来年は犬年の山へ!2017年12月01日

 早いものでもう12月。年賀状の売り込みには犬のデザインをあしらったきれいな絵柄が多い。そうか、犬の山名をリストアップしておかねば、と思う。イヌの文字は犬、戌、狗がある。
 思い出すままに挙げると、愛知県の地名にはずばり犬山がある。鈴鹿山系の滋賀県側の地名に犬上川がある。ポピュラーな動物なので全国各地にあると思われる。
 山名では富山県の犬ヶ岳か。北アルプスの栂海新道をたどると通過する山である。
 静岡県の山犬段はマニア向きだ。山系は違うが同じ山域の山住神社に参拝するのもいい。山犬信仰だから。但し、冬は通行できるかどうか。
 検索すると全国的には多々あるが、東海地方では犬の名前がつく山名は少ない。
 イレギュラーな把握だが、豊田市の天狗棚も挙げていいだろう。すると鈴鹿の伊勢側の狗留孫岳、近江側の天狗塔がある。奥美濃の天狗山も視野に入る。八ヶ岳まで足を伸ばすと天狗岳がある。

つるまい図書館へポタリング2017年12月05日

 12/4の編集会議で石岡繁雄の列伝の記事を書きなおすことになった。石岡氏はいわゆるナイロンザイル事件の当事者である。それで資料として『氷壁・ナイロンザイル事件の真実―石岡繁雄が語る』を借りるために自宅から鶴舞まで運動不足解消を兼ねてポタリングした。
 まず天白川沿いのサイクリングロードを走ると両岸とも工事中で通しで走れず、早目に平地に下った。山崎川沿いのサイクリングロードから路地裏を抜けて広い車道に出て図書館に着いたら何と休館日だった。折角、月曜から休館日明けを狙って来たが残念。やむなく自転車をデポして愛知県図書館へは地下鉄で往復した。県の図書館にもある。
 また自転車のデポ地に戻って自宅へ帰った。
 ついでにイヴォン・シュイナード『社員をサーフィンに行かせよう パタゴニア経営のすべて』も借りた。アメリカのアウトドア用品メーカーだ。ここも登山家のハーネスの使い方が悪くて墜落事故があり、遺族は資金力のない登山ガイドからは損害賠償は取れないのでハーネスのメーカーのシュイナード・イクイップメントに請求してきた。アメリカの弁護士はいちゃもんでも堂々と訴訟を起こすから大変だ。シュイナードは設備を社員に譲渡、ブラックダイアモンド・イクイップメントを立ち上げて製品の生産は続行させた。
 ナイロンザイル事件は戦後まもなく前穂高岳で起きた事件で、井上靖『氷壁』のモデルになった。映画にもなった。石岡氏はザイルの研究を続けて、安全なザイルの啓蒙に努めた。PL法制定の契機になった。その顛末を詳細に記載した本である。
 ナイロンザイルの強度を蒲郡の工場で切断試験をした。報道陣にも公開された。試験結果は切断せず、だった。ところがおかしいと思った石岡氏側の人がこっそり工場に忍び込んで試験器具を調べたら角を丸めてあることが判明して大騒ぎになった。
 ザイルメーカーは東京製綱、ザイルの素材メーカーは東洋レーヨンであった。事前に口裏を合わせて切断されないように角を丸めた確信犯だった。こちらはいちゃもんではなく実証済みである。実験の責任者だった篠田軍治氏はあれは登山用ザイルではなく魚網の試験だったと言い逃れた。
 鋭角で切断する欠点ははっきりした。これだけはっきりするとメーカーはもう言い逃れできない。東京製綱はいつしか消えた。東洋レーヨンは1970(昭和55)年に東レと名称変更した。企業はつくづくメンツ(利益)を重んじて、たとえ多数の人命が失われても真実を隠蔽するものだという原点のような企業だ。
 試験後もザイルの強度を信じて使用した登山者が次々墜落死したのだった。東海地方だけでも名大山岳部、名古屋山岳会、愛大山岳部の3名が死んでいる。
 ひところ、企業の社会的責任論が広まったが今再び無責任な企業が表面化してきた。東レも再び聞いた。

