春のことぶれ2012年03月01日

 今日は何だか暖かい日だった。もう厚いコートはいらない気もするが夕方の事を考えて着用した。地下鉄内では脱いで事務所まで抱えて歩く。太陽には暈(かさ)が取り巻いていた。日暈(ひがさ、にちうん)というらしい。
 中日新聞夕刊の記事には名古屋で気温16度と見出し。最低気温も5.2度で3月下旬並みという。道理で暖かいわけです。明日は南岸を低気圧が通過し、雨だという。気温も下がるそうだ。
 3/6の啓蟄ももうすぐだ。南風が吹くようになればいよいよ野山も暖かくなる。山の雪解けも一気に進むだろう。

暮遅し2012年03月03日

   阿下喜温泉に入湯
雪焼の顔を撫でたり春の風

靴擦れの湯に沁みてゐる春の宵

鈴鹿なる山なみを見し遅日かな

   大貝戸の小屋で
   捜索隊にNさんの父からのねぎらいの言葉あり
父は子の安否気遣う春の夕

春愁や子の捜索を切望す

   いなべ市から西の空、藤原岳の左に金星(宵の明星)上がる
春の星何か言わんとするやうな

春星の瞬くごとし人の世は

  **********************
  御池岳を徘徊するごとく捜索す

永き日や還らぬ人を捜索す

人相の変はりし春の雪眼鏡

山頂は雪間や奥ノ平なり

霊仙と伊吹の他は山霞

山うらら忘れ物する人もゐし

雪代の活き活き流る真の谷

春の泥雪で拭き取る登山靴

無線機の音長閑さを破りけり

続続・Nさんは御池岳~藤原岳の何処に?2012年03月04日

 御池岳(藤原岳)遭難の捜索活動も2/12以来、20日を経過した。これまでのいなべ署、三重県防災ヘリ、東近江市のヘリ、三重岳連を中心にした協力者の地べたを這うような捜索活動も実らないまま3月を迎えた。いなべ署の捜索は先月19日で終結した。今後は純粋に三重岳連と傘下の山岳会、ボランティアのみになる。
 3/3(土)、未明コトッと言う音、ノックされたような物音に目が覚める。時計はまだ3時半くらい。出発予定は5時半だからまだ眠れるが二度寝は危ない。しばらくうつらうつらしてトイレに立つと玄関ドアに新聞があった。さっきの物音はこれだったか。朝日新聞だが本当は東雲新聞すれば・・・。寝ながら読むが頭に入らないので起きて朝食だ。
 6時過ぎ、今度は高針ICから入った。直感的には伊勢湾岸道が早そうだが、HPでチエックすると高針IC起点桑名ICで行くと約35Km、33分、990円(ETC)に対し、植田ICでは45Km,33分、1050円(ETC)だった。名古屋高速経由は割高と敬遠していたが伊勢湾岸の方が割高なのだ。
 7時前に大貝戸へ到着。疎らに車があった。早速、愛知岳連のSさんが親しく声を掛けてきた。中へ入るとまだ少ない。Yさんも来ている。JACのMさんが来られた。三重岳連の幹部が揃って、打ち合わせに入る。これまでの捜索地点の盲点を探すのが狙い。終わるとNさんの奥さんからあいさつ。「Nを連れて帰りたい」とすでに腹を括られたのだろう。今ならきれいな遺体と思うが野ざらしが長引けば無残なことになろう。
 雪山の捜索は一般の地元民にはできない。道具、防寒着、登山技術がいる。山中での機動的な無線連絡も重要だ。これは登山者にしかできない。岩登りはクライマーに、沢登りも、山スキーも同じジャンルの人が救助に出る。捜索、救助もまた独特の道具と技術があるので訓練が必要である。家族の捜索協力への期待もむべなるかなである。
 ご家族の期待に応えるべく、それぞれの持ち場に散る。我々は計6人でコグルミ谷から入り、奥ノ平に出て、真の谷へ下ってみることにした。捜索済みの地図の空白部分である。もっとも可能性がなかったから今まで目が届かなかったわけだ。
 Iリーダーの車についてR306のゲートまで走る。2/28に来た時より、路上の雪はない。コグルミ谷登山口以遠でも若干はあったがきれいに解けて乾燥路面になっている。
 登山口から出発すると左岸の土の急斜面を這うように登っていくパーティが見えた。捜索だろうが、うーむ!凄い人らがいるもんだ。
 谷の中の雪も若干は減っている。2/18の時よりも、足跡が明瞭になって歩き易い。雪も腐っていてRFに苦労することもないからややピッチが早めでついていくのが大変だ。
 タテ谷分岐からは雪が多めになる。登山道でもしも見つかるとしたら一番濃厚なルートだろう。谷底もまだ残雪に覆われている。コグルミ谷道はR306への最短ルートだが峠からタテ谷分岐の間が特に急俊である。体重90Kg,ザックがおよそ20Kgとすると優に110Kgの重さだ。アイゼン歩行に慣れないとつま先の爪にバランスを崩し易い。初心者のNさんがどの程度トレーニングされたのか。冬の西穂に登った経験があるとはいえ、コグルミ谷ほどの急な箇所は無かったと思う。
 水場からはトレースのない右又へそれて登ってみた。登りきってから名古屋から来た若いメンバーがここから奥ノ平へは経験のある私が案内するというのでお願いした。日が昇って南斜面の雪が緩みだしている。ずぼずぼとよく潜るのでワカンが有効だが私一人持参しなかった。
 樹氷林はオオイタヤメイゲツであろうか。希少性の高い群落である。積雪期はこうして自在に歩けるが無雪期はヤブに覆われるだろう。気温が上がって、シャリシャリという音を立てて樹氷が落ちている。
