奥三河・段戸裏谷から寧比曽岳界隈を歩く2015年06月07日

 早暁、自宅から東の段戸高原の方を眺めると雲が厚い。午後にかけて天気は良くなるとの期待で、遅めに出かけた。出来山の撮影が主目的だったが、結局は寧比曽岳に登ってしまった。
 段戸湖についたのは午前10時30分。40分に出発。30年来歩いた林道だがここだけは変らない。56橋で右折するとしばらくでトイレが建っている。ここから出来山と東海自然歩道に分かれる。歩道に入るとようやく山道らしくなる。すぐ近くをせせらぎが流れ、30m以上の樹高がある裏谷原生林の霊気を感じながら歩く。周辺はすべて伐採されたが、この一帯は意識的に残された。愛知県の山は植林が優勢であるがここだけは別天地である。
 太平洋型混交林という。ぶなはイヌブナだろうか、日本海側のシロブナに比べてねずみ色している。純林ではなく、混交林だからツガ、モミ、トチノキも混じっている。見事なものである。殆ど高度を稼がないから汗もかかない。平坦だからひたすら歩く。そのうち、峠のようなところを軽く越えたらしい。ここまでは矢作川水系である。
 峠からは豊川水系になる。植生は桧の植林に変った。山腹を巻く、谷筋に食い込み、薄暗い、単調な山歩きである。林道と交差したが、地形図にはない。先を行くしかない。原生林では右が谷、分水界を越えると植林になり、左が谷、次は植林だが右が谷になった。ゆるやかな下りをいくと峠に着いた。ここは両側とも矢作川水系になる。
 古い5万図には富士見峠と書き込みがある。ガイドやネットでは1120mのピークが富士見峠である。1977年版エアリアマップ「愛知高原・犬山・揖斐」からの転記である。私が初めてこの地に来たのは昭和57年頃だったからよく利用した地図である。その後変更されたものか。確かに寧比曽岳の隣の1120mピークに峠とするのはおかしい。書き込みには大奥山側と民地側にも朱線がある。そして出来山にも点線の書き込みがある。もう記憶はないがここからは出来山へは行けなかったと思う。出来山は金沢国有林側から藪漕ぎで登った。
 鞍部から富士見峠に登り、休憩、中電の鉄塔を往復。すぐに寧比曽岳に着いた。12時50分着。段戸湖から約2時間。避難小屋から出来山がきれいに見えた。ここより低いので登頂欲は沸かない。山頂からは西によく開けている。南アルプス方面は茶臼山が見えたが、背後は曇に隠れている。気温は13℃を示すから小寒いわけだ。
 休憩後、下山開始。13時30分、出来山分岐とする鞍部からは民地側に下った。かつて、最奥の開拓農家の家で道を尋ねた際、寄って行け、と言われて上がると、夏でもコタツがあった。塩茹でしたジャガイモの小さいのをお茶請け代わりに食べさせてもらった。桧の植林の中の踏み跡はしっかりしている。途中には「東海自然歩道」の案内板も残っていた。やっぱり、この道は支線として利用された時代があったのだろう。いくらもせずに民家に着いた。山家風ではなく、近代的デザインの洋風の家があった。無人である。裏側を通ると車道に出た。びっしり植林の風景になった。まったく記憶にない風景だった。

