今夏は天候不順が続く2014年09月05日

 週末は白山登山を予定していたが、メンバーの都合で延期した。月末になると日本海側の気候も変化するので山も変更した。本当にいい天気はあるのだろうか。昨日も今日も梅雨のような鬱陶しい空模様である。週末もよろしくない。延期しておいてかえってよかったかも知れません。
 お盆を過ぎると早いというが、もう9月であり、来週は中旬にはいる。思い通りにならない天気をぼやいている間に10月になる。9/3は山岳会の定例会で久々に山の話を一杯できた。11月の連休には焚き火山行を決めた。まだ1度も沢に入っていないからあせりを感じていた。沢登りは最初の終わりになる。
 俳句雑誌への寄稿、新聞への寄稿、ガイドブックの取材と執筆、それに本業もある。ようやく引越しの一大事業を終えて、明日は事務所のインターネットも開通する。当たり前のような存在であったが、ないと電話帳代わりになっていたから役所への電話一つできず、おろおろするばかりだ。仕事にならないのだ。頭の中はおよそ1ヶ月から2ヶ月分の雑用、本業のことで大渋滞中である。手は余り、時間はあるというのに頭が渋滞では金縛りにあったみたいであった。少しづつ片付けて行けば解消するだろう。
 秋はときとも読む。また英語でFALLともいう。落ちる感じか。秋の山林の中で焚き火を起こし、酒を温める。ああ、それって漢詩の世界だな。時間に追われることから待つ楽しみになった。

          白 居易の漢詩
   王十八の山に帰るを送り仙遊寺に寄題す     
曽て太白峰前に於て済み 
数々仙遊寺裏に到り来る
黒水澄める時潭底出で
白雲破るる処洞門開く
林間に酒を煖めて紅葉を焼き
石上に詩を題して緑苔を掃う
惆悵す旧遊復た到る無きを
菊花の時節君が廻るを羨む

乗鞍岳の徳河谷パーティは無事だった!2014年09月07日

 東京から来た沢登りの5人パーティが、北アルプス・乗鞍岳に突き上げる徳河谷に入渓して、その日に下山しなかったために車を駐車されたキャンプ場の管理人が心配して警察に届けた。ヘリで捜索の結果、発見されたらしい。パーティは遭難したわけではないと、救助を断り、自力下山すると伝えたそうだ。
 駐車場の管理人は駐車を沢登りは危険だからと、断ったらしい。それでも1泊分の料金を払って出発していったとのこと。この報道では登山届云々は書いてないので、不明である。5人の代表からすれば、自己責任だから、と届けなかったものか?
 実際、沢登りは救助する側の方にも危険が大きい。岩登りは垂直なので捜索救助は専門的になるが、範囲は狭い。徳河谷の地形図を眺めても距離は長いし、範囲も広い。組織された山岳会ならば救助体制もあったと思われる。
 それに、東京からわざわこんな遠方の沢に来るのだからよく研究しているはず。沢中1泊の予定ならば、技術も体力もあるのだろう。捜索されているなんて思いもよらないことだったと思われる。
 ではなんでこんな大騒ぎになったのか?
 やっぱり、管理人に登山計画書を渡すか、口頭で、万全の体制で遡行するんだ、と説明するべきだったのではないか。