 トップはもう見えないから山頂へ行っているだろう。足跡を追いながらやっとの思いで奥ノ平に着いた。そこだけは雪が解けて地面が出ていた。眼下には雪原が広がる。縦横に捜索の人らが歩いているのが見える。この時期にこれだけ登山者が登ることもないだろう。
 周囲の眺めもにいい。今まで無雪期しか知らないから新鮮である。冷川岳はコブでしかない。藤原岳への稜線、御在所方面も見える。伊吹山、霊仙山も見えるがその奥は霞んでいる。遊びで来たなら楽しい気分に浸れるが今日は大切な捜索だ。
 12時40分、地形図を出して役割を細分化して出発。四日市市在住という単独の人が加わった。若干下って1194mに近づいた辺りで二班に別れた。あちらは3人とこちらも4人がバラバラに散って下った。膝くらいまで潜って難儀したが約30分ほどで真の谷に着いた。ここはホントに安らかな谷である。親の谷の間違いではないか、と思うほどだ。
 真の谷の流れが多くなった。雪代という。雪解け水のことだ。山が活き活きし出す感じだ。雪は天然のダムという。下流の永源寺ダムは今頃から満水になっていくだろう。
 先行グループはもう登っていると思ったが少し先で下ってきて合流した。山頂へ忘れ物をして又取りに戻って遅くなったという。風もない麗かな春の山にくつろぎ過ぎた?らしい。みなで笑った。後は右岸左岸を渡渉しながら峠に戻る。コグルミ谷の手前で右岸尾根を下るというのでまた別れた。我々は峠からコグルミ谷を忠実に下る。やっぱり急だ。
 外国の山から帰ってきたばかりのMさんは一つ上だがびっくりするほど早いピッチで下っていく。標高の高いところの高所順応が今も有効なんでしょうか。それに適度の痩せ気味の体格が登山者に適している。私はといえばもうメダボ体質そのものでひーひーいいながらついていくことになる。
 無事、R306に着いた。右岸尾根組はまだだ。車に戻って帰り支度する。「おーい」と叫んでみたが反応なし。下って来そうな場所を探しながら走ってみた。犬返し橋を往復すると意外な場所を下ってきた。メンバーの若い女性が長い梯子階段を下っている。やれやれと無事を確認し、無線で連絡をしてもらった。
 大貝戸の本部に戻った。マイクロバスとすれ違った。団体登山客と思ったがJAC東海支部のボランティア委員会のメンバーと後で知った。I委員長の報告で分かった。
 小屋内ではご家族から熱いお茶をいただいたり、善哉で体を温めた。落ち着いた後、また集まって報告会になるが今日も空振りに終わった。後、Nさんの父親が紹介されて、捜索へのねぎらいと今後の要望の言葉が寄せられた。44歳の子の父親ならば75歳前後であろうか。人生の後半にきて息子に先立たれる?なんてショックだっただろう。
 それにしても今回の捜索活動は異例中の異例と思う。私自身、山岳遭難の捜索に関わったのは初体験である。大抵は行く人が行けば、或いはヘリが探せば見つかっていた。もちろん捜索しても見つからずに終わったケースもあった。
 知多半島の30歳の医師が鈴鹿南部の山で行方不明になった。やたらに多い赤ペンキの標に振り回されたらしい。何ヵ月後かに下流で遺体となって見つかっている。小岐須溪谷に遭難碑がある。名古屋市の60歳の主婦が東海自然歩道で行方不明になった。息子さんは地元消防団の協力で捜索したが1ヶ月で止めた。1年後の同時期に遺体で見つかっている。いずれも大水で流されてきたのだろう。いずれも単独行である。
 今回は山岳遭難の捜索のプロによらず、多くが鈴鹿通のボランティア?の参加らしい。原因として考えられるのは地元関係者だけでことが進められる過去のケースと違い、インターネットで情報が伝わりやすいことがある。ネットでも鈴鹿の愛好家らの参加が顕著に認められる。(かといって、ネット情報を信じて、登山するのもリスクが高い。投稿者の本当のバックも知らずに簡単に理解すると大変だ。)
 それに3.11で自分本位の生き方の反省から絆が見直された。困ったときはお互い様の精神が確認されたばかりなのだ。私も三重岳連から要請で承諾し、2/16に参加、2/18は生存の可能性もあって自発的に参加した。その後も乗りかかった船と思い、2/28、3/3と捜索に加わった。
 今回の活動で再発見したことは人は自分のためにだけ生きているのではない、ということだ。他者から求められればやれるだけのことはやってあげたい。情けは人の為ならず、ということだった。 
 捜索は新緑期までに発見できなければ長期戦になろうか。早期に発見されることを願う。山仲間にはなるだけ御池岳、藤原岳に登ってもらうように勧めるのも手だ。
追記
「ヤブコギネット」をみていたら↓のHPが作成され、貼られていましたので当ブログにも転載させていただきます。今回の捜索に関するブログなどの情報の集約です。捜索協力される人の参考になると思います。
http://www50.atwiki.jp/hnagashi/pages/13.html
読みますと非常に多くの人が協力されているのが分かります。
未確認ですが
・鈴ヶ岳方面に放置ザックがあった?
・出ていないとされていた登山届けが実は出ていた、など

