両神山の肩打つ時雨お降りなり 金子兜太2024年04月25日

    あとがき

 昭和61年(1986)の初冬、『皆之(みなの)』(立風書房)を上梓してから9年たって、この句集を出すことができた。第12句集ということになる。
北武蔵は熊谷に住んで、すでに30年近くなる。猫も同居していたので「熊猫荘(ゆうびようそう)」と呼んできたのだが、その愛猫シンも他界した。

 シンの死を含めて、ことにこの九年間は俳句仲間の死が相次ぐのおもいがある。旅にも出かけた。中国はじめ海外にも出かけて、すこし長い旅は皆子と同行というかたちも出来上がってしまった。細君と一緒でないと、なんとなく落着かない気持になったのは、こちらが年齢を加えたせいもあろうか。

 さよう、この9年間でわたしは70の坂を越え、数え年の喜寿を祝ってくれる人まで出現する始末とは相成った。ただし一応は健康である。小病各所に轟くが、未だ大病なし。

 そうした日常に執して句作してきたものをまとめた。即興即吟が多く、なんとなく頼りないものも少くないので、それらはどしどし削った。しかし、即興ということについて大いに得るところがあったことも事実で、即興の句には、対象との生きた交感がある、とおもうこと屡々だった。推敲し熟成させてゆく過程で、かえって観念過剰になって、生き生きとしたものを乏しくすることがけっこうあったのである。

 むろんわたしは、昭和30年代の中年期に(造型)の名を掲げて書いた方法論をいまでも後生大事にしている。(創る自分)を活動させて、暗喩たり得る映像(イメージ)を形象することは、わたしの句作の基本である。これを推敲ということばで日常化しょうともしてきたわけだ。

 しかし即興の味を覚えるなかで、造型とともに即興・二律背反ともいえるこの双方を、いつも念頭に置くようになっている。両刀使いである。そして、両刀使いでかなり気儘にやるうちに、俳句は、とどのつまりは自分そのもの、自分の有り態(てい)をそのまま曝すしかないものとおもい定めるようになっている。自分を突っ張って生きてきて、この気持ちはまだまだ旺盛だが、同時に、草や木や牛やオットセイや天道虫や鯖や、むろん人間やと、周囲の生きものとこころを通わせることに生甲斐を感じるようにもなっている昨今ではある。

 この状態のすべてをそのまま、それこそ存在もろとも五七調最短定型にぶち込むことこそ何より、とおもうようになっているのである。 この秋、中国を訪れて林林氏にお目にかかったとき、「天人合一」の語に触れた。
 造化に対する人間の思い上りは許せない。しかし、「自然随順」などという言い方はどこかいかがわしい、と日頃考えていたわたしは、このことばが嬉しくて仕方なかったのである。

 句集の題「両神(りようがみ)」は秩父の山両神山からいただいた。秩父盆地の町・皆野で育ったたわたしは、西の空に、この台状の高山を毎日仰いでいた。いまでも、皆野町東側の山頂近い集落平草(ひらくさ)にゆき、この山を正面から眺めることが多い。熊谷にいて、妻君と散歩するときも、蒼暗の台状の山を秩父の山の連なりの上に遠く見ている。

 あの山は補陀落(ふだらく)に違いない、秩父札所34ケ寺、坂東33ケ寺の観音さまのお住まいの山に違いない、といつの間にかおもい定めてもいる。つまり、両神山はそんな想望とともに、わたしの日常のなかに存在しているのである。
 山に甘えて、「両神」 の題をいただいた次第。 この句集上梓に当って、宗田安正氏のお世話に与ったことをこころから感謝している。

   平成7年 (1995) 中秋。    金子兜太

・・・・五七五の有季定型は一句もない。伝統俳句ではない。  
 虚子と決別した秋櫻子は散文の断片のような俳句を良しとした。その弟子に父親の金子伊昔紅もいた。
 高弟は破郷、楸邨、草田男らがいた。その中で破郷がいち早く俳句は韻文と見抜いた。そして秋櫻子から脱皮して行った。
 ところが山本健吉はかれら三人を人間探求派と囃した。人間を詠め、と。文学に目覚めさせようとした。しかし、高邁な文学精神を体得できる弟子はそんなには増えないから、人間を詠む、というところだけは普及して駄句の山を築くことになった。子規虚子が折角写生を謳ったにも関わらず、散文の断片を俳句とする考えに曲がった。
 兜太は楸邨の弟子ということになっている。しかし、碧梧桐の俳論も流れに組み込まれている。碧梧桐が長生きしておれば金子兜太のような存在になったであろう。しかし、碧梧桐は貧乏人ではないから潔く俳句から足を洗った。金子は東大出、日銀に勤務する賃金労働者の身分だ。貧しくはなかっただろうが公務員で食っていくしかなかった。
 戦後は少しばかり権力に抵抗した。食えるようになるとみな転向したが金子だけは変な散文の断片を作り続けた。マスコミも珍重したのであろう。一茶に共鳴するくらいだから性格的に素直ではないことは確かだ。
 70歳を越えると新たな境遇が生まれたのであろう。両神山を産土と感じ始めたのだ。

