恋せずは 人は心もなからまし 物のあはれも これよりぞしる 藤原俊成2021年06月19日

令和3年度 宣長十講 
             宣長の本箱

 幼い頃から、本を読むことが何よりも面白かった。先生に師事し、きちんと勉強するわけでもなく、なにか目標を立てるでもなく、手に入る本はなんでも読んだ。

 宣長は、自らのもの学びの原点を「読書」だといいます。
 『源氏物語』を読めば、これ以上の物語はないと感激。江戸前期の契沖が記した注釈書には、これまでにはない実証的な学問の世界が拡がっており、独学する宣長の指針となりました。賀茂真淵先生と出会い、「『古事記』を読みたいなら、まずは『万葉集』だね」とアドバイスを受ければ、真淵先生とみっちり『万葉集』の勉強を続けながら、『古事記』を読んでいく。
 宣長の書き込みだらけの『万葉集』は、膨大なデータバンクのようです。『古事記伝』を書いたような人だから、やっぱり宣長は『古事記』派でしょ?と思いきや、『日本書紀』だって誰より丹念に読んでいます。
 宣長の研究対象は、自分の時代まで伝わってきた、古典文学の数々。本との出会いの数だけ受けた恩恵を、今度は自分の研究成果を出版する、という形で後世に伝えていきます。
「本棚を見ると、その人がわかる」といいますが、では、宣長さんはどうでしょう?
 先人たちのものから自著まで、たくさん詰まった鈴屋の本箱から、宣長の学問や考え方、性質をのぞき見る全7 講です。

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  やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、
                たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる

  この物語と並ぶほどの本はどこにもないし、これからもきっと出てこないだろう――。
                    (『源氏物語玉の小櫛』宣長著 巻2)
 これが、江戸時代の国学者・本居宣長(1730-1801)の源氏物語評。
 親族間で和歌を贈答する家庭に育ち、和歌を好んだ孤独な青年は、20 歳頃、『源氏物語』 と出会います。貴族の雅やかな源氏世界は、たちまち、宣長を魅了しました。
 京都での医学修業時代には、「紫式部や清少納言の活躍した一条院の時代が眼前に浮か んでくるようだ……」とぼんやり京都御所を眺め、源氏世界へ飛び込んだかのような京の 都を満喫。28 歳で医者となり松阪へ帰ると、松阪の人々に請われ、医者のかたわら、『源氏』の講釈をするようになります。
 そんなある日、人から、こんな質問を受けました。

 藤原俊成の和歌

「恋せずは 人は心もなからまし 物のあはれも これよりぞしる」

という歌の「物のあはれ」とは何だろうか。

 「もののあはれ」という言葉自体は、今までにも出会ってきたが、改めて聞かれると、どうも上手く説明出来ない。ここから、宣長と「もののあはれ」の歩みが本格化しました。
 『古事記』研究もしたいけれど、『源氏』も手放しきれない――そんな宣長の姿勢は師・賀茂真淵も呆れるほど。
 「もののあはれ」って何だ? 『源氏物語』を好色への戒めの本だ、なんていう人がいるけれど、そんな考え方ではこの物語の真意は見えない。そして、殿様まで魅了した、40年にもわたる宣長の源氏講釈。
 「もののあはれ」は「ヤバい」こと? ちょっと危ない魅力が潜む「もののあはれ」、『源氏物語』の世界を、宣長を通じてご紹介いたします。

 会  期   6月8日(火)~ 9月5日(日)
 展示総数   79 種100 点 ※内、国重要文化財49 点 (変更あり)

 ●展示説明会
  6 月19 日(土) 7 月17 日(土)  ※いずれも11:00 より(無料)

・・・今日は雨の中、伊勢路を走って松坂城址の本居宣長記念館へ行ってきた。小学校5年位の時に、母親に連れられて行った。あの頃は町中にあった。今日で3回目の訪問になる。山室山のオクツキにも行った。から4回になる。
 今日は学芸員による展示品の説明会だった。深い学識が無いと理解が進まない。ざっと見ただけでは行ってきただけに終わる。今日はちょっとだけかじった気になった。
 説明会は11時からで、その前に小津安二郎の青春館を引き継いだ歴史民俗資料館を見学した。

