虫の知らせ2007年05月02日

 4/29から4/30に予定していた山行は単独行ということ、登山道はともかく下山が今一ということもあって中止を決めた。4/29が好天だったから日帰りで出かけようとしたそのときに電話で叔父が亡くなった、と知らせてきた。
 虫の知らせであろう。泊りがけで行っていたらどうなったであろう。何故か行く気がしなかった。GWは後半もあるのだからと納得はした。訃報を聞いて行く気がしなかったのはこのことであったかと思った。
 4/29御通夜を済まし、翌日は葬式と段取りは決まった。4/30の朝今度は父方の叔母が亡くなったとの知らせが入った。取り急ぎお悔やみに行った。思えば叔父叔母の世代は皆70歳代半ばに達している。
 若い頃は元気で農作業をこなしてきたが高齢になると病気がちになった。長い間の重労働に耐えて来たがもう限界だった。入退院を繰り帰し弱っていたと遺族の話を聞いた。
 お念仏に参席した人達ものきなみ高齢で80歳代も多い。こうしてどこの親戚も世代交代がじんわりと進む。人生はもう長くはない。

中国山地の山旅① 矢筈ヶ山2007年05月03日

 5/2夜9時、同行のNさん宅を中国山地に向けて出発。東名名神高速は通行量多く時速80km以下でゆっくり走行。特に関西圏に入ると渋滞気味。5/3午前12時半、止む無く西宮名塩SAで車中泊とした。
 5/3朝午前5時目覚める。P内も売店も人と車でごった返している。起き抜けに出発した。中国道はまだ朝早いせいで交通量はやや多めといったところ。本日の晴天率は高く、以後は悪化を辿りそうなので急遽当初予定の三国山を本命の矢筈ヶ山に繰り上げた。
 米子道に入り湯原ICから登山口に向う。朝霧は晴れるの諺通り、蒜山三山、烏ヶ山、大山などがすっきりと青空にスカイラインを描く。午前8時、一向平の登山口はまだ朝早いせいかがらんとしている。
 大山みちは伯耆三山(大山・船上山・三徳山)のうち大山から三徳山を結んでいた修験道の一部で大山滝までは家族連れのハイキングコースとして整備されているが一部遊歩道の崩壊があって名目は通行止めになっている。自己責任でなら入山可能と係の人の弁。
 車道のような遊歩道を行き、自己責任で決壊場所を高く巻いて通過した。鮎返りの滝を見て釣り橋を渡る。深い渓谷である。左岸側に渡る。大山滝まではあまり傾斜もない。加勢蛇川の上流にある高さ37mの大山随一の滝と宣伝されていて堂々としている。ハイカーはここまで、この先は登山者の領域との警告を書いた看板がある。
 登山道に踏み込むと眠り足らない体がしゃんとするようなブナの美林のなかに分け入っていく。素晴らしい。Nさんと感嘆の声を発しながら登る。大山隠岐国立公園の大山のブナ林は西日本最大級の規模とのこと。垂直の気温分布で下は新緑の盛り、上のブナは芽吹いたばかり。大きな尾根をジグザグを繰り返しながら高度を上げる。
 大休峠の手前からは大山、烏ヶ山がよく見えた。谷筋の残雪がまだ冬の名残を惜しんでいるかのよう。
  大山の春惜しむごと谷の雪      拙作
足元の草花も増えるが名も知らない。それが残念だ。大休峠は矢筈ヶ山への分岐。ここは大山へ行く登山道、川床に下る道(中国自然歩道)への拠点でもある。ごじんまりとした避難小屋もある。文字通り大休みしたくなる。
 矢筈へは笹、潅木の中の道で整備された中国自然歩道から整備状況は悪くなる。倒木あり、石のごろごろした所もある。前山への急な道をやり過ごすと傾斜は緩くなる。しかしながら周囲はブナの原生林であり芽吹きさえ覚束ない。タムシバの花が裏日本的な自然を象徴する。
 イチイの潅木を分けて登ると山頂に立つ。6畳程度の狭い山頂の一角に1等三角点があった。『1等三角点百名山』で坂井久光氏は昭和44年4月中旬に登った当時はまだ櫓があったこと、峠でも1mの残雪があったことなどを書いている。今は櫓は撤去されて大勢の登山者が登ってきている。Nさんが来るまでに小矢筈を往復しておいた。
 山頂からの展望は絶品である。大山、烏ヶ山、蒜山三山などが聳える。特に大山は仰角の関係で立派に見える。地元の登山者の一人は3回目でやっと大山を眺めることが出来ました、という。この山は日本海が近く雲に覆われることが多いせいだろう。我々は幸運にも初登山で好晴に恵まれた。
 山頂を堪能した後は元来た道を下山した。登山口に戻ると大勢の家族連れが来ていた。キャンプ場ではいくつかのテントも張ってあった。我々は予約した関金温泉の旅館に向った。