 約30年前、暖かくもてなしてくれた開拓農家の夫婦が居た家は夢幻だったのだろうか。事情を尋ねる山びとすらいない。

 車道を下るとまだ住んで居そうな家は1軒のみあった。人影もないので過ぎると橋を渡り、右からの県道364号(田峰東大見線)に出会う。橋はズンボ橋という。地形図を見ると黄色い線は県道だが行き止まりである。山道とはつながっていないようだ。
 下ってゆくと民地橋を渡る。更に下流では桶小屋橋を渡った。ここで14時になった。そこで二股になったが、黄色い県道は舗装、左は草深い感じがした。県道を行くと登りになり、岡田養豚場の看板を見送る。地形図の建物マークだろうが、今は閉鎖か。更に登って峠を越すと桶小屋第一支線林道の分岐に着いた。この林道は段戸湖への近道なので歩いて見た。14時55分に段戸湖に着いた。段戸裏谷原生林を一周したことになった。
後日談
 古い会報綴りを読むと、昭和56年7月26日(日)に3人で登っていた。ここには「桶部落より富士見峠を経由する。 登り40分、下り30分。と簡単な記録のみだった。桶小屋橋はあったが桶部落が不明。段戸川沿いに民地がもっとも近い地名。民家は1軒あったが地形図から地名は消えた。
 桶を作る職人が居住していたのだろうか。江戸末期の絵図には桶小屋の地名がある。多分、昔は裏谷と同じような原生林の自然環境だっただろう。江戸時代の御林から段戸山御料林へ、その際、木地師を導入して、伐採させたという。
 以下は聞きかじった知識をまじえた妄想であるが、戦後、国有林の一部を復員してきた家族に土地と仕事を与えるため開拓地として、民間に払い下げ、地名の民地もこれに由来かな。段戸湖も本来は農業用ため池だった。しかし、離村が相次ぎ、米作は出来ず、利用者なく、虹鱒の釣り場に転換。段戸湖の管理人の話では標高600mくらいまで下がらないと米作畑作もうまくないらしい。

はつなつの詩2015年06月08日

ゴム底の剥がれて悔し登山靴

タンポへの踏み跡かすかやぶれがさ

どくだみや江戸の風情の残る家(天白区の旧家の喫茶店)

奥山の蛍袋も愛されず

老鶯やたれか山家を知らないか

六羽もや子沢山の燕の子(足助・百年草)

足助こそ夏燕らのさはに飛ぶ( 同上 )

潰しても死なずしぶとき笹のダニ

涼しさを越えて小寒き寧比曽岳

段戸なる裏谷に咲く笹の花

万緑や夢敗れても山河あり

裏谷に残る原始の夏木立

夏の谷すぐ逃げし溪魚の影

焼酎や山を肴に飲むばかり(6/3新人歓迎会)

老いてなほ好きといふ山ビール飲む( 同上 )

近江鈴鹿の元越谷を溯る2015年06月15日

大滝の前で
 6/14。最近入会した新人3名のいわゆる山婆(サンババ、3人の婆か?)を含む7人が参加した。鈴鹿でも近江側は静かな山域であるが、久々に鈴鹿スカイラインを越えて入山。先行車が1台のみあったが何の目的か不明。
 いつものように林道を歩きながら入溪地に向かう。最初は河原歩きから堰堤を巻いて行くと徐々に溪谷らしくなってくる。花崗岩の谷は美しく明るい。小さな滝を左岸から高巻く。今回は大勢なので懸垂下降はしない。昔はなかったフィックスロープが垂れ下がっているので難無く下降できた。ここを過ぎると次も落差はないが直登できない滝を左岸からへつる。以前はロープをつけて泳いだところだが。
 溪谷の斜度が高くなり、小さな滝を直登したり、大小の岩がごろごろしてきた。両岸の岩壁も直立してゴルジュの渓相になると大滝は近い。前日までの雨で水量は多く、飛沫がほとばしる。豪快である。大滝は左岸の岩溝を攀じて突破する。ロープで確保して、滝上に降りると核心部に到達する。ここからしばらくは花崗岩の削られた溝や釜を持った小滝を次々に突破する極上の溪谷登攀を楽しむ。五月蝿かった三婆もここだけはおしゃべりを飲み込んで黙々登攀してゆく。登山道を歩いているだけでは味わえない沢登りの楽しさが溢れる箇所だ。
 核心部を無難に突破した後、二股まで来た。もちろん右に振る。斜度は大人しくなった。と思いきや垂直の小滝に手こずる。ロープを出して確保。結構遊ばしてくれる。しばらくは溪谷歩きの余韻を楽しむ。斜度は殆ど均されて高度を上げる感じがしない。森の中のせせらぎになった元越谷源流部を歩く。いい加減、溪谷歩きに飽満した頃、突然傾斜がまして前方が明るくなった。あれが県境稜線か、と口々に言い合う。土つきの斜面を滑らないように登ると登山道のある稜線だった。伊勢側から吹く風が心地よい。しばし休憩する。
 ここで登山靴に履き替える人も居るがリーダーと私はそのままである。消耗が激しくなるがザックを軽くしたいからだ。オレンジなどの差し入れを食べたりして、また三婆のおしゃべりが復活した。水沢峠に降り立ち、左折すると荒れた峠道を下る。道形は残っているが所々で崩壊しており、RFに注意する。完全な廃道といっても良い。林道の廃道が出てきた。風化花崗岩の脆さは如何ともし難い。それでも林道は作られる。以前からあった整備された林道につながった。古い道標もあった。昔はここから水沢峠への登山道に下りていったのだろう。
 三婆とそれに旧人の婆も加わって話題は家族のこと、世間のことに散るがあっという間に駐車地に着いた。河原では赤ちゃんを連れた若い親子が食事など楽しんでいた。無事に下山。スパッツを剥がすと蛭は居なかった。今日は献血せずに済んだようだ。