 捜索する側と当事者とのすれ違いは私にも経験がある。
 木曽のスキー場を2ヶ所つないでスキーツアーをしたが、メンバーが谷に落ちてしまった。事なきを得たが、谷底から稜線に戻るために、時間が大幅に遅れた。下山予定のスキー場で待機していたメンバーが約束の時間に帰らない為に、心配してパトロールに届けた。そのために捜索隊がスノーモービルで救助に向かい、林道を滑走中に出会った。その際の第一報が「遭難者を発見」であった。我々は発見されたのか、とがっくりした。当方には遭難したという意識はなく、救助を求めたわけではなかったからだ。それでもすっかり暗くなったスキー場の1室でパトロール員に謝礼を言って帰った。
 もう一つは、
 これも中央アルプス南部の安平路山に突き上げる大西沢を遡行したときのこと。廃村・松川入には誰も居なかった。大堰堤を越えて、大西の大滝も見た。順調に遡行し終えた。安平路山の頂上を踏んで、避難小屋に泊まった。翌朝、摺古木山を経て大平宿に下った。その際、飯田市からジャンボタクシーがお客を乗せて来たので、帰りに松川入まで寄ってくれと、交渉すると気持ちよく格安に乗せてもらえた。
 松川入りに着くと、無事下山できた喜びも束の間で、そこに御影工業高校の遭難碑の管理をしていた老人がいた。その人の話では夜通し、爆竹を鳴らしたり、花火をあげたりして、下山を待っていたと聞かされた。車が1台ぽつんと置いてあるので、もしや遭難しているのではないかと訝ったのである。
 「待つ身は辛い」とよく言われるが、大西沢の沢登りとは露知らず、待っていたのである。そこで、我々は丁重に謝礼を述べて、老人の仮設小屋に入って山の話をとっぷり聞くことになった。老人が入れてくれたコーヒーを飲みながら「遭難して、誰も慰霊に来ないのは寂びしがる」から花を植えたりして管理しているという。まして高校生と教師を含む7人の遺体はあがっていないから尚更だろう。元消防署員で、遭難事故当時は捜索にも加わった。定年後は誰もいない廃村に来て見守っているのだという。
 今回の騒ぎにせよ、自分の体験にせよ、われわれ、登山者は社会に対して随分心配をさせている。社会とつながっているので、そうさせない心がけが大切だと思う。マイカーの見えるところに登山計画書を置くとか、沢中でビバークすることが分かるようにするとか。今年の夏は谷での死亡事故が続出しているので、関係者はまたか、と肝を冷やしただろう。
 今回は無事で良かったですね。

昭和天皇の和歌(御製)に学ぶ写実の意義2014年09月09日

 今日の読売新聞朝刊は昭和天皇実録が公表されて、特別面を組んで内容を大々的に報じた。中でも優れた歌人の側面に興味を持った。最初と最後の御製は写実で詠まれている。これは万葉集の基本とされる。優れた和歌、俳句、詩は写実だということを改めて思い知る。

大正6(1917)年の15歳の作品

赤石の山をはるかになかむれはけさうつくしく雪そつもれる

昭和63(1988)年の最後の作品

空晴れてふりさけみれば那須岳はさやけくそびゆ高原のうへ

 どの御作も何ら技巧や暗喩などもなく素直に鑑賞できる。天皇のお立場を離れて虚心坦懐に詠まれたのであろう。山の景色は人の心を癒す。天皇ですら伸び伸びした風景に心を託された。
 もしも昭和万葉集が編まれるならば是非この二作を収録されたいものと願う。