中国山地の山旅② 船通山と花見山2007年05月04日

 関金温泉は弘法大師ゆかりの古湯であった。開湯は1200年以上まえという。旅館は泊まった鳥飼旅館ともう一軒あるだけ。温泉ブームの昨今にしては寂れた感がある。ところが我々山やにはこれは秘湯と見える。忘れられたような雰囲気の山とお湯こそ我々が求めて止まないものである。
 泉源は自宅内にあり、かけ流し。泉温は40度から50度と適温。沸かしもしないし循環もしない源泉そのものである。泉質はラジューム泉で無臭。よく温まる。近辺の三朝温泉もラドン、ラジューム泉でほぼ同じ。近くにウラン鉱石の出る人形峠があり有名。鉱物の影響を受けているのかも。
 本日は明日の天気が悪くなるとの予報に従い、船通山を繰り上げた。関金から登山口のある日南町までは2時間のドライブの大移動になった。 
 登山口までは比較的スムーズに行った。県内の交通量は渋滞を起こすほど余り多くも無い。日南町矢戸では偶然に松本清張の文学碑を発見した。車内でこの辺りの矢戸という地名は松本清張「或る小倉日記伝」(新潮文庫)の中の「父系の指」の舞台ですよ、と話していたら目の前に文学碑の看板があって早速見学したのはいうまでもない。船通山の島根県側の奥出雲には名作「砂の器」の文学碑もあり清張の臭いがする。
 船通山へはR183から県道15、林道を走って整備されたPの近くに登山口があった。山頂へは約1時間以内と昨日の3時間半たっぷりの登山に比較するとお散歩程度。
 日本神話に因む伝説に彩られた名山である。現在は山頂付近に咲き誇るカタクリの山として知られる。登山道で行き交う人、山頂にたむろする人で一杯であった。カタクリも山頂の平坦面の半分を占める群落をなしている。足元にはキクザキイチゲ、イカリソウ、スミレ、キケマンなどの草花も多い。イチイの大木も見ごたえがある。
 深田さんは山格、標高、歴史を名山の基準としたがこの山も入選していて当然の資格がある。中国山地からは大山一つきりであった。ところが深田クラブ編『日本二百名山』JAC選定『日本山三百名山』とも入っていない。関係者の何たる不見識、不勉強か。
 下山後は日南町にある1等三角点の花見山に向った。ここも山麓から8合目付近までスキー場が開発されていた。入口で500円とられた。周囲は山名どおり花だらけ。八重桜、スイセンは道の脇からゲレンデの最上部までびっしり咲いている。その入山料というわけである。
 ゲレンデの中腹のPにクルマを止めた。平坦なところはスイセンの花園であった。多くの家族連れで賑わう。スキーのコースを登るとゲレンデ終点になり、そこからは山道となった。空身のハイカーが多い。前山を山頂と思って駆け上がったら息切れしてしまった。山頂は先のほうに見えてがっくり。約40分で1等三角点の埋まる山頂だった。東屋もある。周囲は春霞で遠望は効かない。
 下山後は宿泊先の「ふるさと日南邑」に向った。すぐ近くである。2年前は町営であったが個人経営に変ったそうだ。温泉こそないが食事はまずまずで中々サービスがいい。素泊まり3800円、2食で2700円締めて6500円である。
 明日はどこにするか、TVの天気予報に気をかけながら検討した。やはり登り難い三国山1252mにすることになった。

