栂池スキー始め2009年01月12日

 今シーズン最初のゲレンデスキーを栂池で愉しんだ。
 栂池は随分以前に連れられて一度行ったきりなので全く記憶になかった。八方尾根から唐松岳スキー登山に成功したので次は白馬乗鞍岳と思ってはいるが中々行けない。来年は行きたい。
 そんな期待を込めて10日午前2時半に出発。3連休で渋滞を考慮して中途半端な時間帯を走ったがそれでも通行量は多めであった。SAでも圧倒的に若い人たちでごった返していた。流石におじさん風の人は少ない。豊科ICは渋滞と電光掲示板でキャッチしたので塩尻北ICで降りた。ガラガラのR19を走り、県道51号を抜けてR148を北進。何とか渋滞は免れた。
 栂池へは休み休み走り10時に着いた。宿に荷物を預けてゲレンデに直行した。粉雪が風混じりに降り、非常に寒い。人出は流石に少なく、最上部に着いて滑り出すと知人のOさんから声がかかる。同宿の人である。一緒に滑走を愉しんだ。上級のOさんに引っ張られて馬の背も同行したが体がまだがちがちでバランスが悪く、板に乗り切れない。何とか転倒せずに滑走するのがやっとで早くも太ももが痛み出す。ほぼ半日滑り、宿に戻る。30数名の参加者で和気藹々と夕食など愉しむが睡眠不足がたたって睡魔に勝てず、早めの就寝となった。
 11日は7時に朝食を終えてゲレンデに繰り出す。幸い空は青空が出ている。2日券を購入。聞けば後期高齢者入りしたOさんにUさんも加わり、ゴンドラで最上部に登り、更に1本乗り継いでまた馬の背コースを滑走。今日は綺麗に整地されてなんとかぎこちなくも回転できた。2人とも上級者でついて行くのがやっとの思いであった。基本的に馬の背ゲレンデとはんの木ゲレンデを繰り返し滑走した。
 はんの木ゲレンデには文字通りはんの木が両側に生えている。湿地帯を好むハンノキがなぜこんな尾根に成立するのか不思議である。Oさんとはんの木の花を手にとって見た。北信濃出身の小林一茶の俳句に
     はんの木のそれでも花のつもりかな
があるがキブシのように垂れ下がって地味な花である。花は2月から4月が開花期というがこれでももう咲いているつもりであろう。一茶が詠んだ気持ちが少し分った。
 ゲレンデスキーを終えてから太ももの痛みを緩和したくて温泉に入湯した。ここは芋の子を洗う以上に混雑したが10分ほど並んで体を洗った。しかし体は非常に温まる。
 夕食は昨夜に続き洋食スタイルであった。食後は北アルプスの燕岳(つばくろだけ)にある燕山荘(えんざんそう)のオーナーであり、今回の宿となったホテルアルペンホルン栂池高原の経営者でもある赤沼健至氏の解説で記録映画を鑑賞させてもらった。冬の有峰から槍へと立山温泉からざら峠越え、平の渡し、針ノ木越え、大雪渓などの場面が出てきた。岩魚の手掴み、山小屋の建設と焼却、様々な登山道具の場面に時代性を見た。有峰もダムに沈む前の貴重な記録である。
 映画の制作者は名古屋市の伊藤孝一で検索してみると
「日本最古の登山記録映画上映イベント「山嶽活寫」を見に行く。
名古屋駅近くの中小企業センター(オンボロ)講堂(面積広いが席は超狭)当時の豪商大富豪伊藤孝一が莫大な費用を投じて撮影した”ホームムーヴィー”。メインの「雪の薬師・槍越え」は積雪期の薬師・槍初縦走を全編35mmで撮影したもので、このためにルート上にいくつも山小屋を建設するなど,総製作費40万円(今の金額で言えば40億近く)を投じた超大作。その山行方法も充分な食料と炭をデポ・供給して何十日でも小屋に滞在し,絶対安全な天候になるのを待って行動すると言うゼイタク極まりないもの。なにしろ11月に山麓に入って、槍越えをしたのが4月なんだからすごい。手回しで撮影されたそれらの映像はまさしく驚異であった。槍ヶ岳また行かなきゃ!」がヒットした。
 名古屋でもかつて上映されたことがあったようだ。少し付け加えると伊藤孝一は松坂屋につながる人物で瓜生卓造の「雪稜秘話伊藤孝一の生涯」という小説もある。
 このフィルムの原版は伊藤孝一が撮影後オーナーの祖父で案内を努めた赤沼千尋に預けたままになっていたのを死期がせまったのを期に土蔵を調べた結果、偶然に発見されたらしい。それを児玉清のナレーター付きに編集したもの。
 12日はほぼ半日をゲレンデに終始した。太ももの痛みは温泉の効果で緩和されて快適に滑走できた。かかとで押し出す感覚とスキー板に乗り込んで行く感覚をようやく取り戻した。但し、ゲレンデは3日間で最悪の天気となった。顔面に雪が当たり非常に寒い。11時に引き上げた。12時30分に栂池を出発した。どこも渋滞はなし。
 中央道は伊那地方が雪でチエーン規制がかかっており、R19号の木曽路経由で帰った。松本市周辺は殆ど雪はないが木曽路は流石に冷えて雪も多かった。但し、渋滞はなかった。おそらく天気が悪く早めに引き上げた向きが多かったのだろう。