講演会「戦前の高等商業教育:グローバルな視点から見た東亜同文書院」を聴く2024年02月27日

 27日午後から愛知大学名古屋キャンパスで表記の講演会が行われた。私も近現代史の学びの一環として出かけた。
 自宅は11時半に出て地下鉄・植田駅乗車は11:50。多数の乗り換え客で混雑する伏見駅で名古屋駅へ行く。下車後、あおなみ線の名古屋駅へ小走りに移動するが構内は右往左往する客でごった返す。
 春が近くなったせいか多くの人々が動き出しているような気がした。とはいえ、あおなみ線の駅はがらがらで金城ふ頭へ向かう人はいないのか、と思ったら時刻までには続々乗客が増えた。一つ目の笹島ライブ駅で下車し、地上に降りることなくビルと駅を結ぶ連絡橋で移動。愛知大学名古屋キャンパスまでは大した時間はかからない。そのままキャンパス内へ行けるのか、と思った。ところが建物は2棟あって慌てた。一つ目のインターホンで問うと隣のビルらしい。結局は地上に降りて移動した。
 20階まで上がるとやっと会場に着いた。時刻前なので聴講者はまだまばらである。定刻になり、常務理事、副学長、東亜同文書院大学記念センター長の加納寛氏があいさつの後、講演者のカナダ・レジャイナ大学経営学部准教授・ポール・シンクレア氏が登壇。パワポで近代の海外の商業教育の紹介が始まった。講演後は質疑応答に約1時間超が割かれて関心の深さが伺われる。
 終了後は徒歩で名古屋駅へ行った。事前にスマホでチエックすると大須観音駅から市バスで移動するプランが出てきた。あおなみ線経由は無かった。久々にこの道を歩いた。名駅から喫茶店で一休み後事務所へ移動。休憩だけで仕事には手が付かなかった。
 近現代史は知識が広範でかなり難解である。本を書く人の視点、立場でバイアスが入るから考え出すときりがない。
 近代の世界史は商業、貿易で始まった。戦争すらも経済だという。お金を回すという意味で的確な把握である。したがって商業教育は理論的な学問よりも早くに教育が開始された。一橋大学の沿革から抜粋すると
・一橋大学は、明治初期に実業人を養成する商法講習所(1875)として誕生(明治8年)
・1920年には東京商科大学として日本における商学教育・研究の一大拠点となり
・第二次世界大戦後の1949年に学生の投票によって一橋大学と改称され、日本の経済発展とともに、実業界・財界で活躍する多くの卒業生を輩出
・これまで一橋大学は、明治時代初頭にビジネススクールとして誕生して以来、日本のマネジメント教育を先導する高等教育・研究機関としての役割を担ってき

 一方東大はウィキペディアの沿革では
・1877年(明治10年)4月12日に至って合同することになり、文部省所管の官立東京大学が創設された。
・司馬遼太郎は東大を文明の配電盤と表現した。外国から文献を輸入して翻訳したものを学生に教える役割だった。

とあるように近代の高等教育は商業教育が優先された。東亜同文書院は1901年の創立、旧制大学になったのは1939年だった。