奥美濃・粥川谷から瓢ヶ岳へ2015年09月06日

 以前から行きたい粥川谷だった。ネットでチエックするとかなり良い沢である。9/20から9/22の北アルプス・金木戸川支流・打込谷遡行のトレーニングでどうしても1回は水を浴びておきたいので粥川谷を提案したら乗ってきた。
 9/4の夜9時合流。今年2回目の粥川谷奥の星の宮神社に行く。途中のバンガロー村が大賑わいだったのは意外だった。終点のPでテントビバークする。周囲に民家がないので気が楽だ。軽く1本空けて就寝。午前4時ごろ、テントのフライを打つ雨音がした。夜が明けてくるが地面は左程ぬれていない。小夜時雨だったのか。山時雨か。ともかく起きねば成らない。朝食は空腹でもないのでお菓子を摘んだだけ。とりあえず、目的はトレーニングにあるので出発することにした。午後の降雨率は50%以上だが山だから確率は高い。しかし、沢登りなので濡れて元々。6時半過ぎ、テントを片付けて出発。登山口は7時過ぎに出発。林道を歩かずいきなり沢に入渓する。一旦林道に横切られることと沢が荒れているので少し上流まで歩いて再び入渓した。
 すると意外なくらいの美渓に嬉しくなる。天然の造形にしては美しすぎるS字形の滝を突破、三枚滝に着くと今度は登山道に合流した。これもやり過ごして沢芯を辿る。登山道から離れて行く。この谷は最初から立っているので滝が非常に多い。小滝を次々突破しながら溯渓を続ける。
 林道の下のトンネルをくぐる前に雨が降り出したので合羽を着用した。やがて右か左かの分岐だが右に振る。水も無くなって笹を漕ぐと奥瓢ヶ岳付近のの登山道に出た。11時55分。山頂へは12時5分だった。大雨だった。ランチタイムどころではないので早々に下山した。下山は新しく開削された沢沿いの登山道を辿る。
 見覚えのある滝を見た。水量が多いので登山道か沢かの区別ができなかった。本当はここで遡行を打ち切って登山道から登っても良かったのだが分からないまま遡行を続けたのである。
 登山道は旧来からの尾根道と合流した。沢道のほうが若干長かった。下山は尾根主体となりぐんぐん下りだす。三枚滝の手前まで下ると沢は奔流となってきた。増水するとヤバイところだ。我々はザイルがあるから何とか成る。一般登山者は雨になると渡渉地点の増水で万事休すになる。減水まで待機することになる。
 三枚滝を過ぎて黙々下山。一旦林道に下りてまた林内を下る。足元には秋の草花のホトトギスの花が咲いていた。林道に下りると後は車まで歩くだけになった。
 下山後は円空ふるさと館に入館して円空仏を拝観した。穏やかさ、温かさのにじみ出た造形は円空特有のものである。他のコーナーには木地師の小屋などもあり、山屋には勉強になる。係員に粥川のうなぎの話を聞くと今でも多いとか。獲ると罰金だそうだ。道理で川のそこかしこにうなぎの禁漁の警告があった。粥川谷の人々は今でもうなぎを食わないという。伝説の神の使い手のうなぎを律儀に守っている。
 更に大雨になっていた。R156に出て子宝の湯に入湯した。やけにお客さんが多いのでWさんが聞くと長良川のラフティングの大会があったそうな。それで若い人が多かったのだ。美濃市まで来ると朝から本格的な食事をしていないことに気づいて夕食をとった。以前に来たことがあるうなぎ屋だった。大で2700円。冷たい水の中に住む魚の脂ならば沢登りの体つくりに役立つだろう。うなぎはともかく、秋刀魚、鰯、鯖など脂が乗った青魚を本番までせっせと食べて行きたい。美濃ICから高速に入り帰名。