金子 兜太句集『両神』届く2024年04月24日

 『東国抄』に続いて『両神』も届いた。

金子兜太句集『東国抄』から2024年04月23日

 金子兜太しか知らないと変な句形にとまどう。しかし、金子は天才ではない。河東碧梧桐という先人が居たのだ。

 立山は手届く爪殺ぎの雪  碧梧桐(大正4年)

山を詠んでもこんな形式である。しかし碧梧桐は10年後には俳句界から去る。ライバルの虚子の伝統俳句に敗北した形である。それでも少数ながら愛好者はいた。これを継承したのが兜太だったのではないか。

 龍神の両神山に白露かな  兜太

金子兜太の句集『東国抄』届く2024年04月22日

 第36回蛇笏賞受賞作品の言葉
「受賞のことば
「生生しく、深く」金子兜太

 昨秋から今春にかけて、同年の俳人の死が相次いだ。沢木欣一、三橋敏雄(一歳年下だが)、佐藤鬼房、安東次男(詩人というべきか)。昨日(四月十六日)、その安東の葬儀にいってきたばかりである。
 いわゆる戦後俳句の渦中をともに過してきた同年者といえば、あとには、原子公平、森澄雄、鈴木六林男、私の四人を残すのみ。欣一の死のときには、電話で公平と、鬼房を告別する集まりが塩竃で行われたときは六林男と、次男のときは澄雄と、頑張って生きようや、と声をかけ合ったものだったが、一人になっても、これからもしぶとく生きて俳句をつくりつづけるしかない、と自分にいう。一九一九年生れ、つまり一句一句しか能のない男と思い定めよ、と自分を励ます。顔を死に向けての世迷い言はいうまい。虚勢と見られようとも、「死んで花実が咲くものか」といいつづけていきたい、とも。――この言い草は、長崎の俳友隈治人が、病に倒れたあともずうーといいつづけていた由(よし)。治人のあとを継いで「土曜」を主宰している山本奈良夫から聞いた。
 俳句は「日常詩」。一般性のなかに一流性を抱懐するものなり。その日常を生生しく、深く、生きていきたい。」

 選考者の言葉の中で最も的確な評価は
「「山河の風土 精神の風土」 宇多喜代子

 本年の蛇笏賞にふさわしい句集として、金子兜太氏の『東国抄』を推しました。
『東国抄』は、金子兜太氏の第十三句集ですが、ここに至るまでの句集の歴史があってこそのものであると思われるところが随所に見られる厚みのある句集でした。
 一句一句の量感の重なりに加わる歳月の重みが、「山河の風土」「精神の風土」の風景を展開させる底力となっているのです。一巻に流れる「東国」即ち「産土」の自覚が、けっして今日や昨日になったものでないこと、紙とペンで軽々と書かれたものでないことが伝わる実感を是といたしました。
 〈じつによく泣く赤ん坊さくら五分〉
 〈妻病みてそわそわとわが命(いのち)あり〉
 〈おおかみに螢が一つ付いていた〉
 〈龍神の走れば露の玉走る〉
など、いのちへの慈しみが深く表現されている句として印象に残りました。
 口当たりのよい句ばかりではないのですが、きれいに整合された句集にありがちな退屈とは無縁であるところも、この句集の魅力でした。金子氏のますますの御加餐を祈ります。」
引用は以上

 ではないだろうか。
 産土への自覚とは前田普羅の地貌論にも共通する概念である。どこかの観光地や名刹古刹で詠んだ俳句は時間がたてばはがれてゆく。しかし、地貌から生まれた句は生涯忘れえぬ句になる。