「浅野梨郷」展を見学2015年06月16日

 午後4時、仕事が早めに終わったので、東区の「文化のみち二葉館」で16日から開催中の「名古屋歌壇の礎 浅野梨郷」展に行く。先月、中生涯センターでパンフを読み、興味を覚えた。
 中日新聞では13日の夕刊、16日の朝刊の文化面でも大きく紹介記事を書いて後援している。但し、記事の扱いは破格に大きく、力が入っているが、地方歌壇と中央歌壇との対立軸を描いて、結果的に中央に受け入れられず、地方歌壇に埋もれた歌人の印象を持つ。この構図は尾張徳川家と江戸幕府の関係にも似て、微妙なところです。将軍になる人材を送り出せなかった尾張徳川家と中央歌壇で活躍する歌人が出なかったことは全く関係はないが、名古屋文化の土壌の貧しさを物語る。文学で食えないのである。
 そもそも浅野自身の短歌への関心の深まりは東京から愛知県に林業指導のために赴任してきた依田貞種の触発によるところが大きい。記事ではその関係を全くスルーしている。かつて中日新聞が出した事典に採録された人物なのだから知らないはずはない。
 依田貞種は依田秋圃という歌人であり、奥三河の林業指導の傍ら、歌人として、森林、山村や山びとを詠んだ。一方で、大正期に『山と人とを想ひて』を著わし、書名を変えながら、山想派歌人の山の随筆として、長く読み継がれた。想像では、戦前の社会人の登山ブームと期を一にするので登山愛好家らに好まれたのだろうと想う。だから文壇的な短歌史にはないが、瓜生卓造の『日本山岳文学史』(1979年、東京新聞)には名前が挙がっているのである。
 会場に来て、浅野の年譜には依田との交遊が、撚りあうように記述されて安心した。年譜の編纂者はそのことが良く分かっているが、新聞記者は常に先を急ぐプロだから、短期間に理解しなければならず、中央歌壇との対立で分かりやすく紹介にこれ努めた気がする。
 ケースに展示された手紙類は専門家の説明がないと分かりづらい。そう想っていたら、係員らしい女性が来たので説明をしてもらって理解の一端につながった。副館長といわれたが、来館3回目にして初見である。依田秋圃の全歌集もお持ちだそうで、浅野梨郷や依田秋圃が創立した結社「武都紀」の関係者だろうか。
 依田秋圃の歌碑は、足助、額田、刈谷、鳳来寺、闇刈溪谷など数箇所もあるが梨郷は一等地の徳川園に一箇所しかない。この差は何なのか。おそらく弟子を育てるか否か、だろう。梨郷の短歌は歌碑以外は知らない。あの歌だけなら大らかな万葉調とも言えるが、歌人としては理論家で弟子には厳しかったと思える。出てくる時代が早すぎたのか、戦時でもあり、文学どころではなかったかも知れない。
 戦後は戦後で前衛短歌にジャーナリズムが染まってしまった。万葉調など時流に合わないと見られたか。『徒然草』でさえ、古今集より、万葉集がいいと書いてあるそうだ。この展示が、再び、万葉集の自然詠に還るきっかけになるならば意義深いことだ。
 ともあれ、6/27の講演にも参加してみたい。

