猿投山の広沢西尾根を歩く2018年03月12日

 6:45天白を出て県道58号を走り猿投駅前には7:20着。同行者は7:30合流する。県道を戻り広沢川に沿う車道に入る。一車線の狭い道である。奥の山家を過ぎると広沢天神のPに着いた。猿投山の案内図が立っている。ここは猿投神社とも山道で結んでいる。広沢天神は小じんまりした神社であった。
 広沢天神の傍の白梅が咲いて春を告げる。
 Pは朝8時5分に出発。慎ましい祠を左に見やりながら植林の道に入る。良く踏まれた山道であるので不安なく歩ける。里山にふさわしく微地形の尾根のアップダウンをくりかえす。有志らが整備したんだろう。小さなコブには巻道もついて丁寧なことだ。45分も歩いただろうか。三等三角点猿投2(加納山)309.4mに着いた。若干は見晴らしがある。
 春霞でぼんやりと見えたのは右六所山と左焙烙山であった。
 ここからもやや細い尾根をくねくね曲がりアップダウンをくりかえす。周囲の植生は人工林からいつの間にか自然林に変わっていた。南向きの尾根にはシダ類が繁茂し、照葉樹林がびっしり生えている。冬でも緑緑している。但し、落葉樹の林と違い何も見通せない。落葉も肉厚である。滑落しないように踏みしめて歩く。
 標高が350m、400mとあがると植生がしっかりしてきた。日がささないから林床は地肌が見えている。尾根も太くなり、道幅も広がった。1台のマウンテンバイクとすれ違った。遠くからはモクロスバイクの爆音が聞こえてくる。松の木が増えたと思ったらちょっとしたピークに立った。この手前に右手に分かれる踏み跡もあったが、左へ振った。ピークからは左へ振った。踏み跡があるにはあるのだが踏まれていない。今までと突然違うので引き返し、ピークに立って真下に林道が見えた。先程の分岐で右へ振っても良いが直進して強引に林道に降り立った。林道を右へ戻ると踏み跡が尾根へ続いている。ようやくの想いで豊田市と瀬戸市の市界(尾三国境)に着いた。大きな鉄塔が立っている。しばらくで赤猿峠だった。
 マンサクの花が咲き、遅い春を告げている。
 ちょっと休んで最後の登りになった。さっきまでの道と違い、断然ハイカーが増えた。いつ来ても多い。
 峠のすぐ近くのコブに立った。ここからは春霞の尾張野が見えた。遠くの頭だけ白い山は何だろうか。
 山頂まで一気に登って昼食。昨夜テルモスに入れておいた熱湯がまだ熱い。寒い日にはさ湯でもありがたい。寒いので羽毛ジャケットを着てかつ雨具も上着にした。
 また歩き出す。尾根への踏み跡があったので登ってみるとただのピークで見晴らしが良かった。なおも踏み跡が続いたが北一色に下るので山腹の踏み跡を東海自然歩道に戻った。最高点への正しい踏み跡をたどるとすぐに632mへ登った。先週の逆である。
 最高点からはすぐに東の宮に下った。せっかくなので参拝した。社殿の屋根を仰ぐと千木が交錯する。この千木は内削ぎであった。すなわち女神の意味である。本宮の猿投神社の主祭神はオオウスノミコト、景行天皇、垂仁天皇でみな男神である。謎が残る。
 東の宮を後にして自然観察路を下って西の宮に向った。杉の喬木もあって中々に自然が濃い。途中御舟石があり、かえる岩からの道が合流する。西の宮に着いた。この社殿の千木は外削ぎで男神である。オオウスノミコトは男性である。これは理解できた。長い急な石段を下ると車道であった。今日は武田道はパスして車道を下った。
 武田道とは武田信玄のつくった道???と誤解していたが武田王がいる。ヤマトタケルの皇子というが良く分からない。
 東の宮、西の宮はともに南西に位置する伊勢神宮の方向を向いているように建てられていると思った。その延長線上にアマテラスの胞を埋めたという恵那山がある。ほぼ一直線になる。
 広沢川は花崗岩の美しい沢だった。ただ魚影はない。魚のいない川は淋しいのでニジマスでも放流して欲しい。途中に武田道という大きな看板のある道標を見た。これが入り口らしい。長い林道を歩いてやっと広沢天神に戻った。約7時間超の長い山歩きを満喫した。
 帰路は山麓の桃畑を通り抜けて、猿投駅に同行者を送り、その足で長久手市のござらっせ温泉に入湯した。今日は少し膝に痛みが走る。寒いせいもあろうか。温まって少しでも緩和したい。小さな気泡の温泉は効能があるような気がするからだ。外へ出るとまだ明るい。
  永き日や猿投山麓桃畑