中国山地の山旅③ 三国山1252m2007年05月05日

 5/5は雨か、と思った。北の高気圧の勢力が強く南の低気圧の接近が遅れているらしい。つまりまだ天気はもちそうである。5/6の雨は必至であろう。1山を登ってから帰ろうと選んだのは当初の三国山であった。
 伯耆因幡美作の三国堺にある。1等三角点のあるピークは岡山県境からは離れている。そのために三国山北嶺と呼ばれている。この山はガイドブックで調べても登り難い場所である。三国堺の1213mは恩原三国山というらしい。登山道はなく積雪期の登山が行われている。
 登山口は鳥取市佐治町の中という小さな山里にある。ここから始まる林道を8km走ると丸太作りの避難小屋のある登山口に着く。少し先に丸太の階段の道が山頂まで整備されている。
 登山道は丸太の階段でありがた迷惑なことである。周囲はブナの巨木が惜しげもなく林立する。目に見える部分はブナであるがすかしてみると杉の植林は主である。急な階段の登山道を息を切らしながら登ると1006mのコブに着く。一旦は下って稜線へ山腹のトラバースが始まる。目的の三国山はブナがびっしり残されている。下部は植林が迫る。
 ガイドブックでV字谷越え、と表現されている所は中々険しいアップダウンがある。フィックスされたトラロープも利用させてもらう。残雪も若干見た。サンカヨウの白い花が咲いている。ここを過ぎると稜線まではわずかだ。
 道なりに稜線に達するが左へは踏み跡すらない。それでもヤブ覚悟で恩原三国山を目指すのか新しい赤テープがついている。三角点に向うと前方に素晴らしいブナ原生林が広がった。何枚も何枚もシャッターを押した。
 足元にはカタクリの花が咲いている。ブナが新緑で覆われると花も終る。花の命は短い。もう1週間先には新緑のブナ原生林が展開しているはずである。山頂は一段盛り上がったピークにあった。そこは切開かれていて広い。約1時間半の登りである。
 1等三角点と展望台があったが展望台は壊れかかっていた。そおと登ると北に眺望が広がった。春霞で大山方面は見えない。天気が保たれているだけましである。やがてNさんが登ってきてぶな林でフィルムを何本か消費したらしい。
 半そでの腕にはもう夏虫が寄って来た。すでに初夏の陽気であった。小腹を満たした後はいよいよ下山であった。3、4、5日と順調な1等三角点の山旅のフィナーレである。
 Pまでは一目散に下った。1時間であった。中まで戻る。帰名は作用ICからにした。途中温泉で汗を流した。作用ICから中国道に入った。午後4時半。しばらくは順調に流れたが神戸付近から渋滞が始まった。名古屋ICまで断続的な渋滞と休憩でICをくぐったのは午前零時過ぎであった。

映画「裸の島」鑑賞2007年05月06日

 手当たり次第に小津安二郎監督の関連記事を読み漁っていくうちに新藤兼人著「シナリオ人生」(岩波新書)に出会った。その中の「小津の重箱」が第一章にあったのを読んだ。小津から新藤やん、と呼ばれていたらしい。なぜ「やん」なのかわからないというが三重県では人名にやんをつけることがある。プロ野球では金田投手を「金やん」と呼んでいた。苗字でも名前でもある。親しみを込めた呼び方であることには違いない。
 著者の新藤氏は1912年生まれで今年95歳という高齢である。5/1から日経新聞朝刊の「私の履歴書」の連載が始まっている。今日レンタル店で物色していたら「裸の島」のタイトルが目に付いた。「シナリオ人生」あとがきの項目に紹介されていたから記憶があった。
 鳥取県に遊んだので清張の「父系の指」や「砂の器」を枕元に揃えた。井上靖の「通夜の客より わが愛」の映画も調べたが何処にもない。同県出身の司葉子の映画も再び観てみたい。そう思って物色していたら新藤監督「裸の島」(1960年)が目に飛び込んできたというわけである。レンタルして観た。裸の島とは瀬戸内海の島で耕作をする子供2人の夫婦の物語である。
 予備知識はないに等しいので最初は台詞なしで、しかも基本的には乙羽信子、殿山泰司だけで進行する単調な物語に投げ出したくなった。しかし、音楽が効果的で担いだ天秤棒の水の運搬作業が実にリアルであったから次第に引き込まれた。
 全編中半分は舟を漕いで水を運び、水を島の山に担ぎ上げて栽培植物に水をやる仕事のシーンが大半であった。よろよろと当時36歳の乙羽信子の演技か実際か分からないが山道を登るシーンははらはらさせる。
 耕して天に至る、を絵に描いた作品であった。だが子供が急病で死ぬ場面は私も泣いてしまった。これは高峰秀子扮する先生の「二十四の瞳」でも泣いたが純真な子供の死は万感胸に迫る思いがする。
 この作品は独立プロという制約もあって国内では評価されずモスクワ映画祭でグランプリを得て世界的な成功を収めた。彼が設立した近代映画協会もこの収益で借金を返済し今に至る。
 乙羽信子の映画はよく観てきた方だ。彼女は鳥取県米子市の出身であった。54歳で当時66歳の新藤監督(広島県出身)と結婚した。尚この映画でも尾道が出てくる。尾道に2年いたこともあろうが何となく小津映画の影響もあると思う。台詞がない=サイレント映画、家族の日常生活と死をテーマにしたことである。
 「シナリオ人生」のあとがきには集団創造の原理を掴んだ云々とある。これも私には気になる。若い頃川喜多二郎氏のKJ法、移動大学に関心を抱いたことがあった。彼がネパールで文化人類学のフィールドワークをした際の情報のまとめ方を考案した。それがKJ法の原型となった。つまりバラバラの情報をいかにまとめるか、まとめて新たな発想を生み出すことが創造性開発に応用された。が簡単に理解できるものではない。
 1953年のネパール遠征でKJ法の原型が出来て映画は1960年と辻褄は合う。この映画自体ロケ隊は島と尾道しか撮っていない。島の労働を文化(英語では農業=アグリカルチャー)とみなせば一種のフィールドワークといえる。スタッフの誰かにKJ法に明るい人が居たかも知れない。ともあれ日経の連載に注目したい。

