霧閉ざす小川路峠への道2014年10月05日

ゲートの近くに立つ小川路峠への案内板
 最初の目的は飯田市の小川路峠だったが霧が立ちこめて撮影条件がよろしくない。降雨率ゼロ%には違いないが、だまされた気がする。東シナ海に熱帯低気圧があるとこうも上昇気流の影響を受けやすいものか。長野県南部は太平洋の気流が天竜川を溯って最初に冷気を受ける地域なのだろう。昨年も撮影に難儀したことを思い出す。
 おまけに以前はなかった獣避けの金属柵が設けられて立入りがたい。鍵は開いていたので入ってみたが地元の人らが仕事で入っているのだろう。用が済むと施錠して立ち去ることになるので袋小路になりかねない。それに人が入らないから路面は良いが頭上からの枯れ枝が下がり走りにくい、というわけで1170m付近で撤退した。
 ただ、観世音堂のある一番観音は水場を設け、東屋を設置して、整備されていた。スン坂も地元の小学校辺りが歩いているようだ。それは良いことである。スン坂のスンは、愛知県額田町の寸五郎坂の寸と同じだろうと想像する。屋根の勾配の用語で10寸で5寸上がる勾配という意味。馬に登らせる山坂としては急勾配である。

秋冷の権兵衛峠2014年10月05日

色付き始めた紅葉が白樺の白い樹肌に目立つ
 小川路峠遊歩から撤退したもののまだお昼前だ。そのまま帰名するのは惜しい、と飯田市界隈の喫茶店に向かった。飯田市には営業中の喫茶店は一軒もなかった。やむなく、R153を走って権兵衛峠に向かった。伊那市から羽広へ行く県道87を行き、途中から左折してR361に合流。そのまま走れば木曽に行ける。以前は走れた権兵衛峠への道は伊那側は通行止めになったのでトンネルをくぐって番所に行く。そこから以前の車道を峠に走る。分水嶺付近で車止めのゲートがあった。そこはトイレもあって南アルプスの眺めもよいが今日は霧で霞んでいた。それでも飯田市付近よりは見通しはいい。
 そこに車をとめて峠まで150mの道標に導かれて歩くと白樺の木と紅葉の紅とがマッチして美しい。下ると待望久しい権兵衛峠だった。今は遊歩道が両側から整備されて歩きやすい。今、歩いた道も笹が刈り払われたばかりだった。
 峠にはいろいろのモニュメントが設置されていたが、気にしていた木曽用水の案内板もあった。
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2002.7.12~7.14の奈良井川の白川を遡行した記録文
ソース
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/10/10/5395164
未編集なので部分的に引くと
前略
翌朝は快晴とはならなかった。梅雨空に戻っただけである。盛り沢山の朝食を摂って満足した。今日はピークを踏まないので将棋頭山の登頂を提案した。雨具を着けて出発した。ガスの中では何も見えない。山荘に戻って分水嶺からは胸突き八丁の尾根を下った。左側が昨日の沢である。どおりで沢の傾斜もきついはずである。どんどん下る。大樽小屋を経て分岐から権兵衛峠を目指したが笹が繁茂した辺りで前途を見限った。戻って白川へ下った。林道にはトラックが入っていた。この用水路はトンネルを通って伊那へ供給されていた。天竜の水は落差の関係で利用出来ず木曽から引いていた。伊那の米は木曽の水で育ったものであった。権兵衛峠を越えて木曽へ運ぶ米は伊那の余り米・・・と俗謡に唄われた時代から相互に補完しあう時代になっていたのだ。終点に着いて帰り支度した。帰路、萱ヶ平に寄った。世に忘れられたような山村である。話をした主婦も松本に住んで今日だけ畑仕事らしい。グミの実がたわわになっていたのが印象的であった。今回は凄い滝の登攀こそ無かったがピークも踏み静かな山小屋に一泊して満ち足りた気分で終わった。
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 実に12年ぶりになる。記述には一部間違いもあるが、そのとき以来気になっていた。
 誰一人居ない峠は静寂そのものだった。すると伊那側の奥からしじまを破るように熊避けの鈴の音が聞こえてきた。約20名はいただろうか。男女の団体登山者であったが、目的は権兵衛峠の木曽山用水の歴史を訪ねるハイキングだった。
 リーダーの解説者がいたので私も「為替水」の水桝の現場に同行せさせてもらい、一緒に受講生になった。
 水桝とは12km先の奈良井川源流の白川から取水した水を木の水路(桝)を流れさせ、水路の上に棒を渡す。すると溢れる水量は元の奈良井川に落ちる仕掛けである。峠からは北沢に流し、下流の小沢川から同じ水桝で取水するという。
 水利権を巡って140年間もの争いの結果、生み出された知恵だった。その顛末は以下に詳しい。
http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/think/heritage/pdf/025.pdf
 