中央アルプスの沢・摺古木山の黒川源流を探る2014年09月15日

布滝を越えても尚、滑滝は続いていた
 何度も登らせてもらった中央アルプス南部の摺古木山であるが、沢登りに初挑戦した。水がとてもきれいで飯田市の水源にもなっている黒川。黒木の山から流れるから黒川か。その秘密を探るために溯った。
 9/13の朝8時、クルマに行くともう2人のメンバーが来ていた。今シーズンは今回が初めてで道具類が揃わないので少し慌てた。無事、出発して中央道へ入ると車が渋滞気味でハザードランプを何度か点滅させた。恵那SAに入ろうとしたが、満杯で入れず、また車線に戻った。
 中津川ICを出て、今夜の夕食などの買い物にスーパーに行く。団塊の男3人が好きなものを買い物籠に入れてゆく。今夜は鶏の寄鍋風、煮込みウドンとした。再びR19から妻籠を経て、大平宿跡へ登る。今日は3連休とあって他県ナンバーの来客が多い。そのまま、摺古木山の案内板に従って左折。唐松林を抜けるとしばらくで、荒れた林道になる。ロデオよろしく揺られながら、行くと路面の凹凸が激しいところに来た。1人に下りてもらい、誘導してもらった。
 すぐに通行止めのクサリがかかるPへ着いた。ここから沢の入溪地まではかなりあるはずなので、とりあえず、昼食後、徒歩で偵察に行った。入渓地まで約1時間歩いた。附近の平地はテント場に使えそうだ。というので戻ったら、偶然、同じ目的の会員パーティのクルマに出会った。適地を伝えて今夜は同じ夢をみることになりそうだ。
 マイカーに戻り、適地まで走るともうテントの用意やら食事の用意に大わらわだった。焚き火の枯れ木を集めて、小石を敷き詰め、着火するとしぶしぶ燃え始めた。昨夜までの雨で湿っているのだろう。野菜を調理するために沢に行く。沢も増水気味であるが、明日は減水するはず。四方山話に花を咲かせて、久々のテント生活になった。夜8時、星月夜という素晴らしい夜空を眺め終えて就寝。信州の夜空はひと味もふた味も違う。
 9/14、4時起床。朝露でびっしょり濡れている。そういえば昨夜も夜露が凄かった。昨日の残りの野菜を入れ、うどん4袋も入れ、たれで煮込む。ちょっと多いかなと思ったがきれいになくなった。
 テントを畳み、身支度する。6時10分に出発できた。沢までは2分。標高1800mの水の冷たさは格別である。水量は予想した通り大幅に減水した。大岩、小岩を避けながら溯ると、前方に白い布を垂らしたような滝が見えた。布滝という。左から巻いた。斜瀑の落差30mはあろうか。乗り越えても延々、ナメが続いている。素晴らしい溪谷に喜んだ。
 しばらくすると河原歩きになり、唐松の樹林に入る。頻繁に地形図、コンパスを出して方向をチエックする。沢の左岸にある崩壊面が地形図に表現されているので、そこが道標になる。2168m三角点に突き上げる本流は右へ。我々が目指すアザミ岳の沢は左へ、と判断。文字通りアザミの花が多い。どこまでも水流を追いかけた結果、支流のアザミのコルにつながる枝沢の入り口を見過ごしてしまった。それは、南に恵那山を眺められる位置で確認した。アザミのコルへ向かっておれば見えない景色であった。
 それで協議の末、主峰でもある摺古木山を目指すことに転換した。元々、成功率は50%であり、黒川源流を探る目的からは外れていない。1995mの独立標高点附近に近づくと一段と明るくなった。沢の傾斜がほとんどなくなり、せせらぎの流れになった。まるで日本庭園のような美しい源流の風景だった。再び、樹林の中に入ると、沢の流れも細くなった。笹に覆われて水脈尽きるかと思えばまた水が湧いている。とことどころにはミニナメ滝もあって最後まで飽きることがなかった。
 倒木や木の枝がうるさく行く手を阻む。ついに水の一滴も絶えた。谷の様相も溝状となり、笹の尾根が迫ってきた。直感で左へ笹をこいでゆくと、古い刈払いの道に出た。11時10分だった。5時間の源流行を堪能させてもらった。
 すぐ上の高まりに重い足を運ぶと5分ほどで2130mのコブであった。地形図ではここに摺古木山と印刷されている。宮の字をデザインして、8の字に見える宮標石が埋まっている。ここで休憩。オレンジを切って皆さんに食べてもらう。ああ、もう安全圏に来ているという安堵感は何ものにも代え難い。
 ここから腰をあげて休憩舎への道を分ける自然園のピークを踏む。そしてコブを越えると1等三角点と御料局三角点のある山頂だった。誰も居ない山頂で景色を楽しんだ。人の声が風に乗って聞こえてきた。昨日林道で見かけたパーティーだ。安平路山へ行ってきたという。日本三百名山の追っかけが多くなった。登山道の状況が悪くても、遠方でもかまわずに来る。今日は関東勢だった。
 我々も本流に沿う登山道を下った。どこかに仲間のパーティが溯っているはずだ。声を出したが反応はなかった。ドンドンくだるとあっという間に林道終点の休憩舎に着いた。そこから入渓地まではいくらもなかった。身支度を整えて再び林道を走った。帰りには大平宿の大蔵家を訪ねた。昨日朝よりももっと来訪者がいた。大賑わいの宿を後にした。

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仮にわれわれが溯った沢を黒川左俣、仲間のルートは右俣としておく。

星月夜2014年09月17日

流星を見る信州の高原に

信州はふた味違ふ星月夜

信州の空にまたがる天の川

秋の昼まづは焚き木を集めけり

しのび寄る夜の寒さに枯れ木燃す

澄む水の流るる沢を溯る

水澄んで真白き岩の滝を攀づ(布滝)