笠智衆著「小津安二郎先生の思い出」を読む2007年05月13日

 小津安二郎関連の本は夥しいほどある。ちびちび読み始めたら続々読みたい本が出てきた。まるで富士山に登るようなものである。山麓歩きが長くて頂上まで中々辿り着けない。巨匠たる所以であろう。
 これまでに読んだ中村博男「若き日の小津安二郎」(2000年)、山内静夫「松竹大船撮影所覚え書 小津安二郎監督との日々」(2003年)、松竹編「小津安二郎再発」(2002年)、三上真一郎「巨匠とチンピラ 小津安二郎との日々」(2001年)は小津さんの周辺の俳優や親しい人からの視点で書かれている。雑誌では「伊勢人」、「考える人」で特集が編まれた。
 本書はその中でも最も親しさと尊敬のまなざしで書かれた小津本であろう。1991年に「大船日記 小津安二郎先生の思い出」(扶桑社)を底本として今回新に朝日文庫に入ったのはいいタイミングであった。いずれ古書で買おうと思っていたからだ。題名の大船日記を省いたのは今でも続々出てくる小津本を先に打ち出したい出版社の意向であろう。
 朝日文庫には以前「俳優になろうか 私の履歴書」(1987年)もあったが現在は絶版のようである。未読であるが多くはプライベートな話題を中心にしたであろう。本書は最後まで小津先生との思い出に終始している。ところで本書も口述筆記で書かれた。書くことが苦手らしい。俳優さんも色々である。
 内容的には164ページしかないから一気読みできる。他書との大きな違いはトーキー時代の思い出である。先生と1歳しか違わないそうだ。年齢的には互角であるが演技指導では随分絞られたらしい。他の俳優以上に絞られたと述懐する「先生ありき」の第二章は本書のクライマックスである。
 俳優生活と小津さんとのつきあいが60年以上と長きに亘る。短かった。本当に、あっという間でした。と締めくくる。旧版を著して2年後の平成5年(1993年)に他界した。88歳の大往生であった。
 川本三郎「今ひとたびの戦後日本映画」の中で笠智衆を「穏やかな父」と題して詳細に人となりを紹介している。私では気がつかないこまかい観察が行き届いて読んでいて面白い。
 三上真一郎(1940-)も晩年の小津さんに「どう見ても役者の才能はないな」と云われながらも可愛がられた俳優だ。その著書の中に小津さんの計らいで笠さんの娘成子さんとの縁談をまとめた件。「ああ、それはいい。三上君なら是非、お願いしたい。それはいいです」と笠さんも即決。まるで小津映画を見ている様な気がした、と三上さんは書く。この話は本書には書かれていない。