初冬の尾鷲道を歩き、マブシ嶺に登る2017年12月11日

 12月も半ばとなったが今冬は寒さが厳しい。12/9の午後4時にメンバー5人で名古屋を発った。名古屋・東別院ICから名古屋西を経てクルマはやや多めだが四日市市から鈴鹿市までの渋滞もなく実にスムーズに伊勢道に入れた。嬉野PAでうどんを食して伊勢道から紀勢道へ、そして暗くなった尾鷲北ICで降りた。R42へ出てイオンで若干の買い物をして、R425に戻る。R425は典型的な山岳路だった。
 今夜の仮泊に眼をつけたのはクチスボダム周辺だった。ところが暗闇の中で湖面を見落とし、クチスボの文字すら見落とした。それで池原ダムまで延々走ることになった。あまりにも遠いので、あそこじゃないか、と引き返した。よく見ればトイレもあるし園地もある。芝生の一角にテントを張って一夜を過ごした。 
 12/10は朝6時過ぎ起きて朝食に暖かいカップ麺を食べた。テントをたたみ出発したのは7時20分を過ぎてしまった。クチスボダムからR425を下ったところに県道760号との分岐があり左折。又口川に沿って走ると栃山木組林道へ入口があり、左折。意外にも舗装されている。
 12年前以上、2005年発売の『新日本山岳誌』の取材で橡山に登山しに来た際はまだ未舗装だったような気がする。舗装が新しいので最近だろう。この時間帯で下ってくる対向車もなかろうとタイトなカーブも快調に飛ばす。水無峠の記憶は一切ない。ただ、登山口の道標があった。この山も登山の対象になったのだろう。
 峠からはダートになった。左の崖から崩壊した土砂で荒れていた。路面も大雨で掘れて大そうな悪路である。タイヤのバーストに留意しながらそろそろと走った。ゲートが見えるとやれやれだ。
 身支度を整えて出発したのは7時56分。地蔵峠までは林道歩きである。軍手をはめても非常に寒い。峠からは山道に入るが、橡山に続く尾根を切通しされたために古い峠の趣はない。非常階段のような急登を強いられる。地元の篤志家らで転落防止のロープも張られている。尾根に届くと稜線歩きとなり山道も安定する。
 木立は落葉して見通しが良い。最初の道標は古和谷分岐である。ここからが古来からの尾鷲道である。下山路として今も歩けるのかどうかは不明だ。先へ進む。数分で又口辻だ。ここから山腹の水平道に入る。ふかふかの落葉の山道を歩く。北面には雪が積もっている。温暖なイメージの南紀の山にも寒波が来た。山腹の道、特に沢をまたぐ所は壊れやすく注意を要した。やがて新木組峠に着いた。ここは極端に寒かった。雪をかぶった大峰山脈が見渡せる。寒いはずである。峠の風下側に下ると若干寒さが和らぐ。少し食べたり飲んだりして休む。
 寒風に曝されながら落葉樹の冬木立の尾根を歩く。いかにも冬の山旅である。そうして木組峠に着いた。峠から破線路があるが尾鷲道は少し下る。先程ははげ山を越えたが山腹の尾鷲道は消失してしまったようだ。テープに導かれて山腹まで下ると再び道形を見出して歩いた。
 山腹を巻き終えると一本木の杭を見だした。あとは山頂までひと踏ん張りである。
 標高1216mの緩斜面に展開する雑木林は今は疎林となって平らかな別天地である。夏ならば緑濃き動物の楽園であろうか。
 山頂直下の疎林の中を歩く。北西からの寒風のせいか樹木はなべて矮小化している。余りの寒気に毛糸の手袋を出そう、雨合羽をはおろうと考えるうちに11時30分に三角点1411.0mに着いた。マブシ嶺である。
 紀勢線に名古屋から夜行列車がある頃から尾鷲道を歩いて見たかった。今回は三分の一くらいを歩いたことになった。大台ケ原山は高くはないが深い山域である。ヒマと交通の面で中々実行できなかった。伊勢道も久居ICまでしかなかった。R42を延々走ったものだ。名古屋から約230kmはあった。高速なら橋とトンネルでつないで180kmに短縮できる。
 大台の開拓を試みた松浦武四郎も奈良県側から入山し、下山は尾鷲道を下った。大杉谷を初遡行した大北聴彦と大西源一も下った歴史の道であった。
 以前はコブシ嶺(*1)と覚えていたが、このほど発刊の『分県登山ガイド 三重県の山』によれば松浦武四郎の紀行にマブシ嶺とあるのでそれに従ったという。私も松浦武四郎全集の中の絵図で確認した。どちらも由来までは言及はない。
 休憩の後、最高点まで行って12時30分に下山した。往きとは違い、寒気も和らぎ、陽光を一杯浴びて少し暑さも覚える日だまり山行の雰囲気になった。往路をそのまま戻り、15時10分ゲートに着いた。
 帰路はニホンジカ3頭に出会った。昨夜はタヌキ2匹を見た。けものが多い山域である。

