謹賀新年2009年01月01日

    謹賀新年

    本年もどうぞよろしくお願いします。


by Y.i 2008.12.27撮影 富士川SAからの富士山

尾張三山を歩く2009年01月01日

    
          高層の自宅の窓から初日の出
 午前5時過ぎ携帯の目覚ましが鳴る。やり過ごしていると今度は時計の目覚ましラジオがしゃべり出す。今日もお天気はいいようだ。カーテン越しに東向きのマンションの窓辺に奥三河辺りの朝焼けが昇り出した。元旦の朝日を部屋から眺めた。
 簡単な朝食で身支度して地下鉄駅に向った。八事駅で乗り換えるがやや早目なので八事興正寺の参拝客もまだ動き出していない。左回り線に乗って平安通駅で乗り換える。待つこと20分で列車が入ってきた。上飯田駅から延伸されて以来初乗車である。名鉄との相互乗り入れで小牧も簡単に行ける。
         小牧線に乗って楽田駅に向う 
 8時49分発に乗る。電車はボックスシートで眺めを得やすい。矢田川を渡ると田園風景の中を北進。格差のない路線なのですべての駅に止まる。小牧駅で乗り換えて楽田駅には9時25分ジャスト。出口でS君が笑って待っていた。初笑いである。
         大縣神社に向った
 徒歩で大縣神社まで歩く。まだ早いせいか参拝客は少なめである。中へ進むにつれて混雑し出した。社殿で一通りの願を掛けてお参りした。ここは有名な女陰をかたどったご神体があるそうだ。うろうろしたがご神体を模した飴は売っていなかった。それに構ってもおれない。
          尾張本宮山に登る
 尾張本宮山へのコースに進んだ。途端に静かになる。車道を幾分か歩いていくと山頂への道しるべに導かれていく。展望台はもう用を成さないほどに樹木が茂っていたので山頂へ向った。何箇所かの小さな社が痩せ尾根に設けてある。すぐにやや大きめの奥の院が立っている山頂だった。1等三角点は社殿の後に埋まっていたが眺望はない。ここまで楽田駅から約1時間であった。石に腰掛けて休んでいると2,3人が登っては下って行った。内一人は白山、尾張富士も目指すという。
           尾張富士に登る
 我々も彼の後を追うように下った。愛知用水の側道に降りた。地形図はないのでガイドブックの怪しげな略図から探っては見たが白山への登路は見つからなかった。諦めて尾張富士に向った。山頂ではさっきの人がいた。白山はこれから行くらしい。大体のルートを聞いて我々は車で行くことにした。実はS君は大縣神社のPに止めて置いたらしい。
 石揚げ祭で有名な山頂には小石、大石が一杯転がっている。正規の石段のある登拝道を下ってまた神社にお参りした。10円は遠縁につながるとS君はいい、1円を挙げた。私も11円の賽銭を挙げた。神社を辞してマイカーのある楽田まで歩いた。乗り換えて白山に向った。
          尾張白山に登る
 白山は池野の小集落のはずれから登れた。我々が諦めて左折した所を反対に右折すれば行けたのであった。舗装が途切れて堰堤までは広い道を行き、しばらくはその延長を歩いたが左折地点からは細い山道になり素晴らしい雑木林の小道を登った。落葉がかさこそと鳴り、冬の里山らしい。山腹に取り付くように道も急になり、ロープまで張ってあった。右からのいい道と会い、すぐに尾張白山の社が立つ山頂であった。
           尾張白山からの眺望
 眺望は今までよりも素晴らしかった。濃尾平野が丸見えである。反対側からは入鹿池が見え、先の尾張富士も見えた。その向うには納古山らしい低山も見える。ここからは風格のあるいい山容である。左側から三国山、猿投山と続き、奥三河の段戸高原らしい山なみが見え、東山タワー、ツインタワー、トヨタのビル群、煙突群は四日市市、多度養老山系が半分が見え、北と奥の鈴鹿山系は雪雲に隠れていた。三山の中でも抜群の眺望である。展望を堪能した後は往路を下った。展望の同定をする間にも次々登拝のハイカーや常連らしいハイカーが来ては去っていった。中々の人気の山である。
         可児に新開湯した温泉では初湯を愉しむ
 下山後はS君の自宅に近い可児市の温泉に入湯した。850円と高めながら入場制限もする人気ぶりだった。初湯を愉しむ客で賑わっていた。その後は犬山駅まで乗せてもらった。関東周辺の山をいくつか知ってみると電車で行く山もいいなと思う。あいにく今日は元旦ゆえにみな休業で一杯飲んで帰ることはできなかったが。
 昨年の元旦は定光寺駅から春日井三山を縦走して内々(うつつ)神社まで歩いた。来年もどこかの三山をやりたい。1/4は牛年に因んで奥三河の牛ヶ鼻(点名)を予定。夏は赤牛岳、ついでがあれば富山の牛岳も。そして巻機山の牛ヶ岳もある。今年も登るぞ、とS君と話し合って別れた。