鳥兜泥の水には馴染まれず

秋の夜や何もせずとも豊かなり

秋山やげに薊なる花多し(あざみ岳付近)

岩肌にひそと大文字草咲けり

竜胆は蕾のままや秋山路

早々と谷間に迫る秋の暮

山峡に一夜のテント露しぐれ

名山に数多の人ら登高す(安平路山)

秋日和名山に多々登るべし

秋高し木曽谷の村細長し

御岳を半身隠す秋の雲

秋風や高原に見る夢の跡(廃村・大平宿)

秋風の吹き抜く父祖の梁太し(大蔵家・紙屋)

衣更え2014年09月28日

 秋も中秋という時期になった。空気も乾燥しからっとした乾いた感じになってきた。今日は布団を干し、登山の汚れ物を洗濯した。ついでに半そでのシャツ類を衣装ケースに収納した。既に出してある長袖シャツと入替である。そうか、これが衣更えというんだな。
 午後からは近くの喫茶店で恒例の句会に行く。珍しいゲストも来た。往年のアルピニストである。欠席を告げていた人も中途から参加になり、にぎやかな句会になった。
 天白川の堤防周辺は先月草刈をしたばかりなのにもう草が茂っている。そこには彼岸花が咲き、へくそかずらが赤い花を咲かせている。小さな秋野である。広範囲の花の草原を夏はお花畑というが、秋は花野という。夏の天候不良で開花が遅れた信州の高原などこれからだろう。
 野も山も衣更えしてゆくのである。

恵那山秋色2014年09月29日

 9/27(土)は30才代の若い男女3名の同行を得て恵那山に登った。士業の同業であるY君とその事務員のO女、彼氏のNさん。かねてからどこか山に行こう、と誘っていた。9月始めの白山は天気不良で流れたので、恵那山になった。
 事務所前を7時に出発。園原ICから広河原の登山口を目指す。本谷川沿いの道を行けば良いのだが、地形図を忘れて右往左往した。地元でインフォメーションをもらって無事到着。林道は工事中でゲートがあった。Pにはすでに20台が止まっているし、路駐も数台あった。我々も隙間に場所を確保。
 午前9時半、仕度後出発。さすがに若い人は服装からして違う。2名がタイツにパンツスタイルだ。これは先年、北アルプスで見た。ひざが軽いので運動性は良いだろう。林道を約30分歩くと本来の登山口に着く。本谷川を橋で渡る。かつて増水中に渡り、落ちて死亡した事故があった。
 対岸に渡ると登山道は左にゆっくり登ってゆく。周囲は唐松林であるが今は青い。1ヶ月もすると金色に輝くような黄葉になるだろう。単調な唐松の植林内をほぼ直登するから急登になる。尾根らしい末端に取り付くと少し傾斜も緩む。多少は自然の植生になってきた。このまま緩むかと思った尾根道は再び急登になった。開けたところからは伊那の街が見えたが、飯田市だろう。
 完全に原生林の趣になってきた。高度計を見るとまだまだの標高である。着実に高度を稼ぐと山頂の一角になった。周辺に紅葉が見られる。何の植物か走らないが山頂はいち早く秋になった。人影が見えると高い展望櫓の建つ山頂であった。13時登頂。快適なペースだった。
 但し、ガスで何も見えない。

   頂上や霧深くとも櫓に立つ     拙作

 昼食などするうちに下山となった。急登の尾根を振り返るようにこんな傾斜をよく登ってきたもんだと思う。谷川にもすぐ下山した。谷水で汗を拭いた。林道歩きの後マイカーに戻った。早速、スマホ使いの誰かが、御嶽山が噴火したと、情報を話してくれた。「えーっ」というばかり。
 ここまで来たからには昼神温泉へと走った。天下の名湯で知られる下呂温泉と同じ泉質らしく人気が高い。とある温泉施設もスマホで検索して探してくれた。
 入湯したら、湯船に使っているとなりの人が本当は御嶽山に行く予定だったという。京都の登山者だった。ニュースで地元の旅館をキャンセルして、こちらに避難してきたらしい。明日は恵那山に変更したのだという。間一髪で災難を逃れたのだ。
 登山後の入湯は疲労回復に効果的だった。