恵贈!安藤忠夫著『底本 笈ヶ岳を行く』2015年09月07日

 9/6に山から帰宅すると、郵便受けに分厚い本が投函されていた。開封すると表記の本だった。
 著者の安藤氏は県立春日井工業高校の教員を長く勤められた。私家版だが、自製でもある。自分で製本を趣味としてやっている。近頃珍しい箱入りの布張りの美本に仕上げてある。日本山岳会、日本山書の会を通じても、山書の収集家は居るが製本にまで乗り出すような人は居るまい。
 笈ヶ岳は飛騨・越中・加賀の三国境に位置する1840m級の低い山に過ぎない。隣の一等三角点の大笠山の方が山容でも立派に見えるのになぜか、登山者の熱い視線を浴びてきた山だ。それは深田久弥の『日本百名』のあとがきの40座の中の1座に入ったからであろう。登っておれば日本百名山の1つに入れたほどの名山というわけだ。
 安藤氏は笈ヶ岳に1986年5月11日が初登であった。以来、2004年までの19年間にわたって研究的に各尾根ルートをトレースしてきた。その度に記録を残した。もちろん文献収集と研究は安藤氏の本来の志向である。本書はその集成である。
 山は数多あるのになぜこんなにも打込んだのか。名山なのに登山道や避難小屋もないことで、未知の探求心を満足させてくれたのである。元々、安藤氏は冬の北アルプスの単独登攀をエリアにしてきたが、何分、北アは困難であるが登山者が多い。情報も過多でもある。だから北アルプスに登る力がないから1000mも低い笈ヶ岳で代償として登山しているわけじゃないのだ。

 安藤先生との本を介した交友は長きに亘る。『名古屋からの山なみ』、『名古屋周辺山旅徹底ガイド』の正続では編集者になり、私も委員としてお手伝いした。平成7年に拙書『ひと味違う名古屋からの山旅』を共著で企画した際、安藤氏も高峰山、銚子ヶ峰、今淵ヶ岳、鑓ヶ先、横山岳、続編では、虎子山、権現山、平成山(へなりやま)などを引き受けていただいた。本書を読んだ友人等に感想を聞くと安藤先生の文が一番人気だった。登ること、書く事、製本すること。今西錦司、深田久弥、串田孫一ら先達もびっくりの山道楽を極められたのだ。
 こんなに優れた本なのに一般刊行されないのが惜しい。一山だけに絞ったいわゆる笈ヶ岳オタクにしか需要がないから商業ベースには乗らないのだろう。登ったらもう終わりで、次の山へと心変わりしてゆくのが一般的登山者というもの。
 『日本百名山』朝日文庫版の解説者として今西錦司が良い山だと知っても、秘すべきが山と私の約束だ、という登山家もいる。先輩の故・上田正さんは、知られざる良い山を本で紹介するのは手塩にかけて育てた娘を嫁にやる心境だとも表現した。山屋とはかくも複雑な心情である。すると安藤氏も箱入り娘を嫁に出す父親といったところか。大切にしたい。

http://koyaban.asablo.jp/blog/2011/09/05/6089703

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/10/01/6589916

http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/10/15/7009823

秋雨前線2015年09月08日

   瓢ヶ岳
粥川の谷を高きに登りけり

頂上やどうしようもなき秋の雨

秋雨を集めて滝のほとばしる

徒渡る谷一杯の秋出水

ホトトギス咲くや雨足弱まりぬ

   星宮神社
秋の灯の下にテントを張りて寝る

一と缶の酒をちびりと夜長かな

長き夜を遡行プランの話する

渓声にかきけされたる虫時雨

   円空ふるさと館
秋冷や笑みを浮かべし木の仏

  美しい田園風景の一角に円空仏が建つ粥川の山里
数多おはす円空仏の稲田かな

御仏に見守られたる稲田かな

  9/8 台風の前兆(9/11は220日)
あと三日二百二十日に山に発つ

北アルプス・十石山を歩く2015年09月12日

 9/11の夜8時、北アルプスの槍穂高連峰の大キレットの踏破を目的に出発。高山市清見の道の駅で仮眠。9/12朝5時30分過ぎ出発。途中のレストランで朝食をかきこむ。天気予報はまたまた大きく崩れて、9/12は快晴だが、9/13は崩れて降雨もあるとのことで、急遽中止した。別の山に転戦することを検討した。候補として錫杖ヶ岳が挙がったが、あそこはクライマーの死者の霊がさまようところなので気合を入れて行きたい。気楽な低山も数々あるが、健脚3人の山婆様が納得しないだろうと、登りでがあり、登り甲斐、展望も良い、アクセスも良いと十石山を選定した。

http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.161335,137.608266&z=15&base=std&vs=c1j0l0u0

 標高も2525mあるが、恵那山より高いものの、周囲の名峰の乗鞍岳、穂高連峰に囲まれて、格落ちする。しかし、人の多い槍や乗鞍よりも静寂な原生林の森をぬう登山道と展望は素晴らしい記憶があった。