啓蟄2012年03月05日

 啓蟄の日の朝、部屋の窓から外を見ると雨だった。傘をさして歩く人がいる。そばを流れる天白川の河川敷にはぼつぼつ青い草地が見えてきた。下萌えである。冬の間は一面枯れ草だったのに。草青む季節の到来である。
 天気予報では今週は晴れたり、曇ったりの不順な天候の様子である。山の雪解けが進んでいることだろう。谷の雪代が勢いを増す。残雪の多い山や高い山ではブロック崩壊の危険がある。不用意に近づかないことだ。撮影のために近づいた途端に崩壊し、死んだカメラマンもいた。
 朝刊は一斉に天皇陛下の退院を伝えた。3.11の追悼式へのご臨席の可否も取りざたされている。陛下の強い意志が感じらる。
 予後の身で実現すれば国民の復興への意欲が一層強まる。関心が徐々に薄くなれば困るから当事者らも無理のない形でご臨席を望むところであろう。試歩の結果は芳しくないようだからご無理をなさらないことを祈りたい。
 「天声人語」も啓蟄のことに触れている。今、気になっている御池岳は蛭が多い山だ。蛭も虫偏であるからそろそろ蠢くころになろうか。4月中旬には養老山でも見た。5月は確実に居る。奥ノ平から見た天狗堂などは蛭の大群がいる。樹上から降ってくるとも。そのはずだ。地名でさえ蛭谷というんだから。

自然治癒2012年03月05日

 昨年夏以来、不摂生がたたってか、歯茎の周りにできた腫れ物が消えていることに気づいた。歯科医に診てもらうと最初は電気メスで切除して消毒などしてくれた。癌も疑って病理検査もしてくれた。がしばらくすると再発した。再診するとまた切るというので今度は断って生活習慣病の克服にかけた。
 ヨーグルト、ビフィズス菌末など摂取してきたが一時的な効果があっただけだった。年末にまた不調になり、一計を案じて麦飯に切り替えたのは一月中旬であった。便秘で腹が張るとかならず食べるようにした。ここに来てきれいに腫れ物が取れていた。改めて麦飯の効用を調べると
 http://www.healthy-mylife.com/shokuhin/archives/2006/12/post_15.html
 じつに素晴らしいと知った。健康食の本には粗食のすすめとか、1日二食説、雑穀米などあるが麦飯のすすめははなかった。余りにも当たり前すぎて、カネをとって教える価値もないのだろうか。外食、コンビニでは絶対に食べられない。それなのに緑黄色野菜と同じ栄養分がたっぷりだなんて知らなかった。
 腸の調子がよくなり、血液の循環が良くなったせいか、体温が上がって空咳もぴたり止んだ。要するに癌に近づくということは体温が下がることで抵抗力、免疫力の低下によるらしい。癌の人に温泉がいいのは体温を上げて免疫力を保つためだろう。
 粕は白米と書く。補うために1日30種類の野菜を食べよ、とか、指導があるがとても無理。しかし、麦飯なら続けられる。
 歯科医の本を読むと歯周病予防には歯を磨くしかない、とある。しかし、磨いてもなる人も多い。外科医たる歯科医には生活習慣病予防までは頭が回らないらしい。60歳を越えたら頭で考えて食べることだ。医者を遠ざけるためにも。

