晩秋の裏木曽・井出ノ小路山界隈を歩く2017年11月06日

 11/4の夜、世間ではもう寝るか、という10時過ぎ、メンバー4人が合流して名古屋市を出発。中央道を走って、中津川市から下呂への南北街道から付知峡に分け入ると、零時を回った。赤石園という小さな園地に幕営、空には都会では見られない青い月が微笑んでいた。月明かりだけでもテントは張れるほど明るい。おそらく零度近い気温に、ビールを飲む気になれず、ミニ宴会もなく5時起床とだけ約して1時30分に就寝。
 11/5、5時、非情の目覚ましベルに起床。簡単な朝食をとる。直ぐにテント撤収。登山口の林道ゲートまではすぐだった。身支度を整えて出発したのは6時20分となった。ゲートをくぐって林道を歩き始める。真弓峠への分岐を過ぎ、井出ノ小路橋を渡ると左岸に移る。合体木とか、神宮備林の案内板のあるところで美林橋になり右岸に渡る。しばらくはいい道だったがヘアピンを過ぎたころから路盤が荒れ始めてきた。谷が押し出されて埋まったところもあり、帰路、日没を想定してリーダーのW君が赤い布をべた打ちしてくれた。林道は延々続いたが突然、堰堤から下流の谷底がえぐられた箇所に来た。ここが事実上の登山口の茶屋小屋谷である。
 堰堤の左を巻いて谷芯に降りて遡行を開始した。遡行とはいえ、この時期は水は伏流して荒れた登山道を行くような感じで登攀の趣きである。かつて水が流れていたので岩は浮石が多く油断が出来ない。石車や抱き石に注意した。堰堤からしばらくは谷が立っているので高度は稼げる。厳しいところを過ぎて安定した谷相に入った。
 時計を見ながら鞍部へは予定通り着くかどうか。心配していると突然、明るい谷にも関わらず、右へ振るというリーダーの指示で笹を漕いで枝沢に移った。なるほど、上方からは明るい日差しが見えて今やっと日が昇ったかに思える。東南の方向へ振ったのである。
 苦労の末にたどり着いた鞍部は井出ノ小路山への鞍部ではなく、中の谷1806.4mへの鞍部であった。この時点で目的地への登山は断念せざるを得なかった。折角1700mまで高度を稼いだのだから中の谷の三角点を稼いで下山しようと提案したら乗ってくれた。この地点から下山すれば明るいうちに車に戻れるが手ぶらでは帰れないと誰しもが思ったのだろう。
 鞍部から中の谷への話は以下の通り。(東海白樺山岳会ブログ)
 井出ノ小路山と1806.4mの2等三角点の鞍部に詰める予定が、朝日が上がった方向(東南)を鞍部と勘違いして、その枝沢に乗り換えた。ここでコンパスを出して確認すべきだった。山勘だけに頼ると陥りやすいミスだ。ただし、現在位置は確認できたので、1806.4mの2等三角点「中の谷」だけでも踏んで下山することとした。間違った鞍部から激ヤブを漕いで中の谷に登った。途中、御嶽が至近距離に見え、遠く白山もみえて癒された。私は2回目で、中の谷は夕森山からヤブコギで往復した記憶がある。そばには抜き取られた御料局三角点が埋まり、桧の良材の宝庫だったことを彷彿させる。1806mから鞍部へは踏み跡もなく訪問者はきわめて限られた好事家しか登らないのだろう。鞍部も古い赤テープがあるだけで踏み跡は一切ない。
 井出ノ小路山は登山者のまれなヤブ山である。
 溝状の谷の下降も最初は急で神経を使う。半ばから少し傾斜が緩くなるがまた急になり、登る際には岩登りの感覚で登攀した箇所は右岸の笹薮の中のかすかな踏み跡をたどって下山した。堰堤から下流は谷底がえぐれて大変に荒れていた。蛇抜けであろう。日没前に林道に下れて良かったが、美林橋から上は荒れて谷の崩壊があり、押し出された土砂で埋まっていた。リーダーのW君は往きに日没がありうると想定し、危険箇所に赤い布をべた打ちしておいた。美林橋の手前から日没し、ヘッドランプで下山した。
 夜明けは6時16分ころで、ゲート前を朝6時20分に出発し、戻ったのは18時30分超で実に12時間以上の長丁場であった。日没の早いこの時期としては前夜発日帰り登山の限界を超えていた。中の谷を経由しなければ2時間は早く下山できただろう。中の谷をゲットできただけでも良しとしたい。
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 下山が遅れて温泉入湯は出来ず、夜自宅で入浴後、体重計に乗ると74.75kgを指した。少し前から1kgの減量となった。朝食はコンビニのおにぎり1個、バナナ1つ、カップ麺1杯、行動食としてミカン2個、餅を5つ、はちみつのスティック2本、300mmの牛乳1個、ドラ焼き1個を食べた。これだけ食べても空腹感があり、恵那峡SAでは夕食にビフテキカレーを平らげた。それでも減量したのだからいかに激しい運動量だったか分かる。ただし水は水出し麦茶1リットルで足りた。