映画の記憶2007年05月17日

「にごりえ」1953年制作。今井正監督。樋口一葉の原作をほぼ忠実に映画化した。明治時代が背景になっている。文学座、新世紀映画社の共同制作という意欲作である。背景の音楽もどこかで聴いたなと思ってクレジットをよく見ていると団伊玖磨であった。「雪国」、「夫婦善哉」など良く似た旋律である。今井正監督は「ここに泉あり」(1952年)、「また逢う日まで」(1950年)に続いて三作目を鑑賞した。
 第一話 十三夜は丹阿弥谷津子主演。第二話 おおつごもりは久我美子主演。第三話 にごりえは淡島千影が主演というオムニバス風の展開。第一話の丹阿弥は初見である。
 第二話の久我美子は学習院に通学当時の1947年、16歳でデビューし、美しさだけでなく芸達者な22歳になっている。黙って店のお金をちょろまかすがだめな息子が借用証を置いて全額を持ち出してしまうためばれずにすむ。樋口一葉は救いの手を入れた場面であろう。映画でも久我さんを悪者にせず結末を迎えた。やれやれである。
 第三話の淡島千影は29歳の円熟した演技が光る。この役で後の「夫婦善哉」(1955年)の成功に結びついたか。1953年には超有名な「君の名は」にも出演し充実した年であった。
 脇役では文学座の総帥である杉村春子の演技が渋い。この映画のような暗い役でも小津映画で見る明るい役でもこなすこの役者さんこそ大女優といえる。
 
「ゼロの焦点」1961年松竹制作。久我美子主演。1931年生まれの久我美子は笑顔の可愛い美少女から成熟した30歳の演技派女優に成長した。
舞台は裏日本の暗い金沢と能登半島である。しかも冬である。原作の松本清張好みの設定らしい。
 この当時の北陸本線はまだSLであった。懐かしい気分にさせる風景である。荒々しい日本海とSLを対置して観光的な満足も味わえる。クルマもプリンス自動車製である。戦前の中島飛行機が財閥解体で数社に分かれてしまった。そのうちの富士精密工業が1961年にプリンス自動車と名前を変更。映画に使われたのはグロリアであろう。これも懐かしい。
 ドラマはサスペンスだけに混み入っている。展開は早いのであるが暗い話なので後味はよろしくない。清張ってなぜこんなに暗いんでしょう。

「酔いどれ天使」1948年東宝制作。黒沢明監督。志村喬主演。ぎらぎらしたチンピラ役はデビューして三作目の三船敏郎が演じた。強烈な個性が当って三船は一躍有名になり準主役から主役の座を得ていく。また場末の汚らしい場面ばかりであるが泥沼に咲く蓮の花のように美しい久我美子を配した。しかもセーラー服姿で。当時まだ17歳であった。この配役も成功の要因であろう。世界の黒沢への記念碑的な作品である。

「おはよう」1959年松竹制作。笠智衆、三宅邦子、久我美子、杉村春子など。だれが主演か分からないほど豪華な俳優陣である。新興住宅地で起こった小さな漣のようなできごとを丹念に追うストーリー。子供達のおならが楽しい雰囲気を盛り上げる喜劇タッチの映画。28歳の久我美子はこぼれるような笑顔で子供達に接する。当時まだ珍しかったTVを買ってくれとせがむ場面は私の子供の頃を彷彿させる。金持ちの家に観にいったこともあわせて思い出深い。

「青春残酷物語」1960年制作。大島渚監督。中座した。

「ある監督の生涯 溝口健二の記録」。1962年近代映画協会制作。新藤兼人監督。世界的な映画監督である溝口監督に関わった人々を取材したドキュメント。中々内容の濃い映画である。

「大人の見る絵本 生まれてはみたけれど」1932年松竹制作。小津安二郎監督。大半は子供が主役。ガキ大将の交代、大人社会特にサラリーマン社会の一端を子供に見られる、典型的なホームドラマであるが風刺が効いていて、なるほど大人が見る絵本だわいと思わせられる。初めて観るサイレント映画でもある。1929年には「大学を出たけれど」が制作されている。この言葉は映画の題名を離れて一般に流布している。

