塩田に百日筋目つけ通し 沢木欣一2018年06月27日

 表記の作品は、月刊「Hanada」誌8月号のP192に室谷克実氏の連載を読んで、咄嗟に浮かんだ句。
 「24 奴隷がいる風景」の中で、韓国産の天日塩にふれて、悪魔の食材だから食べてはいけない、買っても行けない、と警告する。
 農薬が混入していることの指摘がある。さらに知的障害者を塩田に投入していると指摘するのだ。それは塩田奴隷というらしい。詳細は本誌を読むことである。
 私が驚くのは、韓国では、まだ奴隷労働が行われていることである。しかも知的障害者を人身売買までしている。強制労働とか言って、あれほど日本を叩きながら、本国では省みない。韓国人への嫌悪感がいや増す。
 日本でもブラック労働が蔓延している。しかし、自分の都合で辞めることができるから奴隷とまではいえない。私自身、若いころ、自動車工場で、昼夜勤交代勤務、長時間労働、肉体を酷使する重労働を経験している。『自動車絶望工場』の世界ではあったが、ずっと働かされたわけではない。自分の考えで、会社(仕事)を変えて、生きる自由があった。傍観者として社会をみてきたわけではない。

俳句と歴史の見方
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/05/10/8848676

 作者の沢木欣一についてウィキペディアは
「戦後より「風」誌を中心に社会性俳句を主唱。社会性俳句を社会主義イデオロギーを根底に持つ俳句と捉え政治性をはっきりと打ち出した。特に代表句「炎天に百日筋目つけ通し」を含む「能登塩田」連作(1955年)は話題を呼び、この連作を含む句集『塩田』は西東三鬼の激賞を受ける。日米安保条約改定後の1960年頃からは社会性を後退させ写実中心の作風に移行、正岡子規の写生説の見直しを行いつつ「即物具象」のスローガンを掲げた。」

 とはいえ、沢木欣一は根っからの左巻きではなかったと思われる。26歳で戦後を迎えた。昭和30年、36歳のころ、以下のブログに作品の背景が分かる。

 ブログ「透水の 『俳句ワールド』★俳句のアラカルト★古今の俳諧・俳句の世界を楽しむ」に
 「欣一は昭和三十年の夏、能登珠洲市で開かれた小・中・高教師の認定講習会に講師として出席した。終了後、輪島市町野町曾々木の塩田を訪ね、雑貨屋の二階に一泊し、翌日も原始的な上浜式塩田の作業を取材している。これは「俳句」の大野林火編集長から大作の寄稿を依頼されていたためである。
 自解によると、「塩田に砂を撒き汐をかけ烈日にさらすことを繰り返す。汐をかけた砂によく日が当るよう千歯で筋目をつける。重労働で夏百日続く」とある。これは能登の曾々木海岸にある揚浜式塩田のことである。
 同時に〈塩田夫日焼け極まり青ざめぬ〉がある、これも自解によると「夏の日焼けが黒いのは当り前だが、黒さ極まると青ざめた色になる」とある。他に、〈汐汲むや身妊りの胎まぎれなし〉〈塩焼く火守る老婆を一人遺し〉などなど労働句が多い。
 これら「塩田」を語るには欣一らが提唱し推進した社会性俳句運動を避けて通ることができない。
 沢木は昭和二十九年十一月号『風』の「俳句と社会性」というアンケートに「社会性のある俳句とは、社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から産まれる俳句を中心に広い範囲、過程の進歩的傾向にある俳句を指す」と言っている。
 さらに遡ると昭和二十一年五月、「風」の創刊号に掲げた「文芸性の確立」「生きた人間性の回復」、更に「直面する時代生活感情のいつはらぬ表現」という目標にも社会性を目指す欣一の決意が読み取れる。
 西東三鬼は、昭和三十二年度の『俳句年鑑』で「欣一は『能登塩田』によって大爆発した」とし、「時代の正統派はこの人を継ぐであろう」とまで述べている。一方欣一は、「能登塩田」だけで社会性を表現したのではない。
 社会性俳句とは時事的なことを詠うだけでなく、「自然風土と人間のさまざまな生産労働とに目を注ぐ」ことだ、と言明している。誠に傾聴すべき言葉である。」と肯定的であるが、時代を経ての評価は低下する。

 ブログ「よもやま句歌栞草」の中村 裕(俳人・編集者)の解説から
 「昭和30年代、俳句における社会性がさかんに議論されたころ、話題になった作品。塩田は塩を採るために、海水を絶えず撒き、炎天に曝すところ。水分の蒸発を早めるために、筋目をつける重労働が繰り返されるのである。
 人間の労働に対する素朴な感動が、この句の根底をなすが、自らがその担い手であるわけではない。あくまでそれを傍観しているのである。このあたりが当時の社会性俳句の限界と弱さで、作者も文部官僚、大学教授という体制内の道を易々として歩む。」と一時の流行性感冒のような広がりでしかなった。社会が落ち着きを取り戻せば、社会主義は忘れられてゆく。

 社会性俳句とは戦後に伝統に反抗する若者たちの運動であった。同じことは、映画界でも1960年代に日本ヌーヴェルヴァーグが興った。小津安二郎のような既存の権威に対する反抗であった。中心になった大島渚は1960年当時まだ28歳であった。はしかの一種である。

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