浅野梨郷と愛知一中 ― 2015年06月28日
浅野梨郷の略年譜を眺めていると明治37年に愛知県立第一中学校(現旭丘高校)に入学したとあった。彼はどこの愛知一中の校舎に学んだのか、調べた。
仕事柄、丸の内の郵便局によく行くが、その場所に愛知一中の開校跡の石碑を見た。以前に松竹の脚本家の野田高梧の年譜を調べた際に編集自製した年譜を貼り付けると
旭丘高校の沿革
(1) 愛知県第一中学校
明治 3年 6月 (藩立)洋学校開設。(名古屋藩七間町)
5年 県に管轄が変わる。愛知県洋学校と改称。
6年 愛知県洋学校を成美学校と改称。
7年 9月 県に管轄が変わる。成美学校廃校。官立愛知外国語学校開設。
(後に、官立愛知外国語学校を愛知英語学校と改称。)
10年 2月 愛知英語学校廃校。
愛知県が校舎および設備を文部省から譲り受け、愛知県中学校を開設。
11年10月 南外堀校舎(中区)に移転。 *1
19年 9月 愛知県尋常中学校と改称。
(22年11月1日 浅野梨郷誕生)
(26年11月19日 野田高梧誕生)
29年 4月 愛知県第一尋常中学校と改称。
32年 4月 愛知県第一中学校と改称。
34年 8月 愛知県立第一中学校と改称。
(37年4月浅野梨郷15歳で入学)
(41年4月野田高梧入学)
41年9月 西ニ葉町校舎(東区)に移転。
(42年3月浅野梨郷卒業、東京外大に進学)
(大正2年3月野田高梧20歳で卒業)
(大正2年早稲田大学英文科入学)
( 同6年 卒業)
大正11年 5月 愛知県第一中学校と改称。
昭和13年 7月 新出来町校舎(現校舎)に移転。
23年 4月 愛知県立第一中学校と改称(ママ)。
通信制・(昼間)定時制を付設。 (正しくは愛知県立第一高等学校)
*1南外堀校舎とは現在は名古屋市中区丸の内3-2-5で、丸の内三郵便局の敷地の玄関前に、愛知一中校舎跡の石碑が建立されている。移転はその後2回あるが、若き日の野田高梧はこの地の校舎と西二葉町(武家屋敷の多い東区白壁地区)校舎で学んだことになる。
当時から愛知一中は名門として知られ、「「バンカラ紳士」で鳴らした愛知一中の伝統を受け継ぐ自由な校風」の元で育った。その後早稲田大に進んだ。優秀な人物像が浮かぶ。旭丘高校出身人物リストの文化人に名前が挙がっている。同級生に小田喬がいて後に松竹入りの動機になったとされる。
上記年譜を見ると、丸の内三丁目の校舎で、梨郷の卒業1年前に野田が入学したので、同窓だったことが分かる。上級学校は違うがともに英文科を志向した。愛知一中の前身が英語学校だったから偶然ではないだろう。近代化の波の中で新しい時代に対する進取の気性があったようだ。中央志向はこんな環境で育まれたのだろう。果たして接触はあったかなかったか。
仕事柄、丸の内の郵便局によく行くが、その場所に愛知一中の開校跡の石碑を見た。以前に松竹の脚本家の野田高梧の年譜を調べた際に編集自製した年譜を貼り付けると
旭丘高校の沿革
(1) 愛知県第一中学校
明治 3年 6月 (藩立)洋学校開設。(名古屋藩七間町)
5年 県に管轄が変わる。愛知県洋学校と改称。
6年 愛知県洋学校を成美学校と改称。
7年 9月 県に管轄が変わる。成美学校廃校。官立愛知外国語学校開設。
(後に、官立愛知外国語学校を愛知英語学校と改称。)
10年 2月 愛知英語学校廃校。
愛知県が校舎および設備を文部省から譲り受け、愛知県中学校を開設。
11年10月 南外堀校舎(中区)に移転。 *1
19年 9月 愛知県尋常中学校と改称。
(22年11月1日 浅野梨郷誕生)
(26年11月19日 野田高梧誕生)
29年 4月 愛知県第一尋常中学校と改称。
32年 4月 愛知県第一中学校と改称。
34年 8月 愛知県立第一中学校と改称。
(37年4月浅野梨郷15歳で入学)
(41年4月野田高梧入学)
41年9月 西ニ葉町校舎(東区)に移転。
(42年3月浅野梨郷卒業、東京外大に進学)
(大正2年3月野田高梧20歳で卒業)
(大正2年早稲田大学英文科入学)
( 同6年 卒業)
大正11年 5月 愛知県第一中学校と改称。
昭和13年 7月 新出来町校舎(現校舎)に移転。
23年 4月 愛知県立第一中学校と改称(ママ)。
通信制・(昼間)定時制を付設。 (正しくは愛知県立第一高等学校)
*1南外堀校舎とは現在は名古屋市中区丸の内3-2-5で、丸の内三郵便局の敷地の玄関前に、愛知一中校舎跡の石碑が建立されている。移転はその後2回あるが、若き日の野田高梧はこの地の校舎と西二葉町(武家屋敷の多い東区白壁地区)校舎で学んだことになる。
当時から愛知一中は名門として知られ、「「バンカラ紳士」で鳴らした愛知一中の伝統を受け継ぐ自由な校風」の元で育った。その後早稲田大に進んだ。優秀な人物像が浮かぶ。旭丘高校出身人物リストの文化人に名前が挙がっている。同級生に小田喬がいて後に松竹入りの動機になったとされる。
上記年譜を見ると、丸の内三丁目の校舎で、梨郷の卒業1年前に野田が入学したので、同窓だったことが分かる。上級学校は違うがともに英文科を志向した。愛知一中の前身が英語学校だったから偶然ではないだろう。近代化の波の中で新しい時代に対する進取の気性があったようだ。中央志向はこんな環境で育まれたのだろう。果たして接触はあったかなかったか。
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