 清見からr158を辿り、平湯温泉から安房トンネルをくぐって、白骨温泉に向かう。登山口はスーパー林道から登った記憶を頼りに、今は使われなくなった林道の料金所ゲートを通過した。急なカーブをこなしながら進むと工事中の現場で通行止めになった。その先の下った辺りとうろ覚えしていたので、通行止めの前に駐車して歩く準備中に工事関係者が来て退去。1人に聞くと少し下ったところの登山口を教えてもらったので移動。メンバーにスマホで「十石山 白骨温泉」で検索してもらうと、地形図もヒットしたので、この道にまちがいないと確信した。
 なるほど、十石山の登山口の看板はないが、それらしい道標はあり、登山道が続いている。ここは急カーブの膨らんだ左端で、地形図では温泉から来る登山道とはつながっていないが実際にはつながっている。標高1420M辺りになる。pはないが5台は置けるスペースがある。
 8:30過ぎ、出発。最初は唐松の植林内を登る。喬木の針葉樹が林立する平になると、15分くらいでスーパー林道から来る登山道との三叉路に着いた。林道からの登山道は笹がかぶり整備はされていないようだ。
 ここから左折して急斜面の森の中の登山道をジグザグを切りながら登る。白樺の大木もあり素晴らしい原生林である。ジグザグを終わると平らかに成り、1835Mの山腹を巻くような平坦な登山道になる。ここらあたりは樹高30M以上はある原生林で鬱蒼としている。平坦な道が終わるとはっきりした尾根道を登り、眼下には梓川の谷間も見える。樹高も段々に低くなってきた。
 途中で休みを取りながら高度を稼ぐと樹間から穂高の一角が見えた。不思議なもので少しは苦労が報われた気になって疲れが軽減された。一本調子の登りが続く。周囲にはナナカマドの紅葉と赤い実が目立つようになった。足元にはツルリンドウが見える。
 周囲の樹木がみな低くなって、草地が開け、ナナカマドの潅木帯になった。ここのナナカマドは実は赤いが葉が青い。夏は高山植物の花々の咲き乱れた風景が想像される。地質は風化花崗岩で一部風化して崩れた箇所もあった。そこは初夏でも雪渓が残りそうで水が取れるだろう。ここから十石峠小屋はすぐだった。小屋は堅固に造られ立派なものである。
 山頂へはハイマツの稜線を乗鞍岳に向かう。登山道は風化して崩壊しているところとぎりぎりで通る。いくらもアルバイトすることなく三角点のある山頂だった。その先は登山道ははっきりしているがハイマツが立って歩きにくい。ここで首に巻いたタオルを献上したようだ。?
 小屋に戻る途中、焼岳よりの小高い丘に寄ると一層眺めの良い場所に着いた。小屋に戻って中に入るときれいに使われている。一と晩泊まってみたい。水は桶に貯めた天水が利用できる。
 下山は往路を戻った。s君が膝の故障を訴えたのでテーピングした。登山口の手前で山猿の大群に出会った。驚いたが、山猿の方がもっと驚いただろう。ボス猿が警告の叫び声を発して、素早く、大木を逆さまに下りた。ぞろぞろと猿の群れで山がざわめいた。登山口には約2時間半ちょっと。往復6時間の手応えたっぷりのワンデイ登山だった。
 町営の露天風呂(510円)に入湯。車道から階段を相当くだった。湯沢と湯川の合流する手前にある。白濁はしていないがいいお湯であった。帰路は久々に境峠を越え、r19経由で帰名。

出版記念会2015年09月16日

http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/08/12/7732168

 昨夜は某所で『白く高き山々』の出版記念会が催された。日本山岳会関係者、旧東海銀行関係者、アルプホルン関係者、出版元のナカニシヤ出版の中西社長と造本に携わった関係で草川啓三氏も来名され、全部で6卓数十名が参集し、盛会となった。
 私もJAC会員ではあるがどちらかといえば東海銀行山岳部OB会の準メンバーとして年3回くらいは、同じ会場で、懇親会に招かれていた関係で出席した。
 しかし、年月の経過は残酷なもので、1名の女性を除いてほかは高齢や死去で旧知の男性は1名も参加がなかったのは淋しかった。あの人もこの人も存命ならば駆けつけたであろう人の顔を浮かべた。年をふるほどに知友の人数も減っていく悲しさは致し方ない。会えば別れるのは人生の常。「さよならだけが人生だ」というフレーズが脳裏に浮かぶ。
 すでに自力で600部頒布し、今月26日には丸善で特設会場で頒布会も予定されている。村中氏は本書の読者を獲得したことによって新しい人生のステージにステップアップされた。尾上元会長じゃないけど次何やるの?!

