り付く。しばらくはジグザグの急登が続く。8:17.450mの等高線の尾根に着く。ここからは薄い踏み跡をたどる。枝道があるが尾根通しに登る。周囲は桧の植林であるが常緑樹が混じり日がささず若干薄暗い。8:40.我慢して登るうちに先回の分岐に着いた。直進すれば分岐で左折して最高点になる。
今日は先回と反対に東尾根への巻道を歩いた。9:01.東尾根分岐に着く。左は東の宮の道標あり、東尾根を直進する。するとすぐに右へマーキングが目立つように見える。このルートが最高点への踏み跡だった。9:15登頂。下から約1時間強かかった。すぐに東の宮に下り、東海自然歩道を三角点に向う。地形図で630mの等高線の無名のピークに登る。良い踏み跡が続く。9:36.山頂にはベンチが設置されて展望台になっている。遠望は恵那山、左へ中ア、御嶽が並ぶらしい。
踏み跡は北東へ細々と続き赤テープやペンキなどのマーキングに助けられて沢の右岸に下った。堰堤工事のための林道の廃道を下った。地形図には水線も実線も描かれていないが堰堤の記号はある。実線のある林道と交わると右折。しばらくで車止めだった。10:15だった。
猿投山を登り終えるとまだ10時過ぎだった。帰名するには早過ぎるので、入湯と兼ねて曽良山へ向った。
小原町松名の俳人・杉田久女の婚家の句碑を再訪
R419を走る。松名の地名が懐かしい。数年前に俳句仲間と訪ねたことがある。それ以前にも何度も来たが、滅多に来れないので再訪する。歌舞伎門前のしだれ桜はまだ咲いていない。ちょっと右の白梅が盛りである。白は清浄な色である。久女の性格にふさわしい。
立派な歌舞伎門の通用口をくぐる。左に写真付きの説明板があった。昔は屋敷だったのだろう。今は更地になり石碑が建つ。その背後の桜はまだ一分咲きだった。
観音像が建つ。その横に「灌浴の浄法身を拝しける」の句碑。いつ来ても新しい花が活けてある。ファンがいるのだろう。さらに娘の石昌子の墓も建つ。
石昌子は『アルプス登攀記』の訳者の石一郎に嫁いだ。それだけに山歩きも楽しんだ。
久女はここ杉田家に嫁いだ。美術教師の夫にともない北九州へ赴任。英彦山に登って高浜虚子選に「谺して山ホトトギス欲しいまま」が入選。一躍名を知られた。
「花衣脱ぐやまつわる紐いろいろ」と女性の目線で佳吟を多く残した。夫宇内が将来は画家になるとの期待空しく「足袋つぐやノラともならず教師妻」と詠んで夫を怒らせた。ノラとはあるサイトから転載「イプセンの戯曲「人形の家」の女主人公。一個の独立した人間として生きようとする,新しい女性の典型とされた。 」
気位(プライド)の高い女性を妻にすると厄介なものだと思う。久女は俳句に人生をかけてゆく。宇内は優しく受け止めるが、56歳の若さで死去。晩年の宇内は久女の遺骨を抱いてまたここに戻った。そして猟師を趣味として生きる。杉田家の墓は少し奥にある。
曽良山に登る
曽良山は愛知県側は西山と呼ぶ2等三角点の山。西三河では最高峰になる。岐阜県側も昔はまだ整備されず、測量櫓の建つ素朴な山頂であった。
R419に戻り、岐阜県を目指す。途中県道354に左折。県境で県道11号になり、R363に合流。バーデンパークはすぐだ。曽木公園を右へ右折し、大草の山里にある曽良山の道標に従って山道を走ると舗装路の終点になる。先も走れそうだが未舗装で路面が荒れているので畑仕事の人に断ってここに置く。
11:55に出発。林道を道なりに歩くと3人連れとすれ違った。30人パーティだが足の故障で引き返したとの話。林道から分かれて広い山道を登る。途中で林道に3か所位寸断されている。山道が沢沿いの道になれば道標であと20分とか10分と出てくる。鞍部を経て右へ緩やかに登ると12:30.山頂だ。
眺望は左から猿投山、折平山、アンテナの林立する三国山である。12:45.休んだら元の道を戻った。バーデンパークに入湯して帰名した。
猿投神社に寄る
気になっていたのは東の宮の社殿の千木の内削ぎのこと。里宮はどうなっているのか見ると内削ぎになっている。売店の女性に聞くと年代によって違うとのこと。内削ぎは女性神、外削ぎは男性神という決まりはないそうだ。
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