東紀州の八鬼山と高峰山2009年01月25日

 1/24(土)朝7時、名古屋を出発。東海ICから松阪ICまで走り、ETC割引を得るために一旦出て入りなおす。新しく伸びた大台ICまで走る。合計で2000円ジャストだった。R42を尾鷲市に向った。
 R42沿いの尾鷲市のコンビニでおにぎりなどを購入。八鬼山の登山口まで行く。R42の矢の浜南交差点で熊野古道八鬼山の標識を見て左折する。すぐの交差点にも案内があり右折する。後は橋を渡ってしばらくで案内標識にに導かれて右折。若干でトイレの併設されたPに着いた。外は非常に寒い。
 11時10分にPを出発してすぐに八鬼山への登山口に着く。左の熊野古道に入る。左山林、右は開けているが平坦に近いので何となく農道でも歩いている感じがする。石畳と100m置きの63分のいくつとか、八鬼山越えの道標があるがごつごつと石から靴底に受ける感じは日本アルプスの荒れた登山道を想起させる。
 傾斜を増すと次第に周囲が山林となる。大方は檜の植林である。うす暗い中を登って行くと蛍光塗料の落書きがやたら派手派手しく目立つ。何が書いてあるのか分りにくいがいくつかを見ると地権者、世界遺産に反対、ユネスコといった語彙は読める。どうも世界遺産に指定されても地権者の利益にはならなかったこに対するアンチテーゼのようだ。落書きのある檜も地権者のものだろう。檜といっても余り手入れはされておず、林下は荒れて間伐もされていないし、美林とはいえない。どちらも見苦しいことこの上ない。
 古道の歴史を語るポイントごとに説明板がある。説明を読んだり、写真に撮ったりしながら登った。林道と交差してしばらくでまた蛍光塗料の落書きを見た。何が書いてあるか判読しがたい。おかしな地権者である。古道を歩く利用者に語りかけるならもっとキチンとした文章で看板でも立てたら良かろう。
 林道の交差地点から急坂になり、いよいよ山に登る感じがしてきた。石畳の道は相変わらずであるが階段状になり、一歩が歩きやすく感じるのは登山のための道と違って昔の生活道路であるからだ。三角点のような「曲点」の標石が埋まるカーブも丸くて柔らかい曲がり方ができる。恐らくは紀州藩の役人の言いつけで村総出で道普請に借り出されたであろう。雨の多い地域だけに流出しないように重い石を敷き詰めたのである。その苦難たるや後の世の人間には想像もできない。
 降りてきた人は2名か3名、追い抜いていった人も1名程度で閑散としている。それはこの八鬼山越えが熊野古道で一番の難所だったからだ。坦々と単調になりがちな古道歩きである。喘いで登りつめた峠で昼食をとるために一休みした。峠の向うに湾が見下ろせた。古い時代の山旅人も同じ感懐を持ったであろう。峠は風の通り道なので風に乗って再び小雪が舞って来た。
 八鬼山へは峠を右へ更に登った。やがて荒神堂に着いた。古い建物が二棟道を挟んで建つ。そこをやり過ごすとまた広い石畳の道となって登る。平坦な稜線を歩くと三叉路に着いた。ここが八鬼山越えの頂点だった。ここも非常に寒い。小広い平地に海を見下ろす東屋が建つ。熊野灘を見下ろせた。  
 寒いせいか先を急ぎたい気分もあって山頂への道も不明なのでそのまま道を辿った。又戻って桜の森へ340mの案内にしたがって行った。平坦な道の左奥が八鬼山の山頂らしいが三角点もないのでパスして下る。だらだら歩いていくと左に椿園がある。二股に分かれるので左を行くと熊野灘に面して東屋の建つ桜の森園地であった。芝生のややラウンドした園地は広々してどこでも腰を下ろせる。東屋に立つと熊野灘が180度に展開した。素晴らしい景色に感嘆した。
 桜の森を見て周ると江戸道と称する案内があった。先ほどの左への道は江戸道だったのだ。改めてガイドブックを見ると三叉路の先は明治道であり、ここだけは道の付け替えが行われたようだ。江戸道を下ると急坂に次ぐ急坂で険しいことが分かった。明治道はそれを改良したのだろう。概ね照葉樹林の中の道はいかにも紀州の山に居る感じがする。
 十五郎茶屋跡があり、海が見下ろせた。しかし、まだ標高は400mもある。急坂を下りに下った。やや広い明治道と合流した。江戸道は登山道に近い付け方であった。どんどん下ると登山口に着いた。子犬が我々を迎えるように吠えた。猟師が一人留守番をしていた。世間話をして別れた。