 さて、ナカニシヤ出版は関西において、山岳書を手がける特異な出版社として有名だ。私もナカニシヤ出版の芝村文治著『秘境 奥美濃の山旅』を昭和50年代に購読。以来、バイブルとして親しんできた。この本から森本次男『樹林の山旅』『ぎふ百山』などへと食指を伸ばしていったことを思い出す。今日までにめぼしい山や谷もトレースしてしまったからガイドブックながら愛着は尽きない。『白く高き山々』もアルプス登山の手引き書として広範な読者を獲得するなら楽しいと思う。
 昨今は地域密着から外国の山岳文献にも手を拡げる。山岳書の関西の雄としての地歩は固まったであろう。
 今秋にも改訂版が出版予定の同社の『新日本山岳誌』は今日までに、校正を編集会社へ送った。聞くと18900円もする同書は完売だったという。私も10年前に10冊を著者割引価格で購入し、親戚、母校、在所の図書館などに贈呈した。高い買い物だった。改訂版は新たな読者を獲得することになろう。

南信州・蛇峠山馬の背吟行記2015年09月26日

 9/20から9/24にまで及んだ北ア・内込谷遡行の疲れは残るが、老体に鞭打って、ご近所の俳句好きの老友3人を伴って、表記の場所へドライブとなった。名古屋から約100km未満。R153をたどると2時間ほどで治部坂峠に着く。峠を右折し、別荘地を抜けるとNTT無線施設のゲートで車止め。
 1457mの標高ながら、あいにく低く雲が垂れ込めて、日本アルプスや八ヶ岳方面は遠望できず、矢作川源流の大川入山すら雲に隠れるので、馬の背を散歩するのみ。
 しかし、それでもススキが生い茂り、菊の花、竜胆、四葉塩釜などが咲いている。来た甲斐があった。風はさはやかそのもの。目にするもの、手に触れるものみな秋の風情を漂わす。芝生に寝転がって信濃の空を仰げば行雲に見とれる。山霧が流れてきて、涼しさが増す。愛知や美濃にはない高原が美しい。
 吟行を終えて、峠のレストランでちょいと買い物後、三国山の亀甲苑で名古屋コーチンの食事でも、と向かったが、もう夕飯の用意中とかで断られた。亀甲石のみ見学して下山。稲武地区の道の駅に向かった。ここでもちょいと地の食べ物を買う。足助の外れの川魚料理屋で鰻丼を食す。料理屋の窓からは巴川で鮎釣りする人が見えた。そろそろ鮎漁も終わる。 

秋雲に取り巻かれてゐる蛇峠山

さはやかに膝の痛みも癒されぬ

秋草にしゃがみこみ名を言へり

秋風にとどまる思い断ち切れず

友と死に別れ野菊を供花とせよ(O女の友人がガンで逝く)

紅玉のげに紅き色林檎かな

秋蝶のもの寂しげに花に舞ふ

竜胆のごとくまっすぐ伸びて咲け

仙石秀久先生総務大臣賞受賞祝賀会2015年09月27日

 行政書士の大先輩である仙石秀久氏の総務大臣表彰受賞(全国で3人)を記念した祝賀会が9/27の夕、千種駅前のメルクパルクで行われた。発起人他、中央支部の行政書士の関係者の出席は12卓10人でおよそ120名の盛会となった。本業39年の業務歴や中京法律学校(中央大学の通信教育と提携)の講師などを長きに亘り歴任。書店の息子に生まれたと自己紹介されたが、ほぼ法律家として生き延びて来られた。昔の行政書士は広告禁止、報酬額は業界統一で縛られていたというエピソードも披露。今は自由になって良いという感懐ももらされた。平成14年になってから業容も広がった。許認可から権利義務、事実証明の書類作成へと拡大した。反面、4万5千人超のライバルが犇くから競争も激化したといえる。時代は変わっても変わらないモノはある。不易流行。新しい時代の流れを取り込みながら依頼人の信頼を繋ぎとめてゆく姿勢。これがあればこそ、仙石氏は行政書士ひと筋で食べて来れた。余り接する機会はないがこれを機に発言も聞きたいものである。