猿投山~森と人間の文化再考2018年03月12日

 昨日の猿投山の下山は広沢川の車道を下った。広沢川は三角点からも流れるが最高点即ち東の宮や西の宮からも流れる。歴史的には最高点だけが重要であっただろう。猿投川は最高点が源流になる。中流に猿投神社がある。
 1等三角点は明治時代になってからの埋設である。測量のためとはいえ境内を避けるのは当然であった。多分伐採が許されなかったであろうと推測は立つ。神域は清浄でなければならかった。
 広沢川も猿投川も水がきれいであった。花崗岩の沢は一般的にきれいである。ところが魚影が一切見当たらない。そこで表題の言葉に思いを致す。渓流魚系の魚種がいても不思議ではない。
 ぐぐって見たら次ぎのデータがヒットした。
 「広沢川流域における水源林総合調査」
General research of the woodland in stream sourse area at the Hirosawa basin 洲崎 燈子 Toko SUZAKI」によると
「小型動物の生息環境」

 今回の調査結果から得られた土壌動物の個体数は,文献値と比較してかなり少なかった(新島・伊藤,1996).原因は不明である.
 水質は良好だったが,水生生物相も貧弱だった.広葉樹林の D 1では,河川河床に露出した礫層が水生昆虫に多様な生息環境を提出していたため,他地点と比べ水生昆虫相が豊富になったと考えられる.魚類がほとんど確認できなかった原因は不明である.数地点に設けられている砂防ダムの影響もある」とする。

 「林と人の関わりの変化」
 「広沢川は猿投山麓を流れる渓流だが,歴史をたどると人の暮しとの関わりがきわめて深い川であることがわかった.このことを反映して,広沢川沿いにはこの地域の河川上流域でよくみられるケヤキのような河辺の樹木がほとんどなく,植栽されたスギ,ヒノキ,竹類,あるいは里山の代表的な種であるコナラなどの優占する林が広がっていた.
 しかしここで見られるコナラ林が,定期的な伐採と萌芽再生によって維持されてきた典型的な里山林だったかというとそうではない.前述のように,1960年代までもっとも広い面積を占めていたのがアカマツ林だった.
 アカマツは貧栄養で水分条件の悪い土地にもよく育ち,過度の伐採を受けても速やかに種子から再生することができる樹種である上に,火力が強く,窯業に用いるのに適していた(豊原,1988).
 このアカマツ林が,1980年代以降全国に広がった松枯れによって衰退し,その後コナラ林に置き替わったものだと考えられる.
 1960年代まで,アカマツは薪炭として,スギやヒノキは用材として利用されてきた.図 10に見られる 1960年代の天然林の面積減少は,アカマツが盛んに伐りだされていたことを反映しているのであろう.
 しかし 1960~70年代の高度経済成長期における燃料革命,外材の輸入量の増加といった要因により,里山や植林地で伐採が行われなくなった.これは全国的な傾向である.
 広沢川周辺の 1965年以降の森林面積の変化は確認できなかったが,部分的に禿山だった状態から,斜面が全て森林に覆われるまでに回復したことが聞き取り調査から明らかになった.
 過度の伐採から開放され,森林面積は拡大してきたが,それと同時に,身近な自然に関する評価や関心は低下してきた.このことは,人間の生活環境の悪化とも密接に関わっている.広沢川ではかつて河川水のみならず,岩石や薪炭材といった生産物も流域住民の生活を支えてきた.このような過去を踏まえ,回復した河辺の森林を水源林として,また生物の生息環境として良好な状態にしていかなくてはならない.
 要 約
1)豊田市内猿投町の広沢川で林の組成や構造と土壌の保水力の関係を調べた.調査地の環境を総合的に把握するため,補足的に土壌動物,水生生物,河川水の水質などについても調査した.調査地周辺の利用史についても調査を行い,これらの結果から,今後源流域の森林を整備するにあたって留意すべき点について考察した.