      【小津安二郎青春館の閉館について】
平成14年12月に開館した小津安二郎青春館でございますが、令和2年12月28日(月)をもちまして閉館することとなりました。
閉館に伴い、「松阪市立歴史民俗資料館 (三重県松阪市殿町1539番地)」に映画監督小津安二郎に関する常設展示を新設し、令和3年4月3日(土)にリニューアルオープンいたします。

万緑や紅一点咲く芍薬 拙作2021年06月20日

 万緑が季語に採用されたのは
「「万緑」は、見渡す限り一面の緑の意。「叢中」は、くさむらの中の意。

 見渡す限り緑のくさむらの中に、ただ一輪、紅色の花が艶やかに咲いている意味から。

 王安石の詩『石榴を詠ず』に「万緑叢中紅一点、人を動かすに春色多きを須いず(人の心を動かす春の景色に多くのものは要らない。赤い一輪の花だけで充分だ)」とあるのに基づく。
略して、「紅一点」ともいう。」

・・・まさに万緑の由来の原風景のようなものだった。

事務所へ2021年06月21日

 丸の内の事務所で事務整理。宗教法人規則変更、建設業許可申請、養育費減額の手続きなど、このところ仕事が舞い込んできた。まずは建設業であるが、ここは手紙でスケジュールを確認、宗教法人は宗務庁からのメールに添付された書式をダウンロードした。段取りは整った。養育費については依頼者からの戸籍謄本などの書類待ちである。室内ポストを見ると書留郵便の不在配達票が投函されていた。帰り道にこれを受領。これも体制が整う。地下鉄に乗るといやに乗客が多い。時計を見ると18時台だから多いはずだ。

リアル会合に出席2021年06月22日

 梅雨末期で少しどんよりし蒸し暑い。それでもスーツを着込んで出発。朝7時30分に名古屋観光ホテルに着いた。今日はクラブAの総会で、6月の日時をずらして開催された。コロナの感染で延び延びだったがやっとリアル会合の機会を得られた。皆さんの顔を見られただけでも出席の意義はあった。来月は納涼会というがやれるだろうか。コロナの感染よ鎮まれ。

腐臭こそ死者が生者に語りかける言葉 曽野綾子2021年06月23日

 このところ、北アルプス、南アルプス、武奈ヶ岳で山岳遭難で行方不明だった登山者がご遺体で相次いで発見されている。これは雪解けということもあるが、日照時間が長くなった時期も影響しているのだろう。そしてふと表題の言葉を思い浮かべたのである。
 2013年5月に鈴鹿の釈迦ヶ岳で起きた行方不明も捜索隊の執念で発見された。その時も同じことを考えた。

腐臭こそ死者が生者に語りかける言葉 曽野綾子 ― 2013-06-11
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/06/11/6857240

病葉や大地に何の病ある 高浜虚子2021年06月24日

振り返るとクマ 登山中の男性が負傷 左足に噛みつかれる 光秀ゆかりの城跡で/兵庫・丹波市
23日午前4時30分ごろ、ご来光を拝もうと兵庫県丹波市の国指定史跡・黒井城跡(標高356メートル)を目指し、登山道を歩いていた市内の男性(66)が、振り向きざまにツキノワグマに左足を噛まれて負傷した。男性は自力で下山。自宅から119番通報し、病院で治療を受けた。丹波警察署によると、左ひざの上を深さ2、3センチ、長さ12、3センチほどのけがを負ったという。
以下略

・・・北海道の熊出没騒動なら珍しくもないが、西日本の熊出没は珍しい。大抵の場合は、晩秋になってどんぐりの実りが悪く熊が飢えてしまうため山里に出没して、人間の食う柿などを食べにくる。これがニュースになる。今年はかなり早い。木曽の夏焼山、飛騨の漆洞山などで熊に遭遇した際は緑色の糞を見た。熊の糞と気が付くのが遅かった。大抵は褐色のイメージだったからだ。漆洞山では至近距離ですれ違ったことがある。緑の糞を見たら周辺に熊が潜んでいると見て警戒するべきだろう。
 ところで、FBの人が兵庫丹波の蘇武ヶ岳に登った際の写真に楓の病葉の写真があった。早くも落ち葉か。赤く色づいている。気温の日較差が大きくなると葉っぱの糖分が赤くなる。そして落葉するのだろう。早すぎる気がする。
 気候が冷夏に向かっているのではないか。穀物の実りにも影響がありそうだ。コメの収穫はどうなるのか。いち早く、病葉と熊が教えてくれた気がする。