「小早川家の秋」1961年東宝制作。晩年の小津映画である。中村鴈治郎主演であるが原節子、司葉子、新珠三千代、宝田明、団令子、小林桂樹、森繁久彌、白川由美、浪花千栄子、杉村春子と豪華な俳優陣。だがテーマは老いに忍び寄る死。最後は烏や葬列、火葬場の場面もある。小津自身も1年後に他界する。杉村春子の名古屋弁はこなれていないのが気になる。

「浮草」1959年大映制作。小津映画でも異色の作品。三重県の鳥羽でロケ。浮草の文字通り旅芸人の物語。京マチ子、若尾文子、野添ひとみ、川口浩、中村鴈治郎、杉村春子、笠智衆、三井弘次、田中春男と大映の俳優陣は豪華である。特に黒川紀章の奥様になった若尾文子が素晴らしい。お色気があって女っぽい。中村鴈治郎が熱演。京まち子との台詞のバトルはクライマックスの場面。物悲しい旅芸人の世界を小津らしくきっちりと撮っている。

映画「忍ぶ川」鑑賞2007年05月19日

1972年東宝制作。熊井啓監督。青森と東京が舞台で芥川賞を受賞した同名の原作の映画化。
前日に映画「八甲田」(1977年)を観たが中座した。結末が分かっているし、厳しい気象条件に対して人間の判断の是非を持ち込む原作に嫌気がした。新田次郎は人間に対して厳しい。特に気象に逆らった人間は容赦なく死なせている。だが男ばかりの俳優陣に懐かしい栗原小巻を配したことで救われた。雪と男それも兵隊以外に女ッ気のない映画に花が咲いたみたいに明るい。
 そこで別の「忍ぶ川」に転じた。これは良かった。お互いに自慢できるような身の上でない男女。その隠したくなるような身の上をちらちらと展開させながらドラマは進行する。信じあいそして愛が深まり、結婚にまで進む。それぞれの故郷の親に逢う。
 どの故郷も田舎の懐かしい風景である。特に雪の青森はいい。SLのシーンも素晴らしい。タイヤにチエーンを巻いて走るタクシーはダットサンか。加藤剛の家でささやかな家族だけの結婚式を済ます。
 初夜は二人とも素裸で布団に入る。この大胆なラブシーンはリアルであるが厭らしさがない。栗原はこの熱演で毎日映画コンクール女優演技賞をもらう。
 栗原も加藤もよく知られた俳優であるが二人とも同じ俳優座の出身とは知らなかった。加藤剛といえば大岡越前の役が脳裏に刻まれている。同じ俳優座の東野英治郎は水戸黄門でこれも飽きずによく見た。最近小津映画での渋い脇役ぶりを見ると印象の違いに驚く。
 一方の栗原小巻は劇場で見た「サンダカン八番娼館 望郷」が印象深い。田中絹代もこの映画で初めて知った。小津映画や溝口映画、成瀬映画で活躍した田中絹代もこの映画が最後となった、という。
 加藤剛は「雪国」の朗読のCDもでている程で日本語の正確な発音がいい。栗原小巻も発音がはっきりしており、まるで舞台で台詞を読んでいるような印象を受けた。一語一語を丁寧にはっきりとしゃべることでこの映画を格調高いものにしている。
 ドラマ中に加藤剛が「君の”ハイ”が聞きたくてここに来た」という場面がある。忍ぶ川は題名であるがちょっと敷居の高い割烹料理屋の名前でもある。栗原小巻は当時27歳で美貌と演技力の最も高まったころであろう。”ハイ”という返事を丁寧にしゃべることでメリハリの利いたいい場面である。
 この映画となんとなく波長が合うなあ、と思って熊井啓監督を調べるとそのはずである。「黒部の太陽(1968年) 」「サンダカン八番娼館 望郷(1974年)」「海と毒薬(1986年)」などを観た記憶があった。