緑区滝の水緑地4等三角点へポタリング2017年11月03日

 午後3時、読書の乱読に飽きてポタリングに出た。目的地は名古屋市緑区滝の水緑地の4等三角点である。点名も滝の水緑地で63.8m。
 自宅は約15mの低地なのでまたペダルをこいで坂道を登る。R302号の側道に達したら、最高点である68mの標高点を通過する。そして西友ストアのある神沢の交差点までは長い下り坂を気持ちよく下る。そして登り返すとピアゴ滝の水店のある交差点だ。ここを過ぎると又下るので側道沿いに踏み跡がないか探るがないので戻って北側の住宅地との間の車道を走ると滝の水緑地の園地に着いた。ここまで4.8kmだった。
 東屋、ベンチ、トイレがあり、遊歩道まであった。今は小さな池の水を抜いている作業中だった。俳句の冬の季語に「池普請」があり、まさにその仕事であろう。立冬以後は水も枯れて、作業がしやすくなりこんな仕事が増えるだろう。
 園地の一角に自転車を止めて遊歩道を登る。赤松を主体にクヌギなどで構成した雑木林であり、典型的な里山の緑地である。歩道は幅1mあり2人で連れだって歩ける。散歩帰りの老夫婦とすれ違った。今はまだ緑だが冬になり落葉すると若干は見通しも良いだろう。登るというほどの傾斜も無く、4等三角点の「山頂」に着いた。5分くらいか。北側に開けており、藪の向こうにはピアゴやR302号の道路が見えた。晴れれば冬の白い御嶽山や恵那山が見えると思う。
 「山頂」から南に下る階段道があったので下ってみた。同じような雑木林の道である。主婦らしい「単独行者」に会った。キッチンを離れてふらりと歩いているのだろう。そのまま歩くと二手に分かれる。左は登り気味に山手に続き、右の凝木の道は湿地帯の木道である。
 わずかに水が浸み出している。そして小さな池に溜まるのだが、水抜きをしたばかりなので泥が日を浴びて新しい。作業は何とか協議会の腕章や高校生らしい子供らが協同でやっていたらしい。
 腕章の人に聞くとここは市有地で、かつてはサギソウも咲いていたが今は株を移植して咲かすらしい。宅地開発から逃れ、大都市に奇跡的に残された自然の一こまである。湿地ゆえに宅地に不向きとして残ったのだろう。
 帰路はR302号を戻り、島田住宅東まで登り返す。中平4丁目まで気持ちよく下り左折。このところ気になっていたマツダの販売店へ寄った。CX-8の展示車がないか、と思ったが来月半ばとのこと。クリ―ディーゼル、燃費17km/l、最低地上高20センチを確保した最新のSUVだ。車両価格で350万円超の高級車である。カタログをもらって当面夢を見させてもらう。喫茶店で一休みして帰宅。

2等三角点「野並村」へポタリング2017年10月30日

 9/22以来、ごく近場しか乗らなかった自転車。5月下旬からの4ヶ月にわたるポタリングの成果で膝痛が緩和して10月から本格登山を再開できた。木曽の沢登り、猿投山、中央アルプス日帰り、富山の牛嶽と高落場山、鎌ヶ岳と数だけは稼いだ。
 10月中旬からは週末ごとの台風で実行できず。月末は所用が重なり1ヶ月ポタリングはできなかった。体重計に乗ると75.7kgとやや太りつつある。10/28の姫路城見学でも実際は乗り物で行動し、御馳走三昧でほとんど歩いていないからカロリーの取り過ぎである。
 今日は午後から久々に自転車にまたがった。台風の後でまだ強風が吹くが、爽やかである。向った先は天白区久方というところにある「野並村」という2等三角点である。市道からいつもの道路は傾斜が強いので路地に入り、段々に高度をあげてペダルを漕いだ。
 三角点は69.3mほどで低い。路地を抜けると豊田工業大学の一角に着いた。一帯は戸笠公園の散策路になっていた。三角点は大学のグラウンドの外れにあるが、道路側からでも視認はできた。何と石垣で一段高く盛土してあり、国地院の説明板まであった。
 確認後は住宅内を下った。どこを走っても下り坂である。ダイレクトに来ると2.3kmなので周遊して9.2km程度の運動にはなった。野並駅経由で自宅に戻りつつ背中に少し汗をかいた。

