「捜索終了のお知らせ」を転載2012年04月30日

 藤原岳・御池岳・鈴北岳捜索情報WIKIをチエックすると以下の文が掲載されて、遺体の収容と搬送が無事に終わったことが正式に宣言された。中日新聞の(名古屋)市民版にも掲載された。
 アドレスはいずれ削除されると思うので文をコピーし、転載しました。これで完全に終わった。あるはずがないと思われたボタンブチからの転落の事実に、しばらくは精神的に立ち直れない人もいるかも知れない。本来の楽しい山歩きに戻り、自分を取り戻して行きたいものである。
http://www50.atwiki.jp/hnagashi/pages/22.html

Nさん捜索終了のお知らせ
 2月12日に消息を絶たれてから2ヶ月半を経過してしまいました。
この間多くの方々の献身的な捜索と、情報収集のおかげで昨日(4月28日12時半)ようやく所在確認に至りました。
 本日、管轄の東近江警察署員と捜索隊員とで収容、搬送が終了しましたのでお知らせします。本当なら心がけを頂いている方々に対し、昨日速報でお知らせするのが筋ではございましたが、確認できた場所が浮き石落石の危険が非常に高い場所であったので、本日の収容完了まで伏せさせて頂きました。 お詫びいたします。
 これまでの間、名簿に記載されただけでも600余名の方に参加者頂いています。これほど多くの方々に協力頂いたこと、また、事故もなく継続できましたことを心からお礼申し上げます。 しばらく時間がかかりますが、いずれ関係下さった方に報告をさせて頂きたいと考えています。 末尾ですが、ありがとうございました。

平成24年4月29日 三重県山岳連盟遭難対策委員会 事務局 居村年男
(20120430 転載 管理人)

三重県山岳連盟を中心としたボランティア捜索隊員の方々を始め、捜索活動に携わられました全ての皆様に深く感謝致しますと共に、彼のご冥福をお祈り申し上げます。
(平成24年4月30日 捜索情報Wiki管理人 山口)

三河・三ヶ根山321mを歩く2012年04月30日

戦争の真因を探求して恒久平和の確立に努めたい!
 暖かい春の朝である。いかにも春の陽気に包まれている感じがする。2ヵ月半もの間、鈴鹿の捜索行に重点を置いたから今年の山スキーは実質1回だけで終わった。GWの計画も立てられなかった。GWも捜索に費やすつもりだったからだ。
 心に空いた隙間を埋めるべく向かった山は軽い愛知の山だった。三ヶ根山という。普通は車で通過するようなドライブの山である。今度行ったのは大沢の登山道から登ってみた。
 名古屋から県道、国道23号を走り、西尾市まで走る。山は西尾市、蒲郡市、幸田町にまたがる。登山道は西尾市側にある。大沢は山間の奥まった小さな山里であるが家並みはみな立派である。今日は皆で草刈でもしているのだろうか。それを傍目に狭い道を走ると登山道の表示があった。よく見ると低い山にしては立派な石柱に十八合とか彫ってある。山上の三ヶ根観音への登拝の道だったようだ。
 11時半ごろ、出発。いきなり、足がつるような急登である。杉林の中を喘いで登る。4/15以来だから2週間ぶりだ。しかし、汗が吹きだすと同時に三ヶ根スカイラインの道路に着いた。見えた売店は廃屋であった。お散歩程度と思い、水もパンも持っていないからあわてた。
 独立標高点321mを探るが何も導く目印はない。頭抜けた盛り上がりもない。ここは観光の山なのである。
 結局、比島観音、三ヶ根観音にお参りした。比島とはフィリピンのことで先の戦争で回収されない遺骨がまだ多数あるとか。
WIKIによると
比島観音(建立の記)

この聖観世音菩薩像は、太平洋戦争の際フィリピン方面に戦没された50万同胞の霊を供養するために、遺族と戦友の手により建立し、像躯にはルソン島サラクサク峠戦闘の戦没者の鉄かぶとを鋳込め、瓔珞には比島11の島々を彫り比島観音と名付けました。
そもそも、今回比島観音建立の母体となった撃友会はルソン島の平地戦から引き続き山岳戦に兵員の8割強を失った戦車第2師団(撃兵団)の戦友と遺族の会で、昭和31年以来毎春慰霊祭を行い、兵団の慰霊碑の建立を宿願といたしてまいりました。

昭和47年4月吉日
比島観音建立会
 スカイラインは徒歩禁止らしいが遊歩道はないので已む無く歩く。独立標高点は321mであるが最高点はab340mくらいはある。そこには新しいトイレ、ベンチ、東屋展望台があって三河湾の風光が楽しめる。夜景もきれいだろう。アイシンの施設を過ぎ、また廃屋がある。分岐からは右へ、下山口に予定した殉国七士廟へ行く。

それは再びWIKIで調べると
殉国七士廟(じゅんこくななしびょう)は、愛知県西尾市東幡豆町の三ヶ根山にある廟。東京裁判判決に従い、死刑執行されたA級戦犯の7名を祀っている。
被祀者 [編集]
軍人
東條英機(首相・陸軍大将)
土肥原賢二(陸軍大将)
板垣征四郎(陸軍大将)
木村兵太郎(陸軍大将)
松井石根(陸軍大将)
武藤章(陸軍中将)

文官
広田弘毅(首相)
(カッコ内は大東亜戦争期の肩書)
とあった。
管理は日本青年社という右翼団体。この中の 松井石根(陸軍大将)が名古屋市の出身である。南京大虐殺の象徴的人物とされる。そんな馬鹿なと思い、この人のブログを読んで行きたくなったわけです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1046.html
 すべてはアメリカ側(ソ連、中国なども含むが)の視点で裁かれた。日本人の視点で見れば、中国大陸を戦場にしたなど、いろいろ反省はあったにせよ、アジアの植民地を欧米列強国から解放した自衛の戦争だったわけです。これは後にマッカーサーも認めたことです。
 殉国七士廟からは細い林道を下る。新緑に包まれている。車道と違って静かである。地図をチエックしながら元の登山道に合流し、登山口に下山した。マイカーに着いたのは13時半でした。
  遠足や見守りたまへわが国を