 為替なんてやや小難しい表現である。もっぱら金融用語としてしか知らなかった。日本の江戸時代には為替の金融システムが完成していた。
 ウィキによれば「日本の「かわせ」の語は中世、「交わす」(交換する)の連用形「かわし」と呼ばれていたものが変化したものである。日本で「為替」という言葉が生まれたのは、鎌倉時代である。」という。
 お金は共通のものだから、江戸で受けた現金を大阪へ送金する手段として為替が利用された。A振出人(Bの債権者でCの債務者)、B引受人(Aに対する債務者)、C受取人(Aに対する債権者)の三者が絡む為替手形は今でも流通する。最近も郵便局の小為替を利用したが、小銭を直接送金するのではなく、名古屋の郵便局で小為替を発行してもらって封筒にいれて送る。現金の代わりに受け取った側は当地の郵便局で換金できる仕組みだ。
 水も同じ事である。愛知用水の水源は牧尾ダムとよく聞く。愛知用水水源管理所のHPによると「愛知用水の水を取り入れる愛知用水取水口は、牧尾ダムから木曽川を約120km下った「岐阜県加茂郡八百津(やおつ)町」にあります。

 愛知用水取水口では、牧尾ダムからの放流水のほかに、「阿木川ダム」、「味噌川ダム」の放流水と木曽川沿川で降った雨(自流水)を3つのゲートから毎秒最大30m3取り入れます。」とある。
 以前は牧尾ダムから直接水道管で引いていると思っていたが上記の通り、放流した分を下流で取水をする、言わば為替水ということになる。すると牧尾ダムは現代の水桝ということになる。水系が違っても原理は同じである。
 鉢盛山でも木曽川の水源を水路で引き、朝日村側へ落としていた。災害で短期間にだめになった。
 伊那用水(木曽山用水)は12kmの水路が伊勢湾台風で打撃をうけて、現在は南沢へ隧道で落としているという。私が見たのは新しい水路だった。件の白川で会った管理員は大水が出るたびに見に来る、と言っていた。

 峠からカラマツの巨木があるところまでいい道がある。烏帽子山(南沢山)1894mにも1時間ほどで登れるようだが、靴が不首尾で又来ることにした。

木曽谷伊那谷見聞録2014年10月05日

 伊那谷木曽谷見聞録
 
・中津川市内のスーパー・バローで御嶽はくさいを販売していた。
・R19沿いの道の駅「大桑」で御嶽はくさいを販売していた。
・道の駅「日義木曽駒高原」で御嶽はくさいを販売していた。

 御嶽はくさいの降灰による風評被害が心配だ、と報じる信毎WEBのURLは以下の通り。大ぶりの白菜なので漬物向きでしょうか。販促には核家族で購入するには大き過ぎるので1/4カットなど工夫がいる。

http://www.shinmai.co.jp/news/20140929/KT140928FTI090033000.php

・R19の南木曽町で、御嶽山の現場へ向かう愛知県の消防車と何台かすれ違った。
・R19の日義村で塩尻方面に向かう何台かの自衛隊の車とすれ違った。
・R19の桟付近ではバイパスが供用を開始されていた。快適。

 捜索活動の任務に向かう人、一旦終えて帰任する人が交錯していた。10/6の台風の来襲が心配されています。

・飯田市久堅では運動会が開催されるようだ。今日は曇りながら運動会日和だ。

東濃・寿老の滝からの屏風山2014年10月10日

 今日は65歳の誕生日。ということで今日から老人の仲間入り。どうせなら元気で長生きしたいものです。平日であったが、何かの記念にと、恵那市に近い寿老の滝から屏風山に登った。峰山林道終点まで車で上がった。今日は曇り空で恵那山、御嶽山、中央アルプスの眺望はなかった。
 他に養老の滝からの養老山、美濃の誕生山、遠く足を延ばせば京都丹波の長老ヶ岳などがある。平日でもあり、近場で済ました。
 寿老とは多分、七福神の一神からの借用であろう。目出度いことには違いない。
 往きに弁当を買うのを忘れたので道の駅で朴葉寿司を買った。結構美味いものです。加えてご当地の新米も購入した。