①石岡繁雄「遭難を防止するために」を読む2012年03月06日

石岡繁雄(1918~2006)は日本の登山家で『屏風岩登攀記』の著書がある。旧制八高→名古屋帝大から鈴鹿高専教授などを歴任。岩稜会を設立し会長を務めた。1955年、実弟をナイロンザイル切断事故で失い、井上靖『氷壁』のモデルとなった。
 1961年、日本山岳会東海支部設立に中心的に関わる。1964年、機関紙の『東海山岳』No1が発刊される。1963年の愛知大薬師遭難事故があった影響か、論説に石岡先生が6ページに亘り、「遭難を防止するために」と題した持論が展開されている。
 今、読んでも古くないので再掲した。要するに道具や服装、器具は改良され、便利になり、発達したが肝心の山に向かう人間は何ら進歩がない。温故知新でたまには古い人の話も知っておくと良い。
 石岡先生は登山で実弟を失うばかりでなく、ザイルの切断事故が社会的な事件になり、人生の修羅場をくぐって来られた。歴史を学ぶ機会がない、歴史に学ぼうとしない、そんな人にも知っておいて欲しいものです。今、我々がザイルを安心して利用できるのは実に石岡先生の尽力のお陰です。
構成は以下の通り。
(イ)遭難防止のあつかい方
 遭難防止ということを、我々としては(登山に愛着を持っている登山経験者の立場として、登山界といっても良いとおもう)どう扱えばよいか。例えば両親は、登山する以上危険が皆無でないことを知っているので、息子の登山そのものを禁止しようとする。一方、登山しようとする者の中には、山で死ぬのは本望と考えているものがある。このような開きの中で、両者とも包含している登山界としては、この問題をどう扱えばよいかを考えてみる。
 まず一般社会がこの問題をどのように考えているかという点を考えてみたい。人間の行動はすべて社会の影響を受けずにはいられないが、登山の場合でも同じである。登山に対する社会的影響は、時代と共に変化し、国柄、土地柄によっても異なる。社会が登山に全く関心を示さない場合から、例えば法的な制約といった強い圧力の状態まで、幅広い範囲がある。
 また登山に対する社会の関心には、登山における遭難の場合と、遭難とは関係のない登山の行為そのものに分けられる。社会は一般に、登山の行為には社会的なプラスがあると認め、とくに全力をあげて困難な山に登るといった事には好意を示す。
 これに反し、遭難に対してはこれを批難し、防止させる方向にもってゆこうとする。社会には生命尊重の強い態度があるので遭難防止にはとくに神経質であることが多い。
 また社会は、①登山する以上遭難は皆無にはならないこと。②登山者が危険に対し妥当な努力をすれば、遭難はほとんどなくなること、を知っているので、遭難が起きたとしても、遭難自体よりも、登山者が山の危険に対して妥当な努力をしたかどうかという遭難の内容を問題にし、とくに軽率な遭難に対して激しく非難する。(リーダーの刑事責任が追求されたことがある)これが日本の現状であると思う。
 一口に言えば、「危険な山に魅力を感じて出かけるのは良いが、万全の注意を怠るな」というところであろう。
 一方、社会は、遭難防止についてこのこと以上の強い態度には現在のところ出ていない。たとえば、遭難はリーダーの良し悪しに支配されることも大きいため遭難防止を強化するためにリーダーの資格を法制化すべきだという声もないではないが、例えば交通事故の場合は運転者の失敗が、一般通行人の犠牲をともなうことがあるが、登山では遭難は登山者自身に限られるなどの理由から、現在の社会はそこまでの強い態度には出ていない。
 次に遭難防止には直接関係はないが、社会が示すもう一つの関心は、登山者が社会に迷惑をかけた場合に示す非難である。これはとくに遭難が起きたときに現れる。
 たとえば、遭難者の救援とか遺体の捜索にあたって、地元の人とか警察に及ぼす迷惑とか、救援とか捜索にあたって登山者が緊急動員され、そのために勤務先に及ぼす迷惑等である。
 こういう迷惑がおきたとき社会は登山を非難する。登山者は、自分達が遭難してもほっといてくれればよいと考えるかもしれないが、日本では、放置しないのが普通である。
 結局、登山者が社会から非難されまいと思えば、万一遭難した場合、その後始末を自分達の力でなしうるように予め配慮しておかねばならないことになる。
 さて、登山界が社会の圧力を無視しようとしまいとそれは自由であるが、無視すれば、登山を志す者が登山することに障害が起きてくる。とくにこれから登山しようとする者が登山しにくくなる。このことは登山の衰微ということになるので、登山界としては、一般登山者に対し、社会の関心にマイナスにならないように要望し、かつその実現に積極的に努力する必要がおきてくる。
 要するに、登山界は登山者に対し、”軽率な遭難をするな”ということ、”社会に迷惑をかけるな”ということを強調し、それに向かって強力に指導してゆくことが必要となる。

