映画「千利休 本覚坊遺文」鑑賞2007年06月11日

 1981年(S56)に出版された井上靖「本覚坊遺文」を原作として1989年に映画化された。07年5月23日に76歳で死去された熊井啓が監督。
 茶人として最高峰にあった千利休の生と死を描いた作品で、約70%は茶を点てる場面である。千利休の切腹は何ゆえだったのか、弟子の本覚坊が回想しながら追及してゆく。
 俳優は男ばかりで女優は一人もない珍しい作品。本覚坊は奥田瑛二、回想の問いかけは織田有楽斎で萬屋錦之助が演じた。千利休は三船敏郎、秀吉は芦田伸介、他に加藤剛、東野英治郎、牟田悌三、といった錚々たる名優が出演して見ごたえがある。
 私は茶道は全くの門外漢である。かつて芭蕉は「和歌における西行、連歌における宗祇、茶における千利休・・・・と」いい、風雅のお手本とした。その千利休は名前こそ知っているが何も知らないに等しい。
 最終的に導かれた結論をいえば晩年の秀吉がやった朝鮮出兵を批判したことで秀吉の逆鱗に触れた。秀吉の保護と援助で茶道を発展させながら最高権力者を影で批判すれば切腹は免れない。
 つい最近も勤務先の社長と話をしていたらこの話がでたので驚いた。それは千利休といい、最高権力者に近づきすぎて失敗したこと、権力者に近づくものを茶坊主という、などの話をしたばかりである。

茶道一般については以下にコピーした。
「茶道(さどう、ちゃどう)とは、様式にのっとって客人に茶をふるまう行為のこと。元来は「茶湯(ちゃとう)」「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀遠州は「茶の道」という語も使っていたが、やがて江戸時代初期には茶道と呼ばれるようになった(「茶話指月集」「南方録」など)。

ただ、茶をいれて飲むだけでなく、生きていく目的や考え方、宗教、茶道具や茶室に置く美術品など、広い分野にまたがる総合芸術とされる。」

昭和区にある昭和美術館は茶の道具を集めていることで有名と聞いた。一度は行ってみよう。お茶に命をかけた何人もの日本人がいた。たかがお茶というなかれ、である。

映画「郡上一揆」鑑賞2007年06月11日

 観たい、観たいと念じていたらGEOのある店で見つかった「郡上一揆」と「本覚坊遺文 千利休」の2本。しかも通常一本300円余りのところ70円のキャンペーン中であった。今日は「郡上一揆」を鑑賞した次第。
 2000年(59歳)の制作というからまだ新しい部類に入る。監督はダムに沈んだ徳山村を描いた映画「ふるさと」(1983年 42歳)の神山征二郎氏(1941年生まれ)。神山氏は岐阜県の出身で農家の出だからこの映画は長い間暖めていたものらしい。兵庫県映画センターのサイトから神山氏の「その時が来た」をコピーした。
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「その時が来た!」神山 征二郎

『郡上一揆』は徳川家による強大な宗主権に支配された、幕藩体制下の悲劇である。

江戸時代は特権的武士階級が国家を統治していたが、国営をまかなう租税(年貢米)を生産し、納めていたのは専ら農民、百姓だった。

私の祖先は中世にさかのぼるまでこの百姓であったようだ。それも永く濃州(美濃)に土着し、営々と米づくりにのみ生きてきた。

1960年、第一次安保闘争の年に18歳で東京に出た。次男だったので農家の跡を継ぐ立場ではなかったから、当時景気のよかった映画の世界を漠然と志しただけのことである。しかし、どうも私の身体の中には"米づくり"がしみついて離れなかったようだ。「出来るがずもない」と嘲笑されているのを百も承知で4年間この映画づくりに身を投じてこられたのは、他でもない、米をつくる民の悲しいほどの"百姓の性(サガ)"が五体にしみついていたからではなかったかと思う。

明治は江戸時代を否定するところから出発せざるを得なかったので、様々な分野で江戸に目隠しをしてしまった。百姓のこともそのひとつだと私は思う。しぼり取られ、地を這い、足で踏みつけられるだけという百姓像は間違いで、文にも武にも長け法律をよくし、納税者の誇りを保つ毅然たる者たち、それが我らが祖であった。ボロを着て、粗食に甘んじ、それでも断じて人間の誇りだけは捨てなかった者たちのことを、映画にしておきたかったのである。つまり、百姓こそが恰好いい!

しかしながら映画の実現は困難を極めた。同志、協力者が次々と現れて、手をとり合ったが、2度、3度痛撃を食った。あきらめて楽になりたかったが、生きてきた証に-と完成にこぎつけた。

実現不可能な企画に勇気と力を与えたのは地元郡上郡の多くの有志と岐阜県各界の応援、それによせる全国各地からのエールだったことを申し添え、深く感謝いたします。
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神山氏の略歴:岐阜市生まれ、岐阜北高校卒。日大で映画を学ぶも中退。1963年(22歳)新藤兼人監督主宰の近代映画協会に所属する。新藤監督、吉村公三郎監督、今井正監督の助手を務めた後1971年(30歳)に監督デビュー。通りで社会派的な味わいがあるはずだ。
 
 映画の感想はもう凄い!の一言。現代でこんな映画がよく撮れたものだと思う。登山をはじめて以来奥美濃には毎年通ってきたから地名もよく分かるし、川のショットも何となく長良川という気がする。
 白鳥町に恩地(陰地、隠し田)という地名がある。恩は当て字で元々は年貢逃れの田圃のことである。検見ではそのような年貢逃れの土地も発覚する。山間地で収穫量の十分でない奥美濃では痛い。だから検見を止めてくれと願うのである。そこからこの物語は始まる。それが4年に及ぶ一揆は郡上一揆しか例がないという。結末は双方に悲惨をもたらす。
 物語は宝暦年間(1751)であるが約80年後の天保年(1830)から万延年(1860)にかけて尾張藩士の岡田文園が編纂した「新撰美濃志」がある。ここでは既に陰地村(おんじむら)とあるからもう発見された後であろう。当時白鳥村では約七百四十四石とある。主演緒方直人扮する一揆のリーダー格の定次郎、加藤剛扮する助左衛門らが住む前谷村は百七十石余りと歴然とした差があった。貧しい所ほど声高に叫ぶのも故なるかなである。
 山岳風景も娯楽映画では見栄えのいい八ヶ岳辺りが挿入されるがここでは地元の山が撮られていると思う。毘沙門岳の麓辺りが撮影されたように観じた。方言も忠実である。「だちかんぞ」など美濃の方言で台詞が語られる。監督がこだわったことであろう。