放火事件2017年10月30日

 10/28の午前3時、居住のマンションの自転車置き場で放火事件があった。建物も天井は煤で真っ黒になり、梁は炎にあぶられて変形していた。建物の半壊の状況である。建物の近くの植え木も熱で変色していた。
 オートバイ5台が焼けた。鉄だけが残った感じである。オートバイの傍の自転車も数台が焼けてタイヤ、プラスチック、電動サイクルが溶けてしまった。
 思えば10/28の午前3時ころ、消防車のサイレンで起きた。その前から12Fのわが居室にも異臭がしていた。ベランダに出ても異臭はしない。今思えば、1Fの玄関から吹き抜けの階段を登って来たのだろう。消火が早くて良かった。まさか自分のマンションとは分からなかった。今日、見てみて自分の自転車に被害がなかったのでまずは安心した。
 それにしても誰がこんな放火をしたものか。オートバイにはガソリンが入っているから燃えやすい。本当に誰なんだ。
 過去の居住者でトラブルがあった人か。例えば管理費等を長年にわたって滞納した人には管理組合から内容証明郵便で何度も督促したりする。最終的には自宅を売却して払ってもらったらしい。しかし、正当な理由とはいえ、逆恨みをされやすい。人の恨みほど怖いものはない。温情を施したら中々回収できない。まじめに払う人の負担になるからだ。
 自転車の部品を盗まれたこともあった。これは受験生が受験勉強に疲れて、ストレスで深夜、犯行に及ぶとか。それから鍵は2重にした。油断も隙もない世の中だ。修繕後は監視カメラを設置するとか。嫌なご時世になったものだ。

人生の沙汰2017年10月29日

 今日は句会。句会に出句された中に沙汰という語彙があった。男女の恋のもつれから女が受け取った別れ話の手紙を浜辺に捨てた。女は男から棄てられたのだが、手紙を保持するいわれはないと廃棄したのであった。作者はそれを拾って読んでしまい、一句に詠んだ。その俳人魂のすごさに驚いた。
 沙汰とは一義的には「物事を処理すること。特に、物事の善悪・是非などを論じ定めること。」である。
 当方は地獄の沙汰も金次第くらいしか思いつかない。もっと記憶を探れば、ご無沙汰とか、色恋沙汰もある。警察沙汰になる、裁判沙汰にしたくない、音沙汰もない、など多々あった。
 あるブログをのぞいたら、「老後の沙汰も金次第」の表題に引きこまれた。地獄を老後に置き替えたのだ。
 HPのことわざの参考書から引くと
地獄の沙汰も金次第(じごくのさたもかねしだい)

【意味】
どんなことも、お金さえあれば思い通りにすることが出来ること。

【ゆらい】
じごくでえんまさまにさばかれるとき、お金を出せば手加減(てかげん)
してくれるということ。
以上
 転じて老後も金次第で思い通りになるという意味だろう。はたしてそうか。件のブログでは老人ホームの入居の金を云々していた。心の通わない老人ホームのお世話にならず、孤独死もいいじゃないか。
 今朝の読売新聞は孤立死のシリーズを開始。「孤立死17000人超」の大見出しが躍る。

 確か、曽野綾子氏は野垂れ死にの本を書いた。近藤誠氏との対談だ。ズバリ『野垂れ死にの覚悟』。目次から少し引くと
 独居老人五〇〇万人 野垂れ死にが普通になる
 介護はまず、汚物の洗濯が大問題
 長く生きることが貴い、という国民的思いこみ
 運命を呪い、最期まで怒鳴り散らす人々
 家で枯れるように老衰で死ぬのがいちばん快適
 親の介護をめぐる女たちの受難
 老人ホームの静けさ お喋りの楽しみ
引用は以上
 もちろん、曽野さんも近藤さんも野垂れ死にとは縁がないであろう。作家的な生と死の展望である。孤立死でも孤独死でも野垂れ死にである。人は誰かにいや家族や最愛の人にみとられて死ぬのが本望なのだろうか。今生の別れは誰にも悲しいことだ。
 