裏木曽・高時山を歩く2014年09月30日

高時山頂上からの御嶽山
 9/27、御嶽山が水蒸気爆発を起こして3日目。懸命の捜索救助活動が続けられている。にもかかわらず、危険な火山ガスの発生で長時間は滞在できず、限定的なようだ。鈴鹿なら応援に行けるが特殊な高山では邪魔になるだけであろう。
 なるだけ近いところから御嶽を眺めたいと探したのが裏木曽の高時山である。検索するとランプの宿として知られる渡合温泉への林道は4月に修復し開通していることが分かった。加子母側の長い林道走行は避けたいから温泉から登ることにした。
 R257から付知峡へ入る。R257自体は昔は南北街道と言ったらしい。わざと古い町並みの街道を走ったこともある。そして、さらに驚くのがこの県道である。
 明治時代初期には御嶽信仰の登拝の道として開削された。主導者は私財を投入して完成させ、感謝されたが、家運は傾いた。中央線はまだ開通しておらず、白巣峠を越えて王滝へ行く方が近道にもなった。そんな歴史を刻んだ石碑があった。中央線の開通とともにこの道の登拝道としての役目を終えて廃れた。もっぱら林道として利用されている。
 渡合温泉への道は遠かった。県道から林道へ、そして未舗装の道へと進む。そのどん詰まりに温泉はあった。かつて1度、入湯させてもらったことはある。あの時は林道を走れるだけ走ってそこから歩いたから楽な山歩きだった。木曽越峠の歯痛地蔵だけは記憶がある。
 渡合温泉は夫婦で経営されているようだ。朝早く着くと主人がどこかへ出かけるようだったので、山道のインフォメーションをもらった。親切に紙に書いて教えてくれた。まづ滝を見学しなさい、と。というので旧道を歩くことになった。この道は初見であった。滝までは良い道があった。滝からは利用者も余りないせいで踏み跡程度になった。古い道標はそこかしこに残っているので何とか迷わずに歩けた。基本的には谷沿いに歩くが、一部崩壊箇所もあり、薮に覆われていたりする。初心者向きではない。約1時間もしただろうか、林道へ上がった。しばらく林道を歩くとまた道標で山道に導かれた。ここもススキで覆われて分かりにくいが突破すると何となく山道に開かれて行く。ヒノキの植林内を急登してトラバース気味に行くと木曽越峠だった。
 峠は加子母側の林道と付知側の林道がゲートで遮断されて行き来はできないが、開発し過ぎである。かつて慈しんだ峠の歯痛地蔵は辛うじて保存されていた。
 峠から一旦林道に下り、又登ると御嶽展望台があった。間じかに噴煙を上げる御嶽を眺めた。そこからしばらくでまた林道に下り、登り返した。この尾根はヒノキ、トチノキの大木が残る素晴らしいものだが、自然破壊がやり切れない。尾根伝いに登ってゆくと御料局の8の文字のある標石があった。付知側は国有林だからかつては御料林だったのか?
 1434mを経てさらに長い釣り尾根を登りかえすと御嶽山に開かれた山頂だった。2等三角点が埋まる。これだけ良い眺望であるが、御岳信仰の祠などはない。
 今も多くの登山者が山頂付近で心肺停止のままで救助を待っている。未発見の登山者もいるかも知れない。朝方から捜索救助のヘリコプターの音がひっきりなしに聞こえてきたが、可及的速やかな捜索救助を祈る。遭難された登山者を思い、手を合わせた。
 高時山は御嶽山の南南西の位置にある。噴煙を噴き上げる火口が良く見える。噴煙は北西の風に流されて東に流れてゆく。右に三笠山、左の継母岳も良く見える。継母岳は崩壊しそうなほど鋭角に聳えている。何事もなければ豪快な山岳風景であるが遭難者や家族を思うと心が痛む。
 25分ほど滞在して下山。峠からは山道を下ったが、旧道へは降りずに林道を下った。長い林道歩きだった。温泉に戻ると奥さんにあいさつして帰った。