白樺を横たうる火に梅雨の風 前田普羅2018年06月05日

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 ブログ「隠居の『飛騨の山とある日』
 5/30 男女の神様に会えた=笈破(おいわれ)峠
http://hidanoyama.jugem.jp/?eid=706

 俳人の前田普羅があるいた道でしょう。中々貴重な古を偲ぶ山歩きです。個人的にも一度は行ってみたい笈破です。そうではあるが熊が濃厚に棲息しているので単独で行く度胸はない。
 普羅の『渓谷を出づる人の言葉』にある”白樺を横たふる火に梅雨の風”という句の解説があり、笈破でできたことが分かる。まだ高山線も開通していなかった頃である。地貌を唱えた普羅らしい文章である。
 「飛騨にあこがれて行く人は、北からでも南からでも只まっしぐらに高山町(現高山市)まで飛び込んだだけでは飛騨は本当の姿を見せてくれまい。此等残された太古の飛騨高原を渓谷から渓谷に越す時にのみ「飛騨の細径」は真実の姿と心とを見せて呉れるのである。
 飛騨へ行くのは「飛騨に入る」と云うのが当たる。中略。然し一度この高原には入ってしまえば、黒土の山につけられた細径と小径が高まって出来た峠とは、小鳥の啼く湿原と耕された台地と又樹木に隠された往昔の人の通った飛騨街道とに巡り合わせて呉れる。峠は千尺乃至千二三百尺を出ない。
 馬小屋のある小さな農家は、小径の上に養蚕筵を投げ出して昼食をして居る。杉の造林や桑畑の中で思いがけなく人を見る。其の人達にものを問えば手を休めて径まで出て来ていつまでも話して呉れる。
 笈破は高原川の渓谷右岸千三百尺許りの高台地に残る飛騨高原の一部である。年中霧の深い所で六月の末ごろ通った時も、農家の大炉に白樺の大木が顔を突き込んで、胴体を家中に横たえ、梅雨風は火を煽って白樺の頭はブシブシと燃えて居た。
 主人が新しい筵を炉辺に敷いて呉れたので横になり、つい、うとうとと夢見心地になると、急に水を浴びた様な寒さを感じた。起き上がると直ぐ目についたのは戸口を塞いで走って居る山霧と、其の中に動いて居る濃紫のアヤメの花だった。」
 笈破霧というらしい。
http://outdoor.geocities.jp/so…/climate2/climate3/oiware.htm

 5/10の同ブログの投稿記録にあった狛犬の写真は湖底に沈んだ有峰の狛犬(木製で今は富山市大山民俗資料館に保存)に形状が似ている。地理的に近いので関連がありそうだ。なぜこんな高冷地に住むことになったものか。やはり、緩斜面ということで耕作し易かったのだろう。となりの山之村では中河与一の小説『天の夕顔』の主人公が生活を始めるが大変だった。よそ者には住めるところではなく、何かよほどの覚悟を以って住んだであろう。
 普羅の文中に養蚕莚とある。養蚕は富山県八尾市の産業で、元禄年間から富山藩が奨励し養蚕農家が増えたという。「八尾の蚕種は全国の4分の1を占め」たそうだ。そうか、笈破の経済は八尾とつながっていたんだ。
 「元禄6年(1693)富山藩主2代前田正甫公が若宮八幡社へ祭神誉田別尊の御神体を供奉され、御神霊をご勧請。天明元年(1781)山屋善右衛門が奥州(青森県西津軽郡)から神霊を勧請、城ケ谷に養蚕宮(かいこのみや)を建立。」とあるように養蚕のメッカだったようだ。
 普羅の地域別句集「飛騨紬」には蚕と題した句が7句収録。
 ”雷鳴って蚕の眠りは始まれり” 普羅
またまた思い出した。中アの安平路山の麓に松川入という標高1000Mの廃村がある。ここもかつては炭焼きと養蚕で生業を立てていた。蚕種は風穴山(2058M)の涼しい所に保存したという。すると、笈破も仕方なく、住んだわけではなく、養蚕のためだったのか。
 水原秋桜子の「高嶺星蚕飼の村は寝しづまり」は「高い山々に囲まれた、蚕で生計を立てている閑静な村落に夜が訪れた。空を見上げれば、黒々とした嶺の高みから湧き出たかのように満天の星が明るく見守るように輝いている。」との観賞文がある。高原の山村のイメージである。
 養蚕は実家でもやっていたが早くに止めた。となりはおばあさんが存命中は飼っていたからよく見に行ったものだ。こんなものがあのシルクになるのか。それに製糸工場もあった。中国産の安価なものが輸入されるまでは盛んだったのだ。