吟詠!新春の尾張三山を歩く2009年01月02日

尾張白山の社
   高層のマンションより初明り

   赤々と三河の山の初茜

   山行に申し分なき初日の出

   地下鉄を出でて広がる初御空

   初電車北へと向うローカル線

   初駅や楽田(がくでん)という無人駅

   買い初めはコンビニのパン二つなり

   境内の幟新たに淑気満つ

   初晴れや尾張三山駆け巡り

   尾張より多度養老は初霞

   ひむがしの空にどっしり初猿投

   尾張なる三山駆けて初詣

   山行が吟行始めとなりにけり

   芋の子を洗うごときの初湯かな

映画「アラビアのロレンス」鑑賞2009年01月03日

 『アラビアのロレンス』は1962年公開。イギリスの映画。かつて劇場で公開されたときには観た記憶がある。今回DVDをレンタルしたら2枚分もあって3時間超で鑑賞にも疲れた。
 第1次世界大戦下のイギリスとアラブが舞台。女優は殆ど登場せず、主に砂漠を舞台に行進と戦闘場面が繰り広げられる。それだけの映像なのだが白人がアラブ人に敬慕されて英雄になっていく姿に映画的な感銘がある。
 アラブ世界は群雄割拠の時代で日本で言えば豪族の時代と重なる。国としてのまとまりがないところを付け込んで利権を得ていたイギリスだった。アメリカの新聞記者が登場してかつてアメリカはイギリスの植民地だったことを話す場面があり、イギリスが最強国家だったことをにおわす。騙したり、手を貸したり政治は汚いのである。今のアメリカが中東で戦争の火種を作っては戦争を仕掛けるのはイギリスの統治に学んだ結果であろう。

映画「アラバマ物語」鑑賞2009年01月03日

 『アラバマ物語』(1962年)。こちらは1929年以降の世界大恐慌のアメリカが舞台。しかも、アメリカの南部の農村で起きた黒人の冤罪事件を担当したグレゴリー・ペック扮するやもめの白人弁護士と二人の兄妹が核になって展開していく。黒人差別が主題に思える。
 最初には裁判でお世話になったものの弁護料が払えなくて農産物で代用する農民の姿が現れる。台詞にもG・ペックは子供から「うちは貧乏なの」と聞くが「ああ貧乏だ」と答える。「恐慌で作った物が売れない」と子供に呟き、さりげなく時代背景を悟らせる。しかしあの「農民ほどじゃないよ」と慰めても居る。
 妻を亡くした父親と子供のホームドラマ的な要素もふんだんにある。原作者のH・リーが子供の頃を回想していることもあり、台詞もどこか説教めいた感じがするのは立派な父親だったからである。
 弁護士の見事な弁護振りに無罪を確信したが黒人蔑視を超えることはできず、無念の有罪となる。黒人には参政権もなかった時代である。黒人の冤罪は晴れぬまま護送中に逃亡し、銃殺される。暗い結果で終るが最後には精神異常者ブーの活躍で濡れ衣を着せた犯人が襲った子供を守ることで救われる。犯人も自分のナイフで自滅したことにして。
 本番中か解説中かは忘れたが濡れ衣を着せた犯人は「アイルランド移民であり、ギャンブル好き云々」という台詞があった。ここにもアメリカがかつてはイギリスの植民地であり、黒人差別のみならず、アイルランド移民も差別の対象だったことを知る。イギリスの政策で実に700万人ものアイルランド人がアメリカに渡った時代があったそうだ。
 大恐慌ではケネディ元大統領の父親はインサイダー取引によって株式投資で大儲けしたらしい。そしてその手口を掌握しているからと証券取引委員会の初代委員長にもなった。ケネディ一家がリスクに敢然と立ち向かう精神はこの反逆的な移民精神からくるのだろう。
 人種の坩堝といわれるアメリカも2009年1月21日からはいよいよ黒人大統領が舵をとる。アメリカは舵取りの難しい国であるが恐慌から一刻も早く立ち直って欲しいもの。日本にとってアメリカは金の卵を産む鶏なんだから。