*1コブシ嶺=この山だけを目指す登山ガイドは前掲の本が初めてだろう。過去のガイドブックを調べた。手持ちの書籍では
 ①昭和54(1979)年刊行の仲西政一郎編『近畿の山』(山と渓谷社)の大台の山と谷の地図に掲載。北の鞍部は雷峠になっている。点名は雷峠1である。雷峠から東の川へ本谷沿いに破線路が示されている。木組峠も木組谷をからむ山腹に破線路があり廃村木組がある。
 ②平成10(1998)年の小島誠孝『台高の山と谷』には尾鷲道が独立して章建てされている。ここでもコブシ嶺と書かれている。取材当時は伐採跡だったらしい。木組峠から古和谷へは猛烈なブッシュだったという。 
 ③『台高の沢』の見ひらき地図にもコブシ嶺とあったから関西岳人はコブシ嶺を踏襲しているのだろう。
 三重県の岳人らが調査して出来た書籍には
 ④平成21年(2008)年の津・ラ・ネージュ山岳会選『三重の百山』もコブシ嶺になっている上に大台ヶ原からの往復コースになっている。この当時は写真を見ると木立に囲まれて展望はないとある。今とはえらい違いである。以南は廃道化しつつあると案内してある。
 ⑤平成25(2013)年の伊勢山の会『宮川源流53山』には、大台ケ原からの往復ルートで紹介。まぶし嶺とある。この本では「展望360度の絶景の山である」と書いてある。写真にも高い樹木はない。
 
 コブシ嶺とマブシ嶺は2008年ころから変化したらしい。ネットの検索では以下が詳細である。最近ではマブシ嶺(コブシ嶺)と書いてあったりする。南から1411mのマブシ嶺に突き上げる光谷からか光山ともされる。(但し今の道標では1184mの山に当てられる。)
眩しき大展望・マブシ嶺【台高】
http://genge-do.at.webry.info/200801/article_6.html

大台ケ原 尾鷲道 地名まとめ(マブシ峠~新木組峠) その1
http://amaimonoko.at-ninja.jp/s-mtdata/ki/odai-owase/time2-1.htm

また同じ隣の人ぞ忘年会2017年12月13日

 今年初の忘年会に出席した。会場は名古屋国際ホテル。母校の同窓が数十名集結。来賓としてはK学長、D同窓会会長やW市議らに加えて日舞の舞踊も加わり華やぎを添えた。
 さて、席は自由だが隣に昨年と同じ人が偶然に座られた。猿投温泉の支配人のH氏だった。配布された封筒の中に入湯券もあって嬉しいプレゼントだ。
 入湯券で思い出した。月末に再度、猿投山で行方不明の人を捜索する段取りになっていると話した。あの説明会にも同温泉の入湯券が配布されたのでどんなつながりか、不思議だった。何と、キーマンのSさんとは知り合いだと言うのだ。
 帰りに寄りますね、と約した。そんなわけで世間は狭いと感じた。

猿投山捜索行2017年12月16日

 今年の5月16日、猿投山で行方不明になったAさん。直後から警察や消防団の捜索活動が行われた。大部隊の捜索にも関わらず発見されなかった。そこで家族は山岳会に捜索協力を要請された。猿投の森の会が活動していたからだった。山岳会は検討した結果協力に応じることになった。6月末から7月にかけて動員した延べ人数は100名を軽く越えた。それでも何ら遺品一つも発見に至らなかった。
 捜索活動は暗礁に乗り上げた。関係者が協議の上、12月中旬から再開することとなった。夏季は暑いこともあって午前中のみであるが、冬は午前と午後のほぼ1日とした。16日は初日である。9時までに集合し、班分けして出動した。
 山道の散歩が日課と言う人だったので東大演習林内が濃厚という。
 一つの反省としてわれわれ山屋は藪尾根でも藪沢でも突っ込んで行ってしまう能力がある。山慣れもある。
 しかし、Aさんは実は山屋さんではない。靴はハイキングシューズではないし、食料や水なども無かった。まして地形図やコンパスも無かっただろう。だから同じ道をくりかえすのみであっただろう。近親者によればせいぜい2時間程度の行動の範囲ということだった。
 但し、Aさんは心臓ペースメーカーを入れていたらしかった。喘ぐような山坂を登ることも想像しにくい。するとどこかの尾根から転落が考えられるとして今日からは山腹に視点を当てることとなった。
 風化花崗岩の地質で崩壊した個所がいくつかある。沢も結構掘れてミニゴルジュになって険しい谷相である。残念ながらどの班も何も成果はなかった。
 これまでの山岳遭難の捜索活動の見聞から意外なところで発見されるということを学んでいる。何が意外なのかが分かりにくい。