 俳人・松尾芭蕉の”野ざらしを心に風のしむ身哉”という句を思う。最後は俳句で締めくくった。

ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏の祖父2017年10月27日

 週刊現代10/28号を読んだらノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏のことが出ていました。その記事でかれの祖父が東亜同文書院大学OBと知りました。
 ウィキペディアの生い立ちには「長崎県長崎市新中川町[2]で海洋学者の父・石黒鎮雄と母・静子の間に生まれる[3]。祖父の石黒昌明は滋賀県大津市出身の実業家で、東亜同文書院(第5期生[4]、1908年卒)で学び、卒業後は伊藤忠商事の天津支社に籍を置き、後に上海に設立された豊田紡織廠の取締役になる[5][6]。」とあり間違いはないです。
 東亜同文書院大学は上海にあり、中国語の語学力、中国の歴史、経済、商習慣、政治などを学びます。卒業後は商社マン、外交官、政治家、ジャーナリストなど様々な人生を歩みますが、コスモポリタンに生きるのです。つまり日本人であるが、ダブルスタンダードで世渡りするといいます。日本の国益だけを考えている訳ではない。
 コスモポリタンといえば、丹羽宇一郎氏もそうです。氏は名大OBですが、伊藤忠の幹部から中国大使を歴任して話題になりました。花田紀凱氏の評価は「日本は中国の属国として生きていけばいいのです」。丹羽氏は自信に満ちてそう明言したのだ。要するにこのところの日中関係の冷え込みで、自らの商売にもさしつかえるようになった。だから中国よいい加減にしろと言ってるのだ。商売さえできれば、日本がおとしめられようが、領土を奪われようが知ったこっちゃないが、商売に影響があっては困るのだ。
 カズオ・イシグロ氏もまさにコスモポリタンなのです。現実にはイギリス人として生きながら、文学者としては日本への望郷の念を隠さない。小津安二郎の映画に愛着があり、「もののあはれ」を学んだのでしょう。そうと知れば急に親しみがわきます。1冊くらいは読みたいと思います。ではどんな作品が良いのか。
 ググってみると『わたしを離さないで』みたいです。アマゾンの書評「著者のどの作品をも超えた鬼気迫る凄みをこの小説は獲得している。現時点での、イシグロの最高傑作だと思うーー柴田元幸(本書解説より)」とあります。

救助要請は当事者でないとヘリは飛ばない2017年10月24日

 今夜は愛知岳連の理事会だった。様々な報告の中で書きとめておきたいことがあった。
 それは今夏、D山岳会4人パーティが槍ヶ岳の北鎌尾根で先頭が事故発生した際、場所が場所だけにドコモの携帯の電話が通じなかった。すぐ動けず、通りすがりの山岳ガイドの携帯がAUで使えたので救助要請を委託した。ところが、現地に3泊して食料も尽きかけても救助ヘリが来ない。それでメンバーの1人が携帯の通じるところまで降りて警察に連絡できた。何とかけが人をピックアップしてもらったという。
 なぜそんなことになったのか。いろいろ調査すると
 警察は当事者からの通報でないと動きませんとのこと。また山岳ガイドもピンからキリまであり、ただの添乗員みたいなのもいるので信頼してはいけないとのことだった。それよりなにより山岳ガイドはお客の引率が使命であり、旅行会社の命令下にあるので余計な仕事には係わらないとも言われた。つまり当てにしてはいけないのである。

 もう1つ、別の報告でも事故が発生して救助要請する際は、警察へダイレクトに連絡せよ、とのことだった。山岳会の留守役、家族、友人を経て連絡すると、警察がすぐ必要な事情を聞いてくるが、当事者以外だと、今どんな状況なのか、分からない。怪我は食料はメンバーは現地の様子はなど緊急で知りたいことがおおく、ヘリを早く出動させるにも正しい情報が欲しい。