奥三河の干支の山・牛ヶ鼻に登る2009年01月04日

茶臼山からの南アルプスの大観
 12年前に一度は登ったがすっかり忘却していた。地形図の茶臼山高原道路の1045の独立標高点辺りを探るとガードレールの切れ目に奥へ続く踏み跡を見つけた。道なりに入っていくとアセビのトンネルを潜り、右へと巻いてゆく。左の山から小さな沢が流れて山腹に突き当たる。小沢を跨いで山腹を巻くと道は不明瞭になった。構わず高みへと左へ小尾根を直上する。どうやら1174,7mの三角点の西につながる1150mの等高線の西端に着いたようだ。左からの踏み跡が歩きやすいので選んで右へと行くと1160mのコブらしい。すぐに1174,7mの三角点だった。約18分でした。
 下りは1150mの等高線から歩きやすい踏み跡を辿るが北東に伸びる林道の実線に下っていくらしい。戻って適当に歩き易いところを選んで下ると1045よりも150m位東の道路にでてしまった。ちいさな奥三河のワンダリングでした。
 折角の好晴なので茶臼山にも寄った。ここも約20分ほどで頂上。展望台に登ると360度の大パノラマだった。南アルプスの大観はいつ観ても素晴らしい。南だけでなく中央アルプスの南駒、恵那山、北アルプス、白山、能郷白山と申し分ない。
 下山後は豊根村経由で岡崎市の牛乗山に向う。一畑山薬師寺まで車で行くとものの5分ほど。山らしい高まりもなくこちらは拍子抜けでした。下の阿弥陀寺から歩いた方が良さそうです。といっても三角点があるわけでなく何もない山頂でした。

吟詠!奥三河の山2009年01月05日

   山眠る三河信濃の国境

   信濃国チベットめくや冬旱

   霜柱踏む音響く山路かな

   雪山路登りつめれば大パノラマ

   凍て土に三角点は埋まりけり

   冬の牧鉄条網に囲まれリ

   信州の大雪嶺が聳えけり

   雪付けし三大アルプスみな観たり

   雪嶺や聖赤石荒川も

   恵那山の雪は黒木に隠れけり

   遠雪嶺美濃の能郷白山か

   遠雪嶺美濃で頭抜けて白きかな

   枯園は望岳台でありしかな

山岳雑誌「山と溪谷」誌を考える2009年01月06日

 近くの書店に「山と溪谷」誌が大量に売れ残っている。雑誌が売れない時代である。しかし、登山はそれなりに盛んである。雑誌側と登山者側にズレがあるようだ。
 今は100年に一度の経済危機という。80年前の1929年10月にアメリカの株式が大暴落し、世界大恐慌へと進展していった。映画監督の小津安二郎は「落第はしたけれど」や「大学は出たけれど」などを制作して恐慌時代の生き難さを描いた。後の「出来心」1933年でもまだ不況色を抜けきれず、蟹工船へ潜って出稼ぎに行く挿話が出てくる。映画では途中で脱出するのだが。
 さて、当時の世の中は鬱々とした感じであっただろうがどこかに明るさもあるように思った。今以上に悪くはならないという諦めである。それが証拠に山渓の『目で見る日本登山史』の昭和前期の登山事情と出版の項目に山と溪谷社は1930年5月(昭和5年)に川崎吉蔵が創刊したとある。大暴落の翌年である。
 川崎は大正14年、18歳で日本山岳会に入会し、早稲田大学の山岳部でアルピニズムを知る。卒業後は就職したいが「折から世界大恐慌のさなかで就職先は得られない」らしくて「若者らしい夢語りで口にした山岳雑誌刊行を周辺からも勧められ、23歳で「清水の舞台」から跳ぶ。」とある。
 創刊号に述べられた創刊の信条は
「山岳団体にも学校山岳部にも所属しない一般登山者に、<研鑽>と<発表>の場を、またあらゆる層の優秀なる文献を一冊にして徹底的な<廉価>で提供すること。また<ヤブ山のみを自己の山だと信じたり、高山峻岳のみを以ってただ「山」と信ずる「小児病患者」を排撃>して、<「正しきアルピニズムの認識」を前提として真面目に「山と人との」対照を思索して行かねばならぬ>と記す。
 この創刊号は予想以上に売れて2度増刷した。これ以降ライバル誌が相次いで刊行されたし、ガイドブックの他の山岳書も多々出版された。創業者川崎の世相観察は的確だった。
 当時は「大衆の登山趣味は、谷川岳の岩場に果敢に挑むアルピニズム志向の活動からハイキングやツーリズムの要素が濃い活動のレベルまで多様だった。彼らの多くは、本格的な山岳団体にも学校山岳部にも所属せず、同好者のグループや家族で休日登山を楽しむ人々だ」とする。山旅派や低山趣味が浸透していった時代であった。「山と溪谷」誌の創業者はかれら大衆の要求にぴったりと合わせ、娯楽と情報をサービスして基盤を固めていった。
 今のヤマケイは大きくなりすぎて、大衆のニーズを把握し切れていないのだろう。ヤマケイがサービスしていた新しさは今や旅行会社や他の出版社にとって変わられた。おまけにインターネットが3000万人に普及している。グーグルの検索も恐るべしである。
 少なくとも今のヤマケイは創刊の信条に帰るべしである。恐慌の入口にいる現在は創業時代を省みるいい機会である。僅かなこづかいと1日か2日の暇を得て山で過ごし、自然に触れて生き返る感じを持てればいいのだ。当時の人々もそうしたであろう。