雑務整理2017年12月20日

 12/16(土)と12/18(月)から12/19(火)まで猿投山で行方不明の人の捜索に関わった。今日までに発見されず、それでも仲間とともに愚直に猿投山の北面、東大演習林の山野を這いずり回っている。
 12/24(日)まで続くが、本日は2日続きの山歩きで疲れた身体を休めた。短日でもあり、早めに終わるのだが、自宅に戻って、一旦身体を横たえると新聞を顔にかぶったまま寝てしまう。朝早く起きて行くから結構疲れるのである。捜索活動は1日数時間程度とはいえ、高齢者?の体力にはこたえる。若い積もり、元気なつもりで居ても年は争えない。 
 また、12月初旬以来、溜まった雑務を処理した。このところ、成年後見人の後見事務で支払いや入金確認があったので会計ソフトに入力した。シニア人材の面談会、2次面談と続いた。今日はまた中産連からの電話で12/12の面談会の企業から来年1月の中旬に2次面談が決まった。
 今日は愛知県図書館へ本を返しに行った。三の丸の桜華会館で食事を済ませて出る際、ベンツのドライバーが当方に向かって微笑んでいる。誰かと思ったら、同じ山岳会の捜索隊メンバーのS氏だった。やあやあとなってまた桜華会館に戻って懇談した。S氏こそは今回の不明者の友人であり、呼びかけ人であった。今日は家裁への所用で来られた。S氏は世間通で話は尽きなかったがお互いに多忙なので切り上げて分かれた。

人知れず山に眠るや枯木立2017年12月24日

 5/16に行方不明になったAさんの第二次捜索活動が終了した。12/16から12/24まで延べ80名を投入して猿投山北面や東大演習林のエリアを捜索するも見付けられなかった。
 家族にとっては年越しとなった。
 それでも今回の捜索で知った猿投山の未知の部分、というよりも無関心だったエリアが明らかになったことで、藪山ルートを継続して登り続け、捜索も続けたいと思う。
 猿投山の(踏み跡も含めると)山道は無数にあった。東海自然歩道や参道だけではなかったのだ。誰が付けたのか、幹に赤ペンキで案内が吹きつけてある。赤、黄のテープ、ピンクのテープのマーキングも多数あった。
 次は個人的に断片的に知った沢や尾根をつないで歩いてみたい。歩いて行くうちにAさんがなぜ散策にはまったのかが一部分かって来た。この踏み跡の先には何があるんだろう、というテラインコグニ-タ(未知の領域)への好奇心であった。
 Aさんは長い間銀行マンとして人生を送った。金融業は手堅いように見えるが、実は貸し倒れもあり、怖い仕事でもある。他人に相談もできず、冒険を許されない仕事であったからせめてもの息抜きに登山者やハイカーの入らないエリアを選んで無心になって歩いた。2時間ほどの散策の後は自宅で喫茶を楽しんだという。
 なきがらを見るまで捜す年の暮

73歳で人気の舟木一夫 客が必ずリピーターになる演出とは?2017年12月26日

「ニコニコニュース」から
http://news.nicovideo.jp/watch/nw3174028

「芸能活動55周年を迎える青春歌謡のレジェンド・舟木一夫(73)の人気が改めて注目されている。」と書き出す。

「今月は新橋演舞場で1カ月の公演中。里見浩太朗(81)や尾上松也(32)が脇を固める『忠臣蔵』と歌謡ショーの2部構成で、チケットはほぼ完売です」(スポーツ紙記者)」と73歳の老歌手の衰えぬ人気のほどを紹介する。

「安定した人気は歌手生活の積み重ねの賜物。元芸能誌編集者が振り返る。

「歌手デビューは東京五輪の前年。学生服姿で歌った『高校三年生』が100万枚を突破するヒット。青春歌謡歌手として活躍し、絶頂時は出身地の愛知県一宮市から特別観劇列車が出るほどの人気だった。」つまり、デビュー当時が幸運だった。たしか作曲家の遠藤実が師匠だった。良い先生に恵まれて一生の財産ができた。

「舟木は50歳手前で、デビュー当時からのファンが喜んでくれればそれでいいと見定め、昔の曲を歌い続けている。ベテランでも毎年新曲を出すのに、舟木が一昨年に出した『春はまた君を彩る』は実に13年ぶりだった」