徳川園の歌碑
 宇つりつつ 静かに色をかへてゆく 登与波多雲の 空のたなび起   梨郷

万葉集関連の記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2014/09/09/7432074

奥三河・段戸裏谷から出来山界隈を歩く2015年06月20日

 先々週の寧比曽岳に続き、今回は出来山周辺を歩いた。少し早めに出発したので段戸湖を9時20分に出発できた。雨雲が山に架かり、雲行きが怪しく、今にも降りそうである。何分ここは愛知の屋根と言われているのだから当然か。
 当初は椹尾分水林道を歩くも、前回と同じでは芸がないので、自然観察路を迂回することにした。「段戸モミ・ツガ植物群落保護林」というそうだ。地元ではきららの森ともいう。なるほど、樹齢200年から300年のツガ、モミ、ブナ、その他の雑木が群生している。ツガはカミキリムシにやられて生命力を失い、幹は虫食いだらけで立っている。倒木となって薬物処理されたものもあちこちで見た。樹高は約30mだが、その辺りが限界だろう。
 アップダウンを繰り返しながらまた五六橋の近くに下った。地形図の池が段戸湖で、すぐ破線路に入る道が自然観察路になっている。
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 地形図で、920とあるのは桶小屋第一支線林道の分岐。破線路と林道の合流地が五六橋の辺り。すぐに西川林道と分岐がある。実際には西川林道に直進してしまう。椹尾分水林道はもっと角度を以って右折する。すぐに東海自然歩道への分岐とトイレが建っている。先行のカップルが林道を行くので、出来山へ、と聞いたら、いいえ、寧比曽岳というので、それじゃあこの道は違うから戻ってさっきの分岐から山道に入るんですと案内。
 分水林道は文字通り、分水峠をゆるやかに越えた。これまでは矢作川水系、ここからは豊川水系になった。まず金沢栃洞林道を分ける。ここからは金沢栃洞林道になった。すぐに菜畑林道に合流した。次は牛渡橋になるが手前から牛渡林道が分岐する。栃洞林道と別れて牛渡林道を歩く。やや登りになる。前方が明るくなるとT字路になった。そこに何と単独行のハイカーが休んでいた。三河の人で林道歩きを楽しんでいるとか。以前に西川林道を直進してしまい西川に下ったことがあるとか。迷うことを楽しんで居られるようだ。
 出来山へは左折。不思議にもここからは舗装路になった。そして北から西へ回り込んで山頂の一角に着いた。そこはかつて電波塔があったらしい。地形図にはまだ抹消されていないが、今は緑の平地になった。平地まで入り込まず境を登って行くと木立の中に1等三角点が埋設されていた。何とも淋しい山頂であることか。見晴らしは全くない。私には30年ぶりの登頂であった。
 今来た道を戻って菜畑林道に入る。菜畑川に沿う林道を歩く。菜畑というのはあちこちにあるが、村はずれの畑の意味らしい。終点まで歩くと1087mの直下に行く。ここは江戸時代末期から明治初期の段戸御林の絵地図には「石仏」とある。ちなみに富士見峠は「笠松」とあった。1077mの無名の山から浅い谷が西に広がる。地形図には記載はないが、ここから分水林道が分かれるので右折する。すると裏谷から来る東海自然歩道を横切る。約3分ほどで終点になるが1077mへの踏み跡はなかった。
 左(北)へ行けば、寧比曽岳の方向になる。すぐに分水界を越えて再び矢作川水系に出る。そこは「桶小屋」といった。今日は右に行く。標高1030m辺りを巻くように歩くと、裏谷原生林の峠に着く。ここは昭文社の古いガイド地図には菜畑峠と出ていた。裏谷から菜畑へ越すからなるほどと思う。江戸時代末期から明治初期の段戸御林の絵図には「なごや嶽」なる山名がある。これは多分、1077mを指しているように思う。名古屋には山地平坦面の意味があり、大台ヶ原にもナゴヤ谷があり、名古屋岳もある。菜畑峠を緩やかに越えると再び原生林に入る。この谷は段戸湖から比高100mほどの和やかな谷である。この谷が突き上げるから「なごや嶽」と思うが・・・。
 ここもこのまま五六橋まで下らず、自然研究路に右折した。この道は地形図にはない。一旦稜線に上がって、下り、谷に下りたから多分、1015mの左を巻いて、椹尾分水林道に下りるルートだろう。分水峠の近くになる。これで段戸湖まで歩くだけだ。今日の林道歩きは終わった。下山後は西川へ行ってみた。
 出来山は絵地図でもそのままの漢字の山名であった。信玄の金鉱の歴史がある。栃洞はなく、鰻沢もない。西川という木地師の村はあった。明治時代中期に井山から木地師が入り、御料林を伐採し、木地製品をつくった。その後には桧の植林をしていったという。草刈をしていた西川の大蔵さんに聞くと、牛渡の地名は昔はツガの材木を板に挽いて牛で運んだという。その名残のようだ。爺さんが作った欅の大きなお盆も見せてもらった。
 出来山の金鉱跡も尋ねたが、御料林の伐採植林の時代に危険なので入り口は壊したという。道理で一つも見つからないわけだ。但し、それらしい跡はあった。坑道には膝くらいまで水が溜まっているそうだ。それだから沢でもないのに同じズリが敷き詰められ、かすかな流があるわけだ。
 西川から裏谷に登り返し、段戸川の県道33を下った。民地は多分、国有地に対する民有地のことだろうか。民地の近くには開拓橋の名前の橋があった。やはり。この周辺は御料林を払い下げを受けて開拓をしたものの標高が高くて生産性が悪かったと見える。今ならレタスのような高原野菜でも栽培できると思うが・・・。
 段戸御林から段戸御料林、そして国有林へ。山主の変遷とともに歩んできた山びとたち。筒井敏雄『山の波紋』(集英社)は段戸山を巡る無名の人々の群像劇である。ここだけは何か特別な雰囲気がただよう。また秋の紅葉期に来て見たい。冬の霧氷期もいいかも知れない。