 東国という言葉の斡旋も気になる。万葉集の東国に由来することは言うまでもないだろう。
「万葉集の東国とは?
東国は、中央の王権にとって、 辺境 フロンテイア とも呼び得る地域であり、時代とともに東へ東へと拡大されていった。 その範囲は、東歌の採録された地域、さらには防人が徴発された地域とも重なる。 東 とう 山 せ(さ)ん 道 どう は 信濃 しなの 国以東、東海道は 遠江 とおとうみ 国以東がその範囲になる。」

 兜太の権力への抵抗の源泉であった。

雨の日曜日2024年04月21日

 山行は郡上市の水晶山を再訪する予定だった。未明の天気予報確認で中止にした。先週は思いがけない花粉症に退散させられたが、今日は梅雨の前兆のような雨である。10日間の長期予報が出ているが60%以下は7日間で3日は悪い。降雨率30%未満は2日だけで里山登山に絶好の乾燥した時期が終わったんだと思う。

三遠研の総会2024年04月20日

 豊橋市方面に向かう時に県道56号から片側2車線のR155に右折。このままでは知立へ行くので左折、地道を抜ける内に三河線をまたぐ。伊勢湾岸道へ左折して並行線から離れてようやく矢作川を渡った。
 岡崎市市街地も混雑気味である。岡崎IC手前でR1に合流。その先で喫茶店で一休み。モーニングサービスはオプションだったがコーヒー代プラス180円、360円、500円とうぉっという価格設定だった。しっかり腹づくりしたい人には良いかも。赤坂付近から東の空を見るとどんより雲が厚そうである。今日も黄砂が降っているのだろうか。
 R1から左折して御油駅周辺の渋滞を回避。山間部を迂回して本宮山の山懐を走り、豊川を渡った。秀麗な山容の吉祥山が目の前に見える。13時まではまだ時間があるので新城市図書館へ寄った。地域資料コーナーの中で研究輯録の創刊以来のバックナンバーをチエックした。2号の目次に響くものがあったので閉架図書の開示請求をして閲覧。読んでみると資料解釈が精細すぎてこなれていない。研究者の域を出て作家的な視点で書いてないと素人には読みづらい。
 時間が迫ったので富岡ふるさと会館に行く。総会なので令和5年度の事業報告と会計報告、次年度の事業計画と予算案の読みあげと説明があった。特に会計では現金不足が深刻である。印刷した『研究輯録10』が売れて資金回収できないとカネが回らない。
 これは山岳会の上部団体でも資金不足で幹部は資金調達に苦労している。どこもコストダウンに知恵を絞る。
 続いて、「ええじゃないかの始まりと広がり」と題して、豊橋市二川宿本陣資料館館長の和田 実氏の講演があった。江戸時代の末期に全国規模で起きた狂乱的な民衆運動だった。その中でも豊橋市に的を絞っている。

 余談メモ

名古屋市博物館のHPから
https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/eejyanaika/index.html

 「ええじゃないか150年
平成29年9月27日(水)~10月22日(日)
 いまから150年前の慶応3年(1867)7月14日、三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)へ伊勢神宮のお札が降り、二夜三日の祭礼が行われました。人々はお札降りを神仏の出現ととらえて祭礼を行います。お札降りが連続するとお祭りも連続し、日常生活が麻痺する熱狂的な騒ぎへ発展します。これが幕末に流行した「ええじゃないか」です。

 全国に伝播した「ええじゃないか」ですが、名古屋へは8月末に伝わり11月まで続きました。名古屋では、お札が降ると町奉行所へ届けて祭礼を行います。町奉行で集計されたお札は三千枚を超え、いかに「ええじゃないか」の騒ぎが大きかったかがうかがえます。加えて、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は七日七夜にわたり、降札による祭礼の連続、祭礼の長期化が城下を祝祭空間に変えてしまったのです(図1)。

 こうしてみると「ええじゃないか」は、お札降りを口実に人々が勝手に遊びくるったようなイメージをもつかもしれません。しかし、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は、地域の伝統的な祭礼のルールのもとで行いました。名古屋城下茶屋町をみてみると、町で管理する屋根神の中へ「ええじゃないか」のお札を納め、関係の寺社へとお礼参りをして「ええじゃないか」の一連の行事は終了しました。」以下略。

 慶応3(1867)年は日本が近世(封建制)から近代に生まれ変わった年でした。
・坂本竜馬、新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)を起草
・大政奉還(たいせいほうかん)
・王政復古(おうせいふっこ)の大号令
 慶応4(1868)年は
・鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)を機に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まる
・江戸を東京と改称し、年号を明治とする