 まさに正論ですねえ。事件から8年後の45歳のころの寄稿です。理系の学者の論文ですから決して読みやすくはないが正鵠を得た文で揺らぎがない。あいまいなところがない。今の登山界にこんな文を自分の頭で書ける登山家はいるんでしょうか。熟読玩味したいものです。
以下は順次入力後アップしてゆく。
(ロ)遭難防止の問題点
(ハ)遭難防止のための一つの対策
 ①登山界が「最前の注意」を登山者に示す場合の説明の形式
 ②遭難原因の追究の必要性
 ③遭難原因追求の方法

第13回岳人写真展のご案内2012年03月07日

日時:2012年3月20日(火)~3月25日(日)
    9:30~19:00  最終日 17:00まで
場所:名古屋市民ギャラリー栄
中区役所朝日生命共同ビル7F
共催:日本山岳会東海支部 中日新聞社
後援:名古屋市教育委員会 中部日本放送

②石岡繁雄「遭難を防止するために」を読む2012年03月08日

 石岡先生が屏風岩を登攀したのは29歳昭和22(1947)年だった。45歳までに書かれたこの論文まで16年の歳月が流れている。この文だけでもこの間に積み上げられた登山に対する哲学的な態度が凝縮されている。遭難防止を切り口にした登山論といってもよいだろう。
 登山とは、登山者はどうあるべきか、という命題に頭脳を絞られた。遭難防止は決してハウツーだけで論じられるものではない。人間の問題ということに帰結している。
 後半の「遭難は前者の登山から後者の登山に、心構えも準備もなく漫然と移行するときに起きやすい」ということはよくあることだ。ハイキングや夏山では我慢できなくなった人が親睦的なクラブ、会を退会して、レベルの高い山岳会に移った途端に遭難死することがある。
 中級レベルだけでなく、漫然と登ると、レベルの高い人でもホワイトアウトや不意に雪崩にやられて死ぬことが何と多いことか。転落事故も多い。東海支部関係者だけ何人か顔が浮かぶ。登山技術以前に人間の問題なのだろう。
 一座一座について細心の注意を怠らないということ。登山の成功を忘れること(加藤幸彦『絶対に死なないー最強の登山家の生き方』講談社2005年)
石岡繁雄先生のHP
http://www.geocities.jp/shigeoishioka/index.html
 