2)表層土壌の終期浸透能は広葉樹の本数や胸高断面積値が増加するほど高くなり,逆に針葉樹の本数や胸高断面積値が増加するほど低くなった.落葉広葉樹の胸高断面積値が高いほど,夏季に林内が明るくなる傾向があり,林内の光環境と終期浸透能の間に関係がある可能性も示された.

3)土壌動物の個体数は文献値と比較して少なく,河川の水質は良好だったが水生昆虫相および魚類相は貧弱であった.

4)広沢川流域の林木や岩石はさまざまな用途で人に利用されてきたが,現在は人との関わりが少なくなった.今後はかつての禿山から回復した森林を,水源林としても生物の生息環境としても良好な状態にするための管理手法を考えていく必要がある.」
以上
 そういうことだったのだ。余りにも過度の利用で疲弊してしまったのだ。水清ければ魚棲まず、というのはつい最近になって回復した自然であった。魚が棲む環境ではなかった。しかし今は違う。
 以前は報告書の通り、薪炭林として利用され、そのために砂礫が露出して荒れた。『分県登山ガイド 愛知県の山』の旧版のコラムに書いておいた営林署職員の詩に「黄色女体」とまで表現されたはげ山の姿があった。これは「瀬戸層群」という詩だった。

     瀬戸層群   名古屋営林局 牧野道幸
芸術や生活があんまり健啖であったので
緑の丘は食い尽くされてしまい
七百年の間
黒い煙が陶器の誇りを守ったにしても
あそこもここも
山の河原が眩しい日照りだ
ぼうぼう光る一画の粘土の層面には
植物化石が日を浴びて
見上げるドームは黄色女体

『年間詩集 Poetcar Works』 名古屋営林局詩の会 昭和27年3月発行
『分県登山ガイド 愛知県の山』P104コラム①「猿投の森を歩く」に引用

 猿投山の三角点から最高点にかけて歩くと喬木があるにはあるが稜線だけだった。ちょっと下ると杉や桧の純林即ち人工植林に変わる。むしろ東大演習林の方が植生が豊かである。演習林内でも魚は見なかった。
 今回発見したことは単純な林層では生物多様性はないことだった。
 1冊の本を思い出した。JAC東海支部が愛知県から猿投山の北面の県有林を借りて取り組む猿投の森事業があり、理論的指導者であった只木良也氏の著書『森の文化史』のキャッチコピーは
「太古、豊かな照葉樹林に囲まれていた日本列島。しかし二千年前の登呂遺跡から出土した木製品はスギ材にかわり、現在の白砂青松はさらなる森の荒廃を証明している。日本の環境破壊は弥生時代に起こっていた——。「森の文化」と呼ばれるわが国で、人びとは森林とどのように接してきたのか。そしてその先に見えてくる、文明と自然の共生関係とは何か。」

『森と人間の文化史』のキャッチコピーは

 「森を知れば人間の将来が見えてくる。
 森の役割をグローバルな視点で捉える!
 1988年刊行の『NHKブックス 森と人間の文化史』に加筆、修正を加えた、新たな時代への提言。

森を守ることは人間を守ること

森は太陽の恵みを受けて、地球上のすべての生命活動を支えるとともに、人間の心に繊細で穏やかな情緒を育んできた。
森林の成り立ちや、その果たす役割をグローバルな視点で描き、文明の母といわれる森と人間の深いかかわりを辿りながら、森の存在が人間にとっていかに“かけがえのない”ものであるかを詳らかにする。」

 猿投山の再生はまだまだこれからだ。二書のキャッチコピーにヒントがある。東大演習林の自然林を参考林にして広沢川の源流部の再生をプランしてみたらどうか。源流部の荒れた林道を見ると桧や杉の保水力のなさは如何ともし難い。
 伐採したままだと日本では松の木しか生えないそうだ。大陸では砂漠化する。後は野となれ砂漠になれである。朝鮮半島の山でも併合した頃ははげ山だった。朝鮮半島は花崗岩だそうだ。そこに植栽をすすめて緑の山にした。植栽は文化である。