奥美濃・母袋烏帽子岳に登る2014年10月11日

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富山県富山市の結社の年次大会に出席するついでに登った。名古屋市では薄曇で冴えない空模様だった。ところが郡上八幡に来ると豁然と晴れわたっていた。急遽、晴れている所の山に変更。大和ICを出て、上栗巣に走った。
 この山も何度か登った山の一つである。母袋=もたいという不思議な山名が忘れがたい印象につながっている。確かに地形図を眺めると栗巣川の狭い谷間を走ると源流部の村ではぱあっと空が広がる感じがある。実際その通りで、母の袋即ち子宮のイメージにつながる。森進一の「おふくろさん」の名曲を持ち出すまでもないが、母への郷愁につながる。
 恵那山の山名由来も恵那=胎盤を埋めた説が有力である。昔の人は即物的に命名したものだと改めて思う。
 さて母袋を冠した訳である。地形図を右上の方へスクロールして行くと元祖烏帽子岳1625mがある。その真南の1595mの独立標高点が地元の気良(けら)川の源流にあるから気良烏帽子という。こちらと同様に地図では無名である。見るところから見れば烏帽子に見えるのだろう。区別するために母袋を冠したものと思われる。
 ところでこの名称は地名だけでなく苗字もあるらしい。全国でおよそ500、内長野県が200という。やっぱり地形から来たものだな、と推測した。
 登山道は母袋温泉のある施設の前に500円を払って駐車。そこから指導標に従って歩く。要所にはかならず道標があるので迷うことはない。貴重な唯一の水場があったが、やや細い。廃道化した林道を横切って標高1200m付近までは檜、杉の植林の中の緩やかだが暗い山道を登る。この斜面ならスキーが使える気がする。物影からごそごそと音がする。良く見ると黒いものが駆け上って行く。カモシカだった。驚かすなよ、熊でなくて良かった。
 山道の周囲が緑の落葉樹になると明るい尾根歩きになった。白樺の道というが白樺なんてあるのか。1296mの独立標高点のあるコブを越すといい感じになった。右へ細道があるので見てみるとやはり水場だった。ここは完全に枯れていた。
 1300mの等高線に登ると地形が緩やかになり、ブナの道が続いた。枯木になれば周囲の展望も良くなるだろう。すぐに意外なトイレに着いたが、これは登山者用ではなく、左下の林道から上がった作業者向けか。山頂はその向うにあった。
 山頂へは登り1時間50分を要した。東に噴煙を吐く御嶽山を眺めた。懸命の捜索にもかかわらず、未だに見つからない登山者がいる。一刻もはやく見付けてやって欲しいと願う。西の白山はガスの中だった。荒島岳が特徴のある山容を見せている。その左は姥ヶ岳、更に能郷白山が見えた。これだけ見えりゃ十分だ。
 下山はノンストップで65分だった。
 R156に戻って、北上し、白鳥ICから富山に向かった。

入善町の砂丘の1等三角点・園家山に立つ2014年10月11日

 郡上市の白鳥ICから北上。高鷲村付近でやや渋滞した。その後も断続的に渋滞気味になったのは3連休ということだろう。天気もすこぶる良い。次の目的地は入善町の1等三角点の園家山17mである。
 国地院の地形図で示すと
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 入善町の南の外れなので、黒部ICから出るつもりが一つ手前の魚津ICから出てしまった。後の祭りだがR8を走って黒部大橋手前の西小路から黒部港に向かう。YKKの大きな工場が忽然と現れる。アルミ精錬には大量の電気を使うから電気の缶詰とか電気の塊とも言う。電源に近い土地に立地するのも故無しとしないのである。
 海岸に近い県道を走って下黒部橋を渡るとすぐに園家山だった。ここも以前に1度だけ来た。1等三角点があるゆえにこんな丘の三角点にまで見逃せないのである。
 標高17.3mの園家山は砂丘の頂点にあった。Pから徒歩3分の森の中の砂地の道を辿るだけだ。そこからは松に囲まれて高い山は見えにくい。少し移動すると隙間から北アルプスが見える。
 地形図の縮尺を20万にして、南東に位置する1等三角点の白馬岳との距離は約37km、北東の1等三角点の青海黒姫山とは約35km。約40kmに一個とされる三角点網の範囲に入る。
 園家山は数ある候補地の中から砂丘という不安定な場所にもかかわらず、1等三角点の栄誉をもらったのは実に三角測量の好位置にあったという他ない。だから、入善町や黒部市からは北アルプスの後立山連峰がほしいままなのである。富山市ならば立山、剱岳岳、薬師岳が並ぶが、こちらは向こう側が信州というので格別な気分がする。
 山岳史家の中島正文(先祖が黒部奥山廻り役、JAC会員、俳人)をして白馬岳の異称たる両界岳を探し当てたのはむべなるかなということか。また、所属の俳句結社「辛夷」の入善町や黒部市の作者から山岳詠の佳作が続出するのも納得したのである。
 園家山の海岸よりは松林の中の砂地の上にキャンプ場が開設されている。ちゃんと水場、トイレの設備もある。親子風のキャンパーが楽しんでいた。海岸に出ると日本海に沈む夕日が印象的だった。明るいうちに、と入善駅に近い宿に急いだ。