  後半の小見出しは筆者の編集です。

 (ロ)遭難防止の問題点
 さて、登山界は、一般登山者の「軽率な遭難」を防止するように努力するわけであるが、たとえば、スリルが好きで山へ登るという者が遭難した場合、それは軽率な遭難になるのかならないのか、または、なだれを予見する方法というものは現在、不完全なものであるが、そのなだれにやられた場合、その遭難をやむをえないということになるのかなど、問題はいろいろとある。以下それらにふれてゆきたい。
 ①登山者が遭難した場合「軽率な遭難」かそうでないかの判定は、主観的なものでなくて客観的なものである。つまり遭難者なりその関係者が決めるのでなくて第三者(登山界)が決めることである。関係者が決めるにしてもそのつもりで判断しなくてはならない。
 次に万一遭難した場合、それが軽率な遭難にならないためには、登山者が登山に対して予め万全の注意を払っていたということが第三者によって判定されなくてはならない。万全の注意がなされたにもかかわらず遭難が起きたという場合には、その遭難は軽率な遭難ではない。
 ②万全の注意は果たして可能であるか、どうかという点を述べる。登山の内容から次の二つの場合に分類されると思う。
第一は、夏期、山小屋が散在する一般登山路を歩く場合とか(山小屋は、利用してもしなくてもよい。つまりテント持参でもよい)ゲレンデスキー(これを登山に含めることはどうかと思うが)の様に、考えられるあらゆる危険に対する予防措置がはっきりしているとみなしうる登山である。こういう登山では万全の登山は可能である。この登山を以下危険が小さい登山とよぶ。現状ではこの種類の登山での事故率は非常に小さい。(おそらく都会の危険率以下であろう)
第二は、岩登りとか積雪期登山のように、考えられる危険の内容が複雑多岐で、遭難防止対策が難しいものである。特に、岩場で墜落した場合の確保の技術(これさえ確立されれば、岩場での事故は僅少となろう)雪崩を予見する技術、吹雪の中で自己の位置を確認する技術等については、登山技術としてはむしろ未完成である、したがって、これらの危険に対しては、万全の注意というものは今後の人智の進歩を待たなければならないという状態にある。こういう登山では万全の注意は不可能である。この登山を以下危険の多い登山と呼ぶ。
      自分はこれから危険な領域に入るという自覚があるか?
要するに、危険が大きい登山は、危険が小さい登山に比較して、危険防止の対策が複雑であるという量的な差があるばかりでなく、未完成な技術を含むという質的な差を持っている。又危険が少ない登山をするものは、特別の心構えを必要としない。登山者というより、ハイカー、ワンダーホーゲラーといった呼び方がふさわしい。これに反し危険が大きい登山を試みるものは、後述の様な確固たる心構えが必要である。
 遭難は前者の登山から後者の登山に、心構えも準備もなく漫然と移行するときに起きやすい。
さて上述のごとく、登山には万全の注意が可能な登山と不可能な登山とがあるが、問題は後者にあるので後者について述べる。(なお今後単に登山と記せば、後者の登山を指すことにする) 
万全の注意が客観的に確立されていないような登山を試みようとするには、一体どうすればよいかという点であるが、現在でも、登山者が現在知られている注意を守りさえすれば、危険が小さい登山の場合の危険率にかなり近い危険率を維持することは可能であるので、登山者はそのような努力をしなくてはならない。この努力を以下最善の注意とよぶことにする。
登山界は危険が大きい登山の場合でも、登山者に万全の注意を一日も早く示しうるように、最善の注意の内容の改良に向かって懸命の努力をしなくてはならない。
③最善の注意に関して次の点を強調したい。人は何らかの動機とか目的をもって登山する。たとえば、そそり立つ岩壁を登ってみたいとか、美しい冬山の頂上に立ってみたいとか、初登攀の栄誉に憧れるとかいろいろとある。このとき山は、その人間に対して生命の脅威とか(岩場での墜落、なだれ等)肉体的な苦痛(寒気、風雪等による疼痛で、生命の危険につながる)を与える。これらのものを山の厳しさと呼べば、ある人はこの厳しさに耐えられずに目的を放棄する。しかしある人はその厳しさに抗して目的を達成しようとする。中にはそうした厳しさそのものに魅力を感じて、つまりスリルに魅力を感じて、その厳しさに立ち向かう。
登山に関心のない人は、そういう利益をともなわない厳しさを登山者がなぜ避けようとしないのかと不思議に思うが、若者には利害を離れた熱情、意欲というものがあってそれがその厳しさに対抗させるのである。これらの感情なくして、危険をともなう登山というものは成り立たない。
遭難防止に厄介なのはもちろんこの感情である。しかし、この感情は、いわば人類の文化を向上させる崇高な精神につながるものであって、これを単に抑えつけようとすることは、社会的にも好結果は生まれない。そうかといってこの感情を野放しにするのでは、貴重な人命の損失を防止することができない。
      登山者自身の客観的態度が必要ー感情のみ追わない
この感情を認め、しかも遭難防止を成立させるには、もう一つ別の要素が登山者に要求されることになる。それは登山の動機、目的はどうあろうとも、危険から身を守るための科学的態度に身をおいた最善の注意を、登山の計画、実行すべてを通じて瞬時といえども怠らないという理性である。
つまり人間をして危険な登山をさせるのは、山の厳しさに魅力を感ずる焔のような感情であるが、そういう人間を遭難から救うのは氷のような理性である。
岩壁を登るには、わきおこるファイトが必要であるが、登攀に際しては、そのファイトを心の奥底にじっと秘めて、自らを守るためにあくまで科学的な態度、特に自らの能力を謙虚に見つめる理性が必要である。
           真の登山者像とは
山の厳しさに魅力を感ずれば感ずるほど、危険防止のための最善の注意に全知全能をかたむけるというのが真の登山者の姿である。登山というスポーツに、優れた社会的位置づえを与えるのも、与えないのも要はこの一点にかかっていると思う。