吉田悦之『宣長にまねぶー志を貫徹する生き方』を読む2021年06月25日

致知出版社。平成29年刊。

 アマゾンのキャッチコピー
「35年もの歳月をかけ、『古事記伝』44巻を著した知の巨人・本居宣長。幻の書を千年の眠りから目覚めさせた学問的功績は広く知られていますが、本書では、宣長を一人の生活人としても捉え、志を成し遂げるための条件を学びます。
著者は宣長研究40年、本居宣長記念館館長を務める吉田悦之氏。「宣長に学ぶことは尽きることがない」という氏が、膨大な研究資料を丹念に読み込み、その学問的姿勢や、昼間は医師として生計を立てた生活姿勢を浮き彫りにします。
生まれた地や系図を徹底的に調べ上げ、自分の誕生の日まで遡って日記を書く。師・賀茂真淵との千載一遇のチャンスを逃さぬ情報分析など、その歩みには志を成し遂げるための強い意志や工夫が満ち溢れています。
学ぶとは真似ること。本書はその具体的ヒントを示して余りあります。宣長入門としても最適の書。」

 6/19に三度、松坂城址の本居宣長記念館を訪ねた。1度目の見学は12歳のころ、母親に連れられて、まだ街中にあった頃だった。鈴の屋の鈴を振った記憶がある。二度目は奥つ城を訪ねた時に帰路、立ち寄ったと思う。宣長には先祖伝来の墓地の墓と自分が遺言で作らせた奥つ城の2か所ある。三度目が6/19に企画展「もののあはれ」で学芸員による展示物の説明会があるという記事をWEB伊勢新聞で読んで知った。
 あいにく雨の伊勢路ドライブになった。来館者は約10名はいただろう。うち女性は1名だった。過去に来た際、館内を一応は見て回った。だが予備知識や説明もないから見に来ただけで終わった。未消化のままである。今日は学芸員の説明があるという。11時から12時きっかりで早口で展示物の説明を聞き終わった。
 本書はその余韻が買わせたのである。「宣長に関心を持つ人は、間違いなく一流の人である。」と宣長学の泰斗・岩田隆の言葉があとがきに引用されている。

 宣長に関心を持つ人はみな一流である。だが時に全く逆の者の口を借りその真実を伝えることもある。歴史というものは不思議である。

「必ず人を以て言を捨つることなかれ。文章書き様は甚だ乱りなり・・これまた言を以て人を捨つることなからん事を仰ぐ」

・・・書いたもので評価してくれという。
https://aokmas.exblog.jp/9751844/
「宣長の言葉・その意味
9・20
 本居宣長が、自著の『紫文要領』の後書きで、、この著作について、こんなことをいっている。

 年頃、丸が心に思ひ寄りて、此の物語を繰り返し心ひそめて読みつつ考へ出せる所にして、全く師伝の趣にあらず、又諸抄の説と雲泥の相違也。見む人怪しむ事なかれ。よくよく心をつけて物語の本意をあぢわひ、此の草子と引き合せ考へて、丸が言ふ所の是非を定むべし。必ず人をもて言を捨つる事なかれ。かつ文章書きざまはなはだ乱り也。草稿なる故に省みざる故なり。重ねて繕写するを待つべし。これまた言をもて人を捨つることなからんことを仰ぐ。

 独自に心を潜めて読みこむ者の言葉になっている。けれども、いってみれば、言い訳めいていて、余計なことなのだ。その弱さがこっちに共鳴してくるのは、せつない。「師伝の趣にあらず、諸抄の説と雲泥の相違」を読みだしてしまう者は、自説の孤絶さにおどろき、つい心弱くなるのだろう。そしてこれを読む者もまた、「丸が言ふ所の是非を定むべし。必ず人をもて言を捨つる事なかれ」とつづく。書いた者の人柄で判断せず、書かれたものの是非で評価してくれ、と念をおしているのが、オカシイ。やはり昔もまた、人はなかなか「読む」ことをしなかったのである。代わりにその人の噂で、書かれたものを評価していたのだと納得する。