 というわけで、救助要請は他人に委託しないこと、警察とつながったら「山岳事故です」と通報すること。それでも、単独行で事故ったら通りがかりの登山者は有力な協力者になりうる。過去には通報してもらって助かった例もある。この点は考えものである。
 結局、山岳ガイドがきちんと救助要請してくれたかどうか。警察は連絡をうけても動かなかったらしいがちょっと信じがたい。長野県は今ヘリが飛ばせないこともからんでいると思う。現在は埼玉県から飛んでくるらしい。
 墜落事故でヘリを失い、今は特別態勢という。
https://thepage.jp/detail/20170721-00000009-wordleaf
 こんな事情もあるかも知れません。

 山の常識の基本のキのような話であるが、遭難事故が激増している今は心しておきたいことである。

シニア人材交流会で高岡市へ出張2017年10月20日

 朝6時半の地下鉄に乗車、7時半にはJR名古屋駅に着いた。コンコースは人でごった返している。花金ということだろうか。この移動のエネルギーを見るととてもデフレ不況にあえぐ日本ではない。バスの時刻まで間があるのでコーヒー屋に入ると行列であった。時間をつぶしてBバースへ行く。行く先は富山県高岡市である。
 シニア人材交流会に出席するためだが面談の時間は25分程度しかない。核心にふれようとすると時間切れになるので第一印象である。バスは定刻通り、10名を乗せて出発し、東海北陸道を走った。小雨と霧でさえない高速の旅だ。標高1000m付近が黄葉していた。 
 予定通り高岡市に到着するが面接の時間まではたっぷりあり読書に宛てた。順番が来て企業担当者と金融機関の2名と面談。その企業が抱えている課題の解決策を提案する。しかし、深い話はできない。2次面談に呼んでもらえるかどうか。数名が面談するので企業側に選択権がある。多分地元優先、若い人を選択するんだろうな、と思いつつ一縷の望みを抱く。最後は縁であり運である。
 帰路は5時半出発。名古屋駅前は9時半、自宅は10時過ぎになった。くたびれた。しかし、富山県にはゼニが落ちていると思って行くのみだ。次は豊橋市になる。小牧市の企業は2次面談はなしと連絡のメールあり。
 中小企業は無尽蔵だ。自民党が圧勝すれば来年はいよいよ人出不足が本格化する。シニアにもチャンス到来だ。当るまで行く。

人生ことごとく運である。 山岳遭難もまた運である。赤沼千尋2017年10月19日

 北海道の旭岳で吹雪の中下山中に道に迷い、沢でビバークを強いられた4人は今朝無事にヘリで救出された。あの厳寒の山中で耐えてみな生存していたのが奇跡に思えた。あの4人は本当に運が良かった。
 1989年10月8日の立山の稜線で吹雪かれて8人が死んだ。天気が急変する秋山は怖いと思ったものだ。撤退の判断ができなかったリーダーには悔恨の出来事だった。
 旭岳は迷い込んだ所が沢の窪みで良かった。不幸中の幸いだった。トムラウシ遭難の場合は吹きさらしの稜線で9人が死んだ。
 つくづく運の良さ悪さを思う。
 そこで思い出すのが表記の言葉だった。赤沼千尋『山の天辺』の中にある。赤沼は燕岳山荘の創業者である。
 続いて引用してみよう。
「ことに雪山、それは荒れた日には、眼も開けられぬ恐ろしさに総毛立つ魔者となり、晴れた日と雪崩と言う武器で、音もなく襲いかかる狡猾な肉食獣となることがある。登山する人間にとって、このような山の災厄から逃れられる唯一の道は、天候などの条件のよい日に登山する以外はない。
 そして、早く登山したいはやる心を押さえながら、良い天候を待ち続ける忍耐心と、待ちに待つ時間がとれるかどうかということが問題なのである。
 冬山は夏山とは違った生き物である。景観も通路も異なり、気象に一喜一憂しなければ、あっと言う間に風雪に吹かれて道に迷い込み、或いは雪崩の巻き込まれるのである」

 天気の良い日を選んで登山すれば遭難なんてまず起きないものである。ところがアルピ二ズムという西洋の登山思想に染まった登山者は悪天候を突いてこそ登頂の価値があるとばかりに突き進む。
 これは人間の業である。いや登山者の業である。
 どうしようもない感情である。国学者・本居宣長はこれを「もののあはれ」とかいった。映画監督の小津安二郎も映画で「もののあはれ」を表現した。
 小椋佳作詞作曲で美空ひばりに与えた「愛燦燦」の歌詞の一節に
   ♪雨 潸々と この身に落ちて 
    わずかばかりの運の悪さを恨んだりして 
    人は哀しい哀しいものですね♪
これまたどうしようもない人間の感情を表現して秀逸である。
 