 「舟木の姿勢は、その舞台が如実に物語っている。」

「歌のショーは持ち歌の青春歌謡が大半。『修学旅行』など学園三部作を歌い出すと、観客全員が一緒に大合唱。最高潮の盛り上がりになる。感極まって涙ぐむ女性客もいます。芝居も娯楽時代劇に徹し、同年代の女性が喜ぶ出し物しかやらない。花束をファンから受け取るときもきちんと腰を折り、普通なら袖に運ぶところを、舞台の中央に並べる。客が必ずリピーターになる演出です」(芸能デスク)」

 遠藤実はすでにこの世に居ない。師匠亡き後は昔の歌を歌い続ける。デビュー当時のファンを大切にする。受け取った花束を舞台中央に並べる。進行を急いでスタッフに渡してしまう歌手が多い中で心憎い演出なのである。
 今年3月初めて橋幸夫の生のコンサートを見に行った。どれほどの観客動員力か興味津津だったが満員になった。前の席にはファンクラブを優先的に占めてあった。これもファン無くして歌手業は維持できないからだろう。TVでは嫌と言うほど見たが生で見るのは良いものである。
 舟木一夫のファンも若いころはTVにかじりついて黄色い声をあげて声援していたにちがいない。そして子育てを終えて一段落すると昔懐かしい歌を生で聴きたいとコンサートや観劇に出かける。感動してファンクラブに入会する。
 昭和30年代後半から、メディアは映画からTVへと主力が移った。橋も舟木もそのころのデビューだからうまく時代に乗れたのだ。橋幸夫の歌はすぐに映画化されたといい、映画もヒットして相乗効果をもたらした。舟木も西郷も時代劇で見たがあれはたぶんTVだった。
 映画人気がすたれて、今はTVの人気も落ちていく時代となった。昭和30年代以降にデビューした歌手はこんなモンスター人気は得られなかっただろう。
 私が応援している島津亜矢にしても歌はうまいのにオリジナル曲で大ヒット曲というものがない。今も新曲を出し続けているがヒットが続かない。他の歌手も同然である。昔の歌を歌うと共鳴することが多い。つまり、流行歌の市場というものは昭和30年代かそれ以前の遺産なのではないか。
 作詞家の質も落ちた気がする。古い歌と今の歌の作詞を比較すると古い歌には古典の教養、民謡、俗謡などがベースになってにじみ出ている。今の歌は「北」「海」「恋」「川」「ふるさと」などの語彙を並べて曲をつけただけに思える。
 舟木一夫の高校三年生の歌詞中♪ニレの木陰に♪のニレは楡だが、どんな木か知らないままだった。先年、飛騨の山で本物の楡を見てああこれが高校三年生に詠まれたニレか、と思ったものだ。作詞家の丘灯至夫の観察力は大したものだと思う。一木一草を見過ごさずに言葉にしてゆく才能は天性である。
 舟木はこうした才能あふれる先生がたのレールに乗って歌った。繰り返し繰り返し耳に刻まれた言葉はいつまでも忘れない。ステージから発せられる歌詞が古い時代を呼び起こしてくれる。歌手の芸の細かい所作もさることながら優れた歌詞と作曲があいまってヒットした。遠藤自身は高校生生活がなかった。憧れに似た思いが作曲に込められたのだ。

ストーブの芯を替へるや雪の朝2017年12月27日

 今朝は雪が降っている。年末寒波到来である。天白川の河川敷の茅も枯れ切っている。冬らしい景色になった。
 このところストーブの芯が減耗して電池による着火ができなかった。それでマッチで着火していたが面倒なのでアマゾンで替え芯を購入。1996年製の古い型式でもちゃんと適合する替え芯があった。ありがたいことです。新品を買えば粗大ごみ化するから使えるうちは使いたい。 
 よしっと、やる気モードにスイッチを入れて、同封されていたマニュアルを見ながら解体、交換、組み立てを終えた。新たに灯油を浸みこませると完成だ。
 ストーブも進化して今は石油ファンヒーターや各種の暖房器具が出回っている。それでも灯油のダイレクトな暖かさには代えがたい。出来れば暖炉がいいのだが・・・。

獺祭書屋2017年12月28日

 やることは多々あるが進まない。つい枕元の書籍に手を伸ばしてしまう。忙しさにまぎれて積読してしまった。本だけでなく雑誌も多い。読み飛ばしたページを再読する。読みかけの本も改めてページを繰ると1日なんて過ぎてしまう。正岡子規ではないが、まさに獺祭書屋になって来た。夕方になって喫茶店に気分転換に行く。