 宣長の論敵、上田秋成は、自分の著作は自分でも杜撰だと思うし、もとより読む人は信ずるはずもないものだといって、だからもう私にバチが当たっているじゃないか、とサインしている。これもまた、ひねりのきいた言い訳だから、こういう自己弁護は、孤独な自立者にとっても、不可避なのだろう。

 大野晋は「私のような名もない人間が言ったからとて、この言葉を捨てないでほしい」と読みとっている。つまり人柄や名声ではなく、書かれたことの是非で評価してほしい、と正しく理解しているにもかかわらず、宣長の学問のリアリテイを、彼の隠れた恋愛体験を掘り起こして、そこで動機づけをしているのは、不審だ。他人から見て、どんなつまらないことでも、動機づけになりうるからである。ましてもっともらしい動機づけほど怪しいものはない。動機は作品そのものに換えることはできないし。理解にもならない。

 やはり書物は書かれたことのリアリテイしか、その価値を保証しない、著者をめぐる噂は、どこまでも作品のナマの言葉にかなわない。つまり宣長のいうとおり、「繰り返し心をひそめて読みつつ、考え出だせる所」しか信ずべきものはない。

 宣長が源氏「物語」も「歌」とおなじく、「歌ノ本体、政治ヲタスクルタメニモアラズ、身ヲオサムル為ニモアラズ、タダ心ニ思フ事ヲイフヨリ外ナシ」といって、文学のような自己表現の本質論を展開したことはよくしられている。

 だが、その「心に思ふ事をいふ」というのは、なんのことなのか。「コレガ歌ノ本然ノヲノヅカラアラハルル所也。スベテ好色ノ事ホド人情ノフカキモノハナキ也」 として「心に思う事」を、恋心・好色に限定したことが、今日まで深い禍根を残している。性的な自意識に限定してしまったのだ。近代個人主義なのである。
 「心に思う事」の普遍的な根は、自分自身の意識をこえたところにある。狭い自意識をはるかに越えた類的なものなのだ。恋心の本源は、男女の恋愛といった、個体間の性的な意識像という近代の共同観念を越えている。なのに、心も歌・物語も、そして『源氏物語』じたいも、近代主義の狭い恋愛観念に閉じこめられてしまった。

 「千人万人ミナ欲スルトコロナルユヘニ、コヒノ歌ハ多キ也」と宣長はいう。政治や道徳よりも好色が「人情」だったからだというのだが、そうではない。「心ニ思フ事をイフヨリ外ナシ」というのは、人類の実存であり、ただたんに歌や物語のことではない。人類史とともに根底的なのだ。人心はすべて自己表出であり、我らは原始・アジア的な、母界幻想をもって「千人万人ミナ欲スルトコロ」としてきた。だからそれが後の時代からみると、恋心の表現のように観念されてきただけなのだ。「恋の歌」には、自己表現すべてがこめられていた。政治や道徳といった観念は、国家やその自己意識ととも古代以後に現れたのだから、それより古くからある心や歌は恋の歌が多い、というだけなのだ。

 だから「恋の歌」というのは、今日いうところの個人どうしの性的な意識をさすのではない。もっと深く広い、【自己】意識以前の自己の表現だった。安息する場に溶けている心や自分、を表していた。「ふるさとになりにし奈良の都にも 色はかはらず花は咲きけり」。人はいざ知らず、花は古里に安息して色も変わらずに咲いている。いま人にとって古里となったところは、花にとって古里ではないことが感じとられている。つまり自分が生きてある場、【母界】そのものなのだ。生命場の像。

 「恋」、「好色」「色欲」などの限定された漢語観念で、性的な「人情」を指そうとすれば、このような前自己の、場に生きる心を意味するところへいきつく。そこでまさしく「歌ハオモフ事ヲ程ヨクイヒ出る物也」になる。そこではじめて「程ヨクイヒ出た」とおもえるものになるのだ。

 「我心ニモ心ハ制シガタキハ世の常なり。されば克己トイフコト昔ヨリナリガタキ事也」という宣長の指摘は、自己意識の土台には、深い心・「母界」像があり、それはとうてい限られた観念的な自己意識で抑止したりできるはずのない、根底的な類的自己なのだという根拠からきている。
「千人万人ミナ欲スルトコロ」は、自己意識や自己抑制をこえた、【母界】にある。そこで花は色も変わらずに咲くことができる。」