寒の入り2009年01月07日

 1/6は寒の入りだった。暦どおり一段と寒さが増してきた。今日は七草粥とか。年賀状の投函も今日までである。ようやく正月が終わる。
 週末には寒波が到来するようである。ゲレンデスキーにも好条件が整いつつある。留守電によるとW君はすでに4日に石徹白でスキーの勘を取り戻すべくゲレンデスキーを愉しんだようだ。かつてスキー登山した芦倉岳がよく見えるよと興奮気味であった。私も3連休は20何年ぶりかで栂池に行く。
 正月休みに単独で日光の男体山へスキー登山に行った帰り、駅前でタクシー待ちしていたら偶然に東京の山岳会のグループに誘ってもらい、宿まで同宿させてくれた。あの当時は皮製登山靴とウールのニッカーズボンのいでたちなので一見して山やさんと分る。それで近しい仲間と思ってくれたのだろう。
 あれから上信越国境の山スキーに同行させてもらったり、そして栂池の上部にテントを張って新潟県側の木地小屋までツアーを愉しんだ思い出の栂池である。以来、なぜか行く機会もなかった。いつかは雪倉岳、朝日岳、乗鞍岳などをスキーで駆けてみたいと思ってもはや20年が経過。定年退職後は是非に蓮華温泉ベースで山スキーを愉しみたい。今回は初めてのゲレンデスキーとなる。雪よ降れ降れの思いである。

「週刊朝日」1/16号を読む2009年01月08日

 1922年に創刊された老舗雑誌でサンデー毎日が同じ年の創刊だからライバル同士になる。小津映画「大学を出たけれど」には就職が決まらず、たしか「サンデー毎日」の表紙を掲げて毎日が日曜の意味でごろごろしていたシーンがあった。共に大恐慌と戦争をくぐリ抜けた雑誌である。
 さて書店をのぞくと「週刊朝日」のタイトルが目に付いた。滅多に買わないけれど「2009年を生き残れ」の特集見出しにひきつけられて読んだ。普段からマークしているミスター円こと榊原英資氏のインタビュー記事が生活者の視点から語られていて読み応えがあった。マスコミの登場はそんなに頻繁ではないが常に目が離せない人物である。ホントは麻生さんよりこの人に首相か財務大臣をやって欲しい気がする。民主党が政権を取ればそうなる機会はある。
 もう一つは『わが友、恐慌』の著者、松藤民輔氏らの鼎談記事も大局観を掴むのに参考になる。他の二氏は学者だが松藤氏は日米の証券会社を転職しながら金融界の実情を知りぬいた人であり、今は金の鉱山会社を経営する異色の論客である。以上の2つの記事とも恐慌はまだこれからと論じている点、大変な年に定年を迎えることになったものだ。
 雑誌のことで思い出したが一昨日書いた「山と溪谷」誌は発行部数を検索すると18万部、「岳人」は15万部という。全部売れれば相当な広告媒体になる。経営母体は川崎家から離れて今はインプレス社となった。是非とも休刊は逃れて欲しいと思う。
 但し、創刊の挨拶にあるヤブ山愛好者への攻撃的な文は気になるところだ。木暮理太郎は田部重治の本の序文に「私達が山に登るのは、つまり山が好きだから登るのである。登らないではいられないから登るのである。なぜ山に登るか、好きだから登る。答えは簡単である。しかしこれで十分ではあるまいか。登山は志を大にするという。そうであろう。登山は剛健の気性を養うという。そうであろう。その他の曰く何、曰く何、皆そうであろう。ただ私などは好きだから山に登るというだけで満足する者である。」と書いた。川崎吉蔵の考えには若さゆえに理想主義的なところもある。
 岳人は折々ヤブ山を扱うがヤマケイでは読んだ記憶がない。創刊の信条を順守しておるからであろう。ヤブ山は毛嫌いされることが多いのは確かだ。ファッションや持ち物も余り消費しないから商業誌には向かない面もある。沢や岩、スキーなら道具の消耗があり、技術もあり、宣伝することで潤う。しかし、ヤブ山と来たら・・・地図とコンパス位で後は軍手と赤布、高いものはない。画してヤブ山入門なるタイトルの本も寡聞にして聞かない。しかし、登山の喜びの大なることはヤブ山にあると思う。一度は特集で冒険してもいいのではないか。