夢のごとき鈴鹿・元越谷源流彷徨2007年05月21日

 5/20 午前4時過ぎ起床。やや小寒い朝である。今年初めての沢登りである。沢初めは鈴鹿近江側にある元越谷。
 午前8時20分駐車地点を出発。少し前に三河ナンバーのパーティーが出発していった。周囲にはことの他藤の花が多い。正岡子規の「藤の花房短ければ畳の上にとどかざりけり」という短歌を思う。鈴鹿スカイラインからずうっと見てきた藤の花の多さに圧倒される。
 入渓地点は地形変更があったらしく埋められていた。全くの初心者のFさんは先ほどからもう今までの山行との違いに困惑気味であるが心なしか嬉しそうでもある。今まで避けてきた水の中に足を踏み込むこと自体が異次元の体験である。
 堰堤を越えたり、滝をへつったり、高巻きして懸垂下降を経験したりして進む。LのW君は下半身を水没させてやる気満々である。Fさんも下半身を濡らして沢登りの醍醐味を味わう。
 核心の18m大滝に遭遇。やおらカメラを出して数枚のショットを撮影。「ええっ、あの滝を登るんですか」とFさんは素っ頓狂な声をあげた。「いやいや右を巻くんですよ」とW君。ここではロープで確保。中々足取りは確りしている。
 滝を越す。Fさんはさっき教えた自己確保(セルフビレイ)の体制で準備が整うのを待っている。飲み込みは早そうである。滝の落ち口に立つとあとは小さな滝や釜の連続する楽しい渓谷遡行が味わえる。小技を使いながらの遡行である。12時過ぎ、左股をを分ける。水量が減ったせいで谷は平凡になる。傾斜も緩くなる。仏谷の分岐までがやや冗長なほど長く感じられた。 仏谷の別れで右に行く。すぐ先でゴルジュとなるため左岸を大きく高巻く。谷に戻ったがもう渓相は平凡になってしまった。しかし平流でりながらも樹相は素晴らしかった。炭焼き窯跡もあちこちに見られた。カメラを構えるには低い雲のためか暗いので不向きだったがやや興奮気味になりながら古い道跡を探しながら先に進んだ。
 源流に行けば行くほど雰囲気はよくなり、庭園の趣があった。左は仏谷峠と見られる道もあったが高円山を目指した我々は直進した。本流も支流も同格に見えて迷いそうであった。目の前の鞍部らしい高みを目指して土の滑りやすい斜面を駆け上がるとよく踏まれた道に出会った。
 道は楽なものである。ハイウエイと同じである。少しばかり歩くとひょっこり車道に出た。登山口から宮指呂岳への道はこことつながっていたのである。車道を登ると親切にも高円山へのプレートがぶら下がっていた。
 高円山へはよく踏まれた道が続いた。道々出会う小さな花はイワカガミである。山頂に近づくにつれて群落に近い繁殖力を見せる。植物は人間から遠ざかるほどよく育つのであろう。
 小さなキレットなどを通過して山頂へは15時であった。実に7時間が経過していた。山頂は南や西に切開かれていた。シャクナゲがまだツボミも含めて多く群落といっていいほどである。 
 小寒いので長々と滞在は出来なかった。15時20分下山。帰路は林道をすたすた歩いた。横谷山の登山口を通過してどんどん下ると見慣れた橋についた。これで一周したことになる。車止めまではゆっくり歩いた。17時。
 かもしか荘で入浴を楽しんだ。汗を流すというより冷えたからだを温めた。風呂からでてもまだ明るい。この先の2ヶ月間沢登りが楽しめる。いい沢初めであった。