「06-26 試験エリートにガタが来たか?」の動画を視聴2021年06月26日

https://www.youtube.com/watch?v=_K9Ba6ytwlw
 コメントが面白い。
①小泉政権の時から、司法試験ズルが始まったと世間で言われています。外人枠ができて、日本人排除じゃないかと、疑われています。それは択一試験免除で、論文、面接だけらしい。おかしいですよね。古文がわからず、優しい日本語に変え、おかしいとみんなが話しています。こんな不正おかしい。外人枠無くして、択一やり直しするべきです。

②長く会社員やってるけど、仕事が呆れる程できない、もっと言えば社会人として「無理です」という東大出身、京大出身の人を何人も見てきました。 勉強だけが出来た、換言すれば、現試験制度にフィットしただけの粗悪品は、意外と多いものです。

・・・やっぱりなあ。愛知県知事といい、静岡県知事といい、どちらも東大卒エリートです。しかし、県民の方を向いた行政になっているか。日本の国益に適う政治姿勢とは言えないな。そしてどちらも中国を向いているように思えてならない。

北村季吟『源氏物語 湖月抄』が着く2021年06月27日

講談社学術文庫。
 受け取ってびっくりしたのはその厚みで600ページ以上あった。コンパクトサイズなのに厚いと扱いにくさもあり後悔した。全三巻だが一巻だけにしといて良かった。こんな本はあるていど字が大きい本が良いからだ。
 ぱらぱらめくってみたがかなり根気が要りそうだ。ただでさえ根気の要る読み物なのにいっそうの感がある。

 別の本で知ったが、実は白居易の漢詩が引用されている。和歌だけじゃないんだと思う。

ブログ「残響の足りない部屋」から
https://modernclothes24music.hatenablog.com/entry/2014/04/15/235811

 2-1。はじめに――和漢比較文学の立場から


「『長恨歌』と、それの由来する楊貴妃の説話とは、あまりにもあまねく世人の共通の記憶に知られていた。朗詠に供され、物語に移され、和歌に詠まれた。そのような時代的状況から『源氏物語』の作者が自由であるはずがない。時代全体の体験が作者にとっての大状況としてある。ちょうど動物の外皮が内蔵に連続するように、作者の大状況である時代的状況が、物語内の世界に連続し、物語の場面を大きく限定する。物語の奥行きが作者の生きた時代にできるだけかさなりあうことによって、時代の『長恨歌』体験が作品の内部に入り込んでくる事態を、しっかりと確認することにしよう。」

――藤井貞和「作家の体験 時代の体験」(「源氏物語入門」もしくは「源氏物語の始源と現在」所収)
 論考対象を、一気に千年遡る。というのも、わたしは現在でこそ音楽批評をtwitterやブログでやっているが、もともとは、日本古典文学(平安時代)と、漢文漢詩の比較文芸論を専攻していた人間だからだ。 

 わたしが引用について、考えるようになったのも、結局はこの専攻からきている。ジャンルというか、文芸スタイルが全然違う、というつっこみには、そのように説明することで、一応は理解いただきたい。



 さて、この論考で語るのは、以下のようなものである。



 1。人間、昔から引用ばっかりやっていた

 2。源氏物語における引用論の、現代の研究の諸相

 3。平安時代の時代状況、白居易の詩(以下、白詩)

 4。先行文芸なしに「自己の創作」はなしうるものか

 5。いわゆる「引用の高尚性」

 6。表現的引用と構造的引用

 

 主にこれらのことを論ずるが、この順番のまま論ずることはしない。それは、これらどれもが、相互に関連しあっているからである。源氏物語の複合性、重奏性においては、先行研究……というか、通俗的観念がすでに語っているところであるし、それに屋上屋を重ねても仕方あるまい。

 そして、これらの論考の解釈の前提にあるのは、わたしが前章で述べた、ある種のニヒリズムがあるのは否定しないことを、補助線として述べておこう。だがまず、源氏物語と白詩の関連性という、ごくマイナーなテーマの概略を説明することからはじめよう。少なくとも、源氏の和漢比較文芸に携わっていない人間には、それこそ「知らんがな」の世界であるから。