 今の日本の世相と幕末はよく似ていると思います。消費税率が打出の小槌のようにアップしてきた。大企業には減税しているし、諸外国にカネをばらまくわでいい顔したがる岸田政権。江戸時代の大衆も重税に悩んでいた。
 昨年春から長良川や津保川流域の里山を歩いていると郡上一揆の石碑を多数発見します。
 郡上一揆は18世紀半ばに起きた農民の減税運動でした。
 農民は結束し秘密裏にことを進めめ公事(今の弁護士で宿泊所付きの法律事務所)に頼んで籠訴を準備。しかし籠訴は首謀者は獄門晒し首の掟がある。首謀者の実家の墓に行ったこともある。
 これは大衆への見せしめには効果があった。権力に逆らうと只では済まんぞ。というわけだ。その後に下流の美濃市で流行った大衆芸能の「美濃流しにわか」では時事、世相批判が材料で藩(支配者)をチクる。証拠を残さないために一回限りとした。おそらくですが権力への忖度があったのでしょう。
 さらに時代が下がると「ええじゃないか」が起こる。権力者を批判するでもない。戦後の学生運動は左翼運動でしたから大衆の支持を得られないままに終焉した。ええじゃないかは徳川幕府をつぶすためでもなかった。
 マルクスは「万国の労働者よ団結せよ」、と共産党宣言(1848年)を書いたが、そんな高邁な思想はない。
 江戸時代の大衆は絶望感の共有から変革への願望がええじゃないかにつながり、明治維新が生まれた。変わるべくして変わった。

世間の動き2024年04月19日

 あまり新聞には目を通さなくなった。紙面の半分はスポーツ記事なのでもう購読を中止することにしたい。
 ただ、朝日新聞の朝刊の切り口は租税特別措置に切り込んでいて鋭い指摘が光った。租税特別措置は企業の純利益から将来の損失を見込んで相殺できる仕組みである。特に政治経済の見通しの悪い海外への投資は変動があるといつ損失が発生するか不透明である。調子が良いと利益をもたらして来るが変動があると世界中で赤字を垂れ流す。
 外国為替の変動を見込んで、輸出で苦労した教訓を基に海外に生産工場を建てて日本に逆輸入する会社は現在は円安なのでコストアップに青ざめているだろう。またいつ円高になるか分からない。加えて国内工場も従業員も整理してしまったら再開は中々大変で時間もかかる。その内にまた円高に変わるかも知れない。
 そんな輸出企業にはこの租税特別措置はありがたい。この措置で約2兆円も法人税に減税になった。消費税の値上げ分に相当する。これを国民に目隠ししたままでやれる。国会で審議ということだと野党の反対で通らない。経団連企業には都合が良い。
 また朝日新聞を採ろうか。

散髪2024年04月18日

 寒い間は散髪も延び延びになっていた。そのために伸びてカールするので温かくなったことでもあり散髪に行った。QBハウスは地下鉄栄駅の大曾根方面のホーム手前にあるので事務所への行きかえりに寄れる至極便利な場所に立地する。
 自販機に1350円を投入して順番待ちするだけだ。料金は昔は1000円だったが100円単位で値上がりしてきた。シニア向けの優遇料金も廃止になった。そして又50円位追加値上げした感じがする。アピタ平針店にもクイックカットの新業態ができていた。あそこは50円安い。かと思えば1100円から1400円までばらつきがある。
 次々に散髪中の客が仕上がって出てゆくと同時に来客がある。よく流行る店だ。椅子に座るとあっという間に刈り上げられてゆく。一丁上がりで店を出て地下鉄でクルマのある駐車場まで移動。

岳連の会計監査2024年04月17日

 午後から岳連の会計監査を実施。財務担当2名、監事2名で昨年10/1~今年3/31の複式簿記で作成した財務諸表、帳簿、仕訳帳を順次チエックを重ねた。仕訳ミス、原始伝票の誤記、誤記の訂正の仕方、公式の事業への講師の交通費は認めるが、研修や行事への個人の参加の交通費が誤認して、岳連の会計から支給されていると判明したため、理事会に諮って公開し、返金させることとした。その他精算に関して手数料、通信費が余りにも多すぎることに懸念を呈した。各事業、会合のリアルな機会を復活させる提案もした。コロナ以前に戻ろうということだ。

花粉症は治まる2024年04月16日

 今日は天気が悪いせいか、花粉症の飛散は無さそうである。体調は幾分楽になってきた。