③石岡繁雄「遭難を防止するために」を読む2012年03月09日

 遭難防止のためには昔からいろいろ工夫されてきている。たとえば入門時代に読んだ本には雪崩に埋まった登山者を救出するために「なだれひも」の使用が提案されていた。それは今はビーコン、ゾンデ棒に取って代わられた。
 その前には雪崩の危険の恐れがある場合たとえば
1、斜面を横切らない
2、沢筋に入らない
3、降雪中は山に向かわない
を遵守することで回避する心構えが説かれていた。
 友人知人の例でいうと
 年末に北岳に登った。登るときには尾根を辿ったが下山時は山腹を巻こうとして雪崩にあって死亡した。南岸低気圧の通過で危険は分かっていたはずである。しかし、元旦は家族揃って迎えたい一心でトラバースによる下山を強行した。理性が感情に引き寄せられる形で遭難した。
 危険な海外遠征登山が終わったら夫婦で日本の山を巡ろうとしていた登山好きの夫婦の場合。国内の山で雨が降って重たくなった残雪の沢筋を登って行くうちに雪崩にあって死亡した。妻と水入らずの登山を楽しんでいての事故だった。長期に留守を預ける妻に迷惑をかけてるという負い目が冷静な判断を欠いた例といえる。山はいつでも危険だからそれを回避するのは理性的な判断しかない。
 理性がいかに大切か、それも氷のような理性が。他者のみならず自分を含めての容赦ない判断力はげに理性の働きである、と知る。
以上筆者。
(ハ)遭難防止のための一つの対策
 遭難防止のためには登山者自身の最善の注意が必要であるが、それはすでに述べたように、まず第一に、登山界がその時点において示しうる最善の注意を、一般登山者にして十分な形で、つまり誤解のないようしかも要点を簡略に示すこと、さらに、最善の注意の内容をより高度にするためにつねに研究し努力することが必要である。(従来これらのことは、熟練者もしくは熟練者の集まりによって執筆される記事の形で示されているが、それらのものの間には統一がなく、お互いに矛盾する部分もあったりして、必ずしも充実したものとはなっていない。)
 第二には登山者自身が登山界の指示を忠実に守ることが必要である。遭難防止を高い状態で保つためには、この二点が同時に必要となる。以下述べることは、登山界が一般登山者に対してなすべきこと、つまり最善の注意は現状としてはかくかくのものがあるという点と(登山界の統一見解でなくてはいけないが)、最善の注意の内容をより高度にするために、かくかくのものを追加するのはどうであろうかという点に関するものである。なお以下の記載では区別して記すべきであるが、従来ともはっきりしていないようであるのでとくに区別しないことにした。
①登山界が「最善の注意」を登山者に示す場合の説明の形式
本論に入る前に、登山界が一般登山者に示すべき最善の注意は、どのような形式で説明されることが望ましいであろうかという点を考えたい。形式などはどうでも良いという意見もあるかもしれないが、私は、この形式というものが重要な意味をもつことを知った。
 従来、登山者は、最善の注意を払うに当たって、注意すべき点を項目順に反芻するというのではなくて、いわば総括的な勘でもっておこなってきた。しかし、こういう勘によるという方法は、熟練者の場合でも致命的な盲点を残す場合があることを、多くの遭難事件によって痛感したのである。
 具体的な点については後述することとし次には、これらの教訓の結果として最善の注意の説明は、かくかくの点に留意されてつくられることが望ましいというその項目を記すことにする。
(a)登山計画を立てるとき、登攀に直面したときなど、内容を容易に反芻できるような形とする。大項目から小項目へ。原則的なものから具体的なものへ次第に細分してゆく。また系統図などで個々の関係を明らかにする。
(b)主文は簡略にし、かつ文章は義務感を与えるような形態とする。(たとえば六法全書の文章のごとく)
(c)主文のうちの誤解を受けやすい点の説明、重要な事例などは、注として末尾に一括する(別冊としてもよい)
(d)出来るだけ使用例をつける。たとえば、冬期前穂高岳を登るための注意、残雪期に鹿島北壁を登るための注意、等。
 大体以上のようなものであるがこれらのものは単に私の思いつきの域を出ず、すべては今後の検討を待たなくてはならない。要するに、登山界全体の努力によって完全なものに育ててゆかなくてはならない。遭難防止という大切な点が現状のようにあいまいなことでは、登山者の努力は万全の注意からぐっと離れたものとなってしまう。「現在のようにはっきり定まっていないほうが面白い」という意見もあるかも知れないが、生命に直結する問題である以上、そのようなことは言っておれない。遭難が続出すようでは登山制限を食いかねないのである。