北陸・負釣山に登る2014年10月16日

 10/11(土)に登山する予定だったが、名古屋から早朝に出ても負釣山の登山口には相当時間がかかる。登っても午後遅くになりガスが出て展望も良くないだろう。というので、美濃の母袋烏帽子を行きがけの駄賃として登った。それで10/12(日)の午前中となった。実は午後から俳句結社の年次大会への参加を控えているのであまりゆっくりもして居れない。
 入善駅前の宿は6時半に朝食を済ませた。同宿の若い男性は黒部峡谷に行くために午前5時に出て行ったとか。宿を出て県道60、63を走る。ついでに「水の小径」にも寄る。入善町出身の歌手・津村謙のヒット曲「上海帰りのリル」の歌碑があるところだ。37歳で夭折したため今では忘れられた人であるが、昭和歌謡の一角に燦然と輝く。
 道草を食いながら登山口へ走ると、温泉施設があった。バーデン明日(あけび)という。そこを過ぎるともう人家はなく、狭隘な谷間の山道に入る。猿の大群が日向ぼこをしていたらしく、ぞろぞろと山奥に逃げていった。この山は野生に満ちた予感がする。
 登山口まで舗装路で順調に走れた。余り時間がないので、ザックの中身はおやつ、水、雨具の上着のみに絞って軽くした。普段は持たない軽ピッケルを携行して、音の出る道具を兼ねた。7時半に出発できた。登りは90分、下山は60分の予定とした。登山口からしばらくは林道だがすぐに尾根の山道になった。急峻な尾根だがよく踏まれており歩きやすい。ピッケルで樹幹を叩き、岩を叩いて音を出した。熊よけになるかどうかは知らないが不安を消すためだ。
 1合目、2合目と早いピッチで登山道の指標があったが休むことなく登り続けた。登るにつれて尾根が立って来た。7合目でベンチがあり、ついに小休止した。北アルプスから日本海までのいい眺めを見ながら水を飲んだ。少し下って再び急な登りが続く。
 8合目、9合目を越すとついに山頂に到達。午前9時5分だった。この達成感があるから止められない。
 山頂からの眺望は7合目の比ではなかった。剱岳、鹿島槍、など黒部川の深い山々まで見えた。日本海側の眺めも素晴らしい。
 黒部川の沖積平野が広がる。ここは典型的な扇状地である。その大半は入善町のためにあるような形である。入善町には高い建物は見られない。殆どが水田であろう。穀倉地帯なのだ。通りでご飯が美味いわけだ。
 昨日の園家山(点名は 岨之景(そばのけい) )も視野に入っている。黒部川の夥しい土砂が海浜を形成し、対馬海流で北へ打ち寄せられて、且つ風もあってこのような砂丘になったものか。
 山頂滞在は約15分。水を飲んだだけで下山する。慌しいが仕方ない。約1時間で下山。下山中にも多くの登山者とすれ違った。Pでは女性の単独行が準備中だった。
 登山口を後に黒部ICを目指す。途中に蕎麦の白い畑を見つけたので撮影した。多分水田からの転作だろう。
 それでもまだ11時なのでバーデン明日に入湯した。ここも急いで汗を流してさっぱりしただけである。登山スタイルからワイシャツスタイルに着替えしていよいよ年次大会会場の電気ビルへ急ぐ。高速を飛ばし、駅前の投宿のホテルに車を預けた。
 年次大会は長老級の古参会員がめっきり減って淋しいものだった。その上に中堅会員も病死してしまった。反面新しい人もいるので新陳代謝があったということだろう。女性が非常に増えて男性が極端に少なく感じた。これも時代だろうか。予定通り粛々と進行し無事終えた。

深田久弥山の文化館2014年10月16日

加賀温泉駅に近いスーパーの屋上から富士写ヶ岳を眺める
 北陸の山と俳句の旅も今日で終わる。中々行けない加賀市を回って帰名することにした。以前にも再び三度訪れたことはある。