 同じ忍耐なら厳寒の中で忍耐するよりも安全圏にいて、好日を待つ忍耐が良い。命あってのものだねということだ。
 故渡部昇一氏の『論語』の本で人生は待つこと、と解説してあった。中々待てないからだから修養が必要である。運を良くするには待つ修養が大切なのか。

「埋甕」を見に弥富市の愛知県埋蔵文化センターへ行く2017年10月18日

 午後3時ころ、期日前投票後、愛知県埋蔵文化センターへ行く。10/15にも山の帰りに寄ったが、土日は休日という。県の博物館にしては珍しい運営である。少し時間を作って出かけた。
 http://www.pref.aichi.jp/soshiki/maizobunkazai/0000032060.html

 10月7日(土曜日)から11月4日(土曜日)に同じ施設で愛知県埋蔵文化財センタ ー主催「秋の埋蔵文化財展」も行われていると、中生涯学習センターにあったパンフで知った。
 「埋蔵文化」のボキャブラリーにはどこか心に響くものがあった。それは恵那山の山名の由来を調査していて文献的に行き詰まり、考古学の本で「埋甕」(うめがめ)という言葉に出会ったからだった。
 それは木下忠『埋甕―古代の出産習俗 (考古学選書) 』である。
 この中に、胞を底のない壺に入れて埋めるのは古代から近代の習俗という知識を得た。徳川家康の胞塚も岡崎城の一角にあるそうだ。
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説で「えな」がヒットした。
「胞衣とも書く。後産 (あとざん。→胎盤 ) のこと。イヤ,イナなどともいう。以前はエナは土中に埋められたが,その埋め方が,生児の一生の安危にかかわるものと信じられ,また,埋め方が悪いと,生児が夜泣きするともいわれた。その埋め場所は,人に踏まれないところがよいというのと,その反対によく踏んでもらうところがよいという2通りの説がある。前者は大黒柱の下とか産室の床下,墓,便所のそば,厩 (うまや) のそばなど,後者は土間の上り台の下とか,敷居の下などが選ばれた。埋めた上を最初に通ったものを,生児が一生恐れるというので,父親が最初にまたぐという例がある。また他人に踏んでもらえば生児がまめに育つとか,産後の肥立ちがよいなどという。エナは,布やこも,油紙などに包んで埋めたが,壺や瓶に入れて埋める例もある。」
 展示品の「埋甕」は奥三河から産出された。用途は解説の通りであるが、埋文センターの解説者によればそうとは言い切れないと言われた。何分1000年以上の物質なので証拠物がないからだった。
 しかし、見学はしたもののここまでである。解説者の曰く、恵那山の話をしてみたらアマテラスは皇祖神だからあちこちの山に祀られるよ、とものの分かった人である。
 そういえば、先日の鎌ヶ岳の山頂にも「天照皇大神宮社」の小さな祠があった。果たして鎌ヶ岳は信仰の山だったのか。いや、後から勝手に鎮座したものだろう。もっと前、奥三河の須山御嶽山にも天照皇大神の石碑があった。言われる通りである。
 恵那山の恵那の地名は恵奈で10世紀以前からあるようだ。それが山頂に埋められた経緯が分からないから伝説なのである。
 元来はあの阿木村の血洗池辺りを胞山と言ったのではないか。根の上高原や保古山と向かい合う無名の山の三角点の点名には血洗とあったからだ。
 アマテラスは一地方の神だったのに皇祖神になる。時期は持統天皇の時代。その時代から伊勢神宮の20年に1回の遷宮も開始される。その度に桧の用材を大量に消費する。皇祖神に献上する(させる)ありがたみを出すためにアマテラスの胞山を今の恵那山に変えた。恵那山の北から流れる湯舟沢の国有林は桧の宝庫でかつては森林鉄道もあったほどの桧は無尽蔵であった。
 桧は木曽川に流し、筏を組んで伊勢湾を航行して伊勢に運ばれる。運搬はトラックや鉄道に変わったが、木曽桧は今も遷宮に使われる。今や誰も疑いもしない、恵那山という名称に巧みな伝説の謎を思う。一先ず、胞を家内の土中に埋める文化が確実にあったことの確認であった。