2-2。源氏物語と長恨歌
 源氏物語最初の巻である「桐壷巻」は、源氏の父、桐壷帝と、源氏の母「更衣(桐壷の更衣)」の悲恋で、源氏という長大な物語は幕を開ける。

 桐壷帝は極めて有能な君主で、後代その治世は「聖代」とすら評されるものであった。主人公、光源氏はそのような「名君」の、圧倒的なGeniusとして生を受け、政治的にも、恋愛的にも、人間的にも、哲学的にも、様々な道程を経ていく。GeniusのBrightnes(輝き)が「光」源氏の意味であり、その輝かしさは逆説的に光源氏自身の身をも裂きかねない。そのような諸相、それが、「源氏物語」である。

 さて、そのような物語の発端であるが、それは、華やかなものとはいえない。幸せなものともいえない。なぜなら、桐壷帝が寵愛した更衣という存在は、宮廷において、人間的美質を持ちながらも、当時の通念である「身分」において、低い存在であった。そのような存在に対する嫉妬の念が、周囲に満ちるのはいうまでもない。

 更衣はその迫害により、病に臥し、結局は、光源氏を生み残し、死んでいく。寵愛著しい桐壷帝は、その死去をこの上なく悲しむ。

 やがて、その更衣うり二つの「藤壷」という女性が、宮廷に入る。桐壷帝は、失われた愛を補完するかのように、また藤壷を寵愛する――今度は更衣の轍を踏まないかのように、公的な「妻」として。

 そして幼き光源氏は、藤壷に、亡き母の面影を重ね、同時にひとりの女性としての思慕、恋愛を募らせていく。この「義母に対する恋愛」というのは、やがて源氏物語の中核となり、ある種の「どうしようもなさ」を引き起こしていくのだが、そこまで説明すると、桐壷巻を遙かに越してしまうので、桐壷巻の説明は以上にする。



 さてこの桐壷巻、先行研究――和漢比較文学の立場からでは、白居易の長詩「長恨歌」を多分に引用している、というのが定説である。丸山キヨ子、藤井貞和、新間一美の各氏・和漢比較文学における重鎮たちが、この問題について様々に論じている。

 順を追って、どのように引用されているか説明していこう。(つまるところ、先行研究のあらすじのようなものである)

 長恨歌とは、白居易が綴った、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の史実に基づくラブロマンスの詩である。その内容は、大ざっぱにいえば――先に述べた桐壷巻と、変わりはない。玄宗が楊貴妃を寵愛し、やがて反乱が起こり楊貴妃はその巻き添えで死ぬ。玄宗はそれを悲しみ、やがて神仙世界に楊貴妃の魂を求めに使者を派遣する。楊貴妃の魂に謁見することはかなったものの、ついに「反魂」はならず、されど永遠に玄宗と楊貴妃は愛を結ぶことを誓う――古典となった「比翼連理」である。

 どうであろうか? もちろん、唐の最大流行詩であった長恨歌が、源氏を引用したのではない。(どのように贔屓目に見たとしても、当時の日本(倭)は辺境であり、文化レベルの低い野蛮人の国、と中華思想では見なされていたののだから)

 今に例えると、欧米のロックミュージックを、日本人ががんばって「日本のロック」にしていた時期があったではないか(今もだが)、アレと行程は、だいたい同じものと考えればよろしい。

中略

 ゼロからは、創作はなされない。先行するものの、ある程度の影響あっての創作である。その際、換骨奪胎という形で引用をはじめ、やがてそれを大河小説にまで発展していった源氏のどこを責められようか。

中略

引用には、「私はそういう教養・流行を知っている」という、【ステータス】の側面が、常について回る。貴君の周りにもいるのではないか、ことあるごとに、何かを引用しながら話をする人間が(もちろん、ここまでの文体で、わたしがその一群であることは言うまでもない)。

 それは自己顕示の発露であり、「そういう自分」を教養人として定義したいがゆえのことである――まさに、自分の中に、あふれるオリジナリティがないがゆえの、コンプレックスである。

 また、それを唐文化との絡みとしてよく捉えれば、「先行文学に負けたくない」という意識の現れ、とできなくもない。それで「本歌取り」というのはどうなのか? という向きもあるかもしれないが、先ほどの「リフ」の話でいえば、借用しつつも、そこから自国のメロや歌詞と結びつける、みたいな音楽は今も昔もあるし、文芸についても同じことが言える。

 ……が、それは、一般的な引用論が説いているところの、「テキストに重奏的な深みを与える」という方法論からは、だいぶ離れたところにある精神性であることは、言うまでもあるまい。