 『日本百名山』ですっかり有名になった深田久弥は石川県加賀市の紙屋の生まれだった。長男だったが文学に目覚めたために家業は継がず作家になった。
 昭和21年、43歳で神奈川県浦賀港に復員船に乗って帰国。船内では田端義夫の「かえり船」が流されただろう。

  みな大き袋を負えり雁渡る    西東三鬼

文学上の同志として、児童文学者の北畠八穂との出逢いと別れ、初恋の志げ子との再会から八穂を捨てて志げ子と結婚。昭和22年、離婚届けと結婚届けを出す。そんな人生でもっとも波乱のあった昭和の戦前戦後を生きた。

一家が水入らずで過ごしたのは「湯沢の1年」かも知れない。湯沢には志げ子夫人が疎開していた。復員するとすぐに湯沢に向かったという。八穂を裏切ったことで鎌倉文壇から追われるという痛切な出来事があった。もう普通に作家としては生きて生きない。但し、深田には山があった。山の文を書いて生きていく。湯沢の1年はそう決断せしめただろう。

 http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/05/21/6817509

 湯沢に疎開中、朝日新聞から小説の注文があった。それで郷里の加賀市へ帰った。そして昭和39年、『日本百名山』が刊行される。何度かの名山ブームを起こして名著になった。今年は刊行後50周年の年回りという。ベストセラーかつロングセラーになったのだ。
 富士写ヶ岳は深田久弥の初登山の山だった。942mと標高も低く、マイナー山であるが、富士形の姿は美しい。文化館で教えてもらったJR加賀温泉駅からのパノラマ写真を参考に撮影ポイントを探ったが、駅の隣のスーパーの屋上がもっとも均整が取れて富士に似た形に見えた。台風前で天気が今一だったのが残念だ。

奥三河の山歩き2014年10月19日

林道歩きで見たアケボノソウ(リンドウ科センブリ属)
 今日は奥三河の山の写真撮影のつもりだった。記憶をたどって、伊勢神トンネル手前から右折。閉鎖されたままの憩いの村の車道から889.5mの三角点のある展望台に散歩で数分登って見たが樹木が繁って見晴らしはない。憩いの村が閉鎖では誰も登る人もいないのだろう。
 次は寧比曽岳登山口付近から大多賀の山里と背後の段戸高原を撮影したが逆光でさえない。今日は山岳グループらしい多数のマイカーが止まっていた。大賑わいだろう。
 一旦、R153へ出て、黒田湖を目指した。山中の迷路のような道に戸惑ったが、沖の平から駒ヶ原に出られた。鷹ノ巣山の登山口を通りかかると2台あって、2人が準備中だった。登る積もりはないが、林道からのバリエーションでも探そうと歩いてはみたが歩道らしいものはなかった。引き返して登山口から鷹ノ巣山を往復。山頂付近ではやっと黄葉になっている。山頂からの眺めは樹木が繁って悪くなった。山頂一帯も笹が繁って狭くなった気がする。以前はもっと土が出ていた気がするが・・・・。
 岩岳林道から鷹ノ巣山が見えないか探ったがないのでR257へ下った。茶臼山なども探ったが天狗棚が邪魔をする。結局、井山からようやく全貌をとらえたが西日になって色が冴えない。諦めて帰る途中、また寧比曽岳登山口まで迂回して眺めたら今度は西日が山を照らして何とか色がついて写真になった。
 思い起こせば山は3座登っていたことになる。手軽なピークハント、これが奥三河の山の良さだろう。

秋山句日記2014年10月20日

9/27   恵那山

秋雲を突き抜けて欲し櫓に立つ

9/30   裏木曽・高時山

御嶽の噴煙靡く秋の空

10/4   権兵衛峠

秋風に乗り熊避けの鈴の音
   
10/10   東濃・屏風山

山の水清ければ新米を買ふ(道の駅にて)

10/11  奥美濃・母袋烏帽子岳=短歌

御嶽の灰に埋もれし登山者の体に宿る魂ぞ悲しき

10/11  入善町・園家山

日本海に落ちなんとする秋日かな

子が減って淋しくなりし秋祭(入善の旅館)

10/12  越中・負釣山

朝寒や猿も日光浴したり

天高しギザギザ刻む剱岳

入善の刈田ばかりの沃野かな

10/13  加賀市・深田久弥山の文化館

銀杏が豊作といふ館の人

10/18  台高・宮の谷の頭(756m)

人知れず三角点や秋深し

宮の谷ススキの果の局ヶ岳

10/19  奥三河・鷹ノ巣山

膝痛の話して秋深まりし