 しかしながらこの仕事は、岩場での確保の技術、なだれの予見など、現在判明している膨大な知識の中から、登山者の危険防止に直接役立つ部分のみを簡潔に抜き取るという点だけを、考えても決して容易ではない。もし仮にこの仕事が、まことに膨大となって容易には完成しないという場合には、山別、季節別でも良いから、出来たものからまとめてゆくことが必要と思う。
 さて、上に述べた最善の注意に関する説明を以下「登山に際しての配慮基準」もしくは単に「基準」と呼ぶ。なおこうした努力が必要であるということは、昭和34年秋に発生した東大の滝谷における遭難報告書の中でも強調されている。
②登山者の心構え
 基準の中に登山者の心構えという項目を折れることは必要と思う。しかしその記事は要点のみでよいであろう。以下述べることは冗長であるが誤解のないように考えてそのようにした。もちろん内容については十分検討されなくてはならない。
 さて登山者の中には「自分はスリルが好きだから山へ登る」だとか「山で死ぬのは本望だから好きなようにする」といった最近流行のビート族的な考え方の者がいるが、こういう考えを前面に押し出すようでは最善の注意は期待できない。たとえば未知の山へ登るのに磁石を持たない方がスリルはあるが、そういうことでは万一遭難した場合、本人はそれでよくても軽率な遭難という非難はまぬがれないことになる。登山者に必要な心構えは、登山の目的、動機が何であろうとも、登山の行動そのものは「山が持っている性質と自分の能力とを科学的に判断して決して無理をしないという決意を持つことである。
 つまりスリルを求めて山に行くのは良いとしても危険防止のための最善の注意を守ろうという理性がそのスリルに引きずられて少しでもおろそかになってはいけないということである。科学的な評価をあいまいにするような考え方は、登山という行為に際して、頑として排斥する気持ちが確立していなくてはならない。
 たとえば、スリルを求めるとか、スポーツ登山とか、マンメリズムといったものは、個々の行動に際して、科学的な判断をあいまいにする性格をもっている。そういうものに漫然と引きずられるようなことがあってはいけない。理性が感情にひきよせられたとき軽率な遭難という魔の口が開くことになる。また精神的なもの(根性など)が必要なであることは当然であるがそういうものは要するに人間の能力の一つの要素に過ぎないので、過大評価してはいけない精神的なものが、自らの能力を百パーセントにするための原因となることはよいが、最善の注意を守ろうという理性を麻痺させる原因となってはならない。
 登山は角力とか野球のようなスポーツと異なり、失敗は死につながるからである。
 なお、この点に関しさらに大切なことは、既に述べたように、危険が大きい登山を試みる者は、かりに最善の注意を払ったからといって、それは万全の注意ではないということである。登山の方法によっては、その巾は相当に広い場合がある。そういう登山をする者の危険率は平地の危険率よりかなり高い場合がある。
 それだけに登山者は自分の判断力、行動力を謙虚に計算し、かつ万一の場合の配慮を予めしておかなくてはならないのである。また、最近の登山者の中には「遭難は交通事故と同じで、いわば運のようなものだから目に角を立てて危険防止を強調しなくてもよいではないか」という者がいる。
 しかし、危険防止のために最善の努力をすることは、いわば人間としての義務(道義)である。遭難という結果は同じでも、その義務を遂行したかどうかということで重大な差がある。生命を守るための最善の努力は、人類の進歩を約束し、それを怠るときには進歩はない。医師が最善の努力を下にも関わらず、患者が死亡したという場合と、そうでない場合とは、結果は同じでも重大な差があるのと同じことである。危険が大きい登山を試みようとする者は、この心構えに徹しなくてはならないと思う。

訃報2012年03月09日

 山仲間のH.Hさんが亡くなられた、と今朝のメールで連絡があった。昨年11月の50周年記念では青いかおだったから体調を尋ねたら「あんまりよくないんだ」とのことで早々に帰られた。あれが最後だった。逝くのはちょっと早いんじゃないの、と言ってやりたい。
 『分県登山ガイド 愛知県の山』の執筆協力者だった。改訂版の話があるといつも積極的に歩かれていた。自分の責任範囲の山は何度も歩かれた。新規の山の掘り出しにも熱意を出された。そんな熱意が読者にも伝わって、お陰で3版を数えた。愛知県のようなマイナーな地域でも16000部の売れ行きを示した。中部電力にお勤めだったせいか、鉄塔巡視路の情報に詳しく、技術者として愛着もあったようだ。
もう一つあった。2005年のJAC100周年で日本中央分水嶺をやったときだ。東海支部の割り当ては野麦峠から塩尻峠付近だったかな?彼は委員長になり、これも積極的に踏破された。手強いヤブのところのみ我々が積雪期に踏破した。その記録もうまくまとめ、CDに落とされた。事務能力も優れた人だったと改めて思いだす。
 ご冥福をお祈りします。