中央アルプス・蕎麦粒岳完登2007年05月27日

 中央アルプス前衛の蕎麦粒岳をついに登頂を果たした。1985年4月29日に萩原沢岳に登って以来なんと22年ぶりの歳月が経過した。この22年間いつも気になっていた山であった。いわば久恋の山である。
 5月25日の夜8時半、仲間のKさん宅に集まって木曽を目指す。名古屋でもかなりの雨に危惧したが中止にはならなかった。名古屋はなんとか持ち直しているが木曽は雨、ということはありうる。ゆえにまた例の施設で仮眠させてもらうことにした。
 26日は好天になりそうであった。起き抜けに上松の砂防公園に向う。ここでパッキングをし直す。山の雲の様子を窺うがとくに急変はなさそうである。滑川の流れは増水でまたも徒渉が心配になって来た。昨年も徒渉に手間取った。風越山を経る尾根コースか、二の沢の奥深く入ってテントを張るか、この段階でも迷いつつ思案しながら歩いた。
 滑川本流でこの増水ではまたも藪の中の踏み跡を歩くことになる。重いザックを背負ってのアルバイトは短いほどいいので滑川本流の川原でテントを張って今日中に山頂を往復する案を提案した。登頂に手間取って暗くなっても難関のヤブをくぐらなくてもいい。ベースキャンプがあるからだ。BCがあるゆえにきりぎりまで行動が可能になる。
 昨年の撤退があるのですぐに乗ってきた。勝算はやってみないと分からない。ヤブの中のルートは昨年の学習効果でスムースであった。滑川に降りてすぐの川原に今日の行動に必要な食料とビバーク用品のみに軽量化して出発した。7時50分であった。
 二の沢は出合いはすぐである。昨年の川に跨る倒木はまだそのままであった。激流はとても踏み込めない。助かった思いである。ここを突破すればあとは二の沢沿いの左岸の踏み跡を追いながら詰めてゆく。大きな岩の所から沢身の石飛で詰める。沢が傾斜を強めてきた。左からの枝沢を2本やり過ごすと右からも沢が合流してくる。この沢は萩原沢岳の直下から流れる。我々は本流を詰めた。雪渓が現れた。傾斜が一段と強まったところから右の尾根に取り付いた。コルからこの尾根には微かな踏み跡があるはずであるが沢を詰めすぎて尾根を左よりに登った。ここからは大きな岩が出てきてしまうので若干下ってコルにつながる浅い沢を探した。ついに二の沢のコルに達した。普通は下るより登る法が楽であるがここは逆である。
 コルで一休みすると5月のさわやかな風が吹きぬけた。樹林越しには中央アルプスの稜線が見える。萩原沢岳への踏み跡を追いながら傾斜が緩んだところから蕎麦粒岳の方へトラバースして鞍部を目指す。最初は樹林帯をするする通過できたが鞍部が近づくにつれて藪の密植状態に音をあげそうになる。
 しかしはまり込んでしまった以上丁寧に絡まるヤブを突破するしかない。3人で励ましあいながらついにヤブを突破。稜線には微かな踏み跡や伐開の跡が見られた。鋭い斧かナタ、或いは鋸で枝を払ってある。少し危険なガレと痩せた稜線を辿って蕎麦粒岳らしい高みに立った。らしい、というのは山頂標がないからだ。ただし、石の表面に何か印が彫ってある。何の標か分からないがここを山頂としたのである。まだ先にも同じような高みは続くがここが一番高い。
 ゆっくりとはして居れない。今度はヤブに懲りて萩原沢岳を目指す。今来たルートを戻って鞍部からはトラバースを止めて山頂に向った。それの方が優しいように見えた。以前山頂から目指したときは藪に閉口して戻ったが今日は結局気合が入っているからであろう。
 萩原沢岳経由を喜んだのは同行のF君である。この山は三角点もある立派な山である。22年前の岐阜薬科大の木の山頂標がまだ残っていた。ここから眺める三の沢岳はやけに立派に見える。右隣に見えるのは空木岳、左となりは木曽駒、木曽前岳、麦草岳である。 
 ここからの蕎麦粒はより低く見えて22年前も行く気が失せたものであった。その後も気合が今一は入らなかった。しかし執念は恐ろしい。K,Fという屈強の同行者が現れて落とさねばならないと思った。一緒に登っておかないと彼らに先を越される気もした。今登らねば後誰が一緒に登ってくれるのであろうか。一期一会である。
 さてすべては終った。後は安全に下山することである。山頂からの踏み跡を丹念に追いながらコルに着いた。コルからは踏み跡を拾いながらスムーズに下れた。二の沢本流はとんとん拍子に下れた。そして難関の滑川の徒渉地点に着いた。もう日没してしまったが滑川の奥の空遠く宝剣岳が夕日に照らされていた。
 テント場でも設営中はまだ明るかったが次第に闇が迫ってきた。素晴らしい話題をつまみにして夜が更けていった。
 27日の朝は4時過ぎには明るくなる。ゆっくり起きて軽く朝食をとってテントを撤収した。帰りもヤブコースを辿ったが気が緩んだせいか若干迷走気味になった。それでも勘で踏み跡を探り当てて何とか砂防公園に戻った。
 上松の町は通らず、木曽古道の古い山郷である吉野を経て東野に向った。東野の一角からは昨日の蕎麦粒岳が良く見えた。ここからはほんとに蕎麦の実を立てたように見える。静かな山村は花が一杯咲いてまだ春のよそおいに思える。すでにコデマリの花は朽ちかけ、紫木蓮、ドウダンツツジが花盛りであった。