段戸裏谷の梅雨空2015年06月24日

段戸湖の夏や胸まで浸かる釣り

活き活きと原始の森や梅雨の山

万緑や伽藍堂なる原始林

夏蝶と戯れてゐる義手の人

登山道間違えてすぐ引き返す

  段戸の原生林を伐採植林するために木地師が
  移入した村・西川の山村を訪ねて

西川に青田棚田となりにけり

  裏谷の五六橋はここに移り住んだ木地師・大蔵磯
  次郎が命名した話など。ここの製品でも漆塗りには
  南木曽町に運んだという。そこから大蔵姓の話にも
  話が弾んだ。

草刈の媼に昔話聞く

特大の蚊取線香に火を点けて

  お爺さんが作ったという欅の大木を削りだした
  お盆を見せてもらう。酒が飲みたくなるとこれを
  持って里に下りて飲んできたという。

大欅の木地製品や夏の谷

「名古屋歌壇の礎、浅野梨郷」展のトークイベントを見学2015年06月27日

 6/16の一般展示見学に続き、大辻隆弘氏の記念講演とパネルディスカッションを拝聴した。見学者は会場から溢れ、椅子が足りない為に、階段に座した。30分前に来てもこんな有様なので熱気もあった。これは何なんだろう。殆ど高齢の老人ばかりなのに。
 大辻氏はウィキによれば、1960年生まれの55歳で、歌集等著作物も15冊もあり、実作、理論ともに最も油の乗った歌人のお一人と見受けられる。出身地は私と同じ三重県。松阪市生まれの高校教師とあり、本居宣長の出身地と同じくする。
 レジュメには浅野梨郷の出生から、東京外大入学、アララギの初期の歌会に参加してゆく流れが短歌の実作の紹介とともに展開されて分かりやすかった。今回の手紙の展示品の解読にもなっている。手紙が歌論になっている。ここが論争を挑んだ実相らしい。アララギの発展に伴い、また自身の仕事への傾倒もあり、次第に疎遠になってゆく様子が資料を通じて解説された。行き届いた解説であり話のテンポも良く聞いていて快い気がした。
 続く、パネラー4名のトークで更に盛り上がった。基調としては大辻氏のリードが良かった。それはもう実証主義であろう。徹底的に資料が訴えるのものを感じ取って行く姿勢だ。「学ぶ」とはなぞって繰り返す、という。これは長谷川三千子『からごころ』の一節。
 パネラーの話の節々に出た英文学の素養と万葉集をバックにした短歌が合わなかった。アララギ初期の作品は晩年の調子と違うねという評価もあった。梨郷としたら英文学を取り込みたかったものか。よく言えば都会的センスがあった。対する歌人は鄙びた傾向にあった。そして、アララギへの復帰は伊藤左千夫の死去で遠のいていく。
 とまあ、ここまでで、名古屋歌壇の礎のテーマは終わった。
 それからの梨郷はどうしたのか。
 『依田秋圃全歌集』から梨郷に当てた短歌を拾ってみた。又、年譜から関係事項を連ねる。
明治43年
   浅野梨郷君の八十八ヶ所巡礼に餞す
知多ごほりみ寺めぐりてなみあみだたうとき汗を松の陰に拭け