 殆ど平坦になった古道はやがて人家の間を抜けて車道に合流した。ここにも世界遺産に反対する地権者の看板が立っていた。キチンとした文章で意味のよく通る意思表示であると思った。車道をJR三木里駅まで歩く。15時30分着。ようやく思いがけなく長かった古道歩きも終った。駅の時刻表によると16:08まであと30分の待ち。
 JRで尾鷲駅までは17分、320円也。駅からはタクシーでPまで走った。1250円也。後は今夜の民宿Fへ行く。夕食は刺身、いわしのつみれミニ鍋、野菜物、焼きたての鰺の干物、サザエの壷焼など。これで6300円也。
 1/25(日)は快晴。寒さは今日も1級。7時35分、先ずはR42に出て矢ノ川峠を目指す。矢ノ川にかかる橋の手前を右折。早速、悪評高い名物の悪路が歓迎してくれた。ロデオまがいの悪路を手なずけながら時速10kmでのろのろ走る。素掘りのトンネルを4箇所潜る。悪路は続くよ、続く。タイヤをバーストさせないように石に注意しながら走った。かなり高みに近づいた頃、意外なものを見た。人間だった。それも8人もいる。皆沢を登ってきたらしい。多分地元の登山者と思って先に進んだ。
 矢ノ川峠はかつてのイメージのまま迎えてくれた。稲田のぶへさんへという句碑もそのままだ。「冬の日のぬくもりやさし茶屋のあと」ののぶへさんは茶屋のばあさんだったのだろうか。かつては乗合バスが通った道であり、茶屋で一服もしたであろう。再び来て見ると茶屋はなく、お茶でもてなしてくれたのぶへばあさんもいない。諸行無常、無常迅速。
 句碑の左から山道に入る。電波中継塔までは手入れの行き届いたいい道を登る。中継塔からは早くも熊野灘が俯瞰できるが先を急ごう。これまでの道と違って登山者が往来するだけなので野生的な感じである。痩せた稜線の通しの道で樹林の間からは青い空、青い海、山々が見通せる。一旦下って登り返すと大きな枯木が立つ。座る石もあるので一服。すると林道で見た登山者が追いついてきたのには驚いた。「地元の山岳会?」と聞くと毎日旅行という大阪の旅行会社のツアー登山だった。矢ノ川の橋の近くから沢に入ってほぼ直登したらしい。我々と同年齢にしては山慣れた気がしたがガイドがチャンとリードしてきたのだった。
 彼らと相前後しながら古川山に登った。ここは笹が枯れていた。団体がまた追いついて抜いて行った。南谷のコルで再び抜き返した。緩く登り返すと分岐がある。山頂まで15分の標識に励まされてピッチを上げると意外にも早く登頂できた。180度の大パノラマに休むのも忘れて写真を取り捲った。
 大台ケ原は巨鯨のようだし、右へは加茂助谷の頭、ドーム形の重量感のある山は仙千代ヶ峰、その右奥の尖った山は局ヶ岳、大峰山脈北部は雪雲がかかるも釈迦はすっきりした三角錐を見せる。振り返れば尾鷲湾と取り囲む天狗倉山、八鬼山の座す半島の山々を眺めて圧倒的な大展望を愉しむ。そうこうするうちに続々と団体さんが登ってきた。たちまち山頂は人で埋まる。みなさんも展望に満足そうだ。
 昼食を楽しみ、団体さんと談話もちょっぴり。「展望がご馳走ね」とご婦人の一人。「そうですね」と相槌を打つ。彼らは長い林道歩きを考慮してか先に下山していった。我々も少し遅れて下山を開始した。やや左膝が痛むのは昨日の石畳の道の長い下りかも知れない。ゆっくりくだった。南谷のコル付近は赤、黄色のテープが多く乱れる。コルから谷へ下るバリエーションもあるからだ。左雑木、右檜の境界に沿って古川山に登り返した。冬の日溜りが暖かい丸い山頂だった。 
 古川山の長い下りを終るともう電波中継塔への登り返しがあるだけだ。中継塔からは再びいい山道を下った。13時30分に矢ノ川峠に着いた。車でまた悪路を下る。中途で高峰山を仰ぐために中部電力の反射板への管理道に徒歩で入り、眺望のよい一角から撮影した。眺めても堂々としている。名前のある山では尾鷲市の最高峰ながら最高地点ではないのがたまに瑕である。
 道草も終えて下って行くと団体さんたちが歩いて下っていた。そおと走ってお先に失礼した。R42に戻った。古道センターに寄り、喫茶店「山帰来」に寄ったりしているうちに午後4時も過ぎた。最後に地元のスーパーに寄って獲れたてのイカ、初めて見た地の魚(イガミ=ブダイ)をいくつか購入。往路を帰った。SAでは大騒動になった赤福を求めたが完売。これは諦めるしかない。