 ひと、それを「パクり」と呼ぶ。

・・・・パクリは現代だけじゃなかったのか。
1 尾崎喜八と大島亮吉の作品における類似性・・・剽窃という。

2 『日本風景論』の中の登山技術はイギリスの登山技術ガイドのパクリだった

3 小津安二郎監督の「東京物語」はアメリカの生命保険会社のPR映画のパクリ

4 『金色夜叉』はアメリカの大衆小説の換骨奪胎

5 高山市の一杯の掛そばを親子3人で分け合った民話はイギリスの民話のパクリ

6 芭蕉の俳句における杜甫、李白の影響


・・・あの人は創造力の天才だ、という場合はその背景にはパクリがあると思う。パクッて、パクリの跡を消すことが重要である。それが源氏物語にまで及んでいたと知った。ある意味安心した。
 長谷川三千子『からごころ』にも日本古来の独創性はないとの見解があったと記憶する。

源氏物語と長恨歌2021年06月28日

ブログ「源氏物語たより」から
http://hikarutsuyoshi.blog92.fc2.com/blog-entry-371.html

 『桐壷』の巻には、『長恨歌』から多くの詩句が引かれていることは今更述べるまでもないことなのだが、詩句のみならず構想そのものも長恨歌によっているところを見ると、紫式部がいかに白居易(白楽天)に心酔していたかがよく分かる。源氏物語では桐壺の巻に限らず、いたるところに『白氏文集(白居易の詩文集)』の詩句が出てくる。
 それはあたかも和歌における「本歌取り(または引き歌)」のようなものである。「本歌取り」とは、
 「すでに詠まれた歌を、いろいろな形式で取り入れ作歌する表現方法である。それによって一首の歌境を広げ、連想的効果を豊かにし、単独で作る歌には期待できない別の歌境や余情を作り出すことができる」(『評解 小倉百人一首 』京都書房)ということである。
 肝心なことは、ただ過去の歌の一部を借りてくることではない。それによって「別の歌境や余情を作り出す」ことである。
 たとえば、『新古今集』などは、本歌取りの技法を盛んに駆使して、本歌である古今集や万葉集などの歌の世界をさらに広げ、「妖艶、優婉」の世界を創造した。
 源氏物語の桐壺の巻も、長恨歌に寄りながらも、さらにその世界を大きく広げ、余情豊かな新しい境地を創造しているのである。

 それではまず『長恨歌』とはどういう詩なのであろうか、そこから見ていってみたいと思う。
 『長恨歌』は、『琵琶行』と並ぶ白居易の代表的な長詩で、平安人たちに非常に愛された詩である。七言の句が、なんと120句もずらりと並ぶ一大長編叙事詩である。
 唐の玄宗皇帝は、初期のころこそ「開元の治」と言われ、賢帝としての誉れ高かったが、その後半、例の世界三大美女(クレオパトラ、小野小町)の一人と言われる楊貴妃を寵愛するようになったために、国が乱れていく。そしてついに安禄山の乱が起こり、玄宗は都を捨てて逃げることとなる。
 逃げる玄宗に同行した楊貴妃は、部下の不満の矛先となり、馬嵬(ばかい)というところでついに首刎ねられて、尽きる。これを「安史の乱」という。この歴史上の事件をもとにして白居易が詩にしたものである。

 長恨歌は、楊貴妃寵愛の様から始まり、安史の乱による玄宗皇帝の都落ち、そして馬嵬における楊貴妃惨殺。悲しみに沈む玄宗の姿。寵妃の魂を求めて玄宗が派遣した道士の奮闘。楊貴妃の在り所発見、およびしるしの黄金の簪(かんざし)と螺鈿(らでん)の箱の持ち帰り。しかし玄宗の悲嘆は尽きることがない。
 『この恨みは綿々として尽くるの期(とき)無からん』
で、波乱万丈の延々たる一巻は終わる。
コピーは以上。
以下はブログにアクセス
・・・長恨歌のオマージュに思えてくる。
 万葉集の大家・土屋文明は芭蕉を日本古来の文学と思うなよ、とのコメントを読んだことがある。芭蕉には杜甫の影響がみられるという。源氏物語には白居易の漢詩文が引用されている。当時の貴族の教養水準は漢詩の鑑賞力だったかも知れません。