大正4年
   梨郷君新婚の賀
梅の花咲かむとすなる春の日をきみがかたへのあるは新妻

*秋圃自身も大正2年に結婚した。

大正9年
  幾年振りにて浅野梨郷君大坂より帰り来る
歌がたり久しくせねば相見ねば会えばただちに歌がたりする

梨郷もすこしふけたり子ひとりの親になれりと子のことも語る

*仲のよい兄弟のような感情がある。子の親になって責任感が生まれた梨郷を暖かい目で見ている。 

大正10年5月
 梨郷ら他3名と日本歌会を起こし『歌集日本』を創刊。

*アララギ後の作品発表の拠点が作られた。

昭和5年3月
 自選歌集の編集を締め切り、之が刊行のことにつき、浅野梨郷、杉浦亮一両君と協議す。

昭和5年9月
 歌集『山野』発行。本集の刊行には終始浅野梨郷、杉浦亮一両君の友情による所甚大なり。

*選歌、編纂だけでなく、資金面、販売促進の面でも協力したと思われる。杉浦は三河における有力な弟子で秋圃に関する著書がある。

昭和6年3月
 雑誌「武都紀」名古屋に於いて創刊。
以前、以後は浅野梨郷のパンフレットの年譜に述べられている。

昭和9年
  名古屋梨郷庵
ここだくの書(ふみ)をさめたる倉の前大木の辛夷花のまさかり

此の家のあるじが詠める雨の歌うべとぞおもふ苔の明るさ

*書庫があったらしい。梨郷は相当な蔵書家だったのだろうか。理論家に拠って立つためには相当な勉強が必要であり、面目躍如。2首目も人物像を彷彿させる。秋圃の雨の歌は淋しさがともなうが、梨郷のは明るい、というのだ。

 これだけではあるまいが、秋圃と梨郷は4つ違いである。秋圃が伊藤左千夫を紹介している。だから先輩であるが、歌を読むと区切りでは仲間として、打ち解けた内容の歌を詠んでいる。濃密な交流ではないが、同志意識があったかに感じる。それは鄙びた歌の多い秋圃と梨郷では違い過ぎた。秋圃は昭和18年に死去。梨郷は戦前戦後の「武都紀」を背負うが、中部日本歌人会を設立して超結社的な短歌界のリーダーになってゆく。
 アララギ時代に論争で磨かれた理論家としての梨郷は60歳代後半になって中部短歌界に君臨する。様々な価値観の違いを認め「礎」になることを意識したのだろう。
 ちなみにレジュメの初期アララギ時代の歌は歌集に採録されていないという。短歌ひと筋に生きたわけだが、若き日の蹉跌として、韜晦したのだろうか。お孫さんも祖父の活躍を知らなかったらしい。目から鱗といわれたのがおかしかった。
 ちなみに記念の短歌募集には若い男性の作品が大賞選ばれた。稀有なことだ。また明治時代のように若い男性が詠むようになればいい。

浅野梨郷と愛知一中2015年06月28日

名古屋市中区丸の内三丁目の丸の内三郵便局の敷地に建つ愛知一中開校跡の記念碑
 浅野梨郷の略年譜を眺めていると明治37年に愛知県立第一中学校(現旭丘高校)に入学したとあった。彼はどこの愛知一中の校舎に学んだのか、調べた。
 仕事柄、丸の内の郵便局によく行くが、その場所に愛知一中の開校跡の石碑を見た。以前に松竹の脚本家の野田高梧の年譜を調べた際に編集自製した年譜を貼り付けると

旭丘高校の沿革

(1) 愛知県第一中学校
明治 3年 6月 (藩立)洋学校開設。(名古屋藩七間町)
    5年    県に管轄が変わる。愛知県洋学校と改称。
    6年    愛知県洋学校を成美学校と改称。
    7年 9月 県に管轄が変わる。成美学校廃校。官立愛知外国語学校開設。
(後に、官立愛知外国語学校を愛知英語学校と改称。)
    10年 2月 愛知英語学校廃校。
愛知県が校舎および設備を文部省から譲り受け、愛知県中学校を開設。
    11年10月 南外堀校舎(中区)に移転。 *1
    19年 9月 愛知県尋常中学校と改称。
    (22年11月1日 浅野梨郷誕生)
    (26年11月19日 野田高梧誕生)
    29年 4月 愛知県第一尋常中学校と改称。
    32年 4月 愛知県第一中学校と改称。
    34年 8月 愛知県立第一中学校と改称。
    (37年4月浅野梨郷15歳で入学)
    (41年4月野田高梧入学)
     41年9月 西ニ葉町校舎(東区)に移転。
    (42年3月浅野梨郷卒業、東京外大に進学) 
    (大正2年3月野田高梧20歳で卒業)
    (大正2年早稲田大学英文科入学)
    (  同6年             卒業)
    大正11年 5月 愛知県第一中学校と改称。
    昭和13年 7月 新出来町校舎(現校舎)に移転。
    23年 4月 愛知県立第一中学校と改称(ママ)。
通信制・(昼間)定時制を付設。 (正しくは愛知県立第一高等学校)

*1南外堀校舎とは現在は名古屋市中区丸の内3-2-5で、丸の内三郵便局の敷地の玄関前に、愛知一中校舎跡の石碑が建立されている。移転はその後2回あるが、若き日の野田高梧はこの地の校舎と西二葉町(武家屋敷の多い東区白壁地区)校舎で学んだことになる。
 当時から愛知一中は名門として知られ、「「バンカラ紳士」で鳴らした愛知一中の伝統を受け継ぐ自由な校風」の元で育った。その後早稲田大に進んだ。優秀な人物像が浮かぶ。旭丘高校出身人物リストの文化人に名前が挙がっている。同級生に小田喬がいて後に松竹入りの動機になったとされる。

 上記年譜を見ると、丸の内三丁目の校舎で、梨郷の卒業1年前に野田が入学したので、同窓だったことが分かる。上級学校は違うがともに英文科を志向した。愛知一中の前身が英語学校だったから偶然ではないだろう。近代化の波の中で新しい時代に対する進取の気性があったようだ。中央志向はこんな環境で育まれたのだろう。果たして接触はあったかなかったか。

浅野梨郷の「豊旗雲」とは2015年06月29日

 徳川園の歌碑の「豊旗雲」の短歌は有名であるが、余り聞きなれない語彙は万葉集の巻1の15 中大兄皇子(のちの天智天皇)の

わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ

の和歌の中にある。つまりとても古い言葉であって、登山で気象の知識もかじるが、私にはどんな雲かイメージが今一湧かない。多分、見ているはずだが、感性の問題かも知れない。ただの雲の現象として見過ごすか、詩の言葉として把握するか。梨郷は万葉集のこの語彙を脳裏に刻み、眼前に発見した際にこれが豊旗雲だ、と思わず詠まれたものだろう。

そこでぐぐってみると

https://www.bioweather.net/column/weather/contents/mame095.htm

これは富士山にかかる雲が風で正に旗のように靡いている。山旗雲というそうだ。すると豊旗雲の歌は海の上で、風のやや強い日の夕方に入り日が当りつつも流されて行く雲の現象だろう。それなら見ているような気がした。但し、歌に結実するには何度も見て、かつ万葉集の言葉に通じていないとできない。思い付きでは生まれない。
 ネットの解釈は過剰なものが多く、ついて行けない。単に海の上の旗めく雲の流れの現象とだけの理解に飽きたらず、余計な観念的な解釈を付け加える例が見受けられた。わざわざ難しくしてしまった結果、死語に近い言葉になったのではないか。
 私も天白川にかかる橋の上に立って、下流即ち、西の伊勢湾の方向を見ると大きな雲の造形に見とれることがある。建物が多くて邪魔されるが、梨郷が生きた時代はまだすっきりして欲しいままに雲の造形を楽しめたと思う。

鑑賞 浅野梨郷の歌①2015年06月30日

白皚々たる2月の乗鞍岳
歌集『豊旗雲』(昭和31年刊、武都紀叢書)から

野のきはみ田の水ぬるむきざしありて白皚々の雪の山見ゆ

*早春の田園風景の彼方に真っ白な残雪の山が見えるというのだ。田の水ぬるむというのだから田の薄氷も解ける頃だから2月末か。名古屋の歌人だから、おそらく、御嶽山か中央アルプスであろう。もちろんどこと特定することなく、自分の体験に照らして鑑賞してみるが良い。
 2月も雨水あたりから以降は名古屋では雨でも山の高いところでは降雪のこともある。日照時間が長くなるに従い、春光を浴びて一層、白皚々と輝いて見える。淡々とした写生のなかに自然の美に没頭し無我の境地に浸る歌人の風姿がある。漢語の